artscapeレビュー
星野太のレビュー/プレビュー
マリリン・ストラザーン編『監査文化の人類学──アカウンタビリティ、倫理、学術界』
翻訳:丹羽充+谷憲一+上村淳志+坂田敦志
発行所:水声社
発行日:2023/01/10
ここ数年、マイナンバーカードやインボイス制度の導入によって、事務仕事の総量が格段に増えたと感じる読者は少なくないだろう。かく言うわたしも、自分のマイナンバーカードを何枚もコピーして業者から送られてくる台紙に貼ったり、研究費で物品を買うのにいちいち適格証明書を添付したりする作業を繰り返しながら、これだけの時間があればどれほど生産的な仕事ができただろう、とため息をつくことが少なくない。数年前に「ブルシット・ジョブ」という言葉が広く世の関心を集めた背景にも、そうした──ほとんど無駄ではないかと思われる──事務仕事への苛立ちがあったのではないだろうか(デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』酒井隆史ほか訳、岩波書店、2020)。
さて、そうした仕事を実際に軽んじてよいかどうかはともかく、以上のようなペーパーワークの増大の背後に現代社会の構造的な問題がひそんでいるのではないか、という直観を抱くことはそう難しくない。本書がタイトルに掲げる「監査文化(audit culture)」という言葉は、こうした問題を考えるさいの格好の切り口であると思われる。
マリリン・ストラザーン(1941-)といえば、おもにパプアニューギニアをフィールドとし、同時にイギリスにおける生殖医療についての著書もある社会人類学者である。そのストラザーンが編者を務める本書は、文字通り「監査文化」を対象とする、12人の人類学者たちによる大部の論集である。>
そもそも「監査」とは、その規模や種類を問わず、もともと財務管理のための用語である。だがその一方、本書の共著者たちも指摘するように、1980年頃を境に、この言葉は従前よりもはるかに広く用いられ、なおかつ複数の文脈へと広がっていった(例えば第2章「威圧的なアカウンタビリティ──高等教育内における監査文化の興隆」などを参照のこと)。とりわけ本書の関心は、この監査文化がいかにして高等教育に浸透し、従来の教育のあり方を変えていったかという点にある。その意味で、編者ストラザーンもみとめるように、本書の問題意識は、大学教員でもある著者たちの経験に支えられたものである(23頁)。
ここで、「監査」という言葉が今ひとつしっくりこない読者には、やはり本書のキーワードのひとつである「アカウンタビリティ(accountability)」について考えてもらってもよいかもしれない。しばしば「説明責任」などと訳されるこの単語は、ここ数十年、日本語のなかでも格段に存在感を増してきた。企業や団体が高い「アカウンタビリティ」を示すためには、人事や決裁を始めとするプロセスをできるかぎり透明なものにし、なおかつそれに関わる文書を適切に作成・管理することが不可欠となる。本書のねらいを評者なりに要約するなら、それはこうした「監査文化」が営利活動のみならず、高等教育や非営利活動などのさまざまなセクターに浸透していった背後にある社会的な変化を──人類学的に──記述することにある。
ストラザーンの「あとがき」が示唆するように、こうした社会的変化の核心にあるのが、監査・政策・倫理からなる「三者連携体」であろう(385-389頁)。これはおそらく直観的に共有される感覚だと思うが、基本的に「監査」を奨励するのは大小さまざまな「政策」であり、なおかつそこでしばしば持ち出されるのが「倫理」という言葉だからである。ようするにわれわれの社会は、国家的な「政策」によって高い「倫理」意識を要請されたエージェントが「監査」文化に順応し、能うかぎり高いアカウンタビリティを示すという一連のプロセスのなかにある(なお、これと直接的な関係はないが、近年のSDGsに絡めた「エシカル消費」という言葉に含まれる「倫理的 ethical」という言葉のニュアンスも想起しほしい)。
本書『監査文化の人類学』は専門家むけの学術書だが、以上のような問題意識を共有する読者にとっても、おそらく何かしら益するところがあるに違いない。たとえ専門家でなくとも、IMF(国際通貨基金)を始めとする諸機関の実地調査から、われわれは多くを学ぶことができる。少なくともそれは──実のところグレーバーの意図に反して──おのれの気に入らない仕事を「ブルシット・ジョブ」と呼んで蔑むよりも、はるかに批評的な姿勢だと言えるだろう。
2024/02/08(木)(星野太)
阿部公彦『事務に踊る人々』
発行所:講談社
発行日:2023/09/19
タイトルからは想像しづらいかもしれないが、本書はれっきとした文芸批評である。しかも「事務」という、世間的にはもっとも「文学」から遠いと思われている営みから出発して、文学に新たな光を投げかける野心的な試みである。著者・阿部公彦(1966-)のよき読者からすれば、これまで「凝視」「即興」「スローモーション」といった主題をテーマに古今東西の文学を論じてきた著者が、今度は「事務」という前代未聞のテーマに取り組んだ──そのような感慨とともに本書を紐解くだろう。
とはいえ本書には、不要に肩肘張ったところはまったくない。出だしからしてユーモラスだ。著者は「本書を通し、現代の社会で不当に軽視され、嫌がられ、時には蔑まれさえしてきた事務の営みについて、再考したい」という(2頁)。かといって、著者は事務をただ賛美するのでもない。本書をつらぬくひとつのテーゼがあるとすれば、それはわれわれが事務を疎んじつつも、どこかで事務の魅惑に取り憑かれてきた、ということである。こうした事務をめぐる愛憎は、近代以降、大なり小なり事務仕事に関わらざるをえなくなった人々にひろく共有されてきたものだろう。想像してみてほしいのだが、あなたがたとえ事務職についていなくとも、公私にわたるさまざまな事務手続きなしに社会生活を送ることなど、ほとんど不可能である。その意味で、本書の想定読者はすべての現代人であると言っても過言ではない。
夏目漱石の事務的な思考、事務仕事とも深く関わる「注意」という主題、トマス・ハーディの記録癖、チャールズ・ディケンズの事務に対する呪詛……などなど、本書の話題はきわめて多岐にわたる。文芸誌『群像』での連載ということもあってか、時には小川洋子や西村賢太といった現代作家の作品論が顔をのぞかせたりもする(とりわけ三島由紀夫とその父・梓の関係を軸とする終盤の展開はスリリングである)。「事務」という言葉の懐の広さにも助けられながら、本書はまさに書名のごとく、さまざまな話題を踊るような足取りで踏破する。
基本的に、事務仕事というのはごくありふれたものであるがゆえに、つまるところそれは何なのかと問う機会は稀である。かといって「事務仕事の本質とは……」と大上段に構えるのも、どこか滑稽な印象を免れない。ひるがえって本書は「事務(仕事)」を「文学」の問題として捉えることで、この対象に批判的に接近することを可能にした。わたしが真に批評的な営みだと思うのは、まさしくこうした類の仕事である。
2024/02/05(月)(星野太)
カール・ジンマー『「生きている」とはどういうことか──生命の境界領域に挑む科学者たち』
翻訳:斉藤隆央
発行所:白揚社
発行日:2023/07/12
生命をめぐる学問の歴史は古い。とりわけ自然科学が大きく発展したこの数世紀のあいだ、生命の起源や発生をめぐる問題は、科学者たちの大きな関心事でありつづけてきた。本書は、そんな科学者たちの苦闘を、精力的な取材と魅力的な筆致によって描き出した労作である。著者カール・ジンマー(1966-)は、進化や寄生といったトピックを得意とする高名なサイエンスライターであり、本書でもその手腕は遺憾なく発揮されている。
本書には、さまざまな方法で生命にアプローチする古今の科学者たちが登場する。そのなかには、チャールズ・ダーウィン、トマス・ハクスリー、エルンスト・ヘッケルといった誰もが知る人々に加えて、かつて生命の謎を明らかにしたという名誉に浴しながら、今では歴史の闇に埋もれてしまった科学者たちも含まれる。例えば、本書のはじめに登場する物理学者ジョン・バトラー・バークは、20世紀はじめに生命を生み出す元素を発見したと公表し、一時は英国でもっとも知られる科学者となった。その論文は『ネイチャー』にも発表され大きな話題をよんだが、バークが発見したと称する「レディオーブ」なる元素が存在しないとわかると、その後の人生は転落の一途をたどった。著者によれば、晩年にバークが著した「怪しげな大著」(17頁)である『生命の発生』(1931)には、ほとんど悲痛にも感じられる次のような定義が見られるという──「生命とは生きているものだ」(18頁、傍点省略)。
本書が類書とくらべて際立っていると思われるポイントのひとつは、生命とそうでないものを隔てる基準が、しばしばそれが要請される社会的場面に応じて決定されることを抜かりなく指摘していることだろう。本書第1部「胎動」において、脳死や中絶をめぐる論争が取り上げられることの意義はそこにある。こうしたケースは、「生命とは何か」という問いが、かならずしもその起源や発生を問うこととイコールではないことを明瞭に伝えてくれる。
加えて、本書では歴史にたずねるだけでなく、生命をめぐる同時代の研究成果を紹介することも怠っていない。本書に登場する「生命」のかたちは、ヒト、ヘビ、コウモリ、さらには粘菌、ヒドラ、クマムシにいたるまで、きわめて多岐にわたる。本書は最終的に、生命の定義可能性をめぐる哲学的な議論によって締めくくられる(とりわけ、物理学者から哲学者に転じたキャロル・クリーランドの議論は示唆に富む)。だが、そのパートが説得的に見えるとしたら、数学から宇宙生物学にいたるさまざまな分野の研究者に取材した、それまでの長い道のりがあるからだろう。全体にわたり読者を飽きさせない工夫に満ちた本書は、「生命とは何か」という広大な問いをあくまで具体的な事象に即して考えるにあたり、豊かな材料を提供してくれる。
2023/12/11(月)(星野太)
フランソワーズ・ダステュール『死──有限性についての試論』
翻訳:平野徹
発行所:人文書院
発行日:2023/10/30
哲学にとって「死」は最大のテーマのひとつである。というのも、あらゆる人間に等しく訪れるものでありながら、けっして一人称的には経験しえないただひとつのものが、自分の死であるからだ。死を経験するとき、そこにおのれの意識はすでにない。わたしたちが死について知っているすべてのことは、ほかの人間、ほかの生物を通じて得られた二次的なものでしかない。このような対象を前にして、哲学が語りうることは何だろうか。宗教的な語りとも、生物学的な語りとも異なる、いかなる語りがそこでは可能だろうか。
むろん、古来より死についてはさまざまなことが書かれてきた。そうした過去の言説もふまえながら、この問題に正面から取り組んだのが本書『死──有限性についての試論』である。著者フランソワーズ・ダステュールは1942年生まれのフランスの哲学者であり、独仏の現象学をおもな専門としている。まず強調しておきたいのだが、彼女にとって死をめぐる省察はけっして余技に属するものではない。ダステュールの著作一覧には、本書のほかに死をテーマとする専門書が数冊、および子どもを対象とする、同じテーマについての平易な入門書がある(邦訳『死ってなんだろう。死はすべての終わりなの?』伏見操訳、岩崎書店、2016)。ここからわかるのは、ハイデガー、フッサール、メルロ゠ポンティらについて数多くの書物を著してきたこの哲学者にとって、死が一貫して問われるべきテーマでありつづけてきたということだ。
あらかじめ注意をうながしておくと、本書は死をめぐる包括的な哲学史ではない。ダステュールがこのテーマに取り組むにあたってもっとも頻繁に依拠するのが、著者が一番の専門とするマルティン・ハイデガーである。より積極的に言えば、死をめぐる本書の立場は、ハイデガーの思想を展開するかたちで練り上げられたものだと言ってよい。その核心をもっとも端的な言葉で言い表わすなら、おおよそ次のようになる──すなわち、死という乗り越え不可能な出来事に臨むことでのみ、われわれの生の可能性は開かれるのだ、と。
このような考えには、実のところ、まったく意外性はないだろう。あらゆる人間が、ただひとりの例外もなく固有の生をもつのは、われわれがみな死すべき存在であるからだ。人間は、理念としての永遠性や不変性とは無縁な存在であるからこそ、逆説的におのれの生を唯一無二のものとすることができる。ハイデガーこそは、こうした「死すべき存在」としての人間に、もっとも積極的な意味を与えた哲学者にほかならなかった。
ダステュールにおいても、死はけっして否定的なものとはみなされていない。むしろ、死はわれわれが世界へと開かれることを可能にする、唯一無二の地平である。とはいえ、こうした結論だけならば、前掲の子どもむけの本を読んでもそう変わりはないことになる。むしろ本書の読みどころは、そうしたありきたりの結論ではなく、その過程で示される著者の繊細な筆運びにあると言ってよい。例えば、通常「死にむかう存在(être pour la mort)」と訳されるハイデガーのSein zum Todeは、「死にかかわる存在(être relatif à la mort)」とすべきだと著者はいう(151頁、註25)。なぜなら、人間を前者のように──死に「むかう」存在として──捉えることは、死が悪しきものであるという一面的な見かたを暗黙のうちに前提してしまうからだ。こうしたケースに見られるように、本書は、古今のさまざまなテクストを誠実に読みなおすことで、死をめぐるわれわれの思索をより深いところにいざなってくれる。
なお、昨今では死をめぐる思索が「後景に退いている」(9頁)という指摘に、評者もまた同意するものである。もちろん、死が人間にとって縁遠いものになったわけではまったくない。だがその一方、「終活」にまつわるさまざまなビジネスの存在が雄弁に物語るように、われわれの社会生活においては、個々の実存的な死もまたすでに産業的なサイクルのなかに取り込まれている。そのような現代にあって、死が「忘却のなかに落ちこんでいる」(284頁)という著者の実感は広く共有されているにちがいない。全体を通じてきわめて専門的な議論からなる本書が、現代の生のありようをめぐる身近な問題意識に支えられていることは、やはり特筆しておきたい。
2023/12/11(月)(星野太)
ジェシカ・ワイン『数学者たちの黒板』
翻訳:徳田功
発行所:草思社
発行日:2023/07/20
先日、仕事で中国・北京に滞在したおりに、クリストファー・ノーランの新作『オッペンハイマー』(2023)を観る機会があった。原爆の父ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主人公とするこの伝記映画は、2023年9月末日現在、いまだ日本公開の目処が立っていないことで知られる。あくまで憶測の域を出ないとはいえ、その理由は、日本が世界で唯一の被爆国──というより、この映画で開発される原子爆弾の投下された国──であるという事実と無関係ではないだろう。さらに、SNS上で物議を醸した「バーベンハイマー」現象の余波もあり、同作は映画としての内容以前に、公開前から──良くも悪くも──高い注目を集めている。
ここでその『オッペンハイマー』について詳しく語るつもりはないが、個人的にこの映画で印象的だった要素のひとつが、物語中つねに大きな存在感を示す「黒板」の存在だった。知られるように、理論物理学者であったオッペンハイマーが「原爆の父」と言われるのは、かれが原爆開発を目的とするマンハッタン計画で主導的な役割を担った人物だからである。そんな科学者を主人公とする映画とあらば自然なことだが、本作には前途有望な若きオッペンハイマー博士が黒板を背に講義する場面が頻繁に登場する。そして、やがて始まるマンハッタン計画のために集った科学者たちの議論もまた、いつも複雑な式をともなった黒板を背になされるのだ。科学者たちが集まるところ、つねに黒板がある──。この事実は、やはり本作品の主要な部分を占める政治的な弁論(公聴会)の場面が口頭でのやりとりに終始するのと、どこか対照的である。
そんな特異な媒体としての黒板に着目したのが、写真家ジェシカ・ワイン(1972-)による「Do Not Erase」というプロジェクトだ。本書『数学者たちの黒板』は、このプロジェクトをもとにした作家初のモノグラフであり、原著は2021年にプリンストン大学出版局から上梓されている。
本書に収められた109枚の写真は、いずれも数学者たちの黒板を写しとったものだ。教室や研究室のものと思しき黒板には、個性豊かな図や数式が描かれており、どれひとつとして同じものはない。これを書いているわたしも含め、その内容を十全に理解できる者はほとんどいないだろうから、大多数の読者はこれを、ひとつのタブローとして把握することになるだろう。
その黒板の写真には、それぞれのタブローの「作者」である数学者たちの短いエセーが添えられている。これらもまた、写真に劣らず興味深いものばかりだ。とはいえ、その内容は人によってさまざまで、自分が数学の道に足を踏み入れた経緯について語る者、おのれの研究にとっての黒板の重要性について語る者、あるいは数学の愉しみをここぞとばかりに語る者など、個性豊かな100本あまりのエセーが写真の「キャプション」として並ぶ。
なかでも、これらのエセーには共通する一定の特徴がある。まず、本書に登場する数学者たちが総じて強調するのは、コミュニケーションの手段としての黒板の重要性である。ごく当たり前のことだが、PCやノートと比べてはるかに大きな面積を有する黒板は、その場に集まった複数の人間が即座に同じ情報を共有するのに適している。また、スクリーンに投影されたスライドなどとは異なり、その場で──原理的には──誰もが気軽に加筆・修正できるという点でも優れている。本書のもとになったプロジェクトが新型コロナウイルスの流行期に重なったという事情もあってか、本書に登場する複数の数学者が、オンラインでの議論では同じ成果が得られないとこぼしているのも印象的だ。
なかには、ウィルフリッド・ガンボやシミオン・フィリプのように、黒板がもたらす「遅さ」の重要性を強調する者もいる。講義や研究発表のさいに黒板を使用するとなれば、あらかじめ準備した資料にもとづいて内容を説明するよりも、ゆっくりとしたペースにならざるをえない。しかしそのことが結果的に、はじめてその内容にふれる他者の理解を促進する結果につながる、というのだ(20、82頁)。あるいはロネン・ムカメルが指摘するように、黒板を用いた講義や研究発表は「人間の思考の速さで行われる」がゆえに、「準備不足のパワーポイント」などよりもはるかにその優劣を浮き彫りにするだろう(78頁)。
かれら数学者のなかには、黒板のもつ物質性に大きな偏愛を抱く者が少なくない。例えば、本書のはじめに登場するフィリップ・ミシェルのエセーはこんなふうに始まる──「黒板は数学の研究をする生活の基本要素だ。10年前にローザンヌの職場に着いて私が最初にしたのは、悪臭のする赤いペンの置かれた醜いホワイトボードを、本物の黒板と交換するように手配したことだった」(12頁)。このような〈黒板≠ホワイトボード〉という考えかたは、アラン・コンヌ(54頁)、エスター・リフキン(152頁)、ジョン・モーガン(192頁)らも共有するところである。
他方、アミー・ウィルキンソンのように、黒板で数学の研究をすることが「触覚的な経験」(14頁)だと言う者もいる。かと思えば、フィリップ・オーディングのように、指導教員のオフィスにあったスレート製の黒板でチョークが奏でる、不思議なほど「一様な音」について語る者もいる(30頁)。黒板は視覚的なメディアであるにとどまらず、触覚的、聴覚的なメディアでもあるのだ。
本書にはまた、2015年に廃業した日本のメーカー・羽衣文具の栄光が書き留められていることも特筆しておきたい。前出のフィリップ・ミシェルは次のように言う──「滑らかに、途切れることなく書き込むには、上質のチョークも重要だ。特に感動したのは、ある年にクリスマス休暇から戻った博士研究員が、伝説的な日本の『ハゴロモ・フルタッチ・チョーク』を2箱持ってきてくれたときだった」(12頁)。羽衣文具のフルタッチ・チョークは数学者のあいだでは知られた逸品であったらしく、同社の廃業のさいには世界中の数学者による買い占めが起こったという。バッサム・ファヤドが言う「日本製の上質のチョーク」というのも、おそらくこの羽衣チョークのことだろう(156頁)。
昨今、大学の内外における講義や研究発表のほとんどは、Microsoftのパワーポイントをはじめとするデジタルツールによって行なわれている。本書はそうした世の趨勢に対し、実のある説明や議論をするには、黒板というオールドメディアが必要であることを高らかに唱える。それは、おそらく本書の主題である数学に限った話ではなく、新たなアイデアを生み出そうとするあらゆる分野の仕事に当てはまるだろう。本書に登場する数学者たちは、真に創造的な仕事のためには、黒板のような物質的抵抗をともなったメディアが必要であることを示唆しているように思われる。
2023/10/05(木)(星野太)