2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

大竹弘二『公開性の根源──秘密政治の系譜学』

発行所:太田出版

発行日:2018/04/18

本書の書籍化を心待ちにしていたのは、評者ばかりではないだろう。2012年より雑誌『atプラス』誌上で始まった同名の連載は、その数年前にカール・シュミットに関する博士論文(『正戦と内戦──カール・シュミットの国際秩序思想』以文社、2009)を上梓した著者の、次なる展開を克明にしるしづけるものだった。その濃密な連載が、大幅な加筆修正を経て500頁を超える大著として目の前に現われたことを、まずは喜びたい。

本書のテーマは、大きく言えば「法規範」とその「執行権力」との関係である。あるいはこれを、「主権」と「統治」の関係と言い換えてもよい。私たちは通常、あらかじめ存在する法規範にもとづき権力が執行される、あるいは最高規範としての主権にもとづき統治がなされる、といった仕方で両者の関係を考えがちだ。むろん、原則としてはその通りである。しかし「今日の政治は、執行が規範を踏み越える例外状態の常態化という観点から考察できるのではないか」(10頁)。これが本書を貫く基本的なスタンスである。

この「法や主権に執行権力が優越する」場面を描き出すべく、本書はまず16世紀という近代国家の生成期に遡る。そして、マキャヴェッリ、ホッブズ、ルソーといった古典はもちろんのこと、シュミット、カントロヴィッチ、アガンベンらのテクストを縦横無尽に参照しながら、先に述べたような主権と統治の関係が論じられていくのだ。そこで暴き出されるのは、近代的な政治的公開性の根源に存在する「前室」(シュミット)の権力、すなわち初期近代において「機密/アルカナ」と呼ばれた権力の姿にほかならない。しかも、そこで扱われる資料体が、いわゆる政治思想のそれにとどまらず、さまざまな文学的テクストにも及んでいることは特筆しておくべきだろう。メルヴィルの中篇小説『書記バートルビー』を、なんと語り手の弁護士の職業(衡平法裁判所の主事)に注目しながら読みなおす第10章「書記の生、文書の世界」、あるいは『城』や『訴訟』の小説家カフカの姿を、「保険会社に務めるサラリーマン」という側面から捉えかえす第11章「フランツ・カフカ、生権力の実務家」など、序論+全13章+補論からなる本書のどこを開いても、広範囲にわたる文献の博捜と読解に裏打ちされた堅実な研究の成果が、いたるところに顔をのぞかせる。

以上の紹介からも明らかであるように、本書の射程は、むろん現下の国内/国際政治の諸問題に限定されるものではない。しかし、執行権力が法規範を堂々と踏み越えるという「例外状態の常態化」がまさに目の前で展開されるいまこそ、本書は読まれるべき格好の時機を迎えているように思われる。

2018/05/28(月)(星野太)

ジャン=リュック・ナンシー『ミューズたち』

訳者:荻野厚志

発行所:月曜社

発行日:2018/04/07

哲学者ジャン=リュック・ナンシー(1940-)が「芸術」を論じた(あるいは語った)論文・講演原稿を収めたのが本書である。ナンシーの芸術論といえば、すでに邦訳もある『肖像の眼差し』(岡田温司・長友文史訳、人文書院、2004)や『イメージの奥底で』(西山達也・大道寺玲央訳、以文社、2006)といった著作が真っ先に思い浮かぶ。だが、これらの力点はあくまでも「肖像」や「イメージ」という──厳密には「芸術」とは別の圏域に属する──概念に置かれており、そこで美や芸術一般をめぐる思索が十全に展開されていたわけではなかった。対して、これら二書に先立って刊行された本書『ミューズたち』(原著1994/増補版2001)こそ、美や芸術をめぐるナンシーの哲学的主著と呼べるものである。

その要点は、表題にすでに現われている。本書において、ナンシーは西洋における芸術の象徴たる「ミューズ」が、単数ではなく複数であることに繰り返し注意を促す。「存在するのはミューズたちであって、ミューズなるものではない」(9頁)。これは、芸術をめぐる思考の歴史にとって、けっして些末な問題ではない。なぜなら、現に複数のジャンルからなる芸術は、ある時にはその複数性において、またある時にはその単数性(すなわち、それらを束ねる「芸術」なるもの)において論じられてきたからだ。他方ナンシーは、こうした複数性と単数性のいずれかに与する立場をともにしりぞけつつ、かつて自著の表題にも用いた「単数複数存在(être singulier pluriel)」としての芸術について論じる。むろん、そこでは「芸術」なるものの単数/複数性にとどまらず、ギリシア語の「テクネー」、ラテン語の「アルス」から分岐した(今日でいう)「技術」と「芸術」の関係もまた、同じく議論の俎上に載せられる。

カラヴァッジョの《聖母マリアの死》(1605-06、ルーヴル美術館蔵)にまるごと捧げられた第Ⅲ章「閾の上に」のような例外もあるが、基本的に本書はナンシーという哲学者の思弁が開陳された書物であり、読解に際してはある程度、著者の用いる概念や論法に馴染んでおく必要がある。そのため晦渋な記述に行き当たることもしばしばと思われるが、訳者の言葉を借りればそれはナンシーが「フランス語をかなり酷使して書く」(279頁)がゆえであり、そこではけっして無益な言葉遊びがなされているわけではない。比較的コンパクトながら、本文でも繰り返し言及されるヘーゲルやハイデガーの美学・芸術哲学に伍する内容を秘めた、熟読に値する一書である。

2018/05/28(月)(星野太)

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『キュレーションの方法──オブリストは語る』

訳者:中野勉

発行所:河出書房新社

発行日:2018/02/26

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト(1968-)による本書『キュレーションの方法』は、その数年前に上梓された前著『キュレーション小史』(邦訳『キュレーション──「現代アート」をつくったキュレーターたち』村上華子訳、フィルムアート社、2013)と、いわば対をなす書物である。前著が、ウォルター・ホップスやポントゥス・フルテンをはじめとする先達のキュレーターへのすぐれたインタビュー集であったのに対し、本書はオブリスト自身がこれまでの半生を振り返りつつ、自らの「キュレーションの方法」について語った、自伝的なエッセイ集とも呼べるものである。

とはいえ、本書はキュレーションの「方法」なるものについて、ひとつの体系だった理論を提供するものではない。そうではなく、本書はオブリストという──現在もっとも忙しく世界を飛び回る──ライター/インタビュアー/キュレーターがいかにして出来上がったのかを伝える、ひとつのドキュメントなのである。その冒頭では、スイスに生まれた10代のオブリストがフィッシュリ&ヴァイスやアリギエロ・ボエッティに出会い、エドゥアール・グリッサンの著作に影響を受け、そしてハラルド・ゼーマンの「綜合芸術作品への傾向」展に計41回(!)足を運んだという若き日のエピソードが、印象的な筆致によって語られる。その早熟ぶりと行動力にはただ驚かされるばかりだが、個人的なエピソードと客観的な考察を交互に含む本書の内容は、キュレーションという営為(やその周辺の事柄)に関心を寄せる読者に、さまざまな示唆を与えてくれるに違いない。

同時に本書は、ルーシー・リパードの「数字」展やセス・ジーゲローブの「ゼロックス・ブック」プロジェクト、そしてジャン=フランソワ・リオタールの「非物質的なものたち」など、1970年代から80年代にかけての先駆的な試みを、オブリストや同世代のアーティストがどのように見ていたのかを伝える資料としても興味深いものである(ちなみに評者自身、かつてリオタールがキュレーションを務めた「非物質」展について調査をしていたとき、本書で引用されているフィリップ・パレーノの証言から大きな示唆を受けた経験がある)。その意味で、本書は稀代のインタビュアーであるオブリストが自らを材料にこしらえた、一種のオーラル・ヒストリーのようなものとみなせるかもしれない。

2018/05/28(月)(星野太)

戸坂潤、林淑美編『戸坂潤セレクション』

発行所:平凡社ライブラリー

発行日:2018/01/10

戦前の日本を代表する哲学者・戸坂潤(1900-1945)の著作は、いまどれほど読まれているだろうか。治安維持法によって幾度も検挙・勾留され、敗戦のわずか6日前に獄死した戸坂は、その短い生涯にもかかわらず、科学論・技術論・空間論をはじめとする多くの著作を残した。他方、海外の受容を見てみると、従来どちらかと言えば傍流と見なされていた「風俗」や「日常性」を論じた戸坂のテクストに、むしろ注目が集まっているようである(この傾向はハリー・ハルトゥーニアン『近代による超克』[梅森直之訳、岩波書店、2007]によって決定的なものとなった)。しかしそれでも、近代日本におけるもっとも傑出した哲学者のひとりである戸坂潤の著作は、一般の読者にはほとんど読まれていないのではないか、というのが評者の偽らざる実感である(岩波文庫の『日本イデオロギー論』が長らく品切であることが、それを象徴しているように思われる)。

本書はその表題通り、戸坂潤の主要論文を束ねたアンソロジーである。もっとも古い「『性格』概念の理論的使命」(1928)から、晩年の「所謂批評の『科学性』についての考察」(1938)までの計26篇が、このたび文庫で読めるようになったことは誠に喜ばしい。論述の対象は、いわゆる歴史哲学から風俗現象をめぐる考察、さらには当時の近衛内閣や和辻倫理学への批判にいたるまで、じつにさまざまだ。これらすべてをひとりの哲学者が10年あまりのあいだに書いたという事実には、ただただ圧倒される(しかも、これらはあくまで著作のごく一部なのだ)。

内容はいずれも一級品である。当時の執拗な検閲をくぐり抜けてきた戸坂の文体はけっして近づきやすいものとは言えないが、その透徹した論理に躓かされることはほとんどない。ゆえにどこから読み進めても差し支えないが、はじめての読者には、序盤の「日常性の原理と歴史的時間」(1931)や「『文献学』的哲学の批判」(1935)を薦めたい。これらに目を通せば、しばしば現在性、実際性、時局性、などと言いかえられる戸坂の「アクチュアリティー」という言葉について、おおよそのイメージをもつことができるのではないかと思われる。

「アクチュアリティー」とは何か。それは「日々の原理」であるというのが、おそらくもっとも簡潔な答えである。戸坂が考える時間の本性とは「時代(Zeit)」であり、それはある抽象的な時間ではなく、歴史的な「刻み」を入れられた歴史的時間のことである。そして私たちはこうした歴史的時間のなかに生きている。そうである以上、時代に「刻み」を入れるのは私たちの「日常」を措いてほかにない。事実上、時代に性格を与えるのは政治だが、その根本において時代を支配しているのは、私たちが生を営んでいるこの「日常性」の原理なのだ──「日々の持つ原理、その日その日が持つ原理、毎日同じことを繰り返しながら併し毎日が別々の日である原理、平凡茶飯事でありながら絶対に不可避な毎日の生活の原理、そういうものに歴史的時間の結晶の核が、歴史の秘密・・が、宿っているのである」(傍点ママ、本書70頁)。

戸坂の著作を貫いているのは、こうした「日常」への、あるいは「アクチュアリティー」への切迫した眼差しである。政治であれ学問であれ、「アクチュアリティー」への意識を欠いた仕事に対する戸坂の追撃は容赦がない(とはいえ、そうした切迫ないし徹底性が彼の生を著しく縮める結果になったのは痛ましいかぎりだが)。本書は、そうした「アクチュアリティー」を求めつづけた哲学者の闘争を現代に甦らせるべく、適切な編集と校訂によって編まれた一書である。

2018/03/11(日)(星野太)

荒木慎也『石膏デッサンの100年──石膏像から学ぶ美術教育史』

発行所:アートダイバー

発行日:2018/02/01

本書の著者は、かつて「受験生の描く絵は芸術か」により第13回芸術評論賞佳作を受賞した美術史・美術教育学の研究者である。個人的な回想になるが、2005年8月号の『美術手帖』に掲載されたこの論文を、新鮮な驚きとともに読んだことをよく覚えている。その後も著者は、日本の美術教育における石膏デッサンの歴史的調査や、アメリカの美術大学における韓国人留学生を対象としたフィールドワークをもとに、数々の刺激的な論文を世に問うてきた。博士論文をもとにした本書『石膏デッサンの100年』は、いわばその集大成と呼べるものであろう。本書はもともと2016年12月に三重大学出版会から刊行されたが、初版300部がすでに完売していることもあり、このたび装いも新たにアートダイバーから再販される運びとなった。

以上のような経緯もあり、美術関係者のなかにはすでに本書を読んだか、その内容を仄聞した者も少なくないだろう。本書の主人公である「石膏像」と言えば、戦後から今日まで美大・芸大受験の定番課題でありつづけている「石膏デッサン」の主役であり、美術産業になんらかのかたちで関わる「当事者」たちにとっては、文字通り他人事ではないからだ。世代を問わず、日本で専門的な美術教育を受けた者は、ほぼ例外なくこの石膏デッサンを通過してきている。そんな当事者たちにとって、雑誌・カタログ・予備校関係者へのインタビューなどを通じてその功罪を丁寧に追跡した本書の内容は、さまざまな記憶と複雑な感情を惹起するにちがいない。

また当事者ならずとも、本書をいったん手に取った読者は、石膏像をめぐって展開されるそのスリリングな歴史叙述に引き込まれていくはずだ。まずは第1章「パジャント胸像とは何者なのか」に目を通してみてほしい。そこでは、いっけん何の変哲もないこの石膏像がじつは日本と韓国でしか流通していないこと、著者が本研究に着手するまで、この像は原型すら正確に知られていなかったこと、そしてこの像の名前はそもそも「パジャント」ではないこと(!)等々、驚きの事実が次々と明らかになる。

それ以降の各章では、西欧のアカデミーにおける石膏像の役割、明治期におけるその輸入、さらに工部美術学校や東京美術学校における石膏像の購入履歴などが事細かに語られる。学術書であるがゆえの専門的な記述も少なくないが、そこに登場する黒田清輝・小磯良平・野見山暁治といった画家たちを(万が一)知らなくとも、彼らが美術教師としてどのように「石膏デッサン」に向き合ったのかというその顛末を、本書はありありと伝えてくれる。また、後半で語られる東京藝術大学と美術受験予備校の「駆け引き」には驚きと苦笑を禁じえない読者も多いだろう。堅実な学術書でありながら、「非当事者」のそんな野次馬めいた読み方も可能にする、あらゆる読者層に向けられた著作である。

2018/03/11(日)(星野太)

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