artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
シルエットファミリー展
会期:2024/01/18~2024/01/21
大阪府立江之子島文化芸術創造センター[enoco][大阪府]
日本で出産・子育てを行なっている性的マイノリティを「家族写真」として可視化する写真展。性的マイノリティの出産や子育てを支援している一般社団法人こどまっぷが企画し、アーティストの澄毅が撮影と作品制作を行なった。写真展は、大阪公立大学による「EJ(Equity&Justice)芸術祭」の一部として開催された。「こどまっぷ」代表理事の長村さと子自身が女性パートナーと育てている子どもをはじめ、10組の家族写真と親から子へ宛てた手紙の文章、映像作品が展示された。
澄毅は、主にポートレート写真に無数の穴や波打つ線のようなスリット(切れ込み)を開け、光を透した写真作品を手がけてきた。プリントアウトした写真に穴を開け、裏側から光を当てて再撮影する手法は、写真が物質的な媒体に依存することと同時に、「光の痕跡」を見ていることにほかならぬことを示す。それは、ロラン・バルトが『明るい部屋』で述べた写真論──「それはかつてあった」という写真の本質は、ほかの表象=再現の体系とは異なり、対象から発せられた光が感光性物質によって直接固定されることで保証される──と接続される。
同時に澄の作品は、写真と「光」をめぐるさまざまな両義性をはらむ。写真すなわち光学的装置によるイメージの複製であると同時に、「光を透す」ことで唯一性が刻印されること。被写体から放射され、発光しているかのような「光」は、「光によって像が焼き付けられた」という実在性の保証であると同時に、強い逆光を浴びたかのように顔が隠され、イメージは光の中に溶解していく。それは、「写真を見ること」が、「あたかもある星から遅れてやって来る光のように、私に触れにやって来る」
という被写体との紐帯の回復作業であると同時に、記憶の空白や欠落、忘却をも示唆する。こうした「光」の両義性を、写真論の範疇を越えて改めて意識させたのが、李琴峰の小説『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房、2020)の表紙に澄の作品が使用されたことだった。李の小説は、新宿二丁目にあるレズビアンバー「ポラリス」に集う客や店主を7つの連作短編の主人公に据え、レズビアン、バイセクシュアル、トランス女性のレズビアン、アセクシュアルなどさまざまなセクシュアリティや国籍をもつ女性たちを描く群像劇である。連作短編の巧みな構造を通して、各編の主人公たちの語りが星座のように連なり、その光がポラリス(北極星)のようにいまだ暗い闇夜を照らす指針となる──そのような読後感を抱く小説だ。そして、暗い影になった女性の頭部から、光の粒がこぼれ落ちる澄の写真はこう語りかける──これは光であり、同時に傷である。内側に抱えた傷だが、そこから光がこぼれ出し、照らすのだ、と。
一方、近年の澄は、写真に光の軌跡のような刺繍を施す作品も発表している。本展では、写真に光を透す手法は映像作品として実験的に発表され、プリントに糸で刺繍を施した写真作品10点がメインの展示となった。子どもを抱いて桜を見上げる男性カップルや、子どもと並ぶ女性カップルなど、ありふれた記念撮影的な構図だが、(数人の親を除き)顔や表情は光や星をかたどった刺繍で覆われ、見えない。だが、それぞれの親による文章が添えられ、子どもをもつことを決めた経緯や心境、パートナーと子どもへの愛情が綴られている。
刺繍が選択された最大の理由には、プライバシーの問題がある。「顔を出せない」という社会からの抑圧を、モザイクをかけるのではなく、被写体自身が不快に感じないようなやり方で、どう可視化し、表現として昇華できるか。写真の刺繍は、子どもから光が発したり、親と子を包み込むように施され、視覚的にポジティブなメッセージを放つ。同時にそこには、「いつか糸をほどくことができる未来になってほしい」という願いも込められている。
性的マイノリティのポートレートのなかでも、「子どもも含めて家族を撮影したもの」は少ない。日本は同性婚が法的に認められていない国であり、出産・子育てしている性的マイノリティの存在はほぼ不可視化されている。本展で取り上げられたのは10組だが、「性的マイノリティの家族」と一言で言っても、多様なあり方が示されている。レズビアンカップル、ゲイカップル、トランス男性とその女性パートナー、Xジェンダー(男女のいずれにも属さない、もしくは流動的な性自認)の親と子ども、片方が外国籍のカップル……。海外の精子バンクを利用して出産した女性は、子どもが「ハーフ?」とよく聞かれることを綴り、複合的な差別構造を示す。
光や星をかたどった刺繍は、一見ポジティブに見えるが、画面に近づくと、(光を透して再撮影した写真作品が「一枚の滑らかな表面」であることとは対照的に)、「糸」のもつ触覚性や物質的な抵抗感を感じる。それは社会的な抑圧の物質化でもある。従って、問われるべきは、「なぜ、
公式サイト:https://eandjart.jp/program/107
2024/01/20(土)(高嶋慈)
オル太『ニッポン・イデオロギー』
会期:2024/01/13~2024/01/14
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
終わりのない肉体労働の搾取、共同体を形成する祝祭、歴史の反復構造といった観点から、日本の近現代を象徴する舞台装置のなかで、歴史/日常の遠近感を身体的に問うパフォーマンス作品を展開してきたアーティスト集団、オル太(井上徹、斉藤隆文、長谷川義朗、メグ忍者、Jang-Chi)。『超衆芸術 スタンドプレー』(2020)では東京オリンピックの新国立競技場の陸上トラックを、『生者のくに』(2021)では炭鉱の坑道を模した舞台空間のなか、パフォーマーたちは肉体労働に従事し、現代日本の日常的な光景の点描が連なっていく。
本作は、こうしたオル太の関心を、戦前から現在、そしてAIやロボットが労働を代替するようになる近未来までを射程に収め、全6章で描く大作である。上演時間は約6時間。
前半の1、2、3章では、会社員、女子高生、夫と妻、販売員、老婆、アナウンサーといった現代日本の匿名的なキャラクターたちの日常会話の点描のなかに、昭和天皇とマッカーサーが迷い込み、歴史の遠近を欠いた平坦な空間が展開していく。街頭の選挙演説カーも風俗求人広告カーも終戦詔書も「どこからか聞こえてくる機械越しの音声」であり、あらゆるものを等価に陳列し、脱政治化していく作用こそ政治的であることを突きつける。ミッキーマウスのカチューシャを付けたマッカーサーがセグウェイに乗って徘徊し、日本の民主化に関するGHQの指令文書を読み上げるが、彼が手にしているのは漫画本だ。「大人になれない日本人」にとって「アメリカ」とは「ディズニーランド」である。そして、(実際に1975年に訪米した)「夢の国」をひとり彷徨う昭和天皇の架空のモノローグにより、「排除」に支えられた巨大な消費のテーマパーク化に日本が覆われていく。あるいは、コロナ下の「自粛太り」解消のため、コンニャクダイエットが流行し、不足するコンニャクの増産が急がれているというニュースは、戦時下の工場で「風船爆弾」の制作に従事する若い女性たちや、無茶な増産を上官に命じられる軍人にスライドしていく。
パフォーマーたちの衣装には「菊の紋」「制服(軍隊/女子高生)」「高級ブランドロゴ」といった記号が張り付いているが、シーンの交替とともに次々と複数の役を担当することで、むしろ記号の表層性が強調される。発声の抑揚や身ぶり、表情は単調に抑えられ、出番外の者たちの身体はだらしなく寝そべり、モノのようにただ転がる。「ニッポンの空虚な退屈さ」を退屈な手法でひたすら並列化していく──ここには、いかにスペクタクルを回避するかという戦略が掛けられている。
一方、4、5、6章では、ロボットの労働や外国人が増加する「未来」への投射が「過去」へと接続され、沖縄と韓国に焦点が当てられる。そこに「フクシマ」「靖国」が絡み合う。排外意識や偏見は空気のように舞台空間に浸透している。親しみを込めたつもりで老婆に「ヨボさん」と呼びかけられた韓国人女性が示す拒絶(韓国語で「ヨボセヨ」は「もしもし」を意味する)。「外国人観光客があんまり増えてほしくない」という「本音」。平和教育とは戦時中に殺処分された『かわいそうなぞう』であると答える加害の忘却。福島に来たけど、刺身は食べないようにしようと言う夫婦の会話。「女はナメられるから田舎に住みたくない」と言う妻に対して、「そんなことないよ」と否定する夫には見えていない性差別。そうした無意識の断片に散りばめられているからこそ見えにくい、「コミュニケーション」に埋め込まれた権力構造や日常のなかの微妙な政治性をオル太は丁寧に拾い集めていく。一方、「大文字の政治」は徹底して戯画化される。「原発処理水の放出」はピノキオの人形の「放尿」として表現され、戦前のアジアの地図に向けて日の丸と菊のダーツが投げられる。
過去作品でもパフォーマーたちは、競技場のレールの上でトレーニングマシンを押して周回させ続けるといった労働に従事していたが、本作でも、パフォーマーを乗せた座席や段ボール箱を人力で押して運ぶ労働が基底をなす。そこには、戦前に結婚して朝鮮半島に渡った日本人女性が、終戦後に日本国籍が剥奪されたため、「荷物」の扱いで返還されたというエピソードが重なり、モノとして扱う人権意識が示される。自動開閉する透明なドアは、満員電車のドアであり、出入国管理のゲートであり、偏在する透明な境界線となる。
アーティストが「自主規制」してしまう、いや私たちが普段「政治的な話題だから」と口に出すのをはばかるトピックを、オル太は躊躇うことなく、これでもかと舞台にのせていく。「内面化された検閲」もまた、ニッポンを構成する見えにくいイデオロギーだからだ。
6時間という長さの必要性が伝わってくる舞台。同時に上演時間の長さは、身体のモードが「本気でやっているわけではないメタ演技」に常に拘束・回収されてしまうというジレンマやアポリアを感じさせた。過去作品と同様、本作にもオル太メンバーに加え、俳優やダンサーが出演する。ただ、右翼やレイシストの発言は「本気で言っているわけではない」という体栽が必要であり、無邪気に踊られるダンスは、(例えば「建国体操」のように)「素人の身体」が国家によって集団的に規律化されていく事態を示す必要がある。あるいは、「覇気のないシュプレヒコール」は、主体的な意志を欠いた集団感染的な不気味さとして示される。そのため、舞台上には、「〜を演じているモード」か、ゾンビのように不活性で弛緩した身体が提示される。
このことがアポリアを超えて両義性を感じさせたのが、終盤で流れる「君が代」のシーンである。だらりと頭を垂れた無言の身体が柱のように突っ立つ。そこではもはや、意志を奪われ絶望的に下を向いているのか、敬虔に頭を垂れているのか、区別不可能だからだ。
オル太『ニッポン・イデオロギー』:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/108622/
関連レビュー
オル太『生者のくに』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
2024/01/14(日)(高嶋慈)
ナオミ・リンコン・ガヤルド「ホルムアルデヒド・トリップ」
会期:2024/01/13~2024/01/28
Gallery PARC[京都府]
クィアな想像力によって、現在も膨張し続けるグローバルな植民地主義や異性愛中心主義といった支配的な物語をどう書き換えることができるか。バラバラに分断しようとする圧力に抗しつつ、差異を抱えたものを一つに統合するのではなく、それぞれがどうポリフォニックな声を響かせることができるか。
本展は、メキシコを拠点に国際的に活躍し、クィアやデコロニアルの視点から作品制作するナオミ・リンコン・ガヤルドの日本初個展。京都精華大学によるマイノリティの権利やSOGI(性的指向や性自認)についてのアートマネジメント人材育成プログラムの一環として開催された。
本展では、約36分の映像作品《ホルムアルデヒド・トリップ》(2017)が、構成する各章ごとに分割され、7チャンネルの映像インスタレーションとして上映された。本作の出発点は、メキシコ先住民の環境活動家ベティ・カリーニョの殺害事件だ。ブリコラージュ的なコスチュームを身に付け、戦士に扮したベティ役と仲間の女性たちは、草原や畑でファイティングポーズを繰り広げる。闇のなか、何度も倒れるベティの身体。同志の女性たちは「魂を守るショール」を織り、ベティの亡骸がケアされる。亡骸は戦士たちが護衛する船に乗って川を下り、冥界に通じる洞窟では、動物のマスクをかぶった両性具有的な者たちがアンダーグラウンドなクラブのように踊り、魂の再生の儀式が行なわれる。死から再生に向かう旅の導き手が、メキシコの神話に登場する月の女神とアショロトル (メキシコサンショウウオ、通称ウーパールーパー) だ。両者はともに身体の再生能力を持つ。
7つの章は、それぞれ異なるジャンルの楽曲に彩られ、ミュージックビデオ風に仕立てられていて飽きさせない。ビョークを思わせる神秘的で力強い歌唱、ギターのノイズ、優雅で繊細なオペラ、歌謡曲やポップ・ミュージック、ラップ、ロック、へヴィメタル……。「蓄財」と題された章では、レトロなテレビゲームを模して、新自由主義という新たな植民地支配が地球規模でもたらす暴力、搾取、資源の収奪、貧困、ファシズム、人種差別の常態化が戯画化される。「元気で明るい二拍子の行進曲」にのせて、「金髪碧眼の白人男性」がマスゲームのような体操を繰り広げるが、その身体は次第に疲弊していく。
植民地主義的な欲望と支配関係を、抵抗としてのクィアな戦略によってパロディ的にズラし、書き替えを企むのが「アレックスとアショル」の章だ。メキシコの固有種であるアショロトルは、スペイン王室に援助された科学者・探検家のアレクサンダー・フォン・フンボルトによって18世紀に「発見」され、ホルマリン漬けの標本がヨーロッパへ送られた。映像では、ドラァグ・キング(男性装の女性パフォーマー)が演じるアレックス(フンボルト)と、作家自身が扮するアショロトルがエロティックな愛の交歓を演じる。ドイツ語で歌われるオペラの歌詞は、アショロトルを研究対象として所有し、永遠に保存したいと望むアレックスの欲望を歌い上げる。だが、実際の映像では、口パクのアレックスを
《ホルムアルデヒド・トリップ》は長尺の壮大なミュージックビデオの体裁をとるが、各章を構成する多彩な楽曲は、ジャンルとしてはバラバラで統一感はない。(各章を分割したマルチチャンネル上映は展示会場のスペース上の要請ではあったが)「調和のとれた統一」を拒絶するような姿勢は、「差異を抱えたものがどう共存できるか」というメッセージとしても受け取れた。また、ガヤルド自身の書く歌詞も詩的な魅力に富むが、その背後には、チカーナ(メキシコ系アメリカ人)・レズビアン・フェミニスト詩人・作家・文化批評家のグロリア・アンサルドゥーアの言葉が参照され、多声的な奥行きが広がる。
ホルマリン漬けの標本すなわち「凍結された過去」を解凍して現在と接続させ、土地、資源、人権に対する支配と搾取という形で現在も続く植民地主義を批判すること。規範的な性のあり方への抵抗とフェミニズム。本作はそれらの豊穣な交差点だ。扱うテーマは政治的でハイコンテクストだが、映像はポップで、脱力感あるユーモアに満ちている。だからこそ、その奥にある闘志がきらめく。「言い返せ! 書き返せ! あなたの力を取り戻せ!」。連呼されるラップのフレーズにのせ、戦士や冥界の生き物たちが踊るなか、断片化されたベティの身体は最終的にひとつになって回復する。その力強いフレーズの連呼は、見る者の魂を震わすだろう。
作品自体は素晴らしかったが、作品とは別の次元の「外部」で2点気になることがあった。1点めはチラシのデザインである。カラフルな色彩、特に「ピンク」の強調、(作中のコスチュームに登場するが)「乳首」を丸く記号化して配置したデザインは、「メキシコ」と「女性性」を強調する。2点めは、展示会場の入口の壁がレインボーカラーの照明に照らされるという「演出」である。会場となったギャラリー側の判断であり、展示を盛り上げようとレインボーカラーの提案が出たこと自体は嬉しく思う。ただ、クィア性は作品の軸のひとつではあるものの、作品はそれだけにとどまらない豊かな奥行きをもっている。「LGBTQ+の作家」というわかりやすい視覚化は、作品が受容される文脈を狭めてしまうのではないか。「非欧米圏かつクィアの作家」が、日本で紹介されるとき、何重にも他者化された視線でパッケージングされてしまうことの功罪について考えさせられた。
ナオミ・リンコン・ガヤルド「ホルムアルデヒド・トリップ」: https://galleryparc.com/pages/exhibition/ex_2024/2024_0113_naomi.html
2024/01/13(土)(高嶋慈)
Osaka Directory 5 supported by RICHARD MILLE 肥後亮祐
会期:2023/12/23~2024/01/21
大阪中之島美術館 2階 多目的スペース[大阪府]
無断転載を防ぐ目的で英語辞典に掲載された造語を題材とした《bird carving》(2020)や、「グーグルマップ上に誤記載された幻島」を題材とした《Sandy Island》 (2020)など、人々の認識や行動を規定する「基準」のなかにある真偽の揺らぎや特異点を扱ってきた肥後亮祐。そこでは、辞典や地図が「存在しない現実」をつくり出すという転倒を元に、文字・画像・映像・音声データなど複数のメディアを横断的に駆使し、非実在物にいかに実体性を与えていくかというアプローチが取られていた。定義・分類・名付け・視覚化の権力性が示されると同時に、「誤読」「連想」の創造性が提示される。
本展は、大阪中之島美術館が関西ゆかりの若手アーティストを個展形式で紹介するシリーズ「Osaka Directory supported by RICHARD MILLE」の第5弾。「非実在物に実体性を与える」という過去作品の手法とは対照的に、本展では、既存の制度のなかに存在する特異な盲点に焦点を当てた。それは、美術館や博物館で使用され、センサー部分に女性の毛髪(多くは金髪)が用いられている「毛髪式温湿度計」である。
発表されたインスタレーション《ブロンドの記譜法》(2023)は、2つのパートで構成される。前半では、実際に美術館で使用される毛髪式温湿度計が展示台に載せられた「現物展示」に始まり、人毛の伸縮率によって大気中の温湿度を測定する装置を18世紀に考案した自然科学者、オラス=ベネディクト・ド・ソシュールに関連する資料が並ぶ。毛髪式温湿度計の原型が考案された書籍の初版本。ソシュールがアルプス山脈を登頂した際のスケッチを基に描かれた、山脈を360度の視界に収める奇妙なパノラマ図。科学史への貢献を称え、ソシュールの肖像画と毛髪式温湿度計が描かれたスイス・フラン紙幣。モニターでは、紙幣裏側に描かれたアルプスを探検する山岳隊の絵や、アルプス山脈のGoogle Earthの映像が映される。
後半では、円卓を取り囲むマルチチャンネルの映像インスタレーションが展開する。5名の話者が毛髪式温湿度計を出発点に連想的な語りを繰り広げる映像が、5台のモニターに映される。本作では、ある特異点の観測から連想的な断片を展開するアプローチを、複数の他者に委ねることで、連想の回路や自由度がより広がった。5名の会話は、雑談的なゆるい話題から哲学的なトピックまで硬軟が入り混じる。喉の乾燥対策として、どののど飴がお薦めか。「女性の長い髪の毛」が人工的な機器の一部に用いられていることの不気味さは、ホラー小説や映画の「貞子」の連想とともに、ユダヤ人女性の毛髪が強制収容所で毛布の素材にされたことも語られる。また、温湿度計の多くに「金髪」が使用されている事実から、「バイト先でヘアカラーの明るさの規定があった」経験が語られ、集団の同質性を重視する日本社会においては、校則や就活での髪型や髪色の規定など「髪の毛」が「規範」「基準」となる事態についても見る者に考えさせる。一方、身体から切り離された髪の毛が「不気味」「気持ち悪い」という感覚は、フロイトの「ウンハイムリヒ」やクリステヴァの「アブジェクション」といった哲学的概念と接続され、「壮大なアルプス山脈」のイメージはカントの「崇高」概念と結びつく。それぞれの語りは断片的だが、肥後の編集によって「Abjection」「Blond」「Criterion(基準)」「Factory」「Hair」というように、キーワードのアルファベット順に並べられ、「辞書の項目」という別の秩序に組み込まれていく。
だが、本展のはらむ射程は、もっと深い拡がりをもっているのではないか。「近代」の凝縮といえる毛髪式温湿度計を起点として、思考を連鎖的に広げながらさらに解きほぐしていけるのではないか。自然界を観察対象として外部化し、数式や数値データとして普遍化・客観化していく近代科学。カメラの機械の目や電子顕微鏡が「人間の視覚」を超えていくように、人間の感覚器官の拡張としての機器(「湿気の多い日は髪の毛がうねって扱いづらい」という肌感覚をより精緻化し、人間の知覚では捉えられない差異を計測するのが毛髪式温湿度計だ)。パノラマ図に顕著な、すべてを視覚化によって領有したいという欲望。登頂ルートの開発競争は、「未踏の処女地の征服」としての登山や、地図から白紙をなくしていく植民地主義的欲望とも通底する。これらが紙幣に印刷され、国家を支える血液として流通していくこと。
そして、美術館のホワイトキューブという制度もまた、近代のプロジェクトのひとつである。鑑賞を妨げる不純物が排除された清潔な白い壁という見た目のみならず、恒常的に保たれる温湿度の点でも、徹底的に管理された均質的な空間が、世界中に移植される。その空間の均質化を支える機器の一部として「女性の金髪」が組み込まれていることは、「近代とは何か」についてジェンダーと人種の複雑な交差から考える上で大きな示唆を与えてくれる。近代的家父長制と資本主義の結託は、男性/女性という二分法を自然化し、男性に公的領域と有償の生産労働を、女性に家庭内の私的領域と無報酬の再生産労働を割り当て、正しい生殖に結びつく性/逸脱する性を区分したように、西洋近代は「性」の分離と基準化を執拗に推し進めた。「毛髪式温湿度計に組み込まれた女性の金髪」は、まさに女性の身体が、観察の主体である「男性の身体」と区別・分離され、女性自身の身体からも切り離され、文字通り機器の中に閉じ込められて不可視化される事態を体現する。同時にここには、(伸縮率の精度が高いため金髪が採用されたという理由もあるが)「白人の身体」が基準となるヨーロッパ中心主義も重ねられる。映像内の辞書の項目には、「G(Gender)」「E(Eurocentrism)」「S(Sexism)」「W(White cube)」が付け加えられるべきだろう。
美術館であれ、ギャラリーであれ、多くの場合ホワイトキューブでアートを鑑賞する私たちは、いまだにそうした近代の枠組みに規定された身体としてふるまうことから逃れられない。一方、本展の展示空間は、「ホワイトキューブである正規の展示室」ではなく、そこからはみ出たオープンなフリースペースである(「多目的スペース」という名称だが、吹き抜けのエントランス空間とは明確に区切られず、半分通路のようなガラス張りの空間だ)。そうした空間だからこそ、普段は展示室の隅で半ば不可視化されている温湿度計自体を「展示物」にしてしまう反転の操作が可能になる。同時にそれは、あらゆる空間を準ホワイトキューブ化する管理の権力が持ち込まれる事態でもある。あらゆる空間を均質化する基準の力と、そこからの逸脱が、まさに「ホワイトキューブ」の境界においてせめぎ合う点でも興味深い展示だった。
Osaka Directory 5 supported by RICHARD MILLE 肥後亮祐:https://nakka-art.jp/exhibition-post/osaka-directory-dir5/
関連レビュー
連続するプロジェクト/インスタレーションを所有する|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
2024/01/06(土)(高嶋慈)
谷澤紗和子「矯(た)めを解(ほぐ)す」
会期:2023/12/02~2023/12/23
studio J[大阪府]
女性やさまざまなマイノリティが声を上げることに対する抑圧を、どう可視化することができるか。専門技術を必要とせず、女性の家庭内の手仕事・手芸として周縁化されてきた「切り紙」を媒介に、国や時代をこえた連帯をどう示すことができるか。フェミニズム的視点から「切り紙」の可能性を拡張している谷澤紗和子の本展は、シンプルながらも吟味された技法と素材で、こうした問いに向き合うものだった。
「
谷澤がこれまでも取り組む文字のシリーズに加え、本展では、二次元の平面性と三次元的な立体性を併せ持つ紙の技法として、「折り紙」を用いた試みが加わった。折り紙で折られたショベルカーに、殴り書きのような線が絡みつく。「ショベルカー」というモチーフは、谷澤自身の子どもの興味に由来するというが、ショベルカー自体、なにかを踏み潰す抑圧のメタファーでもあり、「家の解体」とも結びつく。そして、抑圧の象徴としてのショベルカー自体も押し潰され、梱包を解くように線がほどける。殴り書きのような、明確に「文字」の形を取らない線は、抑圧から解放されつつも、いまだ声にならない声の表象のように見える。
一方、白一色の切り紙で表現された《お喋りの効能》は、谷澤自身を含め、切り紙を手がけた女性作家を同一平面上で出会わせ、国や時代をこえた連帯の意思を示す。画面左側のくしゃくしゃの塊(谷澤自身の自画像)が、精神を病んだ晩年に「紙絵」作品を手がけた高村智恵子の半身像と向き合う。二人の間には、智恵子の作品を引用した画中画がある。もう1点の画中画は、18世紀後半のイギリスで、70歳を過ぎてから精巧な紙細工の花を制作したメアリー・ディレイニーの作品の引用だ。彼女たちの会する空間は、20世紀後半の中国の農村で、伝統的な切り紙細工の剪紙(せんし)を発展させ、独自の神話的世界を表現した庫淑蘭(クー・シューラン)を参照した図案で囲まれている。「切り紙」を媒介に、国も時代も隔たった相手と出会うことで、がんじがらめになっていた抑圧の縄がほどけて「声」となって流れ出す──。サイズ自体は大きくはないが、そうしたストーリーの展開と、今後の発展の予感を感じさせる作品だった。
studio J 谷澤紗和子「
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花珠爛漫「中国・庫淑蘭の切り紙宇宙」|SYNK:artscapeレビュー(2013年10月01日号)
2023/12/23(土)(高嶋慈)