演題は「集中そして/あるいは蒸発――肖像・自画像・『現代生活』」。ストイキツァは、現在、スイスのフリブール大学で教えている美術史家で、日本では2001年に『絵画の自意識』が翻訳・刊行されて話題になりました。その後も『ゴヤ』、『ピュグマリオン効果』、『影の歴史』、『幻視絵画の詩学』などが邦訳されています。
2003年に続いて2度目の来日で、今回は2月22日(日)に福岡市美術館、24日(火)に京都大学吉田キャンパス、27日(金)に東京大学駒場キャンパスと予定が組まれており、ちょうど今国内を移動中です。福岡と京都の演題は同じで、東京では「カラヴァッジョの天使たち」となっています。私が出掛けたのは福岡会場でした。
福岡では「レオナール・フジタ展―没後40年」の記念講演会としての開催でした。冒頭に藤田嗣治の自画像がプロジェクターで数点映写され、「フジタの眼鏡は、単なる視力補助の手段ではなく、視覚世界を探究し、絵画化する画家の存在様態を象徴的に示す役割が与えられている」という、ストイキツァらしい言及がなされました。『絵画の自意識』にも同じように眼鏡に着目しているくだりがあります(415頁)。
「フジタは重要な作家だと思うが、彼について語る準備が自分は十分でない。彼が参照することが出来たであろう、パリで一世代前に活躍した2人の画家、マネとドガについて私の考えを述べたい」とストイキツァは話を切り替え、ボードレールのアフォリズム集『赤裸の心』にある「自我の集中と蒸発について。すべてがそこにある」という言葉を参照点として、肖像画や自画像における顕在化(≒集中)=マネ、隠蔽(≒蒸発)=ドガという整理をもとに、両者の対照性や複雑な影響関係を読み解きました。
特徴的な例は、競馬場を主題とした2人の作品で、マネは競走馬が走ってくるトラック内に画家の視点を据え、こちらへ向かってくる馬の様子を描いているのに対し、ドガは休んでいる騎手たちを描いて、画家はどこか物陰からそうした光景を眺めているように感じられる、と説明しました。
両者の関係は、単に対照的であるにとどまらず、複雑な入れ子構造として読み解かれていたため、メモをとりながら聞いてはいたのですが、全体を細部まで思い出すことはできません。それだけ濃密な内容で、いつか再び、本としてまとめられたものを読んでみたい、という気にさせられました。
そうした中でも、1832年生まれのマネと、1834年生まれのドガは2歳しか違わない、という事実は強く印象に残りました。この2歳違いという近さと隔たりが複雑な磁場を象徴しているように思えます。
講演会終了後に見たフジタ展では、同館所蔵の《仰臥裸婦》とその下絵《腕をのばした大きな裸婦》の比較展示や、ウッドワン美術館所蔵の油彩作品《イヴ》とフランスの個人蔵による版画連作「イヴ」をまとめて展示した一画が大変興味深いものでした。
前者では、特に顔に注目すると、油彩作品で理想化されていることがわかります。
また後者の見どころも油彩作品における理想化ですが、その違いは目覚ましいものです。鼻の稜線に隠れていた右眼や、左手の後ろに隠れていたもう片方の乳房をはっきりと描き、髪の毛に躍動感を与え、花々からなる髪飾りをより豊かにする、などが主な変更点ですが、両者を見比べる楽しみは、展覧会ならでは、と言えるものでした。
福岡市美術館講堂(壇上右=ストイキツァ氏、同左=松原知生氏) 2009年2月22日14時43分(外は雨) 提供:福岡市美術館
*講演会写真についてストイキツァご本人にウェブ掲示の許可を頂くにあたり、担当学芸員の三谷理華さんと、西南学院大学準教授の松原知生さんに迅速なご対応とご協力を頂きました。心よりお礼申し上げます。
2009/2/27追記
東京での講演会は、2/28(土)にも日本橋公会堂(主催:京都造形芸術大学ほか)で予定されていました。そこでの演題はやはり「集中そして/あるいは蒸発――肖像・自画像・『現代生活』」です。
最近のコメント