トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
3. 日本のダンスのユニークさ
木村──もうひとつ、吾妻橋的な面白さがピークに達すると同時に、プリコグ
僕としては、これらの活動を、未来に生まれるべきダンスを開発するために、手にしてみたらガラクタかもしれないけど、でも一度は過去のダンスを見直してみましょうよ、そこにまだ汲み尽くされていないグルーヴがあるかもしれないし、という想いを抱いてこの時期を過ごしましたが、過去を振り返ってみると、その学びたいという欲求のなかには、純粋な復古主義も含まれていたかもしれないです。別の言い方をすると、桜井さんという存在がいて、2000年代の日本のダンスは欧米のダンスと違うユニークさを持っているんだという主張があった。それまでの日本のダンスは欧米追従型で、フォーサイス 、ピナ・バウシュ みたいなある種の理想があり、その理想にどれくらい近づけたかを競っているところがありました。でもそれだけではないはずだ、自分たち独自のダンスを求めてもいいはずだ、と。もちろんフォーサイスやピナを否定するわけではありません。しかし、彼らからアイディアを拝借しつつも、そこに僕らなりの日本独自のセンスが活かされていてもいいではないか、桜井さんの提案には、そうしたことが含まれていたと思います。
しかし2000年代後半以降、美術などの芸術分野では自分たち独自の芸術表現を求めて新たな局面の創出へ向けて模索したのに対して、ダンスでは、そういう展開は乏しかったという印象が強くあります。
桜井──まったくそのとおりなのですが、いまとなってはしょうがないですね。
当時の僕の発言はある種のプロパガンダでした。日本のダンスについて──「悪い場所」という、椹木野衣 さんのタームを使って──、「この場所はダンスの歴史もないし、インフラもないような不毛地帯だから、みんなそれぞれに『ダンスってこんなものかな』って勝手に考えたデタラメをダンスですって言い張ることができる余地があった。それでいまこんなに面白いことになっているんだ」ということを2005年くらいに言ったわけです。それは半分は本当ですが半分は嘘で、日本のダンスにはれっきとした歴史もあって、それは体育大学の舞踊学科、全日本高校・大学ダンスフェスティバル(神戸) などに見られる「創作舞踊」というものです。現代舞踊協会 というモダンダンス(の教室)の全国組織みたいなものもあります。日本の国内的にエスタブリッシュされたダンスの人たちというのは、全部そちら側に属しているわけです。その系統とはまったく無関係なものが出てきたのが2000年代の前半なんだけれども、いろいろな意味で吹けば飛ぶような人たちでもあったわけだから、もとから存在していた層が息を吹き返したということだと思います。
4. 批評性をめぐって──風営法や学校体育の意味
桜井──いまは、体育大学を出たようなしっかりとした身体スキルがある人が「横浜ダンスコレクション」
木村──美術の場合は、美術史という絶対的な規範があるわけです。歴史的に残された批評の歴史もある。そうしたものが創作であれ批評であれ美術をめぐる活動のスタートラインになります。
桜井──美術だと、かろうじて現代美術もアカデミズムに入っているわけだから、批評性が芸術の生命線であるということが共有されますよね。それに比べて、ダンスの場合は体育、またはレクリエーション、そしてエンタテインメントに寄っているわけです。批評性は基本的な了解事項ではない。
木村──ある種の批評の歴史を前提として表現が進んでいる。そういう場から生まれた表現は面白いけれど、ダンスにはそれが欠けているかもしれない。そこで僕らが批評性のあるダンスを求めてもやもやしている状態。
桜井──それは日本だけの問題じゃなくて、世界的にみてもダンスの状況というのは多かれ少なかれそういうものに引っ張られていくというか……。
木村──この事態はどうとらえれば良いのでしょうか。きっと、踊ること自体が楽しいことなんですよね。そこに留まっていて、そこから自由になれないことが、ダンスが批評的にならない理由でしょうか。批評的であることは快楽とは関係ないですからね。
桜井──そこが面倒なところですよね。必ずしも「ダンスは楽しければいいじゃん」という人に、「そうじゃないんだ!」というふうには言えません。もちろん楽しいのがいいわけです。僕が「グルーヴ」と言っているのはそういうことだから。そのへんは矛盾を抱えています。
木村──ただし、こういう点は考えておくべきでしょう。もし画家であれば、一本線を引いただけで美術史上の無数の絵画と比較され、文脈づけられることから逃れられないはずです。見る者が行なう解析作業に耐える覚悟をしている者が画家であり、「ただ私が引きたいように引いただけ」なんて無邪気な振る舞いはできないわけです。なぜかダンスにおいてはそうした批評を意識するよりは、踊って楽しいというところに動きの動機が置かれがちです。でも、仮に楽しさにダンスを限定するにしても、リズムに合わせていく楽しさと、それをずらす楽しさというのは別ものです。どちらも知っているべきではないでしょうか。ずらすためには「合う」ことをすなわちベーシックを知っている必要があるでしょう。合わせることしか知らないというのは、不十分だし、もったいないことだと思うんですよね。
桜井──いま学校の体育でダンスが選択必修として授業に組み込まれています。そのなかの「現代的なリズムのダンス」とは、要するに「ヒップホップ」なんだけれど、そういうものの影響は今後どんなふうに出てくるのでしょうかね。
木村──ジェネレーションギャップなのかもしれないですが、ダンスって昔は先生の目を盗んで踊るとか騒ぐとかいうことだったと思うのです。まずそこに違和感を感じます。
桜井──ダンスの立ち位置が変わってきているということ?
木村──ダンスを踊ることが──バレエのみならずヒップホップ・ダンスみたいなものも──、お稽古事の一部になっています。洗浄されたかたちで殺菌されたヒップホップ・ダンスみたいなものの理想形があって、それに向かっている。そういった状態で、なにがはみ出していてなにがコンサバティブなのか、よくわからない状態になっていると思います。
桜井──たしかに。でも、可能性もあるんじゃないかな。そういう子どもたちがどういう大人になっていくのか……。
木村──ありますよ。ただ、結局のところ「合わせる」練習なわけですよ。
桜井──うん。でも、それがやがて「逸脱行為」になっていく可能性はありますよね。なにしろゴキゲンなリズムに乗って身体を動かすわけだから、モヤモヤムラムラしてくる(笑)。体育ダンスの歴史を見れば、訓育、ディシプリンとしてのダンスってことに行き着きますよね、国家による身体の管理。でもそのなかから逸脱行為が生まれてくる可能性は常にあるはずなので、ここはポジティブにとらえたい。で、それと抱き合わせのようなかたちで風営法の問題がありますよね。夜中になぜ踊ってはいけないのかという問題と、学校体育のなかのヒップホップ、この二つの関係は、一見矛盾するようでいて、表裏一体になっているように感じます。管理下に置きたいわけでしょう。それによって現にストリートやクラブの身体に表われている「反抗する身体」を無害化したいと。ヤツら的には相当危機感を持ってるってことですよ!
木村──それはダンスというものが国家にとって脅威なんだということを明かしているところもあって、面白いところです。例えば、古代ギリシャの哲学者プラトンは『国家』のなかで子どもたちの教育を論じる際、「踊ってはいけないダンス/踊っていいダンス」について言及しています。踊ってはいけないダンスとは、異国のダンス、バルバロイのダンスというものです。そういうものはダメだけれど、国が検定したものは努めて踊らせるようにしなければならない。いまとまったく同じようなことが2000年以上前のギリシャでも起こっていたのかもしれません。そもそもダンスがそういうものだということが、近年の出来事のなかで明かされているかもしれないと考えると興味深いです。
桜井──いま、反原発やアンチ・レイシズムなどのデモが盛り上がっていますよね。それで、そうしたいまどきのデモと言えば「サウンド・デモ」なわけです。グルーヴィな音楽に乗って踊りながらシュプレヒコールをあげる。つまり、「快楽」と「政治的アクション」、もっと言えば「抵抗」が、セットになっている。これは「まぜるな危険」的にヤバいでしょう、ポテンシャルが一気に高まる。権力としては相当あせってると思いますよ。