トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形

[シリーズ2:“ファッション”の現在形]1995-2013から問い直す

成實弘至/井上雅人/蘆田裕史2013年07月15日号

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4. ファッション批評家、鷲田清一

──この15年のファッションを語る上で、鷲田清一さん以前に理論的に考察した書物はなかったと言うのは前提でしょうか。ロラン・バルトなどのモードについての著書も含めて、ファッションの理論や思想について語っていただければと思います。

蘆田──鷲田さん以前にないというよりも、僕の印象では、鷲田さんはそれまでにある理論をきれいにまとめたという感じです。もちろんご自身の現象学などの哲学的なものをもとに語っている部分も大きいのですが。欧米で、服について、あるいは流行についていろいろなことが書かれていた。しかしその人たちのテクストは、ロラン・バルトの『モードの体系』のように一冊の本にはなっておらず、断片的なものでしかない。鷲田さんはそういうものを沢山集めてきて、自分の理論と併せてひとつの鷲田的なファッション論をつくったという感じではないでしょうか。たとえば、鷲田さんは「熱いシャワーを浴びると皮膚の表面の輪郭がはっきりする。服にはそういった、皮膚をざわめかせる機能がある」ということをよく言います。でも、それはセイモア・フィッシャー★55が言っていることを言い直したような感じなんですよね。
 鷲田さんの理論で重要なのは、身体が「第一の衣服」だという考え方です。マーシャル・マクルーハンは、「第二の皮膚としての衣服」ということを言っていましたが、鷲田さんはそれを転倒させて「身体こそが第一の衣服」という考え方を示しました。これは、あまり直接的には言っていないかもしれませんが、ラカンの鏡像段階に由来するものだと思います。子どもが鏡を見た時に、今まで断片的にしか見ていなかった自分の身体を、鏡を見ることでひとつの統一したイメージとしてつくり上げる。そして、そのイメージが第一の衣服だというような表現をされていたように記憶しています。そういう意味で、鷲田さんはいろいろなものを継ぎはぎしてひとつの理論をつくりあげた人だと感じます。もちろん学術的な研究というのは、先行研究に基づいてやっていくことなので、これはまったく悪い意味ではありません。鷲田さん以前に「ファッションの理論家」がいなかったのではなく、鷲田さん以前は断片的なものだったのが、鷲田さんがいたことでうまくひとつにまとまった、と言えるのではないでしょうか。

成實──「身体」というキーワードを使って、いろいろなものをファッションというメディアの中に総合して議論したのはやはり斬新でしたよ。なにより、鷲田さんのすごいところは、専門家のジャーゴンではなくて、一般読者に届く言葉で語るところにあると思います。そういう意味ではすごく批評的ともいえる。現象学とかラカンとかいろいろ難しい話はしていますが、では哲学や精神分析の文脈がわからないと理解できないかというと、誰が読んでもわかる。鏡像段階にしてもラカンにしても、すっと頭に入ってくる卓越した文章力、訴求力があります。鷲田さんの読者はファッション業界の人よりも他の分野の人に多いような気がする。学生もそうですが、私の知っているアーティストの人たちは、鷲田さんのファッション論には大いにインスパイアされている。
 彼のファッション論の原点は『マリ・クレール』の連載をまとめた『モードの迷宮』ですが、彼はあれを書きながら自分の見方をつくり上げていった。だから、もともとファッションの研究をしていて、それを世に問うたというよりは、「ファッションについて書いてくれ」という注文があって、あの1987〜88年あたりの時代の動きやいろんなものを吸収しながら組み立てていった。そういう意味では蘆田さんがおっしゃるように、「どこがオリジナルなの?」という話もあるのかもしれないけれど(笑)。

蘆田──そこまでは言ってないですけどね(笑)。

成實──何か身体というぎゅっとしたところに、彼のアンテナに引っかかったものをうまく総合させてつくり上げた。そして難しいことを知らなくても感覚的に納得させてしまうというのが、鷲田さんのファッション論のすごいところだと思います。

──井上さんは先ほど、柳田國男の明治・大正の世相の話から国民服を考える道筋がひとつあったとおっしゃっていましたが、今、何かファッションを考える時に参照したり重要な書物はありますか?

井上──鷲田さんのファッション論ですが、僕は「ファッション論」というラベリング、枠組をつくったのが鷲田さんだと思います。著書を細かく読んでいくと、まったくファッションについての議論ではありません。身体論や現象学です。それを「ファッション論」というパッケージにしてしまった。問題はそれを読んだ人たちが、ファッション論とはこういうもの以外にはありえないと思ってしまうことです。『モードの迷宮』は1989年ですから、書かれていたのは87年、88年頃ですよね。だから鷲田さんの90年代の活躍は80年代の蓄積です。1987~88年と言えば、吉本隆明がコム・デ・ギャルソンについて書いたのが84年で、それほど変わりません。コム・デ・ギャルソンが有名になってきて、吉本隆明が「これは作品だ」と言った。そして「作品」として見ていいということで、学者や批評家など、いろいろな人がそれぞれの文脈で語るようになった。鷲田さんの存在は、そういった流れをつくった決定版で、鷲田さん以降は鷲田さん以前を忘れてしまっている。様々な可能性があったのが、切り捨てられてしまっていると思います。それ以前にどんなものがあったかというと、「ファッション」と言う前に、被服学、それと服飾史です。社会学でもゲオルク・ジンメルなどをベースにして語っている人も結構いたのですが、そういうものがすべて切り捨てられてしまった。
 あと加藤秀俊★56さんとか大衆文化論の人たち、小山栄三さんなどは確か『ファッションの社会学』(時事通信社)を書かれていましたが、ファッションというよりは衣服について書かれていたと思います。そういった流れが、鷲田さんが、「身体」と言ったことで変わった。そのあたりをもう一度掘り返した方がいいような気がしますね。

成實──逆に言えば、鷲田さん以降のファッション論で決定的なものはまだない。やっぱり鷲田以前・以降に分かれる。彼はファッションの専門家ではないけれど、『モードの迷宮』やその後の数年間にした仕事のインパクトやシャープさに匹敵するような本はまだ出ていない。服飾史を論じる人もデザイナーを論じる人ももちろんいますが、鷲田さんほどの切れ味はないですね。

──吉本隆明が埴谷雄高と論争して、コム・デ・ギャルソンを高く評価した頃から、全共闘世代がコム・デ・ギャルソンを着るようになったと言われています。それまでその世代はDCブランドに対して曖昧に距離を置いていたと思います。

井上──コム・デ・ギャルソンは、吉本さんのお墨付きをもらうことによって、彼らのなかで、いわば「ブルジョア的なもの」から「カウンターカルチャー的なもの」になっていったわけですよね。鷲田さんのアイデンティティ論や身体論の他に、先ほど成實さんが挙げたディック・ヘブディジの『サブカルチャー』なども重要だと思います。この本はサブカルチャーのコミュニティ内ヘゲモニーについて書かれていますが、日本の文脈に置き換えた研究では『暴走族のエスノグラフィー──モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社)とか、成實さんが編集されていた『コスプレする社会──サブカルチャーの身体文化』(せりか書房)などがあります。こういった「暴走族」や「コスプレ」といった比較的特徴のある集団だけではなく、社会のなかの集団には、もう少し地味であったり、分析をしないと見えてこないようなファッションカルチャーによって区分された集団もあるように思います。そして、そこをターゲットにして、理念やライフスタイルの提案を打ち出したファッションもできるはずですが、それがないという気がします。つまり、社会学的な意味での集団がどのようにファッションを形成していて、それがどのようなヘゲモニーを持っているかの分析も無ければ、商品も無いということです。小さすぎる集団に向けると半ばカルト的になって、卓矢エンジェルやゴスロリみたいな集団になってしまうわけですが、もう少し大きな範囲のグループに向けて衣服をつくることはできないのかなと思います。そして、それを分析する本もできないかとも。ファッションを「アイデンティティ」や「身体」からではなく、「コミュニケーション」や「集団」からアプローチする視点です。

蘆田──エポックメイキングな本ってそうそう他の分野でもないですよね。たとえば、美術の世界でここ30年くらいでファッションで言う鷲田さんレベルのインパクトがある本ってどんなものがあるでしょうか。椹木野衣さんがそうかも知れませんが、美術批評におけるインパクトを考えた時に、椹木さん以外は……となるのと、ファッション批評で鷲田さん以外は……となるのは同じような構図だと思います。

井上──問題なのは、鷲田さんのテキストで今のファッションがわかるかということです。

蘆田──わからないものがいっぱいあるでしょう。


成實弘至氏

★55──「Artwords」内、『モードの迷宮』を参照。
★56──かとう・ひでとし:1930- 社会学者。大衆文化論、マスコミ、風俗-生活文化、メディアに関する著作多数。主な著書に『独学のすすめ (2009、ちくま文庫)、『取材学』(中公新書、1975)、『衣の社会学』(1980、文藝春秋)、訳書にデイヴィッド・リースマン『孤独な群集』(1964、みすず書房)など。

5. 風俗としてのファッション

──メイクはファッションに入らないのですか?

蘆田──大きくとらえれば入ると思います。化粧文化論をやっている人たちはいますが、これも不思議な話で、服について話す人とメイクについて話す人は、断絶とまでは言いませんが分かれている気がします。たとえばヴィジュアル系などのことを考える時、メイクは重要になるので、絶対に入るはずなんですけど。

井上──ヴィダル・サスーン★57くらいだと議論できるけど他は議論がしにくいのかな。メイクは作者が特定できないということもある。つけまつげが流行っても、その作者が誰かという議論ができない。風俗、大衆文化論ではもちろん議論できますが、そうすると作家論が入ってこない。

蘆田──ファッションの中でも、ストリートファッションとか流行という現象について語ることと、メイクの親和性は高いと思います。ギャルメイクとか様々な流行があるので。ただ、たとえばあるデザイナーが何を何を成し遂げたのかということと、今の女の子がどういうメイクをしているかということは、少し位相が違うものになってしまいます。

井上──今の若い女の子は、最初にする化粧がまつげ系で、口紅じゃないそうです。口紅はしなくとも、まつげやウィッグをずっとしっぱなしにすることもあるそうで、通過儀礼的に女になるということが、唇より目になっている。それはもう30年くらい前と全然違うじゃないですか。かなり大きな変化なはずだけど、それについての議論はないですね。

蘆田──プリクラなんかを見てもそうですよね、目を大きくしたり。

井上──これはかなり大きな変化ですよね。人を認識するとか、見た目のアイデンティティとは何かとか、なりたい自分が何かという時に、目が非常に重要であるというふうに変わってしまったわけですが、議論はされません。

成實──1990年代〜2000年代は、あまりにも若者風俗の変化が早いので、ジャーナリストも研究者も言葉にしにくくなってしまった。昔だったら、みゆき族とか暴走族とか、数年くらいで目立つものが出ていたのですが、今はカテゴリーの小さなものが短期的にしか出てこない。それをどのように言葉にするかは、結局後手に回っている。以前は社会学者がもう少し若者文化論みたいなものを書いていたと思いますが、もはや若者文化論自体が成立しにくい。

蘆田──それでもそこはやはり追っていかないといけない。それもファッションの固有性だと思います。美術の文脈だと基本作家をベースに考えていけばいいわけだから、今の若い子が教科書にどういう落書きをするかなどは考えなくてもいい。でもファッションでは、唇からまつげへというメイクの変化は、やはり大きなことだと思います。『fashionista』の第1号では、千葉雅也さんにギャル男について書いていただいたりしています。それは作家論とは違うところでファッションをどう語っていくかというひとつの試みです。成實さんがやられていた『コスプレする社会』もそういった試みですよね。作家論以外で語る人が出てこないとだめなのかなと、今改めて思います。

成實──だから、なんで誰もコスプレ論を書かないのか? 

蘆田──成実さんが書いたらいいじゃないですか(笑)。

成實──お前が書けと(笑)。自分でコスプレを実践していて、それなりにいろいろなことを考えている人は結構いると思うんですよね。だけど、まだこれというコスプレ論は出ていない。むしろ外国人がものすごく喜んで、コスプレとかカワイイとかゴスロリとか、日本のストリートファッションについて一生懸命書いています。写真集も出ていますし、論じる本も出てきています。この数年間、外国の大学院生が日本に来てフィールドワークして本国に帰って論文を書くということが結構流行っています。

蘆田──たとえば、コスプレについて当事者たちが思っていることと少し違うことを書いてしまったらすぐ叩かれるという風潮があるからかもしれないですね。軽い文章も蓄積されていくことでひとつ大きなものになったりもしますが、そういった軽い文章をウェブに乗せた時に、たとえばゴスロリについて書いても「それはゴスロリじゃなくて○○だと思います」とか、議論以前の細かな指摘がどんどん出てくるんですよね。そういったこともあって発表しにくかったりするかもしれません。

井上──たとえばリクルートスーツとか、クールビズとか、あんなのは本当に身近にある権力ですよね。けれど、ファッション論の人が、そういう権力論についてもっと言わなくてはいけないのという気はするんですけど……これは、むしろ反省ですね(笑)。アニメキャラのコスプレと、就職活動生としてのコスプレ──リクルートスーツ──は根が同じだという気もしなくもない。着ることによって、一時的にそれになって、終わったらさっと引き上げてしまうような、一貫しない自己不同一性……。

蘆田──コミケに衣装を抱えていって、コスプレして、終わって着替えて家に帰るみたいな。

井上──もちろん同じとは言わないですが、通底する構図として似ていますね。身体と自分との関わり方とか、身体を使って自分をどう規定するのかとか。リクルートスーツという一時的な衣裳に身を包むことで、働くことだけを希望している存在として自己規定しないで逃げることと、コスプレして何かのキャラクターになっても、それになりきるというわけではないとういうことは似ていると思います。そうやって、本当の自分ではない自分をあからさまに見せることによって、逆に、見えていないところで本当の自分があるということを言わんとしているのかもしれないし。
 そういった身体と自分との付き合い方で、かなり病理的なところもあるわけですよね。それで切り抜けようという知恵でもある気がします。少し適当に単純なことを言ってしまいましたが、きちんと調査してやらなければいけないことだなとは思います。

蘆田──分裂ということではなくても、たとえば普通の人でも、こうやってしゃべっている口調とツイッターで書く時の文体が違うことってありますよね。それって別に分裂しているわけではなくて、ただの使い分けだと思います。

井上──アーヴィング・ゴフマン的というか、昔、流行った上演論的パースペクティブというやつですね。

蘆田──それこそ、情報環境の変容に伴っていろいろ変わっていく部分はあると思います。今の若い人たちは使い分けに慣れているから、コスプレやリクルートスーツが自然に思えるのかもしれない。

井上──だけど、でもよく考えたら変ですよ。なんでみんなが従っているのかもよくわからないし。

蘆田──そうしないと受からない、という強迫観念ですよね。

井上──コスプレも面白いし、変だけど、リクルートスーツも同じくらい変だと思うし。そういうことを串刺しして議論できる人がいない。鷲田さんでは無理だと思います。

成實──たしかに、そういうものを語る人は減っているし、かつてあった『ハイファッション』に代表されるような、カルチャーとして取りあげる媒体もない。

井上──『流行通信』もない。

蘆田──『STUDIOVOICE』もオンラインのみです。そういった中で僕は批評誌を作りたいと思ったんです。2000年代に入ってウェブが発達し、必然的に雑誌よりも文字情報が少なくなっている。写真はウェブでも雑誌でもそんなに変わらないけれど、たとえば『ハイファッション』の見開きで載っている文字数を画面で見ようとすると結構大変です。やはりウェブでは文章量を圧縮せざるを得ない。美術業界とか、あるいは人文業界の人だと少し長くても読もうとしますが、普通のファッション雑誌をぱらぱらめくっている人は、長いと読まない。そうなると単純に「これについて○○さん書いて下さい」という依頼が成立しなくなっていく。短い文章を、編集者がちょこっと書いて終わり。『fashionista』や『vanitas』も電子書籍でやろうかなと思った時もありましたが、やっぱり紙媒体の方がじっくり読める。そういったことを僕たちは考えていて、情報伝達のメディアが紙からウェブに移行したからこそ、やっぱり文字は紙のほうがいいのかなと思ったりしましたね。


井上雅人氏

★57──Vidal Sassoon:1928-2012 イギリス生まれのヘアドレッサー、実業家。サスーン・カットと言われる斬新な技術で世界的な名声を得る。ロンドンの孤児院で生まれ、ハサミひとつで成功したその波乱な人生がは、ドキュメンタリー映画『ヴィダル・サスーン』として公開。

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成實弘至

1964年生まれ。京都造形芸術大学准教授。文化社会学・ファッション研究、デザイン研究専攻。著書=『20世紀ファッションの文化史』 (河出書房...

井上雅人

デザイン史・ファッション史。武庫川女子大学講師。著書に『洋服と日本人』(廣済堂出版、2001)など。

蘆田裕史

1978年京都生まれ。批評家/キュレーター。ファッションの批評誌『fashionista』編集委員。共著=『現代芸術の交通論』(丸善、200...

2013年07月15日号の
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