2025年末、美術家・吉國元の個展「深い河」のトークイベントを通じて出会った文筆家・翻訳家の榎本空に導かれ、東北から沖縄・伊江島を訪れた。このうつくしい島には、沖縄戦と米軍統治、農民による土地闘争の歴史を伝える私設資料館「ヌチドゥタカラの家 反戦平和資料館」がある。そこにあったのは、整理され尽くすことなく残された土地をめぐる痛みの痕跡だった。子どもたちと海辺であそび、島で書く人の日々の営みに触れる。記憶とはなにか。アーカイブとはなにか。島での数日をたどりながら考える。
雪の残る山里から、初夏のような島へ
頂に雪を被った蔵王山脈を横目に、仙台空港へと車を走らせる。4月になったとはいえ、わたしの暮らす宮城はまだ肌寒くウールの上着を着て家を出た。東北と沖縄では気候が大きく異なることは覚悟していたけれど、誤算だったのは、国内の旅だとしても、宮城県南の山里から沖縄本島北部の伊江島にはその日のうちに辿り着けないということ。那覇空港に着いて一歩外に出ると、上着は早々にカバンにしまい込んだ。那覇市内で一泊し、そこから本部港へレンタカーで移動する。海岸線沿いに鮮やかに連なるブーゲンビリア、実をつけるアダンの木、ガジュマル。かつて暮らしたメキシコ・オアハカの風景とどこか重なってくる。
本部港に着く。頬をなでる潮を含んだ風。初めて乗るフェリーに4歳になったばかりの娘ははしゃいでいて、甲板で陽を全身に浴びている。フェリーは白い尾のような波を立てながら沖縄本島から遠ざかっていく。やがて視線の先に、麦わら帽子のような形をした山が見えてきた。伊江島に来るのは初めてだった。遠かった。距離だけではない。わたしがこれから訪ねようとしているのは、沖縄戦と土地闘争の記憶を抱えた島である。わたしはそれらとどのように出会えるだろうか。

「深い河」に流れこみ、そして流れていくもの
きっかけは、2025年末にLAGで開催された吉國元個展「深い河」だった。わたしも企画協力として携わったのだが、関連のトークイベントに登壇してもらったのが、伊江島でフィールドワークをつづけている文筆家で翻訳家の榎本空さんだった。
『「深い河」を遡行する──榎本空さんを迎えて』- LAG
マンハッタンのユニオン神学校で黒人神学を学び、現在は幼少を過ごした沖縄の伊江島を拠点とする榎本さんと、ジンバブエのハラレに生まれ日本に移住した吉國さんは、この日、吉國さんの絵画活動や榎本さんの著作と翻訳書について対話した。話題は、Black Lives Matterや黒人霊歌にも及んだが、とりわけ、榎本さんが語ってくれた以下の言葉が印象深く感じられた。
「過去を語るというのは、なんと言うか、その過去がまだ終わっていないことを信じる意思というか、まだ過去が開かれた可能性があるということに賭けることだと思うんです。サイディヤ・ハートマンとか、ジェームズ・ボールドウィンもそうですが、なぜ彼らが過去を書くかというと、その過去によって現在が規定されているからです。だから、過去を救うことは、自分たちの現在とか未来を救うことにもつながるんだと思います」
東日本大震災後に地域文化のアーカイブの仕事にかかわるなかで、東北が中央から見た「みちのく(陸奥)」つまりは「陸の果て」として、長らく周縁化され、僻地として扱われてきたこと。また「蝦夷」と呼ばれた歴史から震災とそれに伴う原発事故まで、日本近代史のなかで背負わされてきた歪みを感じざるを得なかった。だからこそ、「過去は開かれている」と語る榎本さんの言葉を大事に聞いた。それは、アーカイブをめぐる闘争、記録と抵抗のオルタナティブについての言葉でもあった。また、吉國さんは、「『深い河』を通して、自身に流れ込んでくるもの、そして自分から他者へ流れていくものについて今後も思考していきたい」と、これが終わりではなくあらたな始まりであることも示唆した。
トーク会場には、沖縄をめぐる大事な仕事に取り組んでいる人の姿もあった。伊江島で米軍に対し非暴力による反戦平和運動を展開した阿波根昌鴻の写真家としての仕事に着目した「阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々」展(2024/02/23-2024/05/06、原爆の図 丸木美術館)を企画・構成したキュレーターの小原真史さん、そして、半生かけて沖縄戦を描き続ける漫画家・新里賢進の著書『ソウル・サーチン』(リイド社、2025)の編集を担った安東嵩史さんも足を運んでくださった。おふたりが沖縄に通い、地道にかたちにしてこられた仕事に触れられたことにも背中を押された。
そして、沖縄から東北を経由し、そこから東京に移動してきた榎本さんは、寒暖差で喉をやられて声を枯らしていたが、「伊江島にも来てください」と言ってくださった。展覧会終了後も、土地と人々の結びつきをめぐる三者の対話は続くことになる。榎本さんが日々暮らし、思考している場である伊江島に、逆順を辿るように、今度は東北から会いに行こうと思ったのだ。
淡く透明な海、二段ベッド、赤いじゃがいも、ヤギ、散歩
フェリーが伊江港に近づくと、キャップにサンダル姿で大きく手を振る榎本さんが見えてきた。東京でお会いしたときと雰囲気がまるで違う。隣には8歳、5歳、3歳の娘さんとパートナーの百々子さんが続く。神奈川から吉國さんも合流した。私は宮城から子連れでの滞在となることにどこか恐縮していたが、百々子さんが娘の手をひいて、子どもたちの輪にそっと交ぜてくれた。
車で真っ先に連れ出してくれたのは、白い砂浜が目にもまぶしいビーチだった。宮城の海は深い群青色をしているけれど、伊江島の海は淡い青緑色のソーダ瓶のような色だった。娘はすぐに靴を脱ぎ捨てて、足を浸してよろこんでいる。娘にとっては初めての沖縄の海だった。まるで四姉妹のようになった子どもたちは、砂浜でみつけた「いいかんじ」の流木を手に、思い思いに砂に絵を描いている。
「伊江島での思い出は?」と娘にたずねると、淡く透明な海や、2段ベッドにおもちゃや楽器をたくさん持ち込んでみんなで遊んだこと、伊江島の赤い土と同じくらい赤い皮のジャガイモを榎本さんがフライドポテトにしてくれそれがたまらなくおいしかったこと、(製塩工房の)ヤギにごはん(芋蔓)やデザート(センダングサの白い花)をあげたこと、百々子さんが押してくれた籐製の大きなベビーカーに4人で乗って畑のあいだを散歩したこと……と、娘は自分が体験した伊江島がつぎつぎに浮かんでくるようで、夢中になって話してくれた。それを語る娘の頬は、アンパンみたいにこんがりと丸く焼け、うれしそうに緩む。そうか、そうか……と聞きつつも、すこし複雑な気持ちになるのは、そこが伊江島だからだろうか。あのうつくしい海に、かつては米軍の艦船が、海が見えなくなるほど累々と押し寄せたのだろうか。
ヌチドゥタカラの家 反戦平和資料館
1周約22kmの伊江島を榎本さんの運転する車で巡る。カーナビの左上あたりは、グレーになっていてなにも表示されない。聞けば、ここが米海兵隊の軍事訓練の基地となっていて、その面積は島の35%を占めるという。
窓の外には、サトウキビや葉タバコの畑が広がり、穏やかな島の日常が続いているかのように見える。この先には、島で一番夕陽がうつくしく見える場所があると言う。しかしその風景は唐突に、基地のフェンスや立入禁止区域によって遮られる。
伊江島は、1945年4月の沖縄戦において、東洋一と謳われた飛行場をめぐる激戦地となった。住民の三分の一が命を落とし、戦後は米軍の占領下に置かれる。島民は一時的に強制収容され、帰島後も軍用地の拡張や演習事故に翻弄され続けた。ようやく暮らしを立て直し、ふたたび畑を耕しはじめた人々を待っていたのは、1955年の土地接収だった。米軍は銃剣とブルドーザーによって農地を強制的に奪い、その後の土地闘争は沖縄全体の反基地運動を象徴する出来事のひとつとなる。
1972年に沖縄が本土復帰してからも、島の土地は全面返還されることなく、現在も戦争の訓練に使用され、日米の軍事戦略に大きく翻弄され続けている。伊江島を歩いていると、戦争は終わった出来事というよりも、かたちを変えながら現在にまで引き延ばされてここにあるのだと思い知らされる。
その伊江島で、非暴力による反戦平和運動を展開し、戦争と土地闘争の記録や記憶を集め続け、沖縄のガンジーと称されたのが阿波根昌鴻だった。戦中・戦後を通して収集した資料や写真を展示する私設資料館「ヌチドゥタカラの家 反戦平和資料館 」に榎本さんと吉國さんと向かう。榎本さんの父は、阿波根さんの活動に学ぶために、榎本さんが1歳の頃に一家で伊江島に移住した。榎本さんは、現在、この資料館の案内や、資料庫の掃除を時々になさっているそうだ。

榎本さんが資料館の戸を開けると、足元に吹く風が、資料館にも流れこんだ。現在の伊江島と地続きにあるこの場所で、最初に目に飛び込んできたのが、おびただしい数の薬莢や、原爆の模擬弾、有刺鉄線、軍用パラシュートだった。

資料はケースに入れられることなく、順序立てて展示されることもなく、剥き出しの断片のままそこにある。そのことにまず驚いた。


島に1台しかなかったカメラで撮影された写真も展示されている

島の人々が農耕仕事と抗議活動をしながら身につけていた日常着。流された汗や血が染み込み、赤い土で擦れている

左:無縁洞では、日本軍もアメリカ軍も隔てなく戦争で犠牲となった人々を慰霊している
右:全国各地から届けられた支援物資や慰問品の入っていた袋なども展示されている

戦後の物資不足のなか、弾薬の破片や薬莢、米軍機の残骸(ジュラルミン)を溶かし叩いてつくった鍋釜も並ぶ
一般的に資料館などの施設では、資料を整理、分類し、意味付けして、ある物語をつくる。しかし、ここは、ある意味ではそれを拒んでいるようにも見える。薬莢も衣服も鍋釜も、断片のまま置かれていて、歴史を説明、解説するための場所ではなく、物一つひとつの存在感から、想像力を働かせるような場所になっているように感じられる。

「──“がらくたの山”が人間の『おろかさ』と『たくましさ』を学ぶ資料になり香り高い作品が人間の『尊厳』と『平和』を学ぶ指針になるよう展示してあります」(「ヌチドゥタカラの家[反戦平和資料館]設立のこころ」より)
阿波根さんは、ひとり息子を戦争で亡くし、半生を土地闘争と反戦平和運動に捧げ、想像を絶する痛みを経験している。その阿波根さんが掲げた土地闘争における農民の行動規範は「深い河」展のトークでも紹介されたが、その言葉にここで再会する。
「人間性においては、生産者であるわれわれ農民のほうが軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切である」
また、無縁洞では、「日本軍もアメリカ軍も同じ犠牲者である」と追悼する姿勢に、深く心を動かされた。 入口にあるカセットデッキからは生前の阿波根さんがこの資料館を案内したときの音声が流れている。核をめぐって争い合うことの恐ろしさと愚かさを語るその声は、2026年現在も有効であるどころか重要さを増している。

阿波根昌鴻の唯一の写真集『人間の住んでいる島』(1982)というタイトルには、非人間的な扱いをされた人々の心の叫びでもあり、そしてそれでもなお、人間としての尊厳を手放さずに暮らしてきた人々の住む島という意味も込められているだろうか
「平和の力を強くしておかなくてはいけない」阿波根さんの声はそう繰り返す。
「ヌチドゥタカラ」は、「命こそ宝」という意味で、戦争で失われた多くの命、また軍国教育により、命を国に捧げることこそ名誉と思わされ軽くされてしまった命について、その命をなによりも尊ぶことが「平和」なんだと語りかけている。
1945年の6月23日の組織的戦闘終結(慰霊の日)以降も、玉砕命令や投降拒否によって多くの住民や兵士が命を落とし、捕虜になることへの恐怖や混乱から自決や殺し合いに追い込まれた人々への慰霊でもあり、死者たちへ未来の平和を誓う言葉でもあるだろう。そして、そこには日本が引き起こした戦争への深い反省が滲む。
しかし、同時に思う。この資料館が伊江島になければ、この記憶はそれを生きた人々の死とともに失われていたのではないか、と。それほどに、この資料館の外では、声低くしか語られず、空白がたくさんあることが感じられる。
その一方で、資料館の展示された物一つひとつに存在感に気圧されて、押し黙ってしまう自分もいる。 榎本さんは「記憶の継承を考えたとき、戦争の悲惨さや平和の尊さ、伝えたいことは多いけれど、そういう語りは一方通行になりがちで、それぞれの切実な日々とすれ違ってしまうことが多い」とも語る。

島で書く、棒を集める
榎本さんは、2025年9月にアフリカ系アメリカ人の著者サイディヤ・ハートマンによる『奔放な生、うつくしい実験 』(勁草書房)を翻訳し上梓した。ハートマンは20世紀初頭のニューヨークやハーレムで、監視や収監、搾取に翻弄されながらも自由に生きようとした若い黒人女性たちの「親密で奔放な歴史」を、断片的にしか残されていない記録から描き出す。
この翻訳をしながら、榎本さんはハートマンの「批評的作話(Critical Fabulation)」という手法に多くを学んだという。ハートマンは、声を持てなかった人々、あるいは声を消されてしまった人々の歴史を、公的記録の隅々まで読み込みながら、その限界にも向き合った。そして、残された断片から、彼女たちがどのように生き、なにを感じたのかを想像し、沈黙の向こうにある主体的な生を描こうとした。ハートマンが向き合ったのは、声を奪われた人々、残された記録の断片、空白──そして、その空白をどう書くかという問いだったのだろう。
資料館で見たものを思い出す。薬莢、鍋釜、衣服、写真。そこには膨大な痕跡が残されている。しかし、それらとともに生きた人々の日々の暮らしや感情、そのときなにを見て、なにを恐れ、なにを願ったのかまでは語り尽くされていないように思われる。
そうした空白や沈黙に向き合う営みとして、榎本さんの仕事を思う。榎本さんは、伊江島での戦争や収奪の歴史を調べながら、この島で生活し、論文やエッセイ、さらには小説を書いている。それは、資料館のアーカイブに不足しているものを補うことではないだろう。むしろ、残された断片や沈黙とともに生きながら、その向こうにいる誰かへ手を伸ばす営みなのかもしれない。過去をそのまま伝えることはできなくても、過去に触れた誰かが、また別の生を始めることはできるのかもしれない。そして、アーカイブとは、過去をそのまま保存するためだけのものではない。まだ知らない誰かが、いつか知らない過去に手を伸ばすための足場でもあるのだろう。
トークで聞いた榎本さんの言葉を思い出す。
資料館を出ると、荒野となった場所に阿波根さんたちが植樹したという木々に色とりどりの葉が繁っていた。公園で遊んでいた娘たちと合流すると、その木々がつくる影の下で絵を描いていたと、百々子さんが教えてくれた。たとえすべてではなくても、伊江島の人々が粘り強く取り戻し、手をかけ、回復させてきた土地で、娘はいっぱい遊ばせてもらった。彼女はまだ伊江島の歴史は知らない。けれど、伊江島に大好きな友だちができた。その関係性や記憶は、もう娘のなかに大事なものとして残っている。友だちの暮らす島の歴史に、いつか自分なりに出会っていくだろう。そして、それが自分の足元にもつながっていることに気づいていくだろう。
これを書いているいま、宮城の田には水が入り、夜にはカエルたちの鳴き声が絶えず聞こえてくる。今年は初めて集落の田植えを手伝った。足裏にも記憶があることを思い出したのは、伊江島の海辺を娘と裸足で歩いて以来だった。家の軒先にはツバメが巣をつくり、空を飛び交っている。山里に暮らすわたしは広く見渡せる空に慰められることも少なくない。しかし、昼夜を問わず米軍機が行き交う沖縄の空はどうか? いまも戦下にある土地の空は……という思いが湧いてくる。そんなわたしをよそ目に、娘は、近くの公園で「いいかんじ」の棒をせっせと集めてきては、伊江島の友だちと次に遊ぶ日を楽しみにしている。

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