2018年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

小林マコト「東京鋭角地」

会期:2018/04/25~2018/05/01

銀座ニコンサロン[東京都]

面白い目のつけどころの作品だった。1953年、長野県松本市生まれで、東京在住の小林マコトが撮影し続けているのは、「鋭角地」に建つビルである。「鋭角地」という言葉が小林の造語かどうかは知らないが、じつに的を射たネーミングだと思う。日本の都市の土地事情によって、二股に分かれた道と道の間の細長い空間に建てられた横幅のない建築物は、どこにでも目にすることができる。だが、小林に言わせれば、「東京の場合は地価が高いためか、その角のギリギリまで使って建物を造るケースが他の地域より多い」のだという。展覧会場には、それらを撮影した写真、62点が並んでいた。

小林の撮影・プリントのスタイルは、実直で衒いがないもので、デジタル一眼レフカメラに21ミリのレンズを装着し、あくまでもシャープなピントで、きっちりと建物の細部まで撮影し、真四角にトリミングして展示している。壁ごとにレイアウトを変え、大小の写真を飽きずに見させる工夫も破綻がない。また、会場には全部で600カ所以上におよぶという撮影場所を、赤丸で表示した地図も掲げられていて、それを見ると「鋭角地の建物」が山手通り、環状7号線、中央線沿線などに集中しているのがわかる。つまり、それらの建物の分布が、そのまま東京という空間の特質、構造を指し示しているということだ。

今回の展示はとてもうまくいっていたと思うが、撮り方や被写体の幅が、やや狭すぎるようにも思う。より広がりのある「写真による都市論」に発展していきそうなテーマなので、もっと多様な視点、方法論で撮影していく必要があるのではないだろうか。なお展覧会にあわせてPlace Mから同名の写真集が刊行された。本展は会期終了後、大阪ニコンサロン(5月31日~6月6日)に巡回する。

2018/04/30(月)(飯沢耕太郎)

梁丞佑「人」

会期:2018/04/16~2018/06/10

写大ギャラリー[東京都]

昨年「新宿迷子」で第36回土門拳賞を受賞した梁丞佑(ヤン・スンウー)は、1996年に韓国から来日し、2000~06年に東京工芸大学芸術学部写真学科、および同大学大学院で学んだ。今回、母校の写大ギャラリーで開催された個展には、在学中に同大学の在校生、卒業生(卒業後12年以内)を対象とするフォックス・タルボット賞を受賞した「無国籍地帯」(1998~2000)と、その後撮り続けてきた「人」(2002~2017)のシリーズから、計69点が出品されていた。

新宿・歌舞伎町界隈にカメラを向けた「無国籍地帯」、横浜のドヤ街、寿町の住人たちを粘り強く撮影した「人」の両方とも、いまや古風とすら言える直球勝負の路上スナップ写真である。モノクロームへのこだわりも徹底している。だが、けっして古臭い感じがしないのは、梁の眼差しが人や街の生命力の根源に真っ直ぐに向けられ、その本質をしっかりと掴み取っているからだろう。傷、空洞、ささくれが目につく光景を写し取っていくアプローチにまったく迷いがないことが、写真から気持ちよく伝わってくる。

香港出身のERICもそうなのだが、アジア出身で、日本で活動する写真家たちのほうが、日本社会の光と闇を丸ごと鷲づかみにするような作風を身につけているのは驚くべきことだ。だが逆に日本の写真家たちのなかにも、これくらいの厚みと強度のある路上スナップの撮り手があらわれてきてほしいものだ。

2018/04/30(月)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00044180.json s 10146158

須田一政『日常の断片』

発行所:青幻舎

発行日:2018/04/13

「日常の断片」は須田一政が1983年から84年にかけて『日本カメラ』に5回にわたって不定期連載したシリーズである。それまで、35ミリフィルムによるカラー作品は発表したことがあったが、中判カメラを使って本格的にカラー写真に取り組んだのはこのシリーズが初めてだった。須田といえば、1976年に日本写真協会新人賞を受賞した代表作の「風姿花伝」のように、ぬめりを帯びたモノクローム作品を思い浮かべることが多いので、当時かなりの衝撃を受けたことを思い出す。

あらためて写真集として刊行された「日常の断片」を見ると、街中の“色”に反応する彼のアンテナが、モノクロームとはやや異なった指向性を持っているのではないかと感じる。被写体そのものはモノクロームとほとんど変わりないのだが、「日常」という得体の知れない怪物の生々しい存在感が、よりヴィヴィッドに、あたかも色つきの悪夢のように見る者に迫ってくるのだ。そこに写っているヒトやモノや出来事は、普段のタナトス的なあり方ではなく、むしろエロスを強烈に発散しているように思える。それを象徴するのが、彼が執拗にカメラを向けている赤い色の被写体ではないだろうか。

今回の写真集には、「日常の断片」だけでなく、1993~95年に制作・発表されたポラロイド作品(カラー)もおさめられている。「光の挑発」、「Elegy」、「NORMAL LIFE」、「SPOT」の4作品だが、そのうち「SPOT」だけが、ほかの作品とは「少々趣を異にしている」のだという。須田は、1980年代の半ばに「三面記事にひっそりと載せられるような事件」に興味を抱き、それらの記事をスクラップしていた。「SPOT」は、その「事件現場」に出かけて、「ポラロイドのピンホール」で撮影した写真群だ。それらを見ていると、次第に背筋が寒くなってくる。「事件現場」に残滓のように漂う禍々しい気配が、ぼんやりとした画像からじわじわと滲み出てくるように感じるのだ。

2018/04/29(日)(飯沢耕太郎)

中尾美園「紅白のハギレ」

会期:2018/04/24~2018/05/06

ギャラリー揺[京都府]

美術品や古文書の「補彩」という保存修復の仕事に携わりながら、日本画材を用いた精緻な「模写」「写生」による絵画作品を制作する中尾美園。近年は、高齢の女性たちが所蔵する嫁入り箪笥や着物、思い入れのある品々を、記憶の聴き取りとともに丹念に紙の上に写し取り、絵巻のように繰り広げている。中尾作品の魅力は、本物かと見紛う迫真的な描写力の高さに加え、大切にされてきた品々へ向ける慈しむような視線が感じ取れる点にあるが、それだけではない。個人の記憶が刻まれた品々が、さまざまなアクシデントによる傷や破損を被り、それらが人の手で補修されながら、どのように後世へ引き継がれていくのか。「想定される未来」をシミュレーションし、複数に分岐した未来像として描くことで、「保存修復」という自らの仕事に対する深い洞察ともなっている。

本展では、京都市内に住んでいたある女性が所蔵していた「国旗セット」に取材した新作が発表された。94歳で逝去した女性は、祝日に、自宅に国旗を掲げるのが習慣だったという。中尾は、玄関外壁に取り付けられた旗竿を受ける金具に始まり、「国旗セット」と印刷されたビニールの収納袋、旗竿、その先端に付ける金球、そして折りたたんで保管されていた3枚の国旗をほぼ実物大で模写した。また、その1枚を広げた状態で模写したものの隣に、その「国旗」が10枚の「ハギレ」に切り分けられ、それぞれが「未来に起こりうる事態」のバリエーションとして描かれた作品が並べられた。一部がパッチワークの材料のように四角く切り取られた状態、破れた箇所がセロハンテープで補修された状態、当て布で継ぎ接ぎの処置を施された状態、水濡れによる染み、火災による焼け跡、子供の落書き、褪色などだ。

ここで、「現在の国旗の模写」と「想定される未来として描かれたハギレ」をつなぐポイントとして、「有形のモノの保存」と「無形の習慣の継承」という2点が交錯する。まず、有形のモノがどう未来に受け渡されていくかという点では、傷を負えば補修し、布の強度が弱くなれば繕ったり別の用途に活かすなどの処置が見られ、「未来の想定」であるにもかかわらず、大量生産・大量消費の時代以前の手仕事の感性がうかがえることが興味深い。同時にここには、「祝日に個人宅で国旗を掲揚する」という習慣が受け継がれていくのか、という無形のレベルをめぐる問いも浮上する。中尾が取材した老婦人は、ナショナリズムに傾倒していたわけではなく、「祝日をお祝いするアイテム」として暮らしのなかにあった感覚だったという。ハギレとして断片化され、傷や補修を施された「紅白の布」は、「国旗」が背負わされてきた意味やイデオロギーから半ば解放され、自然作用による経年劣化や人の手による痕跡が別の物語を語り始めるように見える。暮らしのなかにあったモノが形を変えながらも受け渡されていくように、「習慣」の継承も変質を被ることが示唆される。

中尾が国旗に興味を持ち、本作を制作したきっかけは、2016年に描いた《6つの眞智子切(想定模写)》に遡るという。この作品は、「眞智子」という老婦人の桐箪笥を取材し、天皇家とゆかりの深い橿原神宮で結婚式をあげた際に譲られた日の丸と、式で使用した扇を「6つの想定される未来」として描いたものである。本作でもまた、ある女性の人生の一部にあった「国旗」を、イデオロギーの代弁装置として見るのではなく、その生に寄り添うような眼差しで見つめることで、写真やスキャンによるデジタルデータ化が持ちえない体温を備えた存在感が感じられる。


展示風景

関連レビュー

中尾美園 個展「Coming Ages」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/04/29(日)(高嶋慈)

VvK21 桑島秀樹キュレーション「家族と写真」

会期:2018/04/21~2018/04/29

KUNST ARZT[京都府]

VvK(アーティストキュレーション)の第21弾。写真家の桑島秀樹のキュレーションにより、写真を通してそれぞれの「家族」に向き合う作家4名が参加した。

桑島は、視線の謂いとしてのカメラを介して父親の写真作品に対峙する「Parallax」シリーズを出品。かつて写真館を営んでいた父親が撮った肖像写真の前にガラス板を立て、ガラス面にピントを合わせて撮影したものと、父の作品自体にピントを合わせて撮影したものとを、多重露光によって一枚の写真に仕上げている。前者の場合、ガラス面に映り込んだ桑島の構えるカメラにピントが合う一方で、ガラス越しの父の作品は亡霊のようにぼやけて浮遊する。その曖昧な像は、写真館の消灯の仕事を命じられていた子ども時代の桑島が、父の撮った肖像写真が無数に並ぶ様が恐ろしくて正視できなかったため、薄目を開けて消灯していた時に見たイメージに近いという。父親の撮ったポートレイト/「写真家」として対峙する自身の視線の代替としてのカメラ/亡霊のように浮遊する記憶のなかの像。そこでは、二重、三重の眼差しの交錯に加え、父親が撮影した1960年代という過去の時間、現在の桑島の視線、自身の子ども時代の記憶というように、複数の時間も一枚の画面上に重層的なレイヤーとして折り畳まれている。「Parallax」は「視差」を意味するが、桑島の作品は、決して重なり合わない二重像の内に父親との距離感を表出させるとともに、被写体との「適切な距離」を測りながら、眼差しを向ける者自身の(物理的、心理的)距離も同時に写り込んでしまう写真それ自体についてのメタ写真であるとも言える。


桑島秀樹《Parallax - At the Ruins in Mikage》1963/2011 Gelatin Silver Print


また、自身を含む家族が「消防隊」「選挙カーでPRする政治家」「遊園地のアクションヒーロー」などを演じる写真作品で知られる浅田政志は、まさに本展のテーマに相応しい作家だ。浅田の作品は、家族のメンバーがコスプレし、固定化した陳腐なイメージを演じることで、「家族」という枠組み自体が「社会的役割として演じられるフィクション」であることを逆説的に浮かび上がらせる。「家族のポートレイト」であると同時に「家族」の虚構性の提示でもある点に、浅田作品の本質的な意義がある。


浅田政志 展示風景


「家族(像)」の虚構性を突く浅田作品とは対照的に、山本雅紀はモノで溢れかえった狭いアパートの居室に、両親や兄弟姉妹たちが暮らす「山本家の生態」を生々しく切り取って提示する。折り重なるように川の字で寝る様子、パンツ一丁で髪を剃る父親、下着姿にくわえタバコの母親、入浴姿、新聞紙の上の誕生日ケーキを囲む様子、濃密なスキンシップ……。壁面を隙間なく覆い尽くす展示方法が、写真の持つ得体の知れないエネルギーを増幅させる。貧困や引きこもりといった社会問題も透けて見えるが、家族の表情は明るく、「撮られる」ことに抵抗感がなく無防備に身体を晒している。「プライバシー」の配慮すら感じさせない撮り方だが、露悪的な暴力性を感じさせないのは、この濃密な共同体のなかに山本自身が身を置いて皮膚感覚で共有しているからこそ可能になったものだろう。


山本雅紀 展示風景


一方、松本欣二は、10歳の時に何者かに殺害された台湾人の母親との関係を、虚実を曖昧にする写真の力によって再構築しようと試みる。作品は、1)ドキュメントとしての過去の写真や新聞記事、2)母親の足跡や記憶の「再現」、3)現在の自身の家族のスナップという3つの要素から主に構成される。1)では、子ども時代に撮られた写真、パスポート、事件を報じる新聞記事といった過去の出来事の証左が複写される。2)では、自身の記憶や事件の捜査記録を辿り、「母がよく行っていた喫茶店」「母が作ってくれた料理で好きだったもの」「最後に吸ったタバコ」といった記憶や証拠物件が「再演」され、証拠写真のように撮影されることで現実として再び立ち上がる。3)では、自身の幼い息子が被写体となるが、「花火」「入園式(卒園式)」など、1)の自身の過去の写真と似たシチュエーションが意図的に選択されることで、自身の幼年期と息子への眼差しが重ね合わせられていく。妻の顔をあえて写さないことも、この「二重写し」「混同」の操作に加担する。写真のなかで幸福に触れ合う母子はかつての自分と母親ではなかったか──そうした幸福な幻想と、一方で冷静に距離を置く眼差しが、松本の写真には複雑に同居する。


松本欣二 展示風景

最後に、本展のタイトルについて振り返ろう。「家族写真」ではなく、「『家族』と『写真』」とした点に、本展の射程が集約されている。「家族写真」と言った時、「一般的な、普通の、規範的な家族像」を無自覚に前提としていないかという問いこそ、本展の根底に見出されるべきである。

2018/04/29(日)(高嶋慈)

文字の大きさ