トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
5. 二次元のリアリティ
桜井──いまの若者の身体の置かれている状況や環境と関係があると思うんだけれども、ヴァーチャルな身体に対する感情移入が当たり前のように起こっていますよね。つまり、アニメのキャラとか、生身の身体ではないものに対する「萌え」ということですが。身体性を獲得した二次元の絵が、いまだかつてないほど共有されている。で、現実の生身はもちろん、表現物においても、「実写」映画だと逆になかなか情動が起動しなくなってきていて、でもアニメだと「くる」、ということになっているのではないか。そうすると、どちらがリアルかという話になってくる。
木村──自分の見たい身体パーツが強調されますよね。二次元の絵では記号が読み取りやすく単純化されているわけですよ。そうした記号から得る快楽は二次元でしか望めないものではないという点には同感です。
桜井──強調やデフォルメというのが漫画やアニメの肝で、そこにキュンとするわけですよね。このキュンとする感じって、それこそダンスにおける「グルーヴ」と同じなわけですよ。「身体=運動のエクボ」。ある種の記号化された身体というか、強調された身体みたいなものはダンス的だなと思っています。でもそれは実写のドラマの俳優ではなかなかできない。
木村──二次元の振る舞いを模倣したりとか、声優の強調されたアニメ声を模倣したりとか、そこに自分の憧れがあったりすると不思議な身体が生まれますよね。
そもそも世の中が身体を忘れようとしていたり、身体がないかのように生きていたりという状況があると思うんです。オタク的な感性のなかに、二次元のほうがリアリティがあるというような感じ方や、アニメのキャラクターを「俺の嫁」と言ってしまうような表裏がひっくり返っているような事態が起きているわけですよね。自分にとって非常に都合のよいものとして、二次元的身体がある。その身体性に人が魅了されている。そうした状況のなかで舞台芸術の身体はどうあるべきなのかという問題は問われてしかるべきと思うけれど、これまでのところあからさまに問われたことはありません。少なくともダンスの分野では、美術に比べて、オタク的な感性といったものがこれまでのところほとんど問題にされていないところがあるけれど、その一方で、すでに述べたようなオタク的な感性が蔓延しているという意識は僕たちのなかにあるわけです。はじめに触れた、今回の「吾妻橋」での安野太郎、KATHY、捩子ぴじん、山崎皓司(快快)には、とりわけそういう身体状況への反省があると感じられました。
ヴァーチャルというトピックと関連してここで挙げておきたいのが、2008年の『ユリイカ』の初音ミク特集です。そこで初音ミクの企画・開発を担当した佐々木渉さんが、インタビューのなかで、2003年頃に『STUDIO VOICE』や『美術手帖』を読みながらダンスに興味を持ち始めたと語っています 。あの頃に桜井さんや僕がダンスのなかで思っていたことを、いろんな人がいろいろなかたちで具体化させようとして、いまがあるのかもしれません。直接の影響はないと本人は言っていますが、彼がコンテンポラリー・ダンスに興味を持ちつつ、初音ミクというソフトをつくったとすると、僕らが関心を持っていたダンス的なものの可能性がダンスではないほかの場所で花開いていたということなのかもしれない。
ところで、初音ミクの動向で重要なことは、制作者たちとユーザーたちとでつくったのがたんに作品のみならず、互いに創作を刺激する「場」だということです。新しい曲・新しい振り付けをつくったという以上に、みんなで踊れる場、曲がつくれる場をつくったことです。そう考えると、舞台芸術においても、個々の作品という以上に、場をつくる力こそが新しい表現の発端となるのではないでしょうか。先にも話題に上がった岡田利規は、独自の身体性や口語文体などによってまさに新しい演劇の場をつくったというべきかもしれないです。
桜井──そうですね。アートだと、例えば「お絵描き掲示板」とかがあるじゃないですか。ネット上のSNS的なものは、たしかにダンスの場合「生身」なのでちょっと難しいわけですが、オフ会的なもの、「みんなでお絵描き」とか、詩の「サイファー」とか、なんらか「ソーシャル」的な試みはダンスにもあってもいいんじゃないかと思いますね。
6. 存在感を示す舞踏
木村──2000年後半にルーツへと興味が高まるなかで、バレエやモダン・ダンスなど西洋由来のダンスを自分のベースとするダンサーや振付家もいますが、そうしたなか僕は舞踏に勢いを感じます。もちろん室伏鴻
桜井──鈴木ユキオや大橋可也&ダンサーズはテクニックや身体能力というものを土台にしてつくっているという感じがします。プロダクションもパフォーマンスも、基本的なクオリティが高いですよね。でも、僕はそれだけじゃやっぱりダメで、新しさとか身体に対する批評性を含んだ、もっとハチャメチャなものが見たいわけです。さきほどから言っているような、2000年代後半のある種の復古主義みたいなものと関係するような感じでとらえています。捩子ぴじんはちょっと別だと思うのですが。
木村──ある種の審美的価値が再評価されているのがここ数年のひとつの流れですね。そういった傾向が端的に出ているのが、鈴木ユキオや関かおり で、徹底的に身体を鍛えることでその身体でしかできない表現を見せることです。「これこそがダンスでしょ」というような説得力があって、ある意味では否定しにくい。良くできている。
桜井──洗練されているしね。
木村──その「洗練」というところがまさに、さきほど桜井さんがおっしゃった、日本以外のダンスが持っている相変わらずの価値の状況ともリンクしていて、そういう意味では現代的であり国際的なクオリティと言えます。
桜井──それに対して木村くんは肯定的に評価すると?
木村──否定しにくいところはあります。僕は見る側で、自分では踊らない。だから踊る側の想いがわからない。おそらく彼ら側には彼らの欲求があるはずで、踊る側が同時に見る側でもあるという踊る側たちのサークルのなかで切磋琢磨が進んでいる。もちろんその閉鎖性を批判してもいいのですが、そのなかで起きる最良の状態というものは見てみたいとも思うわけです。
桜井──「陶芸」みたいなことですか。
木村──そうですね。職人のように求道的なことになっていく方向性だし、そうであればその虚しさもあるとぼくは思っていますが、陶芸的なことをダンスでどのようにやるんだろうという関心があります。職人的なことをやり続けてみたところで、それがダンスなのだろうかという想いに至り、そこからなにか違うかたちを生まないかとも期待しますが、危ういところもあると思います。
桜井──そういう意味でいうと、木村くんのなかで壺中天の評価はまたちょっと違いますよね?
木村──壺中天にも、職人的な要素はあるのだけれど、描くべき線を設定したうえで、そこからどう逸脱するかということをやっています。とくに彼らの表現を見ているとマンガやゲームの影響を感じます。身体のあり方にある種の暴力性があるというか、人間を人間と思っていないかのような部分、そこはふざけていると言ってもいいんだけれども、そういうところは思いのほか現代的です。それこそ職人的な審美的価値あるいはヒューマニズムを超えていくような要素を感じるんです。
桜井──それは話としては非常によくわかるなあ。大橋可也は?
木村──2007年前後に僕がレクチャーや本のなかで「タスク」という概念について語りましたが、大橋さんはそういうアイデアに近づいたアプローチを行なっているのかなと思います。僕はシンプルな表現が好きなので、そのときの身体の立ち現われに面白さとかヘンテコな感じとかを受けとって面白いと思っていました。この3年くらいのあいだで大橋さんの表現に審美的な要素というのが目立ってきています。それは若手のダンサーが入ってきて、彼女たちの身体がバレエやモダンダンスをベースに持っていて、それを活かすという意味でもあるのかもしれませんが、結果的に作品が審美的になっています。一般的にはわかりやすくなっているとも評価できますが、同時に彼がやるべきことは別にあるはずなのではないかという気もしています。
桜井──大橋さんのところの男の子たちはいいなと思いますね。飼い慣らされていないというか、女の子たちは普通にダンサーしてるというか言われた通りに踊ってるけど、男たちはもっと物質的な異物としてある。大橋さんもそういうつもりで対極的に位置づけていると思うので、非常に好ましいですね。先日、大橋可也&ダンサーズの『グラン・ヴァカンス』を見ました。三つくらいに分かれているうちの、真ん中のピークが面白かったです。大橋可也は舞踏をちゃんとやっているなという感じがして、ちょっとそのことに感動しましたね。舞踏の重要な美質であるところの身体の即物性や「生(ナマ)肉」感がありました。
木村──捩子ぴじんについてはいかがでしょうか。さきほど「個別なもの」とおっしゃっていましたが。
桜井──この人はまったくわけのわからない鵺のような存在で(笑)。毎回アプローチが違いますよね。まず大きくわけて演劇とダンス、F/T(フェスティバル/トーキョー) で賞をとった『モチベーション代行』のようなパフォーマンス的、ポスト・ドラマ演劇的なものと、横浜ダンスコレクションで受賞した『syzygy』などの「ダンス」、この二つのアプローチがあって、そのどちらでも非常に優れた仕事をしていると思うんだけど、舞踏(=大駱駝艦)出身ということを直接的にリサイクルするような表現はしていないですよね。そういう背景とはあまり関係なく、面白い。面白いと思うのだけれども、この人の根っこがどこにあるのか、やりたいことがなんなのかは、いまだによくわからないんですよね。
木村──捩子くんは淡々とこのままのペースで活動してもらって、あとで振り返るとこういうことだったのかとわかってくるのではないかという気がします。すごく面白いし、舞踏出身だと言ってくくってはもったいない存在なのかもしれませんね。
桜井──あ、でも次は白塗りの舞踏をやるらしいです(笑)。