artscapeレビュー

HER/HISTORY

2020年02月15日号

会期:2020/01/17~2020/01/28

岸和田市立自泉会館[大阪府]

アーティストの稲垣智子がキュレーターを務める、「歴史」をテーマとしたグループ展。「HISTORY」の前に付けられた「HER」が示唆するように、「男性」「権力」「単一性」によって語られてきた大文字の歴史/物語を、周縁性や複数性の視点からズラし、いかに語り直すことが可能かという問いが本展の基底にある。

この問いに正面から向き合い、秀逸だったのが、mamoruと長坂有希。mamoruの映像作品《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》は、太平洋戦争末期の1945年1月、空襲下の台湾にて発掘作業を行なった日本人の考古学者の残した記録資料を基軸に、「国家が(他者の)文化を奪うこと」と「戦争という暴力を先住民が別の形へと変容させること」について語る、映像音楽詩とも言える美しい作品である。興味深いのは、リズミカルに編集されたシーンの展開に応じて、異なる「語りの視点や文体」が採られ、複数の「声」「主体」によって織り上げられている点だ。「彼は」という三人称視点のナレーションで始まる映像は、台湾に残る遺跡を撮影したモノクロ写真を入れ子状に映し出し、物語世界としての対象化と隔たった距離感をまずは提示する。だが、語りが「私は」という一人称視点に切り替わるとともに、見る者は、視点の同一化によって語られる物語のなかへと迎え入れられ、「台北帝国大学所属の考古学者である私」が抱える、学問的な探求心と「研究成果が国家の植民地政策に利用される」ジレンマを聞くだろう。

一方で一人称の語り手は、事務的な発掘日誌を淡々と読み上げていく。発掘作業の進展と、度重なる空襲による作業中止の報告。先住民による合唱の挿入。彼らは、米軍機が落とした弾丸を拾い、溶かして地に注ぎ、装身具に作り替えていたこと。それは、戦争という暴力を溶かし、新たな形と力を与える一種の変身であり、度重なる侵略と抑圧を潜り抜けて受け継がれてきた、軽やかな抵抗の作法ではないかとナレーションは語る。当時の記憶を持つ人々のインタビューを挟んで、終盤では、リズミカルなラップに乗せ、国家的暴力に対する抵抗、同調圧力や自己欺瞞の包囲網、その孤絶感のなかで続く自問自答の戦いについて歌い上げられていく。資料のリサーチ、インタビュー、複数のナラティブの形式の並置により、可視化されてこなかった歴史を多面的に語り直す本作はまた、先住民の歌声や爆撃音、ラップのリズムと同期した字幕編集など、音楽的編集が際立つ。



mamoru《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》(2020)[撮影:植松琢麿]

一方、長坂有希の作品では、波打つ海面の映像を背景に、語り手は一貫して「あなた」という親密な呼びかけで語り続ける。呼びかけの相手は、エーゲ海の島から海を渡って大英博物館に運ばれた大理石のライオン像である。前足と口、そして宝石が嵌められていたであろう光輝く目を失い、傷ついたその姿は、故郷から引き離された難民や移民のディアスポラとしての生や、奴隷貿易のメタファーともとれる。「あなたの目になって、あなたが見ていたものを探しに行くことにしたの」と言い終える語り手は、他者の痛みに向き合うことは、「あなた」という親密な関係性のうちでしか成しえないのではないかと告げる。映像の背後の黒板には、地中海の簡略な地図や旅先の風景と思われるドローイング、「序章」と「終章」という単語が断片的に描かれるのみであり、その物語は、私たち自身が「目」となって痛みの共有と親密な関係性を想像的に結び直しながら、投影しなければならないのかもしれない。



長坂有希《手で掴み、形作ったものは、その途中で崩れ始めた。最後に痕跡は残るのだろうか。02_ライオン》(2020) [撮影:植松琢麿]

物語的叙述、内省的主観、業務的な記録、記憶をもつ当事者の語り、抵抗のラップの歌声など多層的な声の(再)配置と、「あなた」への親密な語りかけ。対照的ながら、「負の記憶にどう向き合うか」という問いに対峙し、その向き合い方を開いていく語りの作法の開発が、静かに提示された展示だった。

2020/01/22(水)(高嶋慈)

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