トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
5. 批評の動向
畠中──ちょっと聞いてみたいのは、サウンド・スタディというものが、サウンド・アートの実践に影響したり、先行したりすることはあるのでしょうか。たとえば、あるメディア論が書かれたことによって、あるサウンド・アートの動向が生まれたというような例はありますか。ジョナサン・スターン
金子──マクルーハンのメディア論のなかでも、グローバル・ヴィレッジが誕生するという主張はいわゆる大きな物語でした。現在サウンド・スタディがそうしたメッセージを発信しているとは思えません。ケージは確かに60年代以降さかんにマクルーハンを参照しますが、それは50年代からいわばマクルーハン的な作品をつくっていたからでした。現在のサウンド・アートとサウンド・スタディの関係はその頃よりも相互的で同時進行的になっていると感じます。先にあげたラベルやリクト、それからセス・キム=コーエン 、フランシスコ・ロペス ら、自作の解説にとどまらない文章を書くアーティストがいます。日本でも大友良英さんの著作や角田俊也 さん、杉本拓 さん、吉村光弘 さんの『三太』(2006- )がありますね。
畠中──2000年以降の動きに影響を与えたものには、キム・カスコーン による2000年の論文「失敗の美学(The aesthetics of failure: 'Post-Digital' Tendencies in Contemporary Computer Music)」がありますよね。ラップトップ・ミュージック以降の「グリッチ」の美学が、同時代的な動向として理論化されました。
金子──カスコーンの論文はそれに先立つオヴァルや刀根康尚 さんらの作品の理論化という印象もあります。グリッチという手法は、自動生成に対する関心とソフトウェアの制限に対する反発という、一見相反する欲求から生まれてきました。あらためて考えると、かつてサウンドスケープ理論における『世界の調律』(平凡社、1986)や、デジタル映像においてレフ・マノヴィッチの『ニューメディアの言語』(みすず書房、2013)がそうだったような、2000年代のサウンド・アートを先導する理論の代表的著作というものはあまり思いつきません。
ただ、最近畠中さんから教えていただいた、台湾で出版された林其蔚の『超越聲音藝術:前衛主義、聲音機器、聽覺現代性』(藝術家出版社、2012)は、音を使う漢字文化圏のアーティストにすごく影響を与えているそうで、面白いですね。
畠中──見出ししか読めませんが、本文中に出てくる固有名を見る限り、現代音楽、前衛音楽、サウンド・アート、そして今の状況に至るまでを貫いた、網羅的な本に思えます。
金子──辞書的に項目が立てられているわけではなくて、教科書のようにひとつながりで書かれていますね。網羅的な著作があまりなかったから、貴重な存在に感じるのかもしれません。リクトの『サウンド・アート──音楽の向こう側、耳と目の間』(フィルムアート社、2010)が邦訳されて、日本でも多少なりとも概観が見えてくるようになりましたが。
畠中──あれは、1960年代以降のニューヨークの動向という局所的な場所からのパースペクティヴで書かれているように思います。
金子──日本におけるサウンド・アートに関する議論は、それこそ『インターコミュニケーション』や、インディペンデントなものでは大谷能生 さんの『EsPresso』、針谷周作 さんの『salon』、Headzの『ヒアホン』などに批評の蓄積がありました。佐々木敦さんの一連の著作もそのようなものだと考えています。インターネット上のコンテンツなどもそうでしょう。
畠中──今、新しい芸術論がなかなか書かれない時代なのではないでしょうか。これまでの感性ではなかなか良いとかおもしろいと思えないようなものを突きつけられることが多くなっていますが、それに対して、誰かが理論、とまでいかなくても、見解を示してもらえるといいですね。もちろん、いろいろなことがある、ということしか言えないということも真実だとは思います。芸術一般の同時代の動向として、これはおもしろい、現在的だと思っても、それをどう言い表していいかわからない。また、なかなか他の人の見解を読むこともむずかしい。ある時代の動向に対する存在論が必要で、自分も機会があればものしていこうと思いますが、なかなか頼まれないと書かないので(笑)。まあ、ことあるごとに見解を書いていきたいとは思っています。
金子──歴史研究がその代わりを果たしているのかもしれないですね。資料のアーカイブ化が一段と進み、過去に対する認識の塗替えが現在に新しい視点をもたらすというかたちで。身の回りの音響メディアは数年前まで、録音は録音、通信は通信など、それぞれの機能ごとに分かれていた。でも、テクノロジーが生まれかけの段階では、そうではなかったことが資料を通じて見えてくる。デジタル化によって、そうした未分化のテクノロジーのあり方が復活してきたとも考えられる。こういう認識が同時代の作品や映像にどう落とし込まれていくのかを見ていくのが個人的には楽しみです。19世紀まで戻らなくても、数十年前のことでも忘れられてしまうので。