
会期:2024/11/30〜2025/03/15
会場:山口情報芸術センター[YCAM]スタジオA[山口県]
キュレーター:レオナルド・バルトロメウス(YCAM)
公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2024/dance-floor-as-study-room/
展示風景より。手前のスクリーンに《彼女たちの》(2022)、右奥に《ヴェチ&デイジ》(2012)、左の壁の向こうに《したたかにたゆたうー前奏曲》(2024)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]
同時にいろいろなことが起きている。そのことを私は知っているが、すべてを同時に受け止めることは難しい。
だがそれだけでもないのかもしれない、と思い始めたのは、2023年に山口を訪れたときだった。
7月の山口で、一の坂ダムの上を歩いたとき。左耳からはゴウゴウと放水される水の音が、右耳からは風でわずかに揺れる水面の音とダム湖を取り巻く木が風に揺られる音が「同時に」聞こえていた。空間は、目で追っているのだと思っていた。一望することは叶わないから、常に全体を捉えようと目は動き続ける。そうして瞬間瞬間ずれながら得られた像を重ね合わせて捉えたことにする。だが耳は(そのひとつひとつの意味や質感を思考できているかはさておき)空間のすべてを「同時に」受け取れるのかもしれない、と思った。★1
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの作品を鑑賞すること、いや、展示を経験することは、この「同時に」という感覚と向き合うことでもある。2022年11月~2023年2月に東京都現代美術館で開催された、オルデンボルフの日本国内初の個展「柔らかな舞台」においても、この感覚は色濃い。ただし「柔らかな舞台」におけるそれは、受付で受け取ったヘッドフォンを持参して歩き、任意の座席/舞台でイヤホンジャックにそれを挿し、周囲の人々と同じ空間にいながら、ひとりで聞こえてくる声に耳をすますという経験に拠るものだった。各々が自分で自分の立ち位置を見つけようとする、その所作をほかの人もしていると信頼することが、「同時に」という感覚を私たちに思わせる★2。
だが、いまにして思えば、私は私の立ち位置を見つけようとすることで手一杯だったのかもしれない。たしかにそこには大勢の来場者がいて、ウェルカムバックチケット(会場への別日再入場を可能にする「柔らかな舞台」の仕組み)による見直しの未来も合わせると、あまりに多くの人が同時にいて、多くのことが同時に起きていた。作品のなかにも、外──展示室、美術館、街、東京、本州──にも……。
本展「Dance Floor as Study Room─したたかにたゆたう」を訪れてまず感じたのは、私は「同時に」をまだまだ感覚できてはいなかった、ということだ。
YCAMの1階に位置するスタジオAは、ガラス張りの中庭を挟んでロビースペースの奥にある。入口は二つあり、ひとつは《彼女たちの》(2022)、もうひとつは最新作である《したたかにたゆたう─前奏曲》(2024)のスクリーンに向かうものだ。入口の間は小さなソファやテーブルが置かれ、本展の参考書籍が並ぶ。私は手前の入口から入室し、《彼女たちの》から観始めた。「柔らかな舞台」で発表された作品だったので、なんとなくの作品の展開が記憶にあった。まだ映像が始まって間もないことがわかり、床置きのクッションに腰を下ろした。わずかに湾曲したスクリーンは、視野の歪みを物理的に補正し、大きな画面を正確な長方形に補正する。シネマワイドの画面の中央で溶け合うように、二つのカットが同時に映っている。林芙美子/宮本百合子(と湯浅芳子)という二人の/二組の女性のテキストを読み、語り合う複数組の人の集まりが、映像のなかで現われては消えていく。それは、カットの切り替えという編集によることもあれば、カメラのパンによって画角から流れていくこともある。それぞれの対話や朗読もまた、現われては消えていく。右のカットで始まった対話が、左のカットの別の対話へ切り替わっていく。それぞれの対話に参加する同じ人の声が、私たちがカットを飛び越えるのを導いていく。話者は、原語である日本語で読む者もいれば、翻訳された英語で読む者もいる。対話は、英語で行なわれたり、日本語で行なわれたりする。映像の終盤に読み上げられる宮本と湯浅の往復書簡では、宮本のテキストには「親愛のexpressionで……」といったように英語がアルファベットのまま混在している。日英混交のその文章が、日英の話者の間で読み上げられる。カメラがパンすると、同じ部屋の奥に、別の二人が対話する様子が映ってもいる。
(私の目が、目一杯の横幅のスクリーンの上で、カットの内外に「同時に」起きていることや、あるいはそれが解体されて順を追って写される様子を見ている間、こういうことが起きていた。
左の壁の向こうから、聞こえる別の声──目の前の画面から聞こえる声と同じ声のこともある。スクリーンの向こうから聞こえるアジテーションのようなラップのような、日本語でも英語でもない声。)
映像が終わって立ち上がる。スクリーンの向こうをサーチライトが走ったように思う。展示室全体が暗くなり、四つ打ちのビートが空間に響き渡る。
展示室の奥には、空間を横切る大きな階段のようなものがある。右に向かって5段下がり左に向かって3段上がる。3段上がった先は広く平たくなった(文字通りの)踊り場で、頭上のミラーボールが細かな光の粒を振り撒いている。
下がった段から見上げるような角度のスクリーンには、空間の隅や踊る人を映した、暗く粗い映像。先ほどまで見えていた鮮明さはそこにはない。展示室には私のほかには誰もいない。少しだけ踊ってみる。足下の床が低音でビリビリと震える。腰掛けているだけでも、この音に乗れそうだった。
作品上映の間の6分間、場内を音と光が覆い尽くす[筆者撮影]
(後編へ)
★1──「交換レジデンスプロジェクト vol.1 ─ないことがあること─」で筆者が発表した参加型パフォーマンス《ロータリー》(2023)のハンドアウト掲載文より抜粋。2023年7月に山口市で滞在リサーチを行なった。
★2──2023年4月の拙稿「鑑賞と座り込み──いること、見ること、見えてくるもの」に、「柔らかな舞台」の会場構成がどのように鑑賞経験に作用したかを記している。当該原稿の注釈に引用した、オルデンボルフの会場構成についてのコメントを再掲する。「鑑賞者の間にも、さまざまな関係性を生み出したいと考えています。誰もがみな舞台上でのそれぞれのあり方を持っています。それは覗き見的なものとは違って、ある構図の中に自分の立ち位置を得るということです」(カタログ『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台』[torch press、2022]p.104)
観賞日:2025/01/11(土)、12(日)
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