トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
1. はじめに──蓮實重彦の映画批評
越後谷──1984年のことですが、私は多摩美術大学の学生で、当時、東野芳明
この時期、1970年代に書いていたものがまとめられて本になっていますが、一貫して映画を表象批評の対象として見ています。そのような見方は、70年代には主流ではなかったのですが、ニューアカデミズム のブームもあって1980年代に浮上してきました。
阪本──松本俊夫 さんも編集委員だった『芸術倶楽部』 の第9号「特集:個人映画」(フィルムアート社、1974年)でも、蓮實さんは「個人映画、その逸脱の非構造」と題された文章を書いていますが、「個人映画」や「別の映画」という概念を設定することに対して批判的な意見を述べていましたね。大きな意味での映画から選別して「別の映画」(すなわち個人映画や実験映画)というありもしない境界つくってしまってはならない。何ものかとの違いに自己の存在根拠をおくのではなく、差異や変化そのものを生きるべき、という批判だったと思います。
越後谷──映画は映画であり、外国映画も日本映画も実験映画もないと。蓮實さんと松本さんは、あまり接点がないように思われるけど、『芸術倶楽部』の特集で蓮實さんに執筆を依頼したのは松本さんだった、という話があります。一方で、蓮實さんは、この時期に行われたある座談会で、松本さんの劇映画『修羅』(1971年)などは1980年代の新人による作品よりもいいと評価しています。
阪本──その後、松本さんによる「逸脱の映像とは何か」が『月刊イメージフォーラム 1980年12月号』(ダゲレオ出版、1980年)に掲載されます。このなかで、彼は蓮實さんの言説をある側面で評価しながら、差異を生きるものとしての「個人映画」を擁護したうえで、それが惰性的になったときに制度化されることこそが問題なのだと述べています。そして、蓮實さんのやり方で「個人映画」を批判する身振りは、結果的に商業の劇映画を補強してしまうだけではないかと反論します。今から振り返ると、その通りになった部分もあると思います。しかし、蓮見さんの言説は80年代の映画批評の分岐点として重要でした。蓮實さんの映画批評はそれ以前の批評へのカウンターとして機能しました。
越後谷──松本さんの蓮實さんへの反論として書かれた文章などをまとめた『逸脱の映像──拡張・変容・実験精神』(月曜社、2013年)が出たのは最近のことですね。当時、実験映画と劇映画のジャンルを横断するこうしたやり取りがあったにも関わらず、それが見えにくくなってしまったという意味で、このタイムラグは大きいと思います。
蓮實さんの『監督 小津安二郎』(筑摩書房、1983年)が出た頃と、ヴィデオ・アートがさかんだった頃は、共に1980年代で同時期です。たとえば、寺井弘典 さんのヴィデオ・アート作品『1 1/2』(1984年)の中に『監督 小津安二郎』を読んでいるシーンがさりげなくあったります。それは直接的な引用ですが、他にもヴィデオ・アートをやっている僕らの先輩などもみんな蓮實さんの本を読んでいました。蓮實さんが書いているのは劇映画に関することだから、といった感じで線引きするのではなく、ひとつの刺激として受け止めていました。僕の中でも、それらが別のものという意識はありません。もちろん斉藤信 によるフレーム編集を使った作品『FRAME BY FRAME』シリーズ(1983年)と小津安二郎は同列に論じられませんが、小津映画を改めて見ると、特異な編集がなされていて、その意味では、両者は無関係だとも言い切れません。蓮實さんのフィールドはいわゆる劇映画ですが、ドキュメンタリーやビンク映画についても書いていて、それも衝撃的でした。かつては、文芸映画はいいもの、ピンク映画は下劣なものというような、ジャンルだけでの差別がありましたが、それらを水平に見ていく視点が提出されました。僕は、そういった流れの中で、ヴィデオ・アートを考え始めました。当時の学生の感覚と蓮實さんのジャンル横断的な批評は、決して遠いものではなかったと思います。
阪本──僕と越後谷さんは年齢が一回り違っていて、1980年代の空気は実感としては分からなかったりします。むしろ戦後の歴史を読み直しながら現代に近づいて行く感じでした。色々な資料を読んで歴史的に見ていくと、1960年代にアンダーグラウンド映画 や実験映画があって、1970年代後半から表象論的な映画批評にモードが変わっていったように思います。その後『リュミエール』 や『カイエ・デュ・シネマ』 が刊行され、フランスの映画批評をベースとした言説が主流になっていきましたが、そこでは1960年代のアンダーグラウンド映画からヴィデオ・アートに至るまでの流れが切断されています。結果的にそれらの歴史的な流れは、現在という地点からは見えなくなってしまっています。
一方で、越後谷さんが言われていることもよくわかります。表象文化論の人たちを見ていても、ヴィデオ・アートと映画の取り扱いに差がありません。ジガ・ヴェルトフ の『カメラを持った男』(1929年)とニューメディアを結びつけたレフ・マノヴィッチ の『ニューメディアの言語──デジタル時代のアート、デザイン、映画』(みすず書房、2013年) を翻訳した堀潤之さんも様々な興味を持っていますね。
越後谷──確かに1980年代のヴィデオ・アートは、1960年代のアンダーグラウンド映画があり、1970年代の実験映画があり、その流れから出てきています。
初期のヴィデオ・アートと実験映画はかぶる時期がありますが、今振り返ると1980年代には、そういった時期の最後の熱い空気がまだ残っていて、僕はギリギリそれに触れることができました。実際、原美術館で「ビデオカクテル」という展覧会があったり、ビデオギャラリーSCAN による公募展があったり、動きが盛んでした。しかし、1990年代以降、ヴィデオ・アートは過去のもの、といった風潮があり、歴史化されてしまい、個々の作家は個別に地道に活動していますが、ひとつの運動体としての動きは沈静化していった気がします。今も持続的に続いているものは「イメージフォーラム・フェスティバル」だけです。
阪本──1980年代になって映画批評のモードが変わった時に、アンダーグラウンド映画や実験映画から継続する流れが見えなくなったということですね。