会期:2024/11/30~2025/03/15
会場:山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2024/dance-floor-as-study-room/

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022-23)の続編、あるいは中継地点といえる充実した個展。オランダ出身のオルデンボルフは、植民地主義、歴史、人種、ジェンダーといった支配的構造について、「歴史的証人」となる建築物を舞台に、「朗読を通した歴史的テクストとの対話」と「多様な人々による即興的な対話のプロセス」を映像に収め、過去と現在を重層的に接続させる手法が特徴である。作品内部の多声性に加え、作品どうしの連関性を実体化する展示空間設計にも秀でている。

本展では、「柔らかな舞台」展の中核であった映像インスタレーション《彼女たちの》(2022)が再び出品された。《彼女たちの》の主題のひとつが、小説家の林芙美子である。自らの性的欲望を表現した半自伝的小説『放浪記』で人気を博した林は、戦時中は陸軍や新聞社の依頼により、日本がオランダから占領したインドネシアに派遣され、執筆活動を行なった。林のテクストの朗読を通して、日本/オランダによるインドネシアの植民地支配の歴史、セックスワーカーの描写をめぐる人種差別、女性の社会進出と戦争協力の関係、「男性の視線」を借りたクィアな欲望の表出について語られていく。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《彼女たちの》(2022)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]

《彼女たちの》の続編ともいえる新作《したたかにたゆたう─前奏曲》(2024)では、《彼女たちの》の出演者の数名が再び参加。新たな出演者とともに、「林芙美子」を再び参照点のひとつとして、成田空港の建設反対運動である三里塚闘争とクィアという、国家や権力への抵抗と連帯についてさまざまな対話が展開されていく。副題に「前奏曲」とあるように、2026年に発表予定の長編作品の前編的な位置づけとして制作された。本作でもロケーションが重要である。そのひとつの「木の根ペンション」は、三里塚闘争の拠点として建てられ、現在も成田空港の滑走路の間に建ち、出演者が主催するクィアのレイブパーティーの会場にもなった。作中、「運動と結婚した」という象徴的な発言が登場し、三里塚闘争に参加した学生が農村の人と結婚したことや、農家の女性たちが多く運動に参加したことが語られる。国家や資本に対する階級闘争とジェンダーというインターセクショナルな視点は、《彼女たちの》から引き継ぐものだ。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《したたかにたゆたうー前奏曲》(2024)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]

また、本作のもうひとつの核が、ドラァグと性自認をめぐる当事者2人の対話である。ドラァグを試すことで、「完璧なメイクを落とすと醜く感じた」という自己嫌悪に陥ったが、周囲のサポートを得てもっと深く「実験」できたことで、ドラァグの人格と自分の境界線が曖昧になり、「両方同時に存在できる」と思えるようになったと語る出演者。一方、対話相手は、むしろ自分がノンバイナリーだと気づいたと話す。「ドラァグのきっかけは、何と林芙美子だった」という発言が飛び出すが、「もう一組の会話」に緩やかに切り替わるカメラが、「ドラァグと林芙美子」の結びつきを提示する。労働の疲労で感覚を失った身体を湯船に浸けると、自分自身の身体感覚を取り戻したという『放浪記』の一節の朗読。それは、「ドラァグによって自分自身を取り戻す」2人のそれぞれのあり方と、静かに共鳴するのだ。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《したたかにたゆたうー前奏曲》(2024)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]

クィアと空港建設反対闘争、ドラァグと林芙美子。見えない線の交差を、対話が可能にする。証人として残されたテクストや映画をひとつの観測点として、どのように異なる視線を当て、新たな言葉を共同で編み上げていくか。その作業こそ連帯性である。空港建設反対闘争や植民地支配といった自身が経験していない歴史をどう身体化し、世代や立場の異なる対話によって闘争の歴史と知識を引き継いでいくのか。こうした姿勢がオルデンボルフの根底に一貫して流れている。そこでは、(映画のような視覚媒体も含め)「読まれるもの」としてのテクストとは、他者との対話を生成し、視点を複数化するための媒体にほかならない。

本展のほかの2作品にもこうした姿勢が通底する。《ヴェチ&デイジ》(2012)では、世代、人種的ルーツ、俳優/政治家とヒップホップという表現媒体が異なる2人の女性の対話を通して、社会への抵抗手段としてのパフォーマンスという共通性と、労働運動の歴史の継承の困難さが浮かび上がる。作中、それぞれが労働運動での演説や、女性の身体と性の所有権を挑発的に歌うラップを繰り広げるが、階段状になった「座席」がまさに「聴衆の集う観客席」に変容するインスタレーションも巧みだ。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《ヴェチ&デイジ》(2012)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]

また、《指示》(2009)では、第二次世界大戦後にオランダが旧植民地のインドネシアに対して行なった軍事介入についてのさまざまな資料や証言を、現在のオランダの士官学校に通う若者たちが読み上げた後、ディスカッションする。「こうして議論し、読んで、学んで、証言を受け止め続けないと。いつか同じ状況に直面したときに、思い起こせるように」「『なぜ』について考え続けないといけない。基本は、批判的であり続けることだと思う」という最後の発言は非常に重要だ。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《指示》(2009)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]

歴史的資料を交えながら、世代や立場の差異を超えて対話することで、問題を多面化してより深く捉えることができる。その行為こそ連帯である。逆に言えば、連帯するためにはインターセクショナリティが必要だ。こうした作家の姿勢を示すのが、展示自体の構造設計である。東京都現代美術館の個展では、開口部や窓が開けられた壁、広場や劇場のような階段状の座席といった建築的な手法に多くを拠っていた。一方、本展で、作品内部、そして作品どうしのインターセクショナルな繋がりを示すのが、「音響」だ。《したたかにたゆたう─前奏曲》では、木の根ペンションに続く長いトンネルを歩きながら出演者たちが会話し、「暗い地下道」は視覚的にも閉塞感を強調する。だが、ラストで出演者たちは、示唆的な会話を交わしながら「トンネルの外」へと出て行く。「必ずしも一致しなくても、それぞれが繋がっている理由を探り、どうやって闘争を連帯することができるか」「アーティストは個人主義になりがちだけど、クラブのダンスフロアで感じる“何者でもなさ”(は連帯のあり方と繋がっているのではないか)」。

映像の終了とともに、サーチライトのような光の投射が空間を動き回り、ビートが刻まれる。高まる高揚感と解放感。座って鑑賞していた足が思わず立ち上がる。歩き出せと身体の内側から声がする。そしてスクリーンの向こう側に回ると、一気に視界が開け、広場か劇場のような空間が広がり、ほかの3作品が視界に現われる。ミラーボールの光の乱舞とビートが降り注ぎ、会場全体が「ダンスフロア」と化す。それは、「なぜダンスフロアにミラーボールの光が必要なのか」が直感的・身体的に理解された瞬間だった。踊らなくても、誰もいなくても、そこに立つ私は祝福されているのだ。ここで、本作の冒頭の会話を思い出すならば、その祝福の光はまた、「誰も排除しない」という宣言でもある。冒頭では、新宿2丁目のガールズパーティーでトランス女性が排除されたことを機に、カウンターパーティーを自分たちで開いたことが語られていた。セーフスペースであるダンスフロアさえも「排除」「抑圧」の場所となってしまう事実から始まった本作は、長いトンネルを潜り抜けて、誰も排除しない祝福と連帯としての光を見る者に投げかけるのだ。

写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

関連レビュー

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年03月15日号)

鑑賞日:2025/01/18(土)