『王女メデイア』
会期:2026/05/02〜2026/05/06
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場[静岡県]
原作:エウリピデス
台本・演出:宮城聰
音楽:棚川寛子
公式サイト:https://festival-shizuoka.jp/program/medea/
『Qui som?─わたしたちは誰?』
会期:2026/05/03〜2026/05/06
静岡芸術劇場[静岡県]
作:カミーユ・ドゥクルティ、ブライ・マテウ・トリアス
公式サイト:https://festival-shizuoka.jp/program/qui-som/
5月のSHIZUOKAせかい演劇祭2026ではSPACのレパートリー作品である『王女メデイア』(原作:エウリピデス、台本・演出:宮城聰、音楽:棚川寛子)とフランスとカタルーニャのサーカス・アーティストらが結成したバロ・デヴェルによる『

『王女メデイア』フライヤー
[撮影:Y.Inokuma]
『王女メデイア』は1999年の初演以来、世界20都市以上で上演されてきた宮城聰の代表作のひとつ。今回の静岡公演は昨年のロンドン公演での14年ぶりの再演を経て実現したものだ。私にとっては2005年の東京国立博物館本館特別5室での上演に立ち会って以来、20年ぶりの観劇である。
宮城演出の『王女メデイア』は「明治時代の日本へと舞台を置き換え、歓楽街の座興として演じられる〈劇中劇〉の形式で再構築した」もの。宮城演出に特徴的な「〈語り〉と〈動き〉を分離する『二人一役』の手法」を用い、「セリフを語るのはすべて男、その言葉に導かれるように女たちが身体を動かすという独自の構造が舞台を貫く」かたちで舞台は進行するが、それは「やがて言葉の支配そのものを転倒させるかのように女たちの反乱へと転じ」、メデイアによる子殺しとともに女たちが男たちを皆殺しにするという衝撃的な結末を迎える。
[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]
[撮影:Y.Inokuma]
20年前の私はまだ演劇を観始めたばかりで、『王女メデイア』もそのパフォーマンスの特異性と強靭さ、そして非劇場空間での上演の特殊性ばかりが印象に残っていたのだが、今回改めて観劇してみて、20年も前にすでにこんな作品が上演されていたのだという事実にまずは驚かされることになったのだった。今回の再演にあたって演出はほとんど変更されていないとのことだが、この作品が現在でも「有効」だということ(=そのまま上演しても十分に通用すると判断されたということ)は、日本社会に蔓延る家父長制に基づく男尊女卑的な価値観が20年前と大して変わっていないということを示すようでもあり、そのことに改めて暗澹とした気分になる。
だがそれでも、『王女メデイア』にはさすがにいま観るとどうかと思う部分も大いにあったのだった。パフォーマンスに強度があるがゆえにどうにか観ていられるものの、女たちを品定めし、酌をさせ、自らの語りに従わせる男たちのふるまいは不快というほかない。その不快さがあるからこそ最後の男殺しのカタルシスが際立つという側面はあるにせよ、すべては男性である宮城聰の台本と演出によって用意されたものでしかないことを考えれば、結局のところそれも偽のカタルシスでしかないのだと言いたくもなる。ましてやカタルシスにおける女たちが赤いスリップ一枚になることを「強いられている」ことを考えれば、女たちが最後まで見せ物であることから逃れられていないのは明らかだろう。劇中の女たちが抗った構造は劇の外部で反復され、女たちを捉え続ける。
[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]
実は『Qui som?─わたしたちは誰?』の方にも同じような問題を感じたのだった。「ダンス・現代サーカス・演劇」と複数のジャンル名を冠し、サーカスアーティスト、俳優、ダンサー、ミュージシャン、陶芸家などさまざまなアーティストが協働するこの作品では、パフォーマーたちのふるまい、舞台上のモノ、あるいは場面がはっきりとした意味を示さないままに連なっていく。横山義志が執筆したSPACのブログによれば本作は「失敗」をテーマにした作品ということで、舞台上の壺を割ってしまって作り直そうとするもののうまくいかなかったり、観客に向かって笑顔で並び立つパフォーマーが床に拡がっていく泥に足を取られて転んでしまったりを延々と繰り返すような、シュールでオフビートな笑いが持ち味と言えるだろう(もちろんパフォーマーの身体能力の高さで魅せるような場面も用意されている)。
[撮影:Christophe Raynaud]
[撮影:Francois Passerini]
[撮影:Jerome Quadri]
問題は最後の30分だ。上演が終わりカーテンコール。そして終演後の挨拶……と思いきや、それは観客に対するアジテーションへと変わっていく。各々が持つ楽器を演奏しながら劇場の外へと出て行くパフォーマーたち。観客もそのあとに続くように促され、劇場外の(普段はカフェとして使われている)空間でアジテーションは続く。「何ができるかはわからない」「それでも私たちは続けなければならない」。創作論からアクティビズムへ。アッパーな音楽にノる観客たち。だがそのまわりには、私を含め熱狂にノれない観客たちの姿があったのだった。
[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]
私にはこの最後の30分、全体の5分の1もの時間を費やしたアジテーションのパートは限りなく蛇足に思えた。言葉ですべてを説明してしまう、あるいはいくつかのフレーズにすべてを回収してしまうかのような無粋。それどころか、観客が「同志」であることがまるで自明であるかのように、ともに熱狂の渦を作り出そうとするその態度は、多様なジャンル、さまざまな人々をバラバラのままで、しかし混ぜ合わせるようなかたちで展開してきた作品のそれまでの時間を裏切るものであるようにさえ感じられた。舞台の上の時間は長い協働の末に築き上げられたものだろう。観客にとっても、劇場での時間は自分とは異なる人々と同じ時空間を過ごすことであることは間違いない。だが、果たしてそれはインスタントな同質性を作り出すためのものなのだろうか。あるいはもちろん、劇場に集う人々の間にもとより一定の同質性があることは確かであり、それを賭け金に現実の変革を夢見るということだったのかもしれない。しかしそれも私には空虚に思えるのだ。テーマとは裏腹にそこに「失敗」はない。いや、私のようにノれなかった観客はもちろんほかにもいた。しかしそれはどちらであろうが問題のない、ほとんど意味を持たない類の「失敗」だろう。そこでは個々の異なりはほとんど意味を持っていない。現実のデモにある切実さや連帯の意思もない。もちろんこれは現実のデモではないのだから、違っているのは当然だ。しかし、ではそこに何があったのか。それが私にはわからなかった。
[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]
観賞日:2026/05/02(土/『王女メデイア』)、2026/05/06(水・祝/『Qui som?─わたしたちは誰?』)