トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
9. アジャストか、逸脱か
桜井──僕は飴屋法水
木村──飴屋の表現が唯一無二だと言うことは僕もそう思います。ただ、最終的に僕にはなんというか「演劇的」な部分が気になってしまい、素直に感動できないところがあるんです。
桜井──「演劇的」というのは、どういう意味合いでしょう?
木村──言い換えます。こう形容するのが適切かも迷うところですが「自傷系」に映るところがあると言えばいいでしょうか。飴屋の舞台でいつも重要なファクターになっているのは「命」というテーマです。『転校生』のときなどは、その命へのまなざしに感動して僕も涙を流してしまったのですが……、飴屋のなかには命に対しての冷徹なまなざしがいつも貫かれています。その一途さとそれがひとつの舞台として上演されていることとに強烈なギャップを感じることがあるんです。「そこまでしなくても」とか「そんなにしなくても」とか、見ていてそう思わされる傍若無人なパフォーマンスを前にして、飴屋自身がそう狙っているかはわからないのだけれど、見ているこちらがいついつその暴走を心配する立場に立たされてしまう、そういう関係性を築かされてしまうことに「演劇的」というか「自傷系」的というか、見ている側としてついていきづらいなという気持ちが生まれてしまうのです。
桜井──非常に特殊な表現とも言えるのだけど、いっぽうで普遍的、人の琴線に触れる要素がある。なんてことのない、ささやかなパフォーマンスなのに、見ているとよくわからないうちに涙が溢れてきちゃう。その仕掛け、仕組みがよくわらない。不思議です。
木村──とくにこの作品や部分というものがありますか。
桜井──「吾妻橋」で最初にやってもらった《顔に味噌》という作品は、俳優でもパフォーマーでもない、とりわけ在日外国人がそうなんですけど、きれいに発話することができないような人たちが自分のことを喋る、というパフォーマンスでした。名もなき有象無象の「なけなしの身体」によって成立している舞台。なにもドラマツルギーが存在しないかに見える構造のなかで、情動が動かされる。ちょっとピナ・バウシュと似ていると思っているんですけど。原始的な感じとシステマティックな感じが同居している。
木村──僕はあまり動かされていないんですね。そのことがどうしてなのかというのがわからないのですが、なにか最終的に作為的に見えるんですね。
桜井──計算されていると。
木村──そうですね。作為のなかに朴訥としたものというか生な感じのものが出てくるのはそうなんだけれども、そこに僕はあんまり乗っていけないんです。どうしてもそこに「演出」を感じてしまうのかもしれません。
桜井──ポスト・ドラマ演劇、ドキュメンタリー演劇のひとつと言えると思います。いま、そこが自分のポイントで、マレビトの会《マレビト・ライブ》、捩子ぴじん《モチベーション代行》、村川拓也 《ツァイトゲーバー》とか、そのあたりにも共通していると思っています。
木村──「当事者研究」と言われる分野があります。ハンディキャップを抱えている人が自分自身の身体がどういう存在なのかを分析し、研究し、語る、そういう当事者研究のスタンスに僕はとても興味を持っています。これはアカデミズムの話ですが、舞台表現にもこうした傾向というのは出てきていて、桜井さんと同じような興味でぼくもポスト・ドラマに関心があります。僕なりの関心をさらに言うと、その人自身が素材になり、同時にそれを素材にするときにどうしても演劇性が立ち上がってしまう、しかし、そのこと自体を問題にし、そこに問いを投げかける姿勢に可能性があると思っています。
桜井──ヨーロッパのジェローム・ベル の「ディスコーシブ(discoursive)」な、いわばドキュメンタリー演劇のダンス版みたいなものもありますよね。日本だと手塚夏子 とか。
木村──自分がどうしてこういう身体になってしまったのかとか、どうしてこういう踊りを選んでしまったのかということを解き明かしながら踊る身体を見る場合、その身体への認識は不安になっていないと共有されないと思うんですよね。そういう不安な身体──ゾンビ的あるいは幽霊的な身体──に、身体の問いを投げかけていくことは今日的なのだろうし、ダンサーが「自分の身体が幽霊かもしれない」とか「いま自分の思っているような身体として自分の身体がある訳ではないのかもしれない」と問いを投げかけない限りは批評的にならないだろうと思うんですよね。
桜井──そのうえで、ポップな装いでそれをやるというような感じがあればいいんじゃないかと思うんですけど、手塚夏子とかも。
木村──ポップであることはどんな力になるのでしょうか。
桜井──アクセスしやすいということですね。いまのやり方だと「真性身体フェチ」しか集まってこないだろうと危惧してしまう。
木村──それは女性性の表現でアクセスしにくいみたいなこととも少し近いですよね。自分たちの小サークルに閉じていくようなことではない方法があるだろうと。もっとシンプルな振りをつくって、シンプルな動きを感染させるようなそういう戦略を……。
桜井──カンナムスタイルか(笑)。
木村──そうそう(笑)。シンプルなひとつの振りで、そこに伝えたいエッセンス、舞踏でいえば逸脱するエッセンスみたいなものがちゃんと入っていれば、みんなで逸脱できるわけですよ。
桜井──昔は、イヤミの「シェー」とか谷啓 の「ガチョーン」がありましたよね。そういう感じのことがあるようでないですよね。
木村──小島よしお の「そんなの関係ねぇ!」とか4、5年前にあったけれど。
桜井──あれはよかったね。あとは「メロリンQ」!
木村──ダンスの話を考えてそのあたりまでいくと笑いの話になっていきますね。僕たちは笑っているようで笑っていない、冷笑するけどひっくり返って笑っていないといったところに今日的な課題がありそうです。今日のダンスの話はじつはジャンルの話ではなくて、センスの話だったと思います。つまり合わせるか逸脱かの話であって、それは狭い意味のダンスに限らずいろいろなところで展開できるかもしれない。ともかく、道を究めようとする類のダンスの作家たちが増えている一方で、「合わせる」ことは流行っていても「逸脱する」ベクトルは弱い、それがダンスのここ数年の状況ということなのですかね。
桜井──そうですね。あー、やっぱりもっとデタラメにいきたいなー。頑張ります!