2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

イサム・ノグチと長谷川三郎──変わるものと変わらざるもの

会期:2019/01/12~2019/03/24

横浜美術館[神奈川県]

本展を観るまで、正直、長谷川三郎という抽象画家を知らなかった。長谷川は戦前から日本の前衛美術のリーダー格だったというが、晩年は米国に拠点を移したこともあり、死後はあまり語られることがなかったという。しかしイサム・ノグチに多大な影響を与えた人物として、近年、改めて脚光を浴びることとなった。本展はその2人の交友に焦点を当てたユニークな企画展だ。

2人の出会いは1950年、ノグチが久しぶりに来日した際である。互いのビジョンがよく似ていることを知り、意気投合。以来、固い友情で結ばれ、京都、奈良、伊勢などへ一緒に旅をし、寺社仏閣、建築、庭園、書、絵画、茶道、禅、俳句など日本の文化遺産に触れ、芸術家としてのターニングポイントをそれぞれ築くことになった。この旅によって、ノグチは日本の伝統美や東洋思想に関する思考を深め、長谷川は抽象美術と日本の伝統美との関係に対する迷いを払拭したという。

まさに2人は道連れなのだ。同じものを見て、対話し、刺激し合い、それをそれぞれに咀嚼した末に芸術表現をした。長谷川は抽象絵画に、ノグチは抽象彫刻に。本展の第3章では2人の作品が同空間に展示されていて、見応えがあった。2人の作品を見比べると、やはり世界観がどことなく似ている。東洋と西洋、伝統とモダンの融合という言葉で語るのはもちろん簡単だ。しかしそれだけではない、この似ている感じは何だろう……。長谷川はもともと、油彩画を描いていたが、ノグチとの旅以降は、水墨画や拓本、木版へと転向する。その墨1色の世界が、抽象表現の純化をより極めたようだ。ノグチの彫刻も石や陶、金属などを素直に生かした、力強くも、親しみのある作品が多い。その純粋さというか、健やかさのようなものが2人には共通してあるように感じた。


イサム・ノグチ《書》(1957)
鋳鉄、木、縄、金属、178.8×43.5×40.6cm、イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)蔵
©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York/ARS-JASPAR
[Photo: Kevin Noble]


長谷川三郎《自然》(1953)
紙本墨、拓刷、二曲屏風一隻、各135.0×66.5cm、京都国立近代美術館蔵
(展示期間:1月12日~2月13日)

ちなみに長谷川は日本の文化遺産に触れ、もともと、日本には優れた抽象文化があると理解していたという。そのひとつ、俳句も抽象表現であると。なるほど、短い言葉で季節を表し、そのときどきの情景や心情を詠む。ギュッと凝縮された言葉だからこそ、受け手によって解釈はさまざまで、その想像を何倍にも広げられるからか。そんな俳句をはじめ、日本人は知らず知らずのうちに抽象表現に慣れ親しんできたのかもしれない。だから、私は2人の作品を素直に心地良く受け止めることができたのだ。

公式サイト:https://yokohama.art.museum/special/2018/NoguchiHasegawa/

2019/01/11(杉江あこ)

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終わりのむこうへ : 廃墟の美術史

会期:2018/12/08~2019/01/31

渋谷区立松濤美術館[東京都]

日本でにわかに廃墟ブームが起こったのは1980年代のこと。バブル景気を前にいたるところで再開発が進み、都市が大きく変貌しつつあったことと無関係ではないだろう。未来の廃墟というべき三上晴子のインスタレーション《滅ビノ新造型》や、解体中の建築を撮った宮本隆司の写真集《建築の黙示録》が注目を集めたころだ。その後も鉄道の廃線や工場の夜景、ダムや橋などの近代遺産を写した写真集が人気を集めているが、意外なことに「廃墟」をテーマにした展覧会はあまり聞いたことがなく、ひょっとしたらこれが初めてかもしれない。

展示は6章に分かれ、まず古典的な西洋の廃墟画に始まり、近代日本人画家の廃墟との出会い、シュルレアリスムの廃墟を経て現代の廃墟画まで、計73点でたどる構成。つまり古今東西の廃墟画をさほど広くない会場で紹介するわけで、やや無理がある。とくに西洋の廃墟画は、ピラネージにしろユベール・ロベールにしろポール・デルヴォーにしろ版画が大半だし、パンニーニやクロード・ロラン、フリードリヒが出てないのも寂しいところ。いっそ付け足しみたいな西洋ものを省いて日本の廃墟画に絞ったほうが明快だし、中身も充実したのではないだろうか。まあそこまで絞ると動員が減るのは間違いないけど。

ともあれ今回のいちばんの見どころは、近代日本における「廃墟の受容と展開」だった。古来日本には廃墟を愛でる心情はあったものの、絵に表わすことはあまりなかったようだ。それはおそらく日本の建築が吹けば飛ぶような木造が多く、時とともに朽ちていくため、悠久の時間を感じさせるような「堅牢な廃墟」が存在しなかったせいかもしれない。おもしろいのは、近代以前の日本にも廃墟画がまったくなかったわけではなく、舶来の版画に描かれた廃墟を模写した伝歌川豊春の浮世絵が残されていること。この絵師はおそらく西洋の廃墟を美しいと思って描いたのではなく、たまたま模写した版画が廃墟図だったというだけの話だろう。

日本に本格的に廃墟画が導入されるのは明治に入ってからのこと。工部美術学校に招かれたイタリア人画家フォンタネージが持参した廃墟の素描を、生徒たちが模写したものだ。その後、百武兼行や松岡壽らが渡欧して廃墟を描くことになるが、しかしそれも風景の一部に廃墟が入っていた程度のもので、そこからは廃墟の持つ意味や象徴性は読み取れない。1930年代からおもにシュルレアリスム系の画家たちが、戦禍の近づく不安な世情を反映させるように廃墟を採り入れるが、今度は逆に象徴性が勝りすぎて廃墟が廃墟らしくしっかり描かれていないのが残念なところ。でもこの昭和の廃墟観を拡大して戦争を軸に1本にまとめれば、おもしろい展覧会になると思う。

最終章では日本の現代都市が廃墟化した風景を元田久治や野又穫らが描いていて、ようやく廃墟画が根づいてきたことを感じさせる。欲をいえば、磯崎新をはじめ建築家の作品も見たかった。

2019/01/08(火)(村田真)

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5 R00MS Ⅱ──けはいの純度

会期:2018/12/07~2019/01/19

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

大小5つの展示室からなるギャラリーで、5人のアーティストが作品を発表している。最初の部屋は和田裕美子。肌色の女の子の人形を並べ、黒々とした髪の毛が延びて先端がレース編みのようなパターンを描いている。これがただの黒い糸だったら学芸会レベルだが、髪の毛であると知ると意味も見え方も異なってくる。素材の力は大きい。次の部屋は橋本雅也で、鹿の角を植物のように彫ったり、木を彫って石の固まりのようにしたり、ある素材をそれに似つかわしくないものに変える彫刻を出品。

3番目の七搦綾乃も少し橋本に似て、木を彫って骨のような、あるいは植物のような不穏な物体に変えてみせる。だが、橋本が工芸的な美しさに着地するのに対し、七搦は荒削りで正体不明の不気味さをたたえ、どこにも行きつかない点が大きく異なる。ここまで来るとなんとなく展覧会全体のテーマが浮かび上がってきた。それは「素材の曖昧さ」だ。と思ってチラシを見たら「けはいの純度」とある。ぜんぜんハズレ。4番目のスコット・アレンはレーザーを使う作品らしいが、アウト・オブ・オーダーだったので問題外。5番目の大西康明は一番大きな展示室を使ったインスタレーション。この展示室を特徴づける階段の踊り場から色テープを投げて、宙に張り巡らせたテグスに引っ掛けて床に広げた。いわば行為の軌跡を視覚化したもので、ほかの3作家に共通する「曖昧さ」はないけれど、大空間をにぎやかに埋めようとする努力は認めよう。

2019/01/05(土)(村田真)

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野村恵子『Otari - Pristine Peaks』

発行所:スーパーラボ

発行年:2018

野村恵子の写真家としてのキャリアにおいて、ひとつの区切りであり、新たな方向に一歩踏み出した、重要な意味を持つ写真集である。写真の舞台になっているのは、山深い長野県北安曇郡小谷村。「厳しくも豊穣な山の自然とめぐる季節の流れの中で」暮らす住人たちの姿が、新たな命を妊ったひとりの若い女性を中心に描かれる。特に注目すべきなのは、狩猟と祭礼のイメージである。農耕民とはまったく異なる原理に貫かれた、まさに日本人の暮らしの原型といえるようなあり方をしっかりと見つめ、写真に残しておこうという意欲が全編に貫かれている。

いわば、濱谷浩が『雪国』(1956)や『裏日本』(1957)で試みた、民俗学をバックグラウンドとするドキュメンタリー写真の現代版といえるのだが、野村の写真は、若い女性の身体性を強く押し出すことで、「女性原理」的な視点をより強く感じさせるものになっている。プライヴェートな関係性にこだわってきた、これまで野村の仕事と比較すると、風土性、社会性へもきちんと目配りしており、緊張感を孕みつつ、気持ちよく目に馴染んでいく写真集に仕上がっていた。

なお、野村は入江泰吉記念奈良市写真美術館で古賀絵里子との二人展「Life Live Love」(2018年10月26日~12月24日)を開催した。同展にも本書の作品の一部が展示されていた。

関連レビュー

野村恵子×古賀絵里子「Life Live Love」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/30(日)(飯沢耕太郎)

中井菜央『繡』

発行所:赤々舎

発行日:2018/12/03

中井菜央の写真はこれまで何度か目にしたことがあるが、公募展に応募されたポートフォリオや写真展に並んだ作品を見て、いつもどこか物足りなさを感じていた。よくまとまった、志の高い作品なのだが、着地点が定まっていない印象をずっと持ち続けてきたのだ。だが、今回赤々舎から上梓された写真集『繡』のページを繰ると、もやもやしたものが払拭され、中井にとっての写真のあり方が、一本のクリアーな筋道としてすっきりと見えてきたように感じた。「写真集を作る」ということが、ひとりの写真家を大きく成長させるという有力な証左ではないだろうか。

中井が「ポートレート」を撮り始めたきっかけは、祖母のアルツハイマーの症状が進行していったことだった。亡くなるまでの数年間に撮影された写真群には、「祖母自身が培ってきた自己イメージの祖母でも、私のうちに蓄積されて北イメージの祖母でも、また、新たなイメージの祖母でもなく、しかし『祖母』としかいいようのない個の存在」が写り込んでいた。中井はやがて、その「個の存在」は「意味よりも先行し、かつ強い」と確信するようになる。その認識を敷衍することで、被写体の幅は、身近な他者の「ポートレート」から、モノ、植物、小さな生きもの、都市や森の光景などにまで広がっていった。

写真集には、それらがまき散らされるように配置されている。だが、写真を見ているとそれぞれが勝手な方向を向いているのではなく、見えない糸でつなぎ合わされているように見えてくる。それもそのはずで、中井の関心は次第に「個の存在」そのものより、むしろそれらが絡み合い、重なり合うことで形成される、「人が意図せず、束の間で解ける関わり、結び目」に向けられていったからだ。その「結び目」を嗅ぎ当てる能力が、以前より格段に上がっていることに瞠目させられた。一冊にまとめるタイミングと方向性はこれでいいのだが、ここから先をもっと見てみたい写真集でもある。

2018/12/29(土)(飯沢耕太郎)

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