会期:2026/05/02〜2026/05/03
会場:愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]
振付・出演:岡田玲奈、黒田勇
共同振付・出演:仙石孝太朗
公式サイト:https://www-stage.aac.pref.aichi.jp/event/detail/20260502_null.html

前編中編より)

これらは演技だ★6。戯曲や上演台本に物語の筋が明記され、配役──それがどれだけ奇妙な名づけや設定だとしても──がされている演劇においては、鑑賞者は演者と役の重なりを演技のなかに見る。その人がそこでそうする理由は、役のなかに担保されている。それが稽古から数えて何度目であろうと、決められた振付であっても、その物語の筋においてそれはそのとき、そうとしか起きえない。だが、コンテンポラリーダンスにおける演技は、演者の身体に役を重ねているわけではない。仙石や岡田の驚き(とひとまず言っておこう)は、当然実際の驚きではない。進む順序が飛ばされ、ないがしろにされるという動作も振付の一環である。それでも驚きを浮かべないといけないのだとしたら、それが感情の動きでないとして、いったい何に要求され起きていたのか。

三人のなかで共有された詳細な物語があったかもしれない。その表情を浮かべるトリガーとなる実経験があったかもしれない。だが、そのいずれも、鑑賞者が想像することは困難だ。結局、事前にくぐり抜けてきた言葉を元手に、さまざまな個別具体の出来事を薄めた象徴的なシーンとしてその意味を取りに行くしかない。仙石も岡田も、「驚いている人の演技」をしているのであって、何かの役が驚いているわけではない。演者に重なっているのは、それもまた象徴化・抽象化された存在なのだ。そこに確かな身体があるにもかかわらず、むしろ身体から鑑賞者を遠ざける性質がコンテンポラリーダンスの演技には埋め込まれているのではないだろうか。

ここまで述べてきた言葉と演技にまつわる困難の問題系は、本作に限ったものではなく、コンテンポラリーダンスに普遍的に存在するものでもある。その乗り越えのために言葉を取り込んだり、すでにある言葉を精緻にしていく想像は本作においては野暮かもしれない。もちろんその線で作品展開することもありえるだろうが、本作を鑑賞したうえで期待せずにいられないのは、私たちが言葉を介して意味や象徴を想像する余地もない、即物的な運動の連なりとして本作を観る可能性、そしてノンバーバルな運動から私たち鑑賞者がテーマと問いを受け取り、それらに応える未来である。

©Naoshi Hatori

その端緒はいくつかあった。胴と二の腕を打ち付けてペチペチと鳴らす黒田の動作、逆立ちした岡田と仙石の脚を黒田が揃えようとするがバラバラと崩れてしまう様の繰り返し、岡田を肩車する仙石(そこまではコンテンポラリーダンスのクリシェにも見えた)にもたれかかる黒田のよろけた動き、横たわった岡田の腹部を踏み越える仙石……。稽古の繰り返しによってコントロールされた動作であるのに、危ういバランスを感じさせ、しかし本当の崩壊には至らない身体……。これらはある感情を思わせる演技とは異なっている。ただ運動が起きているだけだが、そこに私たちは自分の身体も経験したであろう重力の作用を思い出し、ときに目を奪われ、何かの感情を催す。役は重ならないが、ある動作を稽古で繰り返してきたという厚みが、あなたの身体をあなただけのものではないものへ変えていく。鑑賞とは、そのように見聞きすることが可能な行為なのである。意味は動作の側にあらかじめあるのではなく、動作を観る行為のなかに立ち上がるのだ。

作品の終わり、仙石は舞台から客席方向へ跳躍し、着地する前に会場は暗転する。定められ限られた物語から、社会の抑圧や拘束から、舞台の時空間から飛び出す。そんな意味を想像しながらも耳に残ってしまうのは、暗転の直後に仙石が通路に着地した際のトンッという音だ。映画であれば可能な物語外への跳躍★7が舞台において本当には叶わない。その避けがたい現実や物理すらも引き受けて、目の前にいるあなたのことを知りたいと思う。象徴でもなく、抽象でもなく、具体的な身体を持ち動作するあなたのことを。


★6──まつもと市民芸術館が推進する世界を目指すダンス人材育成プログラム「Step into the world from Matusmoto」(以降、「Step M」)のアドバイザー/メンターを担う、同館の舞踊部門芸術監督の倉田翠は、プロジェクトを振り返るインタビューで下記のように述べている。「一度、ショーイング前の稽古で、『その映像〔作中に登場するホームビデオ〕を見て何か感じてる? もう何も思ってないなら、思ってるふりして見なくていいんじゃない?』と言ったことがありました。つまり、そういう『ふり』のような、自分がその場に立つために必要だと思っている色々な装飾が取れていったときに、体が一番強度を持つのではないかということです」。育成対象者の女屋理音についてのフィードバックの話だが、この「ふり」についての指摘は、コンテンポラリーダンスにおける演技に対しても適用できるだろう。
★7──想起したのはミッキー・ローク主演の『レスラー』(監督:ダーレン・アロノフスキー、2008)のラストである。周囲の静止を振り切って大技をかけるために跳ぶショットで映画は終わる。ロークの着地は映されず、その生死や試合の顛末は描かれない。波乱に満ちた実人生のロークが落ち目の老プロレスラー役を演じるというドキュメンタリー的な重なりも相まって、その跳躍は虚栄のなかで宙吊りのままになる。


鑑賞日:2026/05/03(日・祝)


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contact Gonzo『訓練されていない素人のための振り付けコンセプト』|木村覚:artscapeレビュー(2017年12月01日号)