トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
2. グリッドシステムの20世紀
柏木──日本の家電メーカーのある製品を取り出しても、それがパナソニックのデザインかソニーのデザインかを見分けるのは難しいですが、ディーター・ラムス
建築の設計も基本的にはシステムの上にプログラムやアプリケーションを乗せていきます。ミース・ファン・デル・ローエ のユニバーサルスペース も、基本的にはがらんとした空間を区切っていきます。
ただ、今はプログラムやアプリケーションとシステムがぐちゃぐちゃに混ざっているという感じもあります。
鈴木──4畳半とか6畳というモデュールにしても、建築はグリッドシステムの最たるものですよね。
20世紀は正方形に基づいたグリッドシステムがベースにある時代でした。正方形を見てみると1910年代 に登場したシュプレマティズム があり、20世紀末にはデジタル化が進み、ピクセルまでいったわけです。ただ、グリッドに合わせるだけのデザインでは平均的なものになってしまうので、美学的な抵抗としては、そのグリッドにどう逆らうかという点に絞られたということです。
柏木──マルセル・ブロイヤー
とミースは、ふたりともキャンティレバーの片持ちの椅子をつくっていますが、ミースの方が綺麗ですよね。ミースは基本的には新古典主義の人で、図面を重ねてみるとシンケルとまったく同じプロポーションをしています。ニューヨークのシーグラムビルのプロポーションもきれいですが、ブロイヤーのを見ると下手だなあと思ってしまいます。鈴木──それも角丸を扱う才能が関係していると思いますね。
深川──バウハウスでの基礎教育のなかに、カンディンスキー
の分析的デッサンやクレーの幾何学的デッサンなど絵画に関わる授業が組み込まれていたことは、キーポイントだと思います。単にグリッドシステムを教えるだけでなく、グリッドシステムの中に美的な感覚や感動をどう表現するかを基本ソフトウェアとして教えていたわけです。デザイナーが、グリッドという制約の中にどう美学を組み込むかに、あの時代の作品性が立ち上がっていました。鈴木──今の建築のソフトウェアだと、グリッドを意識しないでモノをつくれたりもしますよね。システムを意識しないアプリケーション化が起きています。
柏木──都市を見れば、たとえば歌舞伎町の入口にサラ金ができたり、都合よくアプリケーションができ上がっています。あたかも都市のシステムのように成り立っています。
深川──今もモダニズムのデザイン文法は生きていますし、デジタルなデザインと接合する形で入り込んでいるわけですが、デザインする方が、グリッドシステムを意識しなくなっているのは確かです。そこに一種の混乱状態がある気がします。システムは関係なく、アプリケーションを使ってフリーハンドのデザインが可能なので、何でもありの状況です。
鈴木──ヤン・チヒョルト
がシンメトリーのタイポグラフィ からアンシンメトリーに転換した瞬間に組版の革命が起きました。今の若いデザイナーにグリッドを教える時、根本的な必要性をどう教えるかは難しいです。写植の時代にはまだ一文字という単位があったと思います。柏木──活字、約物、インテル入れて、クワタ入れて、ひもで縛って、どこか抜けてると抜け落ちてしまいますからね。
鈴木──東アジアの漢字文化圏では少なくとも文字がグリッドを保証していました。ですが、InDesign
で文字を組むようになり、文字の詰めも写植のように字間を1/4mm詰めるという荒っぽいレベルではなく、千分の一文字分や1%刻みで調整できるようになっています。森の葉っぱが揺らめくように文字を詰められるようになっています。グリッドの概念がないのです。深川──それを決めるビジョンというか、規準はどう教えるのでしょうか。マルセル・ブロイヤーがカンディンスキーのデッサンの授業で抽象ということを学んだのと同じように、字詰めにどのようなルールをつくることができるのでしょうか。
鈴木──純文学の活字組版的な一文字全角のグリッドの美学では、横から見て、隣の行同士の文字がならんでいないといけないとうるさく言う人もいます。それでは和洋混植なんてとてもできません。アルファベットや洋数字が入れば、ゆらぎはあります。点丸をぶら下げにするかしないかでもページの振る舞いが変わってきます。
僕は少なくとも横組に関してはプロポーショナル で組んでもいいと思っています。もともと日本語の形は横組用にできていませんから。横組にすることでかなりの人為が入るわけですから、コンピュータの力を使ってプロポーショナルに詰めてしまった方が読みやすい、という時代になっていると思います。必ず全角ベタ送り でと真逆との両方を教えて、その間に僕の仕事があるという言い方しかできません。
それこそ角丸をどこで始めてどう収めるかのセンスとつながってきます。荒野の呼び声を聞くといいますか、「ここで曲げてくれ」ということを、物質を通して聞くしかない。紙や印刷の質によっても、どんな照明下で見るかでも違います。
版面 という概念もなかなか通じなくなっています。昔は版面の隅に針を通したら最終ページまで通るものだというルールがあったのですが、今はなぜ決めないといけないのか聞かれて、「活版ではそうだった」と言っても通じないし、InDesignではどうにでもデザインできてしまう。ある種のフレームの決定、ゲームの規則が希薄になっています。それは他のデザインの分野でも同じかもしれません。
柏木──日本語の場合は、大体1行35字以上の横組みは目でうまく追えません。文字をあまり扱っていない若い人だと、45字くらい組んでしまうこともあります。
深川──ただ、コンピュータ上ではいくらでも組めますから、その感覚が普通になってくると新しいデザインも出てくるのかもしれません。
柏木──ウィリアム・モリス
はタイポグラフィはアーキテクチャだと言っています。非常に構築的なものだと。先ほど建築はグリッドシステムだという話が出ましたが、誌面もまさにそうです。鈴木──組版もタイポグラフィも非常に建築的なものです。モリスは余白の決め方のルールなども考えています。今は自分で枠組みの決定やゲームの規則を決めるという意識が希薄になっている気がしますね。
柏木──グリッドが崩れているという話と、先ほどのガジェット化したプロダクトが有象無象に出てきている現象は似ていますね。
鈴木──デザインは、自由にやっていると感じた瞬間に退廃していくところがあり、自分で自分を不自由にしていく部分がないとだめでしょう。かつて、バイクのデザインが自由に造形できるようになって退廃しましたし、ラジカセもそうですし、今は車やスニーカーが退廃しつつある気がしています。
深川──グリッドシステムが基礎になっているデザインのシステムが根底にありますが、その忘却によって自由なことができると思いきや、逆に壊れてしまうという現象です。マーケット的には、デザインに変化を加えながら、短いスパンでどんどんモデルチェンジをして、マスに売っていくという方向性があらためて強くなっている気がします。デジタル化がそのような傾向を加速化させているのでしょう。1970年代のスニーカーには、原点的な機能美が宿っていて清々しいですね。
鈴木──ブラウンは不自由さとしてみずからに何を課していたんですかね。
柏木──やはり経営者が、ディーター・ラムスのモデュールを採用したことは大きかったと思います。ブラウンの製品はそのモデュールをやめた今、他のメーカーとの違いがわからなくなっています。日本の家電メーカーでは、個人が考えたモデュールですべてをデザインしていくなんてなかなか許されませんよね。
ある企画会社が、ディーター・ラムスがディレクションしたブラウンの製品が入る家具をデザインしていますが、そのモデュールを使わないと入らないので、部屋は必然的に統一されていきます。好きな人にとっては良いでしょうが、そうではない人にとってはきついですよね。
鈴木──ブラウンには新製品の感じがあまりありません。
深川──それが普遍性とつながっているのですね。
柏木──今の家電製品は、たとえば冷蔵庫を買ってきても、空間にまったく合わない場面が増えてきています。家具と住んでいる生活に統一感が保てなくなっています。先ほどの文字と図版、版面の話と同じで、相互の関係がメチャクチャになってきています。
鈴木──生活における版面とは何かと。モダンデザインが雑誌に取り上げられることも多いですが、せっかく大枚はたいて買った素晴らしい椅子も家に置いてみたら、まったく合わないで困っているという話もあります(笑)。