トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
3. アップルデザインの20年
深川──デザインの平準化、フラット化を考えると、特にここ20年くらいののデザイン・シーンの牽引力となってきた象徴的な存在として、アップルのデザインの流れがあると思います。
スティーブ・ジョブズ が去ってからしばらくは停滞期があり、IBMのパソコンのデザインとさして変わらない時期がありましたが、1997年に復帰し、iMacが生まれて、やはりアップルは違うなと思いました。
初代のiMacは本当にぶっ飛んだデザインでした。ブラウン管モニターの大きさなどの制約がある中で、よくぞここまでやってくれたという感動がありました。「ネットワークコンピュータ」とジョブズは当時言っていましたよね。これからはすべてネットでやりとりをするんだから、フロッピーディスクなどのストレージはいらないんだと割り切り方に驚かされました。初めて目にしたiMacは、まるでシンプルなオブジェのようで、背後から見ても魅力と存在感のある初めてのコンピュータでした。1990年代末から2000年代にかけては、アップルの新製品発表にわくわくどきどきしていた時代です。1999年にリリースされた初代のiBookは、貝殻のような形をした、ポリカーボネート製のノートパソコンでした。iMacもそうでしたが、素材的にも実験をしていましたね。そして、2001年にiPodが出ます。2007年にiPhone、究極的にスリムでフラットなノートパソコンMacBook airが2008年です。それら一連のスティーブ・ジョブズ路線の仕上げとして2010年にiPadが出てくるわけです。iPadは、ある意味でアップルデザインが行き着いた究極の地点で、一種のモノリスですね。タブレット型という言い方がされるようになりましたが、石版みたいにも見えます。石版はそもそもこれ以上デザインしようがないミニマルなものです。もちろん角丸などはこだわっていると思いますが、とうとう行き着くところに来たなという感がありました。たとえば、iPhone 4ですが、僕はこれが出た時に、なかなか替える気がしませんでした。というのは、iPhone 3GSの方が曲面的なデザインが施されていて、持った感じ、触れた感じがすばらしかったからです。そういった感覚がiPhone 4ではなくなり、iPhone 5はさらにフラット化、スリム化が進んでいますが、もう驚きはありません。確かに中身のソフトウェア、つまりOSの機能は発展していますが、iOSのデスクトップのアイコンのデザイン自身もフラット化してしまいました。
鈴木──もう一度、モダンデザインに戻った。外形デザインも、iPhone 4になって表裏がよくわからなくなりました。
柏木──有名な話ですが、スティーブ・ジョブズがアップルのデザインをどうするかという会議で、すぐ側にブラウンのコーヒーメーカーがあって、「これみたいにできないのか?」と言ったそうです。
iPodのデザインは、1950年代のディーター・ラムスがデザインしたトランジスタラジオそっくりですが、それを恥としないところがあって、僕は偉いなと思います。
今、日本の若いデザイナーや販売促進をしているような人に「このデザインは◯◯に似てますね」と言うと怒られるんです。「真似なんてしてない」と(笑)。ですが、先行事例を研究して自分なりに解決するのもデザイナーのひとつの手法だと思います。論文も先行研究によって目指すところを決めていくわけですよね。
鈴木──少し付け加えればいいんですよね。映画なんかもそうですよね。もう少し先行研究をしたほうがいいんじゃない、それはもう小津安二郎にやられているじゃないと(笑)。
4. 電子書籍と紙の本の間での揺れ動き
──たとえば、キンドル(Kindle)はグリッドシステムを使いません。書体も行間も変換可能で読み手に委ねられている部分があります。タブレットやスマートフォン、キンドルなどにおけるリテラシーと言うか、読み手と送られてくる情報とのインタラクションは今後どのようになるとお考えですか。
鈴木──現状の電子書籍のデザインは、読めればいいというところに焦点を絞っています。紙の本は、版面を決めるためのプロポーションや字間、本全体のモデュロールがありますが、そのような世界とは違っています。
書籍と電子書籍が同時出版ということが多くなり、負のスパイラルになっている気がします。電子版が読めればいいというデザインなので、紙のがわが凝った組版だとあまりに落差が大きいので、紙の本を電子版に合わせているという感じになっています。キンドルが自由と言われますが、逆に言えば制御がききません。
紙の本がつくってきたグリッドシステムやノイズのあり様を、どう電子書籍へ持っていくかが課題なのですが、業界を見ると、とりあえず読めればいいのでインフラをどうつくるかという議論が主流です。ページをめくる時のインターフェースの議論も今は減っています。
柏木──紙の本は文字だけではなく、版面や紙質、インクの乗り具合や活字の食いつき具合などの情報があり、それを愛するという面もありました。電子書籍では、そういう情報はすべて消えて、文字通り文字が放つ情報しかありません。
鈴木──一方で、クラフトや手触り感は、騙されやすい世界でもあります。たとえば、車のインテリアはすべてつくられた人工的な質感です。電子デバイスに紙の本のギミックを入れるのは疑問です。
メディアはメディア自体がメッセージを持つところがあります。凝ったものである必要はない電子書籍はちゃんと売れるそうです。つまり電子書籍の文字の背面にはスピードが貼り付いていて、紙の本に貼り付いていた固着性や歴史性がなくなり、文字の性質や存在そのものが変わっていく可能性があります。そこでまったく新しい世界ができるのかもしれません。電子書籍には、まだわれわれが発見していない使い方がたくさんあると思いますね。
深川──メディアはメッセージというマクルーハンの言葉は今も生きていますね。反射光と透過光で見るのでは、大きな違いがあると思います。
柏木──カナダ人のブルース・マウ というデザイナーは、すべてモニター上で操作して、『Life Style Bruce Mau』(Phaidon Press, 2000)という分厚い本をデザインしていました。木村恒久 さんは彼のその本をパラパラめくって、「サイバータイポグラファーだな」とおっしゃっていました(笑)。木村さんの感覚からすれば、別種のデザイナーという感覚があったのだと思います。デザイナーの感性も変わっていきます。
5. デザインの拡散
──かつてデザイナーは、田中一光さんや杉浦康平さんなど、固有名として知られた方々がいました。今はそういう意味での「有名」なデザイナーは見当たりませんが、それはデザインのフラット化とも関係があるわけですね。
深川──あると思います。いまでは、さほど有名ではない中小メーカーの製品でも、おそらくインディペンデントなデザイナーが関わっていて、そこそこ質が良いデザインとなっています。ある意味でグッドデザインが、普遍化してきています。それはユーザーにとっては喜ばしいことではありますが、逆に言えば屹立したデザインがなかなか出にくい状況になっているとも言えます。
鈴木──セブンイレブンのプライベートブランドも悪くないですからね。たとえば、フィリップ・スタルク
などは作家性で勝負していますが、深澤直人 さんや、水野学 さんなどの名前が出る人はライフスタイルとしての提案という感じがします。柏木──それはありますね。グラフィック・デザイナーの話す言葉がほとんどマーケティングの言葉だったりして、デザインとマーケティングの境界が曖昧になっている気がします。
鈴木──つまり、この20年で、デザインという言葉は空気のように拡散しました。デザイン概念が拡張して、いろいろな人が何に対してもデザインと言うようになりました。スケジュールにもデザインという言葉が使われるようになったり、マグロの漁獲量と資源保護との関係も漁業のデザインと言いますからね(笑)。
深川──1958年にグッドデザイン賞
が設立されました。近年、展示が年々大規模になり、毎年展示を見ていますが、さまざまな領域にグッドデザインは浸透したなという感じがします。設立当初は、バッドデザインに対するグッドデザインでしたが、今やある意味、ほとんどがグッドですから、グッドの意味は薄れてきています。鈴木──モダンデザインや応用美術のトップに建築があったわけですが、その状況が変わってしまったという気がします。
深川──そうですね。建築と他のデザイン領域とのヒエラルキーもフラット化してきている。高性能なコンピュータを駆使すれば、巨大な建築物でも、まるでプロダクトのように自由自在にデザインができるという時代なのかもしれません。現代を代表する建築家のひとり、ザハ・ハディド
が手がけた新国立競技場も、ある種何でもありの現れですね。ただし、建築と周辺がどのように関係するか、調和が取れているのかという環境との整合性の部分もデザインのはずです。鈴木──デザインと実施設計が別、つまりアイデアスケッチでまずコンペを通して、その後、もう一度契約を結び直し、構造設計や実施設計をやります。その分離が良いのか悪いのかわかりませんが、とにかくそれが常識になってしまった。先ほどの、ラフスケッチでなんとなく描いたものを、どう図面に落とし込むかという問題とも関係しています。回路の分断があると言えます。
深川──デザインは飽和状態にあり、かつ、フラット化していると言えますが、そこから抜け出す必要がはたしてあるのかという議論も大いにあり得ます。アノニマスなグッドデザイナーが至るところに広がって活動しているのは、21世紀に入っての新たな状況で、ある意味ではとても豊かで素晴らしいことに違いありません。ただ一方で、実際に生活の中で使うかどうかは別にして一種のプロトタイプのようにビジョンを示すデザイナーは必要だと思います。三宅一生