トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
1. 2000年前後の状況──「音」の展示の変化、耳の変化
金子──今回は長年、音に関わる展示に携わってこられた畠中さんに、これまでの経緯を振りかえってお話いただく良い機会と考えています。ICC
畠中──1998年に「ポスト・サンプリング音楽論」というタイトルのシンポジウムとミニ・コンサートを企画しました。企画協力には佐々木敦 さん、クリストフ・シャルル さんや半野喜弘 さん、久保田晃弘 さんなどにも参加していただきました。そのきっかけは、当時オヴァル とクリストフ・シャルルによるアルバム「dok」(Thrill Jockey, 1997)がリリースされたことでした。それは、クリストフ・シャルルによるサウンドファイルをマーカス・ポップがプロセスしてつくられた作品です。まさにクリストフ・シャルルをオヴァル化したような。そういったファイルを交換しながら新しい音をつくるというコラボレーションが当時いくつかあって。そのような音のつくり方に着目し、サンプリング の新しい方法論と捉えて行ったイベントでした。
ICCは1991年から、特定の場所を持たない、電話網の中やウェブでの活動をしていました。また、97年の現在の施設のオープンまでは、いろいろな場所を借りて、メディア系パフォーマンス作品の公演なども行なっていました。それで、欧米では、メディア・アート の分野でも、サウンドによる作品がヴィジュアルの作品と同じくらい大きな領域を占めているのに比べて、日本ではそういうことがそれほど認知されていないのではと感じていました。インタラクティブな作品でのコンピュータ・グラフィックスと連動するサウンドなどはありました。当時はアカデミックな領域での研究成果のような作品が多かったのですが、サウンドの世界、特にコンピュータ音楽は、もうアカデミズムからラップトップ・ミュージックの時代に移行していたわけで、もう少し現状に即した企画をやりたいとも思っていました。
金子──現状というのは、たとえば当時のクラブ・ミュージックやポスト・ロックなども含まれますね。音楽レーベルHeadzが音楽雑誌『Fader』を創刊したのが1997年でした。
畠中──当時、電子音楽の領域では、なにか新しいことが起きているという感じがあり、それがそれまでメディア・アートの領域で聴かれていたアカデミックな電子音楽よりもおもしろいと思っていました。なぜでしょう、そうしたサウンドの作り手たちがパンク以降のオルタナティヴな音楽、たとえばノイズ・ミュージックなどを出自としていることなども興味深い傾向だと言えます。
先のイヴェントは「サンプリング以後の方法論」という捉え方も、いわばラップトップ・ミュージック以後のひとつの潮流を表わしていたのではないかと思っています。それらのサウンド・アーティストによる作品は、CDで発表されているような作品は買って、よく聴いていましたが、メディア・アートとは交差する部分は、もちろん、ダムタイプ と池田亮司 の共同制作はありましたが、サウンドをメインにしたメディア・アート作品というフレームは、日本ではあまり紹介されてはいませんでした。それで、僕の関心の強さもあり、ICCでそうしたサウンド・アートの現状にフォーカスしていきました。翌年の1999年にはメゴ を呼んだりしました。そういった流れの中で「サウンド・アート」展が形になっていったわけです。
金子──1999年の「ICCニュースクール」 は「音・音楽・コミュニケーション」をテーマにしています。日本の作家が多く参加されていますが、このイベントと「サウンド・アート」展はあまりつながりがないように見えます。
畠中──それは企画者が違うのが大きな理由です。僕がICCでサウンドを取り上げはじめた一方で、ニュースクールの参加者で言えば、三輪眞弘 さんはそれ以前からコンピュータを使って音楽を制作されていて、まさにサウンドとメディア・アートが交差するところで活動されていることは知っていました。「音・音楽・コミュニケーション」も「サウンド・アート」展の系統とは違いますが、当時のコンピュータ音楽のある局面を捉えた催しだったと思います。
金子──「ニュースクール」には、藤幡正樹 さんや古川聖 さんも参加されていますね。「サウンド・アート 」という用語自体は、藤枝守 さんの論考のある1993年の『Music Today』や、1996年の『美術手帖』で特集になっていました。これらと比べると、電子音楽との結びつきが出色な「サウンド・アート」展はオルタナティブだったと言えるかもしれません。現在活躍している作家から、当時この展示に大きな影響を受けたという話を何度も聞いています。この展示をどう考えるかということが、2000年以降のICCの活動や日本におけるアートと音の関係を論じるための重要な論点だと思います。その後「サウンディング・スペース─9つの音響空間」展(2003) という、メディア・アートとサウンド・アートの両方に関わるような展示がありましたが、紹介している作家の傾向はやや変わっていますね。こちらはどのような経緯だったのでしょうか。
畠中──先ほどオルタナティブと言われたように、2000年に大上段に構えて「サウンド・アート」と銘打っていますが、当時は、特に美術の世界であまり知られている作家がいない、というような状況でもありました。カールステン・ニコライ や池田亮司の作品が出品される、ということも当時では、あまり実際に目にする機会がないという意味ではめずらしいことだった。中には「小杉武久 さん、鈴木昭男 さん、藤本由紀夫 さんたちを欠いたサウンド・アートの展覧会などありえない」という批判もありました。ですが、この展覧会は、1998年からのサウンド・アートの状況や、それにともなう僕の関心に沿って作られたもので、それ以前の文脈を踏まえて取り入れる、ということはあえてしませんでした。「サウンド・アート」展は、先を見越していたわけではありませんが、その後、メディア・アートの裾野が広がったという気はしています。サウンド・アートに関して言えば、コンピュータを使用するなど、新しい手法が出てきていましたが、それらを紹介することで、それまでのサウンド・アートへの理解が更新されたような感じがしました。
また、2000年の「サウンド・アート」展と2003年の「サウンディング・スペース」展では、やっていることや、テーマもあまり変わっていない、と企画者としては思っているのですが、「サウンド・アート」展は、ある意味では転換点になっていたのかもしれません。「サウンド・アート」展以前/以後では音の質感や、それをとらえる美学、「耳」が変わったのではないかと思います。
金子──同時に音響テクノロジー、例えばソフトウェアやスピーカーの性能も変わりました。そのような感性的、技術的な変化は、日本だけではなく世界中で起きていたことが、この時期に国際的なサウンド・アート展が相次いで開催されたことからもわかります。たとえば、2000年にヘイワード・ギャラリーでデヴィッド・トゥープ のキュレーションによる「Sonic Boom」展がありましたし、2001年にはホイットニー美術館で「BitStreams」展、2002年にポンピドゥー・センターで「Sonic Process」展がありました。それぞれ性格は違いますが、ひとつの流れと言えるようなものがこの時期に生まれてきています。
畠中──先ほど言った耳の変化や、スピーカーなどの再生機器やテクノロジーのアップデートとは同調していますね。それまでつくられてきたものとは別種な質感が立ち現れてきているような。デヴィッド・トゥープのような人が、その以前/以後を非常にうまく文脈づけてつなげています。『音の海—エーテルトーク、アンビエント・サウンド、イマジナリー・ワールド」(水声社、2008)や『Haunted Weather: Music, Silence, and Memory』(Serpents Tail、2004)といった著作、あるいは同名のコンピレーションCDを聴けば、それはよくわかります。「Sonic Boom」展は、ある意味ではサウンド・アートのあらゆる様相をトゥープによるサウンド・アート史観によってとらえた展覧会だったと思います。ただ、そのパースペクティヴが幅広すぎて、なんでもあり、という印象を与えたこともたしかなのですが、それでもトゥープの博覧強記ぶりがよく出た展覧会でした。
金子──トゥープはそれまでコラボレーションしてきたマックス・イーストレイ やポール・バーウェル の作品も取り上げていますね。即興演奏やサウンド・オブジェ 、電子音楽といった、作家としてのトゥープ自身の関心の変遷が展示に反映されています。当時の国際的なサウンド・アートの展示の共通点としてあげられるのは、「ソニック」や「サウンド」など、「音」という非常に一般的で、いわば抽象的なテーマを持っているということです。「BitStreams」展では、名前としては違いますが、作品を収めたコンピレーションCD(JDK Productions、2001)が作成され、やはり音そのものを聞かせようという姿勢が強くあらわれていました。
畠中──「音」を意識的にとらえることは、電子音楽はもちろんのこと、ヴィデオ・アート 、さかのぼって実験映画のころからも、行なわれていました。それが、たとえば日本では70年の大阪万博以降のテクノロジー・アート の衰退と共に一旦収束したという印象があります。それに対する傾向として、美術でも反テクノロジー的な作品が台頭してくる。サウンド・アートも自然音を使う、聴くことの重視、というような傾向が強まってくるのではないでしょうか。それで、90年代にはサンプラーなど、2000年前後にはコンピュータを用いて音を合成加工することも可能になってきて、改めて音の質感が追求されるようになってきたと思います。あるいは「音」への再考が始まったということだと思います。当時はまだ、美術展で「音」という要素を前面に使うことは新しかった。
金子──「音楽」という単語が出てこないことも2000年代初頭の展示の特徴だと思います。一般的にミュージシャンとして知られる作家が多数出品していますし、同時代の音楽からの影響が大きかった割には、「音楽」という単語が出てきません。
畠中──そうですね。やはりサウンド・アートは、ノンミュージシャンのものだという面があるように思います。ミュージシャンでもサウンド・アートをやっている人は多いですし、インスタレーション化された音楽もありました。そうした、2000年頃の流れは、実は1970年台後半から続く、イギリスのパンクやオルタナティブ以降の、実験的な動向が地下水脈のようにあったと思います。スロッビング・グリッスル などもそうですね。それに先立つものがブライアン・イーノ だったと思います。アンビエント やノイズ といった要素がないまぜになったような抽象的な音響作品が、90年代に登場します。ヨーロッパではそうしたシーンが脈々と受け継がれている印象があります。