トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
6. 現代におけるデザインの役割
深川──最近少し気になるのは自転車です。自転車は19世紀の初めに発明されたものなので、パーツや構造はでき上がっていて、ある意味で平準化されていますが、2000年代に入り、自転車産業が活性化してきています。街並みを見ても、ここ4〜5年で自転車の数がすごく増えましたし、デザインが多彩になっています。環境や健康を意識した新しい価値観が自転車の利用を推し進めている部分もあり、それに応える形で自転車産業がデザイン的にも様々な試みに取り組んでいます。
鈴木──一方で、現在、世界自転車需要の90%が中古を求めているそうです。金持ちの10%がそういったデザインされた自転車を必要としている状況もあります。
柏木──今、貧困の問題が出ましたが、モダンデザインのスタート地点は貧困をなくすのが大きなテーマでした。誰もがある程度豊かで健康で文化的な生活を送れる社会をつくることを目指したのです。田園都市構想 やバウハウスも同様です。しかし、現在は逆に格差が広がり、19世紀よりも世界的に貧困が蔓延している現状があります。格差をなくす試みや提案もされていますが、なかなかうまくいっていません。
深川──確かにそうですね。ただ自転車は、移動の自由を高めるツールです。誰でも使えるものですし、車社会が支配的な中で自転車の有用性と魅力を再発見している人は増えていると思います。
おもしろいことに、自転車産業を見ると、日本のシマノはギアなどの自転車の基本コンポーネンツに関して、世界の自転車市場の7割以上を占めているそうです。最近の自転車は、海外のブランドであっても、こぞってシマノの部品が使われています。デファクトスタンダードまではいかなくてもある意味、標準になっています。自転車の場合、基本部品としての標準化が進んだことで、それ以外の部分でのデザインと技術の勝負が各社で繰り広げられて活況を呈している様子です。
鈴木──パソコンに入っているインテルと同じですね。部品がブランドになるというのは、まさにアッセンブルの優位を示しています。
深川──デジタル・ミュージック・プレイヤーに関して、技術的にはソニーはアップルと同じレベルのものを持っていましたが、ネットワーク社会の中で音楽をどう配信していくのかというビジョンがなかったせいで敗北しました。他方、シマノは、デジタルとは関係の薄い、ギア、歯車やベアリングの技術を突き詰めていき、精度や性能の高いモノをつくってユニット化することで、自転車産業においてある意味で世界制覇しているわけです。
産業としては、できるだけ共通部品を増やした方が有利になるわけですよね。たとえば、日産とメルセデスがエンジンを共有化する話がありますし、トヨタのハイブリッドシステムを他社が採用する状況も出てきています。走るための基本的なパーツをできるだけ整理して共通化し、あとは上屋と室内をどうデザインし、パッケージ化するかと。今はまだ各社、熾烈な競争状態にありますが、たとえば、電気自動車のシステムがユニット化され標準に近いモノが出来てくると、将来的には、今の自転車のあり方に近い状況が生まれる可能性がある気もします。
柏木──日本で自転車のユーザーは増えていますが、インフラが整っていませんよね。自転車のユーザーを想定した都市の版面はこれからです。自転車が走りやすくなれば、自転車の文化は更に広まると思います。
深川──パリでは、Velibという公共のレンタサイクルが普及しています。
鈴木──レンタルやシェアということと、デザインのフェティシズムの問題はどうなりますか。所有したいという欲求との兼ね合いは……。
深川──車はこれまで所有の対象でしたが、タイムズがカーシェアリングのシステムを取り入れました。レンタカーとは違い、パソコンで空いている時間を自分で確保して乗れるようになっています。私の知人でも、車は買わずにカーシェアリングでいいという人が増えています。
柏木──レンタサイクルは、ママチャリが多いですよね。キンドルで字が読めればいいという感覚と近いと思います。
深川──Velibのシステムは素晴らしいのですが、自転車単体としては正直言って改良の余地がたくさん残されています。重くて、軽快に街を走る感覚はありませんでした。シェアリングでよいという人も、かっこいい車に乗りたいという気持ちはあると思います。タイムズもそのあたりは考えていて、たとえば、ミニやBMWなど借りる車にバリエーションもあるんですね。公共のレンタサイクルもデザインを変えていく必要はあると思いますし、もっと良いものはできると思いますね。
柏木──大阪に、あさひという自転車屋がありますが、いまでは自転車本体も作っていますが、それを使うための様々な方法を考案しています。自転車に付ける傘のスタンドや、子どもを乗せる椅子の位置などです。前に子どもを乗せるとお母さんが自転車を漕ぐ時に股を開くことになってしまうのでその位置を変えましょうとか(笑)。非常におもしろいビジネスをやっていると思います。
深川──今までのデザインの範疇に入らなかったかもしれませんが、アイデアを売っていくのもデザインです。そこにデザイナーが関わって展開させていく可能性はありますね。基本的なアイデアが優れていれば。
東日本大震災もデザインを見直す大きなきっかけになったと思います。ひとびとのニーズに合った家具をデザイナーと協力して現地で産業として立ち上げる動きも出てきましたし、たとえば、被災者の方に役立つデザインやアイデア、ノウハウを被災者の方と共有する「OLIVE」というプロジェクト もあります。そこでは、いろいろな人の投稿がアーカイブ化されて、誰でもそのページを見られたり、投稿できるようになっています。現地の人たちを助けることが出発点ですが、今後いろいろな災害が起きた時の対処法を見つけることができます。こうした情報が常にネットで引き出され、共有化できる状態にあることで、デザインは社会化し、デザイナーも社会化していくわけです。また、3Dプリンターが発展して、普及すれば、誰でもプロダクトデザイナーになれまた、誰もがモノの作り手になれる環境が生まれてくるでしょう。こうして、デザインとデザイナーは、さらに拡散し、いい意味で空気のような存在になっていくのかもしれません。今日のデザインにまつわるこうした現象は、これまでのモノのデザインとは違います。デザインのデザインと言ってもいいかもしれません。ネットワーク化が進む中でデザイナーがどのように社会に働きかけるのか。ソーシャルデザインの側面から見ても注目すべき事象だと思います。ファブラボ もそうした流れにあります。グラフィックの領域ではpixiv のようにイラストレーションを投稿してSNS的に共有するサービスもあります。誰もがイラストレーターになれる環境が生まれてきています。
ところで、最近、道を走っている車を見ていてもデザインのあり方の変容を強く感じます。車のデザインは、20世紀的な美学から大きく変化したと思います。未来派 には、スピードの美学がありました。スピードの美学は20世紀を支配してきたところがあります。速いものは格好いい。美しいという美学です。F1のレーシングカーは、長い間、まさにスピードの美学を体現する存在だったわけですよね。ところが、今年は、レギュレーション変更の影響もあって、奇怪な形をしたノーズのデザインが現われてきて、未来派の美学に相反するデザイン状況がF1で生まれています。
鈴木──実用本位から生まれた醜さにはかっこよさが感じられますよね。その「実用本位」というのも、つくられたイメージなのかもしれませんが。
深川──土木現場などで働く車で、機能として優れていたら、グロテスクなものでも受け入れられますよね。たとえば、ベンツのウニモグとか。今日のF1の変貌を見ると、未来派の美学も永遠ではなかったということを実感します。では、今のわれわれはデザインに関してどんな美学を持っているのでしょうか。たとえば、「スマート」ということなのでしょうか。
柏木──スマートなものが売れる傾向はありますね。家電や車もネットワークにつながるようなシステムができて、スマート化しています。
鈴木──電力網も、スマートとグリッドがつながってスマートグリッドなんていいますが、われわれの美学を見つめる必要はあるかもしれませんね。
自分の動きを人工衛星のGPSでトレースさせるとか、自転車と新しい技術と関連させている人もいます。
自転車から見た視覚が世界を変えるのかもしれない。ロザリンド・クラウス が言っていますが、窓ガラスの枠が、グリッドごしに世界を見る視覚を教え、人間と世界との関係を規定してきた。自転車はオープンカーですからね。
最近の車は内部空間の完結性が強いですが、快適性の追求は、世界と遮断された主体の孤立を招くような気がします。「私」ばかりが大事になっていくといいますか。スマホも、タッチパネルというガラスごしに世界とつながっているとも思えます。今後は、不自由さや使いにくさというインターフェースを考える必要も出てくると思います。
柏木──あるメーカーがつくった、未来の車のモックアップに乗ったことがあるのですが、フロントグラスがすごく前の方にあり、とても怖かったです。運転席とフロントグラスの距離感は重要です。たとえば、シートの背もたれは身体が当たっていることが大事で、スツールのようなものだと安心できません。その車は広くすればよいという発想でデザインされていて、空間の醸し出す安心感や心地良さとは関係なくなっていました。
深川──確かに、フロントガラスが遠い車は怖いですね。空間の原理や物質と人間の関係が切り離されて、外界とのコミュニケーションができない車が多くなってきているように感じます。人間がその環境や過程とどのように接触するのか、コミュニケーションの問題です。あらためて、人間研究をデザインにどう取り入れるかを考える必要はありますね。
鈴木──車の中からだとどんな残酷なことも見られると言う話があります。交通事故で血まみれの死体があってもガラス越しだったら見られるとか、ファインダーがあるから戦場カメラマンは写真が撮れるとか。ガラス越しの目撃というのは、まさに20世紀的な事態だと思います。建築で言えば、この20年、ガラスの猛威はすごいですよね。そのあたりは距離感のコントロールの問題だと思います。
柏木──電車の窓ガラスは、ヴォルフガング・シヴェルブシュ も『鉄道旅行の歴史—19世紀における空間と時間の工業化』(法政大学出版局、1982)でも書いています。映画の始まりは写真ではなく、むしろ鉄道だと。
鈴木──スクリーンのフレームが横移動していくパンニングですね。
深川──もう少し遡れば、裕福な人が、人が入れるくらいの巨大なカメラ・オブスキュラを馬車に設えて、その中から移動しながら外の光景を楽しむことがあったそうです。
鈴木──リュミエール兄弟 の最初のパンの発見は、ヴェニスのゴンドラからの撮影だった。それまではそうした移動の視線がなかった。
柏木──山中俊治 さんがデザインした運動用の義足は、単に機能性というだけでなく、モノとして、仕上げや曲線も含め、本当によくデザインされたプロダクトです。これまで足の形状を模してつくっていたのですが、機能性から発想するとまったく違う形でいいというものです。
鈴木──100mの短距離走で、10年後には義足の方が早くなると言われていまして、それはおもしろいと思います。人間と義足の関係は人間と自転車の関係と近いですよね。人間の能力の拡張です。
人間がデザインの向こう側でどういった世界を見るかが重要になってくるわけです。キンドルやスマートフォンも、端末の窓の向こうに何を見ているかです。必ずしも紙の本の写しではない可能性があると思います。
深川──今のお話はとてもおもしろいですね。デザインは、世界と人間との関係をどうかたちづくるか、その知恵でもあります。窓ガラスが入った世界との関係とそれを取り払った時の関係はまったく違ってくると思います。そこにまた新しいデザインの可能性が広がっていきます。
7. デザインミュージアム創設の夢
──1990年代に入り、世界の主要都市にはデザインミュージアムができてきました。過去の作品を保存するアーカイブのシステムはたいていの分野にはありますが、デザインに関してはどうでしょうか。日本にも企業が独自に設立したミュージアムはありますが、国立のミュージアムはまだありません。そのあたりのご意見を伺いたいと思います。
柏木──世界で最初のデザインミュージアムは、1899年に設立された、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館だと言われています。当初はデザインする人や学生、産業のため、と利用者を想定していましたが、今は市民にデザインの重要性を啓蒙するための機関です。
デザインを読むためには知識が必要ですが、日本にデザインミュージアムがないのは、デザイン教育がされてこなかったことと連動しています。美術教育はありますが、デザインは相当遅れていると思います。美術の教科書にポスターをつくろうというようなパートがありますが、タイポグラフィやレイアウトを教えるわけではありません。
深川──デザインという言葉だけが広まり、文化的、社会的認知度が定着していないことの反映ですね。ただ、美術の教科書もデザインに触れることも多くなってきていますし、デザインミュージアムを求めているさまざまな人の後押しもあり、最近の状況は少し変わってきたと思います。21_21 DESIGN SIGHT ができたり、美術館でもデザインに関する展覧会が企画されるようになりました。
ただ、実際にデザインミュージアムの設立を考えると課題が山積しています。たとえば、日本では、80年代に写真の文化的価値が見直され、80年代末頃からミュージアムで扱う新たなアイテムとして本格的に入って来て90年代に浸透していきました。写真の場合、シンプルな紙の素材で、実際にモノとして収集されもアーカイブされやすく、展示もし易いのでミュージアム化しやすかったのですが、デザインの場合はそう簡単にいかない現状があります。たとえば、素材も複雑で、保存上、さまざまな課題があります。また、デザインをすべて集めることは、世界のすべてを収集するようなものですから大変なことです。さらに、デザインはモノとコトとが複雑に結びついた事象ですから。その意味では、まだまだ道は遥かです。その分、チャレンジのしがいはあります。
柏木──確かに、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館やスミソニアン博物館のコレクションは本当に膨大です。パリの場合は、ルーブル美術館、オルセー美術館、ポンピドゥー・センターと時代別に分けていて、美術(ファインアート)とデザインを一緒に並べています。そうするとロシア・アヴァンギャルド の作品とフランスのアバンギャルドのデザイン、両方のレファレンスができます。それもひとつの考え方だと思います。
デザインはそもそも、丸ごとすべて収集することは不可能なので、切り身で保存するしかないと思います。切り身でも膨大な量になりますから、かなりの勇気と力が必要ですし、政治力や経済力も必要です。
鈴木──切り身を選ぶ力も必要です。美術館のキュレーターとはちょっと違う発想をしないといけないと思います。デザインの向こう側の世界を伝えたいですよね。
柏木──そうですね。製品の成り立ちを見る必要があり、キュレーターも養成しなくてはいけません。
洗濯機は水道がないと使えませんので、登場した当初は水道のない家では井戸から水を汲み出して使用していました。そこで、井戸から水を組むモーターが必要になり、洗濯機は外に置かれることになります。固形石鹸は使えないので、粉末の洗剤が登場しますし、洗濯時に絡まない化学繊維のシャツが好まれるようになります。そのように、ひとつの製品が生まれることで、様々な文化複合が起こりました。形状も、最初は樽の形を模倣して丸かったのですが、室内に置くようなり四角くなっていきました。デザインの背景を紐解くと、あらゆることが少しずつ関連してつながっていることがわかります。
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館では、この20年間で展示も随分変わりました。プロダクトが陳列されるだけではなく、そのデザインの背景を、カードをめくりながら学べるようになっています。
深川──いくつかデザインの展覧会をやってきて、人間の営みとしてのデザイン文化の重要性とデザインミュージアムの必要性を痛感してきました。価値あるモノを未来に伝えて行くというミュージアムの役割の重要度は変わりませんが、美術館、博物館の伝統的な考え方をそのままデザインミュージアムに適応するのは難しい部分があるなと考えています。発想を変える必要があります。ミュージアムという事柄自体を新たにデザインすべきではないかと思っています。たとえば建築の分野では、歴史的に重要な近代建築のデータや記録の保存をしているDOCOMOMO の活動があります。建築とはサイズ的には異なりますが、DOCOMOMOの発想はペンや自転車といった他のデザインジャンルにも応用できるのではないかと思います。
柏木──国立の近現代建築資料館が湯島の岩崎邸の横にできました。図面を中心に集めていくそうですが、デザインより難しいところとしては、まだ住まわれている住宅だと、図面から生活が全部見えてしまうのです。
鈴木──過去のオブジェとして集めるのか、その時代ごとのコンテンポラリーな生活空間として集めるか、選ぶ基準も決めなくてはいけませんね。『嶋田厚著作集(全3巻)』(新宿書房、2014)の解説で、柏木さんが「デザインとは人工環境形成の歴史」という嶋田さんの文章を引き、いかに人工環境を心地よいものにしてきたかがデザインの歴史だという論を展開しています。20世紀こそデザインの歴史であり、デザインミュージアムは20世紀美術館と置き換えることもできます。また、スミソニアン博物館にはエノラ・ゲイやファットボーイが置かれていますが、負のデザインも取り上げないとミュージアムになりません。
人工環境はどこまで制御できてどこまでが制御不可能かの見極めも大事な視点になっています。20世紀、人間は自然界にない物質をつくり出せるようになりました。哲学者の加藤尚武 さんによれば、核エネルギー、遺伝子操作、臓器移植における免疫抑制剤の使用、地球温暖化による自然破壊という、自然界の自己同一性が崩れている4つの状況があります。デザインの限界を、人間の制御可能な範囲とするのか、自己同一性が崩れた後のデザインも可能だとするのか。この問題はデザインの拡散の話と含めて、考えなくてはいけないことだと思います。
深川──デザインのフラット化に抗するものとして、またデザイン教育の根幹に関わる話として、21世紀の大きな課題ですね。