トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
7. 女性による女性のための表現
木村──僕はダンスというものには「見られる存在の表現」という要素が強く含まれていると思っています。そして、その意味で「女性的なもの」であるとも思っています。見られる女性というものを、女性ダンサーがどのように引き受けて表現するか、その点からダンスについて考えると、おおよそ10年ほど前までは、珍しいキノコ舞踊団
桜井──最近の女の人の表現に見られる女性性へのフォーカスのあて方に対して、自分はそこに乗れないように感じることが多いです。普遍性ではなくて、いまの日本を生きる女性たちの生きづらさみたいなことが前提となっている表現だからだと思っているのですが、あまりにも女性固有の問題に特化されると、男の子には共有・共闘できない表現になってしまうような気がするんですよ。
木村──僕は女子大で仕事をしていて日頃から鍛えられているのかもしれません。
たとえば、クリウィムバアニー やQ といった若い女性のグループの特徴は、男性というよりは女性に見られる事態を基本としていて、女性のために女性が女性的なパフォーマンスをしているというところがあります。クリウィムバアニーの作品(遊覧型ぱふぉーまんす!!『がムだムどムどム』)だと、すごく可愛らしい華奢な女の子たちが生息しているエリアがあって、だるそうにただ動物的に生きている。鑑賞者たちは、合図がかかると音楽とともに激しく踊ったりする女の子たちの隣で鑑賞することになります。しどけない格好でいながらまったく男を相手にしていない、そんな女の子たちの態度が新鮮です。男ではなくて女がいいと思う女を呈示しているとも言える。
BL(ボーイズラブ)的なものをはじめ、女性による女性のための表現は、若者文化のなかでいまやメジャーです。また男性が女性観客のために表現する作品も増えています。そうしたなか「見る女性」の存在が舞台芸術のなかでも注目され始めていると思います。この傾向をどう評価するかということですが、僕は積極的にこれが現在であり未来だと思っていて、とはいえ無条件に喝采するわけではなく、そこで女性たちがなにを行なうのかに引き続き注目していきたいと思っています。
桜井──いま挙げてくれたような、女の子による女の子のための表現は、こちらが拒絶されているようで、自分がそこに接続可能な普遍的な要素がどうも見えないんですよ。普遍性というと大げさ過ぎますが、やはり、作品を評価するときに、接続可能性を考えるわけですよ。たとえば、この場合、「クィアかどうか」ということがポイントなんですね。クィアということを「あらゆる種類のマイノリティ」の連帯という意味に理解すれば、僕にとっても接続可能性が担保されるのだけれども、女の子が女の子のためにつくった作品がそこだけで閉じてしまうと、女子会のように「わかる〜」ということで終わってしまう。女の子たちにとっての「自然」は、なんの危険性もない、侵犯性みたいなものがない。ただ、はたして本当にそれだけなのかはまだ断定できないので、興味深く見ているところです。実際、「Q」に関しては、女性固有の問題を扱っていたはずが、ここへきて次第に、動物とか魚とかさらにそれらの異種混合の性愛とか、まさに「変態=クィア」な接続を扱うようになってきた。たんに寓意化しているようにも見えるけれど、別の回路(ある種の普遍性)へ開けていく可能性が出てきているんじゃないかな。
木村──僕は桜井さんのダンス論のなかにはユーモア論が含まれていると思っているのですが……、ユーモアというのは植木等 流に言うと、「金のないやつぁ俺んとこへ来い、俺もないけど心配するな」といったように、他人を否定して自分が優位に立つ冷笑的な笑いではなくて、「お前も俺もなにもないんだよねガハハ」といって、すべてを平等にしてしまう力だと思うんです。いまおっしゃったクィアというのは、まさにそういう力なのかなと思うんです。
桜井──たとえばフェミニズムということも、「女性性」という話になってしまうと、途端にアクセスが困難になる。あらゆる接続可能性に開いていくことが、新しい世代の女性の表現に可能性を与えるのではないかという感じはしますね。
木村──面白いですね。いまの世の中は他人を下に見て冷笑するような笑いは目立つんだけれど、植木等が1960年代に演じたような、すべてを平等に見てしまうユーモアの笑いというものは、乏しくなっている。
桜井──その点はテン年代にもっとポジティブになると思っていたんだけど、返す返すも地震と原発事故は残念です。
木村──それは具体的にはどういうことでしょうか。
桜井──空気を読んだりするのはダサイ、あるいはカーストとか言っているのはダサイというふうになっていくと思っていたんです。そういったものはイケてないという風潮が強まって、もう少しいい世の中になっていくのではないかとい無根拠な期待がゼロ年代末に高まったんですね、僕のなかで。
木村──とくに震災後は、政治的な課題に対してベタに反応する振る舞いが賞賛されて、そういったベタに反応することから距離を置いた視点を持ったり、そうした態度をしにくくなっているように思います。ある意味ではすごく生真面目な世の中になっているとも言えて、そうした傾向は、ダンスのルーツを重視する意識にも通底するものがある気がします。即レスしなければいけないプレッシャーから自由であることが難しくなっていますよね。
8. テン年代の夢
木村──桜井さんにとって、テン年代の夢を具現している作家は誰ですか。Chim↑Pomや遠藤一郎
桜井──みんな可能性あると思います。Chim↑Pomはそろそろもう少し社会派的な立ち位置から抜けたほうがいいと思うんだけども(笑)。もともとたんにイタズラしていただけなのに、いまは使命感みたいなものが本人たちにもちょっとあるし、そういうものがChim↑Pomの評価の大きな部分を占めるようになってきているのは、やや危険だなと思います。
木村──Chim↑Pomが『芸術実行犯』(朝日出版社、2012)を書いたり『美術手帖』で「REAL TIMES」という特集(2012年3月号)を組だりすることで、アートの文脈に参入していったのは戦略的かもしれないですが、それが作家としてのサヴァイヴが目的なのではなく、それこそイタズラを蔓延させる力を発揮することになるなら面白いと思うんですけどね。
僕は遠藤一郎を桜井さんがどう思っているのか聞いてみたい。ここ最近の吾妻橋ダンスクロッシングにはレギュラー的に出演しているじゃないですか。
桜井──3回連続で出てもらいまいした。
木村──僕は個人的に面白いチョイスだと思っています。なぜ遠藤くんへのオファーが続いているのでしょうか。
桜井──やはりテン年代ということに僕が固執していて、ベタなポジティブみたいなものの突破力があるんじゃならと思っているからです。それを遠藤くんがやってくれていると思うのですが、毎回非常に賛否両論です。とくに前回は凄かった。ただ大声で歌って帰っていっただけ。「まったく意味がわかりません」という声がありました。
木村──その反応は面白いですね。観客はどんな身体で「吾妻橋」にやってくるかというと、たいていはインターネットで情報を得て会場に現われるわけです。ネット上にあふれる「あいつむかつく」とかそういった反射的で直情的な言動ばかりを腹の内に溜め込んだ人間には、遠藤くんの無防備でストレートな態度は意味不明だろうし、とらえどころなく映るはずです。「なんでここにいるの?」と簡単に批判してしまえばすんでしまう訳のわからない存在ですよ。むしろあれが素直に受け止められてしまうのだったら、むしろそっちのほうが怖いくらいです。あからさまにいまの世の中にフィットしていないところがある。
桜井──ただ、世の中の遠藤一郎に対する好感度はものすごく上がっていますよね。3.11以降の「絆」みたいなこととリンクしてる部分もあるんだと思うけど、遠藤くんに対してみんなが「感動をありがとう」と言うような状況になってきている。それはちょっと危ないと思う。だけど「吾妻橋」に来るとそんな評価は吹き飛ぶわけですよ。
木村──「吾妻橋」という舞台が特殊ということもありますよね。ギャラリースペースでのパフォーマンスは、彼の活動と地続きで見ることができるのです。
桜井──彼にとって吾妻橋がもっともアウェイなのは確かです。それは本人もわかっていて、わざと自分がアウェイであることを露にするようなことをやる。その徒手空拳な感じがある意味「イタイ」わけだけど、「なにあれ?」と引かれること、冷笑的に遇されることを覚悟してやるわけだから、それは遠藤くんにとっても、僕らにとってもやってもらって良かったんじゃないかと思っています。
木村──突き抜けているんですよね。一見、自己表現に見えるんですよ。でもよく観察していると、まったく自分を高く売ろうとはしていないんですよね。自己表現していないんです。他人の歌を歌うだけとか、ありふれた言葉をただシンプルに並べるだけとか、遠藤本人の像は消えていってしまうよう表現がじつは多くて、切ない気持ちにさせられるくらいです。まさに「未来」という言葉に未来を感じる僕からすれば、「吾妻橋ファイナル」に遠藤くん的スピリットがなかったことが物足りなかった。