トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
1. ファッションへの入口
成實──僕は1989年から96年まで、パルコのアクロス編集室に在籍していました。『アクロス』は「定点観測」といって、月に一度編集者全員街へ出てストリートの写真を撮り、時代風俗を記録するという定例企画を1980年からやってきた雑誌です。街で歩いている人に声をかけ、写真を撮らせてもらい、インタビューする。原宿、渋谷、新宿を中心にしていたのですが、当時「ストリートの若者がおしゃれ」という空気がなくはなかったですけど、基本的に今ほど「ストリートファッション」というジャンルは確立されていなかったのです。でも定点観測をしているうち、パリや東京などのブランドやデザイナーが発信しているものよりも、ストリートの方がおもしろいと思うようになり、『ストリートファッション1945-1995──若者スタイルの50年史』(1995、PARCO出版)という本を編集・執筆しました。この『ストリートファッション』は、戦後から1995年までの50年間の若者風俗をストリートファッションという切り口で捉え直した本です。この本をきっかけにファッションを研究したいと思うようになりましたが、当時そんな環境は日本にはありませんでした。ところが、ちょうどカルチュラル・スタディーズが日本に紹介され始め、僕はそれとは知らずに、渋谷のタワーレコードにおいてあったディック・ヘブディジ
僕はどちらかというと編集者気質というか、研究者として対象を深く追究するというより、状況を大きく見たいという関心があって、『20世紀ファッションの文化史』(2007、河出書房新社)という本を書いたり、雑誌記事を執筆してきました。鷲田清一 さんの一連のファッション論が1980年代終わりから90年代に出てきたときに、すごくインパクトというか感銘を受けましたが、同じことをやるのではなく、もう少し社会学的に、もしくはジェンダーやサブカルチャーといった問題からポリティカルに見ることの方がおもしろかったので、そういう仕事をやってきたつもりです。
井上──イギリスに行かれたのは、やっぱりカルチュラル・スタディーズだからですか?
成實──結果的にはそうですが、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジに行った大きな理由は1年間で修士が取れたからです。毛利嘉孝 さんもそうでしたが、あの頃は企業を休んで留学するという小さな社内留学ブームがあって、アメリカの修士課程は2年間必要だったのに対して、イギリスには1年のコースがあり、いろいろ調べた結果ゴールドスミスに決めたんです。セント・マーチンズのMAにもファッションジャーナリズムのコースがありましたが、外国からの留学生はほとんど取っていない状況でした。別にファッションジャーナリストになりたいわけではなかったし。一応、面接みたいなものを受けましたが、「あなたは英語もできないし無理ね」と門前払い(笑)。
蘆田──キャロライン・エヴァンス のようなファッション研究者は当時すでにセントマーティンズにいたのですか?
成實──いたと思いますが、著書は出ていませんでした。その時はエリザベス・ウィルソン の論文集など、ファッション関連の本はいくつか出ていました。社会学やジェンダー・スタディーズなどからファッション研究がぼちぼち出始めたころですが、しかし、ファッションを研究するようなコースは当時まだイギリスにもありませんでした。今ではロンドン・カレッジ・オブ・ファッションにファッション研究のコースがありますし、セント・マーチンズにもあるようですが、当時はなくて、専門学校でファッションを実践的に学ぶ選択肢しかありませんでした。
その頃ファッションなんて研究する人はイギリスにだって少ししかいませんでしたから、いろんなジャンルの関連文献をかき集めて読むという感じでした。2000年に帰国する直前に、ヘイワード・ギャラリーで「アドレッシング・ザ・センチュリー、アートとファッションの100年」(Addressing the century:100 years of art & fashion) という展覧会が開催されました。20世紀のアートとファッションの交流をテーマにした展覧会で、それを見て「こんなことができるのか」と感銘を受けた記憶があります。それ以前に、ニューヨークでリチャード・マーチン とハロルド・コーダ が「ファッションとシュルレアリスム」 という展覧会をやっていましたが、それは見ていなくて。カタログが鷲田さんの翻訳でありましたので、アメリカでそういったものがあったことは知識として知っていましたが、何か遠いものという感じでした。しかし、「アドレッシング・ザ・センチュリー」は実際にこの目で見たし、発見感のあった展覧会でした。そういう意味では、あの頃からファッションを知的に取り上げるというか、「ファッションとアート」みたいなテーマを考える動きが出始めたようですね。
井上──僕は成實さんと歳は10年離れていますが、学校経験的にはそんなにズレはないですよね。成實さんが96年からイギリスに行かれている時に、僕は大学院に入るか入らないかぐらいです。なぜイギリスだったのかを聞いたのは、僕は高校生の頃、まったくファッションに興味がなかった。今でもそんなにないのですが(笑)。僕がファッションに入ったのは成實さんとはまったく逆で、歴史からです。ですから、歴史的なことにしか興味がなく、今のファッションのことを聞かれると戸惑ってしまいます。歴史的というのは、アナール学派の社会史や風俗史です。事件史、政治史ではない分野の、そのひとつとして、衣服に限らず、表象、もの研究、物質文化史みたいなところにずっと興味がありました。しかし、当時一番関心があったのは、柳田國男の民俗学、しかも、『明治・大正史 世相編』みたいな昔話ではない領域です。今和次郎 への興味もあったので、あまり現在のファッション・デザインからは入っておりません。ですから、ファッションというとロラン・バルト を連想し、フランスのイメージがすごく強い。ファッションの本場も研究もフランスだと思っていました。
1994年頃に、小林康夫 さんが表象文化論で三宅一生 さんをお呼びして、ショーをやっていただき、同じ頃、イギリスの『THEFACE』で川久保玲 が世界のデザイナーの中で最も影響力のある人だと取り上げられていたと記憶しています。その辺りから、ファッションという領域を意識し始めたと思います。東大の社会情報研究所の院生だった時代、カルチュラル・スタディーズが流行ってもいましたが、あまり興味を持てませんでした。どちらかと言えば、大学院では日本のことをやりたかったんですね。柳田國男は『木綿以前の事』を書き、さらに『明治大正史』を書くのですが、柳田がそれらの著作を書いた後に、日本の衣文化はガラッと変わるわけです。「和服から洋服へ」と歩調を合わせて、すべてのカルチャーが変わっていく。にもかかわらず、そのことについては誰も何も言ってないという思いが当時あり、モノや身体が近代においてどのように変わっていったのかということを日本でやろうと思い、「国民服」 の研究をやったんです。「国民服」がファッションなのかはちょっとわからないのですが(笑)。
服のつくり方も勉強してみようと思い文化服装学院にも通いました。もちろん、服をつくれるようになってデザイナーになりたいということではなく、古い資料を見ていたら、文化服装学院の名前が出てきて、それがまだあるということが衝撃的で、いったいどういう教育をしているのかと、3年も通ったわけです。そういった興味なので、1990年代後半のポストDC的な感じの、裏原宿 の時代も、専門学校の友達に連れられて、原宿にも何度か行きましたが「なんのこっちゃ」という感じでした(笑)。
成實──結構近いところにいたんですね。
井上──いたんだけど……、という感じですね(笑)。鷲田清一の学術的、哲学的なファッション論やカルチュラル・スタディーズ、裏原宿、DCブランドの残り香みたいなものが凝縮されていた時代に、なんとなくそういうものを受け止めて巻き込まれていったわけですね。
蘆田──僕は1978年生まれで、大学に入ったのが1997年です。薬学部にいたのですが、高校の時からファッションを見たり着たりすることが好きで、ほぼお遊びですが、大学に入ってから自分で服をつくり始めたりもしました。当時関西では東京よりも活発なインディーズブランドのブームがあり、専門学校の学生たちがブランドを作って服を売ったりしていました。
成實──ビューティ・ビースト(beauty:beast) とか、卓矢エンジェル とか?
蘆田──もっとマイナーなブランドですね。名前を出しても誰も知らないような。そういう人たちの服を置いてくれる店が、京都でも大阪でも結構あったんです。学生が自分で作った服が普通に売られていました。そういうのを見ながら自分でもやってみたいと思い、お店に自分でつくったものを置いてもらったりもしていました。本当にしょうもないものしかつくっていないので、恥ずかしいのですが……。
成實──それは売れたの?
蘆田──時代でしょうか、結構売れました。売っていたのは服というより、形を変えられる針金入りのマフラーだったり、アクセサリー的なものが多かったのですが、置けば普通に売れました。その後、薬学部の大学院に進学しました。4回生の時に、文転してファッション史や美術史などの人文学の研究をしてみたいと思っていましたが、あきらめて進学をしていたんですね。けれども、挑戦もせずにあきらめるのもよくないと思い、とりあえず休学をして試験勉強をして、大学院を受け直したんです。
そこでファッションの研究をすることにしたのですが、ひとつにはやはり鷲田さんの影響がとても強かった。『モードの迷宮』も、先ほども名前が挙がった「ファッションとシュルレアリスム」展のカタログ──正確には同時出版された書籍ですが──の翻訳を鷲田さんがされており、こういうのがおもしろそうだなという感触があったんです。
その後は、20世紀の美術運動とファッションの関係、つまり先ほどの「ファッションとシュルレアリスム」とか「未来派とファッション」というような、美術史と服飾史の境界に起きていたことを研究してきました。2005年にベルギーに留学したのですが、1年目は普通に大学に通い、2年目の途中の2007年からアントワープにあるモード美術館でインターンを半年ほどやっていました。当時、アントワープのモード美術館やセント・マーティンズ他、ヨーロッパのいくつかの機関が、ウェブ上で展覧会やファッションデザイナーの毎シーズンの作品などをアーカイブしていく「コンテンポラリー・ファッション・アーカイブ」 という試みがありました。そうしたアーカイブがすごく重要だと思ったので、2007年に帰国した後、日本でもそういうことをやりたいと漠然と思っていました。そうしているうちに、たまたま「changefashion.net」というウェブサイトを見つけました。このサイトは、ファッションショーやルックブックの画像のアーカイブだけでなく、ヨーロッパでも北欧など周辺国のファッションスクールを卒業したデザイナーのインタビューなど、すごくおもしろいことをしていたんです。僕がやりたいと思っていた活動をされている人がいるのであれば、お手伝いをさせてもらいたいと思ってコンタクトをとりました。その後、そこでブログを書くようになり、ファッションの批評をやりたいという話をしていたら、興味を持ってくれる人たちがちらほら出てきて、東京でもトークイベントに呼んでもらう機会をいただくようにもなりました。ただ、そうしたイベントだけだと記録が残らないですし、言論をきちんとアーカイブするために水野大二郎君 と『fashionista』(現『vanitas』) という批評誌をつくったのです。
その後は2011年に京都服飾文化研究財団(以下、KCI)に入ります。ファッション研究の困難な点として、日本では展覧会の数も少ないし、実物を見る機会が少ないということがあります。たとえば近代美術史を研究している人であれば、日本全国のいろいろな美術館を回れば各美術館がマスターピースを少しずつ持っているので、ピカソでも何でも大体見ることができますよね。ですが、ファッションの場合は実物を見る機会がほとんど存在しないので、どこかでまとめて見てみたいと思っていたんです。それでKCIに入り、しばらくそこでキュレーターとして働きました。