2009年3月アーカイブ

1999年は、ハラルド・ゼーマンがヴェネツィア・ビエンナーレ第48回国際美術展の総合監督を務めた年です。

ゼーマンは、2001年の第49回展も続投しました。雑誌『アートプレス』の99年6月号に掲載されたインタヴューで、「今後、監督の任期は4年になった」と述べていますから、最初から続投の予定だったようですが、第50回展以降の総合監督は毎回異なるので、4年任期制はゼーマン一代限りとなったと考えられます。

第48回展を、ゼーマンは「全解放:ダペルトゥット/アペルト・オーヴァー・オール/アペルト・パル・トゥ/アペルト・ユーバー・アル(dAPERTutto / APERTO overAII / APERTO parTOUT / APERTO überALL)」と題しました。伊・英・仏・独の4言語表記は、第49回展「人類の舞台(プラテア・デル・ウマニタ...)」にも引き継がれます。

「展覧会はキュレーターの作品か?」といった議論がありますが、最近講義の関係で読み直した佐々木健一さんの『タイトルの魔力』(中公新書)には、「名づけ」という行為そのものが、ひとつのものの見方の提示である、と書かれていました(121頁)。展覧会の題名が、その全体像をうまく言い表していることもあれば、逆に裏切っていることもあるように思いますが、展覧会に題名を与える立場の人は、少なくともその展覧会の作者的な役割を担っている、と言えるでしょう。展覧会がキュレーターの作品化することの善し悪しを別として、キュレーターが展覧会の「タイトルづけ」を介して、そうした立ち位置にあることを論及していくことには意義があると思います。

ドクメンタ(72年)、リヨン、光州(97年)、シドニー(00年)、セビーリャ(04年)など、ヴェネツィア(80, 99/01年)以外にも数々の国際美術展の企画に携わったゼーマンは、2005年2月18日に71歳で亡くなりました。

2005年6月に開幕した第51回展以降、ヴェネツィア・ビエンナーレの主会場にあるスイス館(ゼーマンはベルン生まれ)の外壁には、「ゼーマン通り」という表示が掲げられています。

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カステッロ公園のスイス館 2005年6月15日12時55分(晴れ)

韓国から戻ってきた後、週末の東京出張が続きました。会議や研究会に出席する合間に、先々週は、「VOCA展2009」(上野の森美術館)を見て、Port Bの「サンシャイン63」に参加しました。先週は、「アーティスト・ファイル2009」(国立新美術館)や「ジム・ランビー」(原美術館)を見る一方、ギャラリー等を回って、「田中功起」(青山|目黒)や「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」(メゾンエルメス)、Chim↑Pomの「広島!」(VACANT)等を見ました。

それぞれに興味深い発見があったのですが、今回はChim↑Pomの「広島!」を見て考えたことを書きます。

ご存知の方も多いと思いますが、Chim↑Pomは、昨年秋に広島市現代美術館で個展を開催する予定でしたが、作品制作のため広島の上空に飛行機で「ピカッ」の文字を書いて問題となり、展覧会が中止になりました。今回の「広島!」は、そこで展示される予定だった《リアル千羽鶴》や、中止の原因となった映像作品《ヒロシマの空をピカッとさせる》を展示する企画でした。

《ヒロシマの空をピカッとさせる》は、広島の上空に「ピカッ」という文字を書いた5分ほどの映像作品で、原爆ドームが入った映像と文字にクローズアップした映像がセットになっています。ともに、街を行く人々のオフの声が入っています。

この作品については、今回出版された書籍を始めとしてさまざまな議論が展開されましたが、その中でも興味を引いたのは椹木野衣さんの文章でした。椹木さんは、この作品は、その「薄っぺらさ」において、アウシュヴィッツ以後の芸術がもつ「暴力」(アドルノの意味における)の問題を回避し得ること、「ピカッ」という文字は、原爆を表象するよりも、こうした行為が可能な戦後日本の平和を表象すること、上空に文字を書いて一方的に地上の人に見せるという、非対称な関係に基づく行為は、想像力が欠如している点で、加害者としてのアメリカ人的な感性に基づいていること、そして、その感性は、Chim↑Pomだけのものでなく、アメリカ化しフラット化した戦後日本の感性であること、などを指摘しています。

実際の作品を見た印象も、こうした指摘に違うところはほとんどありませんでしたが、それに一点付け加えるとすれば、文字が、スチル写真でみるほど鮮明ではなく、書いたうちから文字どおり雲散霧消していくということの意味です。

描いたものが消えていくという点で想起したのが、表現方法も主題も全く異なりますが、オスカル・ムニョスの《あるメモリアルのためのプロジェクト》です。この作品は、路上のコンクリートの上に水で肖像画を描いていくけれど、日に照らされてたちまち消えていくのを収めた映像作品で、行方不明になる人々が後を絶たないコロンビアの政治的・社会的な状況を浮かび上がらせたものとされています。絵が完成しないうちに、最初に描いた部分が薄れていく様子は、Chim↑Pomの作品にも見られる特徴で、ともに、記憶というよりもその忘却を強く感じさせる表現だと思います。

「忘却」を意識したのは、それが日本語で書かれていたこととも関係しています。水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』が指摘しているように、近代の日本においては、西洋語を読みながら日本語で書くことに一定の意味があったとしても、英語のグローバル化が進む今日、日本語で論文を書くことの虚しさを感じたことがない研究者は、おそらくほとんどいないでしょう。「ピカッ」という文字はやはり日本語で書かれなくてはならなかったと思いながらも、この3文字のもつ意味合いが、日本語を超えた世界でどのように伝わるのか、考えさせられました。そしてそれは、単に日本語を使っているというだけの問題ではなく、日本語環境の経験によって作られた表現そのものが直面する問題であるように思います。

雲間に薄れてゆく「ピカッ」の文字に、戦争の記憶が失われ、戦後日本の平和が基づいてきたものが見えなくなる様子を重ね合わせながらも、それと同時に、私たちが用いている日本語が、そしてそれが可能にした経験や表現が、英語のグローバル化が進むなかで、どのような意味を担っていくのか、他の日本の作品も参照しながら、考えていく必要があると思いました。
1995年のヴェネツィア・ビエンナーレでフィルムを51本使った話の続きです。

合計1,757枚という数は、当時1本のフィルムで36枚から38枚撮影できたことを考えれば、200枚近く少ない計算になります。ヴェネツィアの風景など展覧会と直接関係のない写真や撮り損じを除いた数、という意味でもあるのですが、より具体的には、100枚ずつPhoto-CD化したものが17枚、そして18枚目のCDに57枚の画像が記録されていた、ということから導き出した数字です。

当時、ネガやポジから画像データに変換して、CD-Rに焼きつけてくれるサーヴィスがありました。93年にもこのサーヴィスを利用して3枚のPhoto-CDを作成しています。

今回、このブログの記事を書くにあたり、先ずそれらのPhoto-CDから画像を取り出してみましたが、768×512ピクセルというサイズは、すでに実用的な水準からこぼれ落ちてしまった感じを受けました。そこで、他の記事で表示している写真と合わせる意味でも、あらためてフィルムからスキャナで取り直してみたところ、サイズだけでなく、色調やコントラストもより好状態の画像が得られました。この分野での技術が日進月歩で向上してきたことを実感します。
 

1997年は、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展とドクメンタX、ミュンスター彫刻プロイエクテの3つの大型展が重なった最初の年です。ドクメンタは1972年の第5回展以降、5年ごとの開催に安定し、ミュンスターは1977年の第1回展以来決まって10年ごとに開催されたので、2つの大型展はずっと重なっていたのですが、1990年代に入って、ヴェネツィア・ビエンナーレが95年に100周年を迎える関係から、93年に、それまでの偶数年の開催から奇数年の開催へと変更したため、3つの大型国際美術展が連続して開幕する「惑星直列」のような周期性が生まれたのでした。今後もいずれかの国際美術展に開催周期のずれが生じない限り、10年ごとに3つの大型展が重なるヨーロッパ現代美術の一大イベントが続くことになります。2007年にはアート・バーゼルも含めた「グランド・ツアー」という協力体制も生まれており、さらなる展開もあり得るでしょう。

私はこれまで1997年、2002年、2007年の3回のドクメンタを訪れましたが、もう少し長く見続ければ、惑星直列の年(97年、07年)とその裏の年(02年)というように、ドクメンタを2つに分けて、対比的に論じることが可能になる、と考えています。
 

ところで、1997年の私は、最初にお話した群馬県立美術館の学芸員になったばかりでした。公務員の1年目で年休は少なかった反面、業務的には先輩方にご協力頂いて秋口に出掛けることができました。夏季休暇や代休も合わせた9月20日から10月4日までの15日間で、パリ、リヨン、ミュンスター、カッセル、ヴェネツィア、ローマを回る計画を立てたのは、限られた日数内にできるだけ多くの展覧会場を訪れたかったからです。

当時私が所持していたデジタルカメラはQV-10Aでした。カシオから96年3月に発売されたヒット商品で、同年4月から水戸芸術館で開催された「水戸アニュアル'96 プライベートルーム」の取材用に購入したので、ほぼ発売直後に入手したことになります。日常的にはかなり活躍しましたが、内蔵メモリに96枚までしか記録できず、長期出張で大量に撮影する予定なら随時パソコンかFDに転送する必要がありました(しかも相当時間がかかりました)。画像のサイズはわずか320×240ピクセル。レンズも固定焦点で、引きのない会場で大きな作品を撮影するのには向いていませんでした。

限られた滞在時間と、撮影のためにノートブックか専用の読み取り装置を携帯しなければならないという煩わしさを考え合わせて、このときの旅行で「見ることに専念する」と決め、撮影そのものを自分に禁じたことは今でも悔やまれます。写真の必要があれば、プロが撮影したものを利用するべきだ、という妙な職業意識を持ってしまっていたとも言えます。この旅行で唯一撮影したのは―つまりそれでもQV-10A本体は携帯していました―リヨン・ビエンナーレの会場で見たクリス・バーデンの《空飛ぶスチーム・ローラー》でした。軍用の巨大なローラー車がメリーゴーランド風に旋回する様子は、写真に撮らなかったとしても今日まで脳裏に焼きついていたかも知れません。そして、むしろ印象の薄かった作品ほど、撮影しておくことの重要性をのちに痛感することになります。

QV-10Aの次に購入したのがビクターのGC-S1でした。しかし、サイズや解像度の点で、現在、使用に耐えられる画像となると2002年9月に入手したニコンのCOOLPIX 3100で撮影したもの以降になってしまいます。

 
20030917blog.jpgヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展の国別参加部門で金獅子賞を受賞したルクセンブルク館のツェ・スー・メイの映像作品 2003年9月17日16時18分(外は晴れ)

※ちょうど今、「ツェ・スー・メイ」展が水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されています(5月10日まで)。


1993年のヴェネツィア旅行の続きです。

ヴェネツィアへの旅は、海外調査としては3度目で、91年6月のニューヨーク、フィラデルフィア、92年3-4月のヨーロッパ周遊に次ぐものでした。卒論のテーマがマルセル・デュシャンだったので、ニューヨーク近代美術館とフィラデルフィア美術館のデュシャン作品を実見し、修士に進学した年に1カ月近くかけて、ロンドン、ブリュッセル、アムステルダム、パリ、ベルリン、ケルン、ミュンヘン、ウィーン、ミラノ、マドリードの主要美術館と現代美術を扱っている画廊を中心に見て回りました(第2回目に紹介した概論の講義は、このときの旅をもとにしています)。

とにかく見に行くことを主目的としていた最初の旅行では、写真にお金かけるという意識がまるでなく、「写ルンです」を持って行きました。2度目と3度目の旅行には、さすがにズームレンズを付けたペンタックスの一眼レフを持って行きましたが、まだネガフィルムに日付入りで撮っています。ポジフィルムを持って行くようになったのは95年の第46回展です。ヴェネツィア・ビエンナーレ100周年の記念すべき回、ということで、再び出掛けたのでした。このとき、中古で買ったオリンパスのOM-IIに、やはり中古の40mm/f2レンズ(ズームレンズより明るい)を付けて、デイライト用とタングステン用の2種類のポジフィルムを準備し、合計1,757枚の作品写真を撮影しました。

93年のヴェネツィア旅行で使用したフィルムが10本。それに対して95年に使用したフィルムは51本に増えました。

なぜ、そんなにたくさんの作品写真を撮ったのか。前回の記事を書いたあと、ずっと忘れていたことを思い出しました。当時、「ヴァーチャル・ミュージアム」という言葉が注目を集め始めていて、私はほとんど、その考えに熱狂していたのでした。100周年のヴェネツィア・ビエンナーレの展示を再構成できるくらいの写真を撮ろうと、展示室ごとにさまざまな角度から撮り続けていくうち、帰りの荷物が肩に食い込むほどの本数に達していました。

2009年の現在、いくつかの美術館のサイトにヴァーチャル・ギャラリーのメニューがありますが、あれから15年の歳月が流れたことを考えれば、この領域はほとんど進歩していない、という気がします。かつての静止画1枚を表示させるのにもイライラするほど時間がかかった時代から、今や高精細な動画をストレスなく楽しめる時代へと、インターネット上のデータ転送速度は大きく向上しました。他方、3D空間を自在に散策して美術作品をBGM付きで鑑賞したり、よその国からアクセスしている人と同じ作品をめぐってリアルタイムで意見交換したり、というニーズは開拓されず、むしろ美術作品こそヴァーチャルでない本物との対面が必要だ、という考えが広く浸透し、さらにはオーディオガイドの普及によって鑑賞体験は一層個人化したように感じます。

ある種の美術作品は永遠の存在でも、展覧会自体は、会期が終了すれば消滅してしまう時限的な存在です。また設営美術、設置美術―適訳がありませんが要するにインスタレーション―のような形態をとる現代作品の多くが、場の特性(=サイトスペシフィシティ)を作品の要素として含み込んでいるため、発表の機会が違えば、それらはすべて「異なる」作品である、という理解も成り立つ状況が出現しています。

現代美術を考察するための基礎的な作業として、展覧会を再構成できる枚数の写真撮影が必要だ、という考えは私の中で強くなる一方です。

19950618blog.jpg崔在銀の作品で外観を一新した日本館 1995年6月18日13時頃(晴れ)




前回のソウル出張の続きです。

ソウルを訪れたのは今回が初めてでした。韓国の現代美術は、何年も前から、当時住んでいたアメリカでも話題になっていて作品を見る機会も時々あったので、もう少し早く訪れたかったのですが、なかなか機会に恵まれませんでした。

今回の滞在では、セミナーをしたSOMA美術館の他に、国立現代美術館、徳寿宮美術館(国立現代美術館別館)、アートソンジェ・センター、オールタナティブ・スペース・ループ、サムジー・スペース、リウム美術館、数々のギャラリー、京畿道のナムジュン・パイク・アートセンターなどを訪問しました。

こうした施設・組織の方々の何人かと話していると、日本のアーティストだけでなく、日本のキュレーターや批評家の名前がよく挙がります。すでにご存知の方も多いと思いますが、日本や韓国、他のアジア諸国のキュレーターが共同で企画する展覧会やシンポジウムは2000年代に入って増えていて、そうした状況の中で当事者同士のネットワークが進展しているようです。

そこで気になったのは、日本で現代美術を研究している研究者の名前がほとんど挙がらないことです。たしかに現代美術研究は、歴史のある美術史研究から見ると、端緒についたばかりと言っていいですし、現在のアートシーンで研究者が果たしている役割は、研究者が批評家として活動する場合を除いて、決して大きくありません。

もちろん、国際美術史学会や国際美学会等の国際的な組織があり、そこで交流が行われているのも事実ですし、私自身、アメリカにいた頃はそうしたシンポジウムやワークショップに参加したこともありますが、キュレーターのように、アジアの同世代と、メールとスカイプで連絡を取り合いながら、共同でプロジェクトを立ち上げていくには至っていません。

とは言え、現代美術の分野で研究者が共同でできることは数多くあります。グローバルな学問動向を反映して関心事の共通性は高まっていますし、比較研究の余地は限りなくあります。また、同じ本を翻訳している場合も多いです(ある美術館の図書室でArt Since 1900 [2005] の韓国語訳を見つけました)。共同研究で検討するテーマについては事欠かないように思います。

日本の現代美術の研究者も、少しずつですが、国際シンポジウムや今回のようなセミナーで、アジアの同世代の研究者と知り合う機会が増えてきていると思います。近い将来に、同世代の研究者と共同で、現代美術のシンポジウムや公開セミナーを企画していければと思いました。

しばらく更新ができず失礼しました。昨日韓国から戻ってきました。今回は、前回触れたセミナーについて書きます。今回の滞在では、セミナーを行っただけでなく、主要な現代美術の美術館やギャラリーにも行きましたし、美術関係者ともお会いしましたが、それは稿を改めたいと思います。

3月7日、ソウルのオリンピック公園内にあるSOMA美術館で「エモーショナル・ドローイング」展に関連したセミナーを行いました。ヤン・ジョンム先生(韓国芸術綜合学校美術学部准教授)と私がそれぞれ韓国と日本のドローイングについてレクチャーをした後、キム・ヨンチョル先生の司会でディスカッションを行いました。聴衆は、美術に関心をもっている学生を中心に、おそらく100名以上が集まり、立ち見も出るほど盛況でした。

ヤン先生は韓国でドローイングに関する展覧会が近年増えていることを指摘しつつ、韓国の近現代美術史におけるドローイングの重要性についてお話しになりました。私は、絵画や彫刻の下絵や習作とされてきたドローイングが1960年代以降、どのようにして自立的な価値を持つようになったのかをアメリカやヨーロッパの事例を中心にお話しした後、第二次世界大戦後の日本におけるドローイングの展開について説明しました。

日本の「デッサン」という言葉は、東京美術学校に西洋画科が新設された頃から使われ始めたと推定されています(ただしデッサン教育自体は工部美術学校の頃から行われています)。その「デッサン」という言葉が指し示してきた領域の中に「ドローイング」という言葉が登場して普及し始めたのは1970年代です。そのような言語的な変化を促したのは、フランスからアメリカへと美術の中心が移ったという地政学的な問題に加えて、1960年代のアメリカにおけるドローイングの位置づけの変化によるところが大きいように思います。

今回のレクチャーは、聴衆のことも考えて一般的な話を中心にしましたが、今後はもう少しテーマを絞って、研究を進めていければと思いました。日本におけるデッサン教育については先行研究もあるかと思いますが、フーコー的な視点を入れて言説の編制について詳しく追っていきたいですし、アメリカの60年代の動向と、90年代以降のドローイングに対する関心の高まりはどのように関係しているかについても考えていければと思いました。

日本とアメリカ以外でレクチャーをするのは初めてでしたので、当初は少し不安も感じましたが、ヤン先生やキム先生と事前に話しているうちに、美術史的な理解を共有していることが分かってきて、不安も解消されていきました。さらに、ヤン・ミソンさんのすばらしい通訳のおかげで何の不自由を感じることもなく、無事に終えることができました。最後になりますが、この企画をして下さった国際交流基金とSOMA美術館の方々にこの場をお借りしてお礼を申し上げたく思います。

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ソウルオリンピック公園内にあるSOMA美術館の正面入口。2009年3月7日12時頃(晴れ)

年度末ということもあって、昨秋訪れたマニフェスタ7の調査報告書を作成しています。並行して、明日〆切の雑誌原稿も書いていますが、これも国際美術展の特集号への寄稿なので、要するに今、頭の中は国際美術展のことでいっぱいです。

国際美術展に関心を持つようになったきっかけは、修論のテーマにニュー・ペインティングを選んだことから、美術雑誌のヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタの記事をコピーしたり、まとめ直したり、といったこともやっていたのですが、より強い動機づけになったのは、1992年9月にワタリウム美術館で開催されたドクメンタIXのスライド・レクチャーでした。

国際美術展のスライド報告会は、現在、頻繁に開催されています。東京に限らず、山口や九州でもそうした機会はありますし、また日本以外でも同じような状況ではないかと思います。スクリーンに大写しにされた写真やヴィデオ映像とともに会場を見た感想が語られる報告会は、雑誌の記事を読むより格段に臨場感があります。

しかし、それだけではありません。そもそも2009年の現在と1992年当時では、現代美術をめぐる国内の環境が大きく違っていました。作品の先鋭さと展覧会の規模、そしてキュレーター、ヤン・フートが展覧会に込めた社会的メッセージなど、さまざまな点でスライド・レクチャーで紹介されたドクメンタIXは、私がそれまでに国内で見ていた現代美術展と大きく異なっていたのです。

当時、「八王子ゼミ」と呼んでいた大学の研究室の合宿があって、毎年1回、2泊3日や1泊2日でセミナーハウスに泊まり込み、学部生から院生までがそれぞれの研究テーマの時代順に発表を行っていました。1993年2月の合宿で、私は「国際展と現代美術」と題して発表しました。

発表を行った時点で、私は国際美術展を実際に見てはいませんでした。発表内容も、国際美術展にどのようなものがあるか、それらが現代美術を考える上でいかに重要な役割を占めているか、といった点が中心でした。

実際に見たのは、1993年のヴェネツィア・ビエンナーレ第45回国際美術展が最初です。会期終盤の10月3日から10日までの8日間の滞在で、思えば、このとき長期間にわたって水の都ヴェネツィアを散策しながら、世界各国から集まった作家たちによる現代美術展を見て回る、という滞在生活を心底楽しんだのが、いいかたちで今につながったのでしょう。

探しにくい場所で開催されている国別の展示や、会期の短い企画展を見逃すようなことがあっても気にならず、すべての作品の写真を撮ろうとして時間に追われるようなこともなかったのは、学生だったから、の一言に尽きると思います。

昨年11月にYCAMの湯田アートプロジェクトのレセプションのために来山されたMonochrome Circusの坂本公成さんと森裕子さんにご挨拶したとき、同じ93年の第45回展を見ていた、という話で盛り上がりました。遠い昔の記憶だからこそ、人と共有できたときの嬉しさはひとしおです。


雑誌やネットの記事、スライド・レクチャーを通して国際美術展を知っているけれども、あるいはまた国内で開催されている横浜トリエンナーレなどへ出掛けたことはあるけれども、ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタへ出掛けたことはまだない、という人は多いと思います。

若い人なら学生のうちに、仕事のある人なら家庭を持つ前に、夫や妻のある方なら子どもを授かる前に―いろんなタイミングがあると思いますが―いずれにしても、滞在日数に少し余裕がもてるタイミングで出掛けられることをお勧めします。


今年のヴェネツィア・ビエンナーレ第53回国際美術展は、6月7日(日)から11月22日(日)までです。

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カステッロ公園の並木道(正面奥にイタリア館、中空に元永定正《水》) 1993年10月3日16時頃(晴れ)


「weavingscapes―紡景」展のオープニングへ行ってきました。同展は、秋吉台国際芸術村で滞在制作を行った3人の美術家たちの成果発表展です(3月7日-17日)。

芸術村の滞在制作事業は、1998年の設立以来、毎年開催されています。今年度は49カ国185組の応募の中から、タイ出身のジャクラワル・ニルサムロン、アメリカ出身のアマンダ・J・ヒル、そして柳本明子さんの3人が選ばれました。

ニルサムロン―本人から聞き取った発音は「ジャッカーワン・ニータムロン」でした―は、《人と重力(Man and Gravity)》(約22分)という神話的な映像作品を完成させました。「人と重力」は、すでにタイ編が完成しており、今回の秋吉台編制作後も撮影を続け、シリーズ化する予定だそうです。会場ではタイ編と秋吉台編の2本を見比べることができます。
タイ編では、ゴミ集めを仕事としている男が、大きなゴミの山をバイクの脇に繋いで荒野を運んでいく様子が、淡々と、ロード・ムービー風に描写されます。
秋吉台編では、自分よりも巨大な鈴を引きずって歩く男が、森の中で女性の話を聞いたり、自分よりも年老いた息子と対話します。自分より年老いた息子という設定は、物質世界ではありえない設定ですが、「精神世界では可能」というのがニータムロンの考えで、カルマ(業)や輪廻転生について考えさせる内容になっています。3人の登場人物は、いずれも地元の人にお願いし、秋吉台の山焼きの光景も効果的に挿入されていました。

ヒルの作品も映像ですが、彼女は、日常生活の音に注目する作家です。山口で出会った人々に「音の日記」をつけてもらい、それらの映像と音を編集して「山口の音の風景」(約20分)を作り出しました。
梅の枝を切る音、商店街を走る自転車の音、湯田温泉の足湯の流れ出る音、そして精米所の籾殻の山が崩れてさらさらと流れ落ちる音など、山口を感じさせつつも、普段気づかない、あるいはまったく知らないような音も含まれていて、しかもそれらが関連性や対照性を織りなすように、とてもうまく編集されていました。
昨年7月にYCAMで大友良英さんとアンサンブルを行った、石井栄一さん(自作の電子楽器を操る中学生)も参加しています。

柳本さんの作品は、透明ビニールを支持体として、パステル色の毛糸や蛍光色の細いビニール・チューブで室内風景を編み上げたものでした。
葦簀(よしず)に編み出された古い日本家屋の廊下の風景は、秋芳町のあちらこちらに置かれ、町の人々の目に触れている様子がヴィデオに記録され、上映されていました。葦簀の作品も、施設の野外劇場の舞台中央にワイヤーを使って自立するように展示されていました。
ギャラリーには、もう1点、こたつのある室内を編み出した作品が宙づりにされていました。
どちらも独特の色彩感覚で、地元の人々のお宅を訪ねて取材した室内風景をもとに構成したもので、好感の持てる作品でした。

総じて、「景色を紡ぐ」という展覧会タイトルが、とてもしっくりくる滞在制作展だったと思います。

オープニングに合わせて、あいちトリエンナーレのキュレーター・拝戸雅彦さんと、山口大学教育学部准教授で、国際美術展などでも活躍している美術家・中野良寿さん、そして3人の滞在美術家を交えたトーク・イベントも行われました。
拝戸さんは、「3人の作品は秋吉台を題材にしているが、その手法は他の地域にも応用可能で、作品のテーマにも国際性、普遍性がある」、「それぞれきちんと作り込んであって、しみじみと見ることができた」と高く評価する一方で、「東京や愛知からわざわざ人が見に来るようになるには、最低10人くらいの規模が欲しい」と建設的な注文をつけました。
中野さんは、「7年前に山口に赴任して以来、芸術村の滞在プログラムに参加したほとんどの作家と交流してきた」と自己紹介の際に語っていました。また、司会進行も務められ、1人1人の経歴や今回の滞在制作の様子について、丁寧に聞き出していました。

トーク・イベントには、14歳の石井さんから72歳のおばあさんまで、取材を受けた人や、出演した人など、さまざまなかたちで滞在制作に関わった約30名の人が集まり、熱心に話を聞いていました。毎年の作家数は少なくとも、交流の実績は着実に積み重なっている、と感じました。

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トーク・イベントの様子(左から、ジャクラワル・ニルサムロン、アマンダ・J・ヒル、柳本明子、中野良寿、拝戸雅彦の各氏) 2009年3月7日15時56分(晴れ)



今週末に韓国でセミナーをすることになったので、その発表原稿を準備しています。昨年、東京と京都で開催された「エモーショナル・ドローイング」展(主催=東京国立近代美術館・京都国立近代美術館・国際交流基金)が現在巡回しているソウルのSOMA美術館で、1960年代以降のドローイングについて話す予定です(ハングルですが詳細はこちら)。

ドローイングとは、実に多義的なメディアです。ドローイングは、線を引くという美術の最も基本的な行為でありながら、絵画や彫刻の下絵や習作として補助的な役割を担わされてきました。また、フランスのアカデミーで、感覚を連想させる色彩を重視したルーベンス派に対して、プッサン派が知性と結びつく線描を重視したように、ドローイングは知性と結びつけられてきました。その一方で、今回の「エモーショナル・ドローイング」展にあるように、情動を誘発する媒体ともみなされています。現在のドローイングは、こうした多義的な特徴を受け継ぎつつ、おそらく1960年代に大きく変貌を遂げたのではないか――そうした考えのもとに、今回の講演では1960年代以降のドローイングについて話してこようと思っています。

講演で時間があれば少し触れたいと思っているのが「ドローイングとアジア」というテーマです。他ならぬ「エモーショナル・ドローイング」展は、アジアや中東の作家の作品を集めた展覧会でしたし、関連シンポジウムで、信州大学の金井直さんが西洋とアジアでの石膏デッサンの展開について発表なさったとも聞きました。

日本の絵画史では、色彩を重視した琳派を除いて、概ね線描が重視されてきました。障屏画でも絵巻物でも、ものの輪郭線は丹念に描かれています。それは、絵を描くことがものの輪郭を描くことを意味したからだと言えます。しかし、明治以降に本格的に入ってきた西洋の画法は、ものの形(プロポーション)に加えて、陰影の調子による立体感の表現を重視しており、それまでの日本の絵画と大きく異なるものでした。そうした西洋の画法が普及する中で、菱田春草や横山大観らが試みたのが、輪郭線によらずに面で描く「朦朧体」でした。それは日本画の近代化運動であり、アジア的な線描表現からの脱却を目指していたと言えるでしょう。

今日の日本におけるデッサン教育は、こうした西洋化・近代化の帰結です。現在では見直しも進んでいますが、入試の科目に石膏デッサンが入っている大学は依然として多くあります。ある美術大学の先生から聞いた話では、日本の大学院でデッサンをさせると、日本の学生が職人のように上手に立体感のあるデッサンを描くのに対して、ヨーロッパの留学生はジャン・コクトーのような輪郭線だけの線描画を描くことがあるそうです。ドローイングをめぐるこうした逆転現象はとても興味深いものです。受容史という意味では、ドローイングとデッサンという言葉の差異も考える必要があるように思います。

今回はどこまで話せるか分かりませんが、ドローイングのもつ歴史的・地政学的な多様性について、これを機会に考えていきたいと思っています。

昨日は、山口情報芸術センター(YCAM)のダンス公演を見ました。珍しいキノコ舞踊団×plaplaxによる「The Rainy Table」です。

珍しいキノコ舞踊団は、伊藤千枝さんが主宰するダンスカンパニーです。1990年の結成で、すでにかなりの活動実績があります。近年は現代美術の世界でも注目を集めており、2006年には金沢21世紀美術館でオーストラリアの美術家との共同制作を行ったほか、07年にはインドネシアで開催された「KITA!!」展に招待されています。

公演は、女性6人で構成されており、独自の世界観や統一感が感じられました。やわらかさやかわいらしさ、そして激しさや力強さを感じる舞踊でしたが、男性の踊り手が登場しないことによって、男女の対比・対照という観点が舞台からごく自然に除外され、ある種、「非日常的な世界」に没入できる、という仕掛けになっているように思いました。

「ある種」と婉曲的に表現したのは、女性の観客にとっては女子校や、幼稚園・小学校の母親同士のつき合いなど、「女性社会」は、かえって日常的で、現実味のある世界なのかも知れない、という思いがよぎるからです。
美術館や劇場などの文化施設も、女性スタッフの割合が高い職場になって久しいように思いますし、私が所属する人文学部も、女子学生の方が圧倒的に多く、研究室の男子学生は毎年1、2名です。女性ばかりの世界は、男性の私にも案外、「身近な」世界だったように思えてきます。

ポストトークで伊藤さんは、「雨と馬とテーブル」というキーワードから出発した、と話されていました。テーブルは「家族や人が集まる場所」で、これまでにもよく登場した題材だそうです。雨は「自分の意思と関係なく外からやってくるさまざまのもの」の象徴で、今回、「傘を差したりしてよけるのではなく、浴びたらどうだろう」という思いが込められている、と言います。馬は「それでも誰かに導いてもらいたい、という思いがあって」という文脈で登場したようですが、公演が完成してみると「結局、私自身かも知れない、という気がしています」とのお話に、共感できるものがありました。

女性がテーブルにつっぷしている場面が、始めと終わりに繰り返され、最後は大音量の雨音の中、テーブルに積み上げられた食べ物やお酒を、6人が猛烈な勢いで飲み、喰らい、大騒ぎする場面で照明が落とされます。

幕間に、映像として大写しにされた馬の首が、男性の声で「人参じゃ、馬力出ない」など、結構笑える独白をする場面がありましたが、この挿入によって、男性は一層実態のない「影」のような存在として意識され、とても効果的だったと思います。


同公演は、YCAMの開館5周年記念事業として、約1カ月間にわたり、山口で滞在制作された新作です。YCAM の紹介で、メディアアートユニットplaplax(近森基・久能鏡子・筧康明)と共同制作を行ったことが、特色の1つとなっています。

踊り手と馬のシルエットが共演する場面は、plaplax設立以前の代表作《KAGE》(1997年)を想起させ、見どころの1つとなっていましたが、私は、舞台後半で、大小さまざまの踊り手の映像と、舞台上の女性たちが複雑に入り混じって乱舞する場面が、最大の見どころになっていたと思います。

「舞台上では直接人間に指示すれば、すぐ直せるけれど、映像との組み合わせでつくる公演では、取り直しと編集作業があって、そこに独特の時間が生まれる」という趣旨の発言が、伊藤さんとplaplaxの双方から出ました。

「メディアと身体」をめぐるYCAM開館以来の挑戦が、また1つ新たな成果を生んだことを実感しました。

同公演は、3月19日(木)から22日(日)までの4日間、世田谷パブリックシアター/シアタートラムでも上演される予定です。

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リハーサル風景 2009年2月27日21時00分 提供:山口情報芸術センター[YCAM] photo:Ryuichi Maruo(写真:丸尾隆一)



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