2019年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

スティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論──〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平』

訳者:小田透

発行所:白水社

発行日:2018/11/10

こんにち「Critical Theory」という言葉から、人はいかなる内容を連想するだろうか。それは「批判」理論として、あるいは「批評」理論として受け止められるべきものだろうか。この場合、「critical」という形容詞を「批判的/批評的」と訳し分けてきた近代日本語の伝統が、事態の正確な把握を困難にしている。本当のところを言えば、そもそも「批判/批評」とは互いに異なる二つのものではない。なぜなら「critical」とは、既存のいかなる価値も尺度も前提とせず、その物事をあらしめている土台や根拠を疑ってかかることの謂いだからである。

オックスフォード大学出版会の名シリーズ「Very Short Introductions」の一冊として刊行された本書は、政治学者スティーヴン・エリック・ブロナー(1949-)による批判理論(Critical Theory)の入門書である。ここでいう「批判理論」とは、邦題に明示されているように、第一にはアドルノやホルクハイマーに代表されるフランクフルト学派の理論を指している。現に、狭義の「批判理論」の入門書は、しばしばフランクフルトの社会研究所に集ったドイツの思想家たちの紹介に終始する。反対に、広義における「批判理論」を相手取ろうとする場合、そこでは必然的にフランクフルト学派という限定的なサークルにとどまらず、マルクス、ニーチェ、フロイトらを淵源とするより広範な思想を扱う必要に迫られるだろう。本書はその両者を絶妙なバランスで按配しつつ、フランクフルト学派の名とともに歴史に登記された「批判理論」のポテンシャルを現代に甦らせようとする一書である。

そして以上の特徴はそのまま、本書の内容にも反映されている。本書で著者ブロナーは、フランクフルト学派やその周辺の思想家(ホルクハイマー、フロム、マルクーゼ、ベンヤミン、アドルノ、ハーバーマス……)、および「疎外」や「物象化」といった彼らの諸概念について過不足ない説明を加えるいっぽう、「文化産業」批判をはじめとする彼らの理論に対しては仮借のない批判を加える。たんなる礼賛ではないその批判的再読を通じて、著者は批判理論を──彼らがもっとも痛烈に批判した──啓蒙の問題へと(再)接続する。フランクフルト学派の功罪を明らかにするとともに、そこから現代における新たな展望を示す、見事な手続きである。

なお、本訳書は初版(2011)ではなく、昨年刊行されたばかりの第二版(2017)を底本としている。この第二版で追加された章(第3章「批判理論とモダニズム」)は、文学や芸術におけるモダニズムと批判理論の関係について、簡にして要を得た見取図を提供してくれる。「批判理論をモダニズムのまた別の表出と理解することさえできる」(51頁)という著者の見解に何か感じるところのある読者には、まずこの章の一読を勧めたい。

2018/12/11(火)(星野太)

『プロヴォーク 復刻版 全三巻』

発行所:二手舎

発行日:2018/11/11

さる6月、世田谷区の古書店・二手舎から受け取った一通のメールに目が止まった。よくある営業メールならばざっと読み流すところだが、そこにはなんと、かの写真雑誌『プロヴォーク』を復刻・販売するという驚くべき内容が含まれていたのだ。いくぶん訝しく思いつつ読み進めてみると、このたび復刻されるのは二手舎にたまたま流れ着いた『プロヴォーク』全3巻(古書)であり、同舎はこの稀覯本をただ市場に流すのでなく、なるべくオリジナルに忠実に再現することを選択したのだという。意気に感じてすぐさまプレオーダーに応じ、つい先頃手元に届いたのがこの3冊揃(+英語訳・中国語訳付)の書物である。

累々説明するまでもなく、『プロヴォーク』とは岡田隆彦、高梨豊、多木浩二、中平卓馬の4名によって1968年に創刊された同人誌である。前述の4名のほか、2、3号には森山大道や吉増剛造も作品を寄せたことで知られている。詩・評論・写真からなるその前衛的な内容もさることながら、同人であった上記メンバー、とりわけ「アレ、ブレ、ボケ」の定型句で知られる中平・森山の写真が世界的な名声を獲得したことにともない、『プロヴォーク』の存在も次第に伝説的なものとなっていった。結果、長らく稀覯本と化していた同誌が、こうして気軽に手に取れるようになったのは慶賀すべきことである。原著に見られた特殊な判型や帯をはじめ、その再現度についても申し分ない(本書の特設サイトには、2001年に国外で刊行されたファクシミリ版との異同についての言及もある)。また本体とは別に、全テクストの英語訳・中国語訳を収めた別冊が添えられているという事実は、同誌を未来の読者に開いていこうとする発行者の熱意を何よりも雄弁に物語っていよう。

本書は2018年11月、すなわち『プロヴォーク』の創刊(1968年11月)からちょうど半世紀後に復刻された。その創刊号を締めくくる多木浩二の文章(「覚え書・1──知の頽廃」)は、当時絶頂の最中にあった全共闘運動をめぐる所感に加え、来たる1970年の大阪万博への批判に多くの紙幅を割いている。その「頽廃」を伝える多木の苦々しい思いは、たとえば次のようなエピソードに端的に表われている──「『要するにお祭ですよ』というのを、私はEXPO’70に参加しているデザイナーたちから何度もきいた。それは、大したことではないのだから、そう角をたてるなという意味でもあり、そこで大へんな金が使えるから、『やりたいこと』を部分的にやればいいのだという意味でもある」(68頁)。

いかにもありそうな話だ。むろん多木が「頽廃」と呼んで批判しているのは、「要するにお祭ですよ」というこの種の「思想の欠落」にほかならない。具体的に多木は、当時の第一線の建築家(丹下健三、大谷幸夫、磯崎新)、デザイナー(杉浦康平、粟津潔、福田繁雄)、さらには映像作家(松本俊夫、勅使河原宏)にいたるまでの「一切が万博へと組織されてしまった」ことを批判している。そのことがもたらす帰結に対して、多木の筆致は次のごとく辛辣だ。「私は建築家やデザイナーはいま、ほとんど永久に復権する機会を喪ったと考える。それはかれらの内部において喪われたのであり、それだけに回復は不能である」(同前)。

奇しくも筆者は、2025年の万博の開催地が大阪に決まったことを告げるニュースを聞きながら、この小文を書いている。多木が目撃した一度目のそれが悲劇なら、私たちはそれを喜劇として目撃することになるのだろうか。いずれにせよ、多木が指弾した「頽廃」はその後ましになるどころか、当時から半世紀を経ていっそう深刻さを増している。そのことを確認できるだけでも、この『プロヴォーク』復刻版が私たちの眼前に現われた意味がある。刊行に尽力された関係諸氏の努力を讃えたい。

参考

アートワード『プロヴォーク』(土屋誠一)

2018/12/11(火)(星野太)

ジョージ・クブラー『時のかたち──事物の歴史をめぐって』

訳者:中谷礼仁、田中伸幸

翻訳協力:加藤哲弘

発行所:鹿島出版会

発行日:2018/08/20

待望の翻訳である。アメリカの美術史家ジョージ・クブラー(1912-1996)が1962年に刊行した本書は、小著ながら、20世紀に書かれた美術をめぐるもっとも重要な著作のひとつに数えられるだろう。本書の帯文における「革命的書物」(岡﨑乾二郎)という言葉はけっして誇張ではなく、刊行から半世紀を経た今日においても、本書のもつ輝きはまったく失われていない。

本書のテーマは、副題にもある「事物の歴史」である。もう少し限定するなら、「人間の手によって作られた事物の歴史」こそが本書の主題である、と言ってもよい。本書において、クブラーは「芸術」概念を「人間の手によってつくり出されたすべての事物」に広げてみることを提案する。すなわち「美しいものや詩的なものに加えて、すべての道具や文章までも」芸術に含めてみることを提案するのだ(14頁)。そのような前提から出発し、最終的にはあらゆる事物(人工物)の歴史を把握するための適切な方法を探し出すことが、本書では試みられる。

クブラーが仮想敵とするのは、芸術を「象徴的言語」(カッシーラー)とみなし、そこに含まれる意味を見いだすことに躍起になるイコノロジーや、各時代の「様式」を所与のものとみなす旧態依然とした美術史研究である。これに対し、彼が提案するのは、「意味」ではなくあくまでも「かたち」の観点から事物の歴史を精査していくというスタンスだ。ここには、『かたちの生命』(1934)の著者にして、ヨーロッパからの亡命中にイェール大学でクブラーを指導したアンリ・フォシヨン(1881-1943)の影響を見ることもできるし、彼自身が先コロンブス期のアメリカ美術を専門とする美術史家であったがゆえの洞察と見ることもできる。

シリーズとシークエンス、自己シグナルと付随シグナル、素形物と模倣物といった独自の概念によって、事物から事物への「かたち」の伝播を把握するための方法論を描き出していく本書の知見は、美術史研究にとどまらず、広く人工物を対象とする私たちの思考を今なお刺激してやまない(余談ながら、ジョン・バルデッサリやロバート・スミッソンなど、本書に影響を受けたアーティストもそれなりの数におよぶ)。しかし本書の何よりの魅力は、前述の概念群をもとに展開された思索を支える、簡潔かつ詩情に富んだ文体にある。「現在性とは、灯台からの閃光と閃光の合間にできる暗闇」である(44頁)といった記述などが、おそらくそのひとつの例になりうるだろう。適切な訳註を備えた本訳書にもまた、そのようなクブラーの筆遣いは十全に反映されている。

最後に、いささか長くなるが、ここまで述べてきた本書の問題意識の核心を伝えていると思われる一節を引用して締めくくりたい。ここでクブラーが「海」に喩えている事物の総体は、今では当時とはまた異なった姿をまとっているはずである。しかしその事実が、この警句の意義を減じることはいささかもない。問題は、私たちがそれを、どれほど真剣に受け止めることができるかという点にこそかかっている──「これまで生み出された時のかたちは、限られた数の類型から派生した無数の形態で占められた、海のようなものである。それらをつかまえるには、今使われているものとは違う編み目を持った網が必要なのである。様式概念はそのような網にはなりえない。[……]建築、彫刻、絵画や工芸についてのこれまでの歴史学では芸術的行為の些細な細部も、主要な細部も、いずれをも取り逃してしまう。単体の芸術作品を取り上げた研究論文は、積み上げられた壁の所定の位置に嵌め込むために整形された嵌め石のようだ。しかし、その壁自体は、目的も計画もなしに建造されているのである」(72-73頁)。

参考

アートワード「『時のかたち ものの歴史についての覚え書き』ジョージ・キューブラー」(沢山遼)

2018/10/08(月)(星野太)

瀧口修造研究会『橄欖』第4号

発行所:瀧口修造研究会

発行日:2018/07/01

2009年より不定期で刊行されている瀧口修造研究会の会報『橄欖』の第4号。奥付の発行部数には「限定400部」とあり、必ずしも広い読者の手に届きうる媒体とは言えないが、瀧口修造に関心を寄せる識者・研究者によって地道に発行が続けられている本誌が、瀧口や日本のシュルレアリスムに関連する資料・論考を収めたものとして貴重な媒体であることは間違いない。

本号にも──内容の濃淡こそあるものの──瀧口修造や日本のシュルレアリスムをめぐる興味ぶかいエセーが並ぶ。個人的に目を引かれたのが、詩人・小説家の堀辰雄との交流に焦点を合わせた「抒情と超現実──堀辰雄と瀧口修造の場合」(岩崎美弥子)や、瀧口およびモダニズム詩人における俳句の問題を仔細に論じた「瀧口修造と俳句という詩型──未完の可能性をめぐって」(高橋修宏)といった、瀧口と同時代の詩・文学との接点を探る論考である。また、このほど日本のシュルレアリスムを特集したフランスの研究誌『メリュジーヌ(Mélusine)』の内容紹介「シュルレアリスム研究誌『メリュジーヌ』の日本特集について」(永井敦子)や、同特集に寄せられた「瀧口修造──生涯と作品」(土渕信彦)の元原稿などは、日本のシュルレアリスム研究史から見ても重要なものであろう。

2018/10/08(月)(星野太)

高橋睦郎『つい昨日のこと』

発行所:思潮社

発行日:2018/06/25

この詩人のよき読者にとっては周知の事柄に属するが、高橋睦郎にとって「ギリシア」というトポスはこのうえなく重要なものだ。その片鱗をうかがい知るためには、さしあたり『聖という場』(小沢書店、1978)や『詩人が読む古典ギリシア』(みすず書房、2017)といった散文・評論を紐解いてみるとよい。しかし、いささか意外なことにも、その一冊がまるごとギリシアに捧げられた詩集は、じつのところ本書がはじめてである。

本書には、「つい昨日のこと」と題された151の書き下ろしの詩篇に加えて、過去に詩誌に発表された「殺したのは」「異神来たる」「家族ゲーム」の3篇が収録されている(それぞれ哲学者ソクラテス、オリュンポスの神族、そして暴君ネロが主題)。詩人本人とおぼしき人物の回想はもとより、古代ギリシアの神々や、かつてギリシア・ローマに実在したさまざまな人物の口を借りて、2500年以上もの歴史をもつ「ギリシア」のさまざまな顔が、150あまりの詩を通じてにわかに浮かび上がる。しかし急ぎ付け加えておかねばならないが、本書は必ずしも実在の「ギリシア」を舞台とした作品なのではない。強いて言えばそれは、時代も、場処も、性や人称さえも渾然一体となった、「ギリシア」なるトポスをめぐる一大叙事詩とでも言えようか。

本書は、現在80歳になるこの詩人の膨大な詩業の「総決算」(180頁)でもある。表題は、呉茂一訳『ギリシア抒情詩選』を通じて古代ギリシアと出会った13歳の頃、あるいはその後はじめて同地を訪れた31歳の頃の記憶が、「つい昨日のこと」としか思えないという実感に由来するものであるという。ただし、本書のあとがき(「私とギリシア あとがきに代えて」)で明かされているように、この書名にはまた、「ソクラテスがこの辺りを歩いていたのはつい昨日のことだ」というケネス・ドーバーの含蓄ある言葉が反響している(『わたしたちのギリシア人』久保正彰訳、青土社、1982)。果たして、本書ではまさに、古代ギリシアの神話・哲学・文学のさまざまなエピソードが、まるで「つい昨日のこと」であるかのような生々しい光景として出来しているではないか。それを可能にしているのは、東西のあらゆる文学に通じた、この詩人の類稀な「語り/騙り」の力だ。冒頭、「一九六九年初夏」から「前三九九年四月二十七日」へ、すなわち20世紀から前4世紀への2500年の距離を悠々と飛び越える、このようなスケールの詩を現代日本語で読みうるという事実には、ただただ驚嘆するほかない。

そんな圧巻の詩集からひとつ。異神イエス・キリストに取って代わられんとするオリュンポスの神々の口を借りた「異神来たる オリュンポス神族が言う」より、次の5行を引いておきたい──「や これは何だ この両の蹠(あしのうら)の踏み応えのなさは?/脛にも 腿にも 両の腕(かいな)にも まるで力が入(はい)らない/それに 鼻から 口から 吸い込む息の この稀薄さは?/目を凝らせば 周りの男神(おがみ)が 女神(めがみ)が ぼやけていく/ということは 見ているこの身も 薄れていくのだな」(164頁)。

2018/10/08(月)(星野太)

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