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artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

プレビュー:akakilike『家族写真』

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会期:2017/05/19~2017/05/21

京都芸術センター[京都府]

客席空間の壁際で、あるいは一番奥で、暗闇に身を潜めて三脚を構えた写真家が、舞台上のパフォーマンスを撮影する。その時、写真家の身体は(上演中の舞台にとっても観客の意識においても)限りなく消去され、「不在」のものと化している。ところが本公演『家族写真』は、写真家も「出演者」として舞台に上がり、ダンサーや俳優らと「家族」の一員を演じつつ、舞台上で同時進行的に「撮影」を行なうというものだ。写真家の「撮る」身体や行為の露出・前景化がまずは企図される。この作品は、演出家、振付家と写真家が共同制作する企画『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』のひとつとして、2016年8月に京都のアトリエ劇研で上演された。また、舞台上で写真家・前谷開が撮影した写真作品は、個展「Drama researchと自撮りの技術」として、12月に京都のDivisionで展示された(それぞれの詳細は、下記のレビューをご覧いただきたい)。
再演となる今回は、前回の出演者6名に加え、ダンサーの佐藤健大郎が新たに参加する。演出の倉田翠によれば、出演者たちが同じようにテーブルを囲みつつ、少しずつ変化が入ってきて、物語が「家族」の外に広がり、再演というより再制作の形に近いという。「家族」という単位のフィクショナルな危うさと強固さ、それをメタフォリカルなレベルで支える「簡易テーブル」という舞台装置、団らん/葬儀といった集合的な行為や依存/苛立ちといった愛憎的な感情を抽象化した運動、さらには写真家の「撮る」身体の露出・前景化、「見る」視線と「見られる」客体との往還、「フィクション」とその記録行為の併存、舞台のフレームと写真撮影のフレームの二重化/ズレなど、本作の魅力は尽きないが、そこにどう新たな変化が加わるのか、非常に楽しみだ。


撮影:守屋友樹

関連レビュー

「家族写真」|高嶋慈:artscapeレビュー

前谷開「Drama researchと自撮りの技術」|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/03/29(水)(高嶋慈)

大﨑のぶゆき「マルチプルライティング」

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会期:2017/03/28~2017/04/22

ギャラリーほそかわ[大阪府]

絵具で描画されたイメージが溶け出し、おぞましくも美しく崩壊していく映像作品。一見何も描かれていない白いキャンバスだが、下地の上に特殊調合したエマルジョン塗料でイメージが描かれ、経年変化による黄変によって潜在的な像が未来において結像する「見えない絵画」。それらの傍らに置かれた円形の鏡の作品《観測者》は、刻々と変わる「現在」の相をその表面に映し出す。
大﨑のぶゆきの本個展において、いずれも問題となっているのは、「表面」とその複数性(表面の物質的な同一性とイメージの現われの複数性)であり、「絵画」というメディウムに不可逆的な時間性と現象性を導入することで、それは映像的な皮膜へと近づいていく。大﨑の関心はおそらく、「過去/現在/未来」という時間のあり方とともに、メディウムの差異とその撹乱にある。描画が溶け出す映像作品《untitled album photo 2017-01》は、何かの行事の記念に撮られた、晴れ着を着て自宅の傍に立つ男の子のスナップ、つまり「写真」を下敷きにしている。つまりその描かれたイメージは、「写真」を原資としつつ、描画材の流出という操作を仕掛けることで、イメージが変容/消滅する時間性を胚胎させている。像の輪郭がぼやけ、曖昧に溶けだしていく様子は、時とともに薄れゆく記憶のプロセスの追体験を思わせるとともに、個人の生のかけがえのない一瞬が、匿名的で交換可能な「記念写真」「家族スナップ」の集合的な性質へと溶解していく過程も想起させる。一方、溶け出した絵画をスチルとして撮影した写真作品も制作されている(変容/消滅へと向かう時間の流れの一時停止)。また、上述の「見えない絵画」は、数十年後、100年後の未来において徐々に像が現われるものであり、可視化すなわち「現像」までの時間が極端に引き伸ばされた「ネガ」であると言えるだろう。このように、いずれの作品も、絵画/写真/映像という媒体の性質を互いに含み持つことで区分を無効化し、判断を宙吊りにしてしまう。
本個展は、これまで個別のシリーズとして発表されてきた大﨑の試みに新たな試みを加えて編集的な視点から見せるものであり、複数のシリーズの並置によって、メディウムが相互浸透する界面と時間の関わりに大﨑の関心軸があることを示していた。

2017/03/28(火)(高嶋慈)

呉夏枝「-仮想の島- grandmother island 第1章」

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会期:2017/03/04~2017/03/25

MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w[京都府]

その出自と布や織物という扱う素材から、ディアスポラとフェミニズムの交差する地点に呉夏枝(お・はぢ)を位置づけることは難しくない。しかし彼女の作品は、図式的な理解に収まらない静謐な詩情を湛えている。
本個展では、「海に浮かぶ島」をモチーフとした染織作品が発表された。「島」のイメージの源泉には、祖母の出身地であり、呉自身も後年に訪れた韓国の済州島があるのだろう。だがよく見ると、織られた島のシルエットはそれぞれ異なり、単一の具体的な島の表現ではないようだ。織物自体が持つ、長い年月を経て受け継がれた古色のような風合いも相まって、それは遠い記憶の中で浮き沈みを繰り返す、おぼろげで到達できない地を思わせる。また、島と海に映る島影は、昼でも夜でもあるような境界の時間を生きているようだ。
「島」という言葉は、楽園的なイメージを持つ一方で、孤独や閉鎖性、非中心・周縁性といったイメージも想起させる。だが布に織られた島どうしは、空間を横切る何本もの糸でインスタレーションとして繋がり合い、閉じながらも半ばネットワーク状に開かれていることを示唆する。島から島への航路の軌跡や航海図を立体化したようにも見える。見る者の身体は、想像上の海の中を歩き回る。島から島へ、土地から土地への旅。垂れ下がった糸はまた、三つ編みのおさげ髪のように編まれ、女性の身体性(とその不在)も想起させる。織られた島は、不在の「彼女」の身体と繋がり、「彼女」の身体は確かに島の一部でもあるのだ。
本個展は、「grandmother island」という仮想の島の名を冠したプロジェクトの第1章として構想されている。本展の後、プロジェクトは、ワークショップや展覧会を重ねて、仮想の島やそこへつながる海路を見出していくという。これからの展開が非常に楽しみだ。

2017/03/25(土)(高嶋慈)

柳瀬安里 個展「光のない。」

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会期:2017/03/07~2017/03/12

KUNST ARZT[京都府]

同ギャラリーで昨年12月に開催された「フクシマ美術」展で見て非常に気になっていた作家、柳瀬安里の初個展。「フクシマ美術」出品作の《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》は、2015年夏、国会議事堂周辺の安保反対デモに集った群衆の中を歩きながら、道路に「白線を引いていく」パフォーマンスの記録映像である。「線を引く」シンプルな行為が、集団を撹拌し、人々の身体的な反応を引き起こし、擬似的な共同体の中に潜在するさまざまな境界線や差異を表出させてしまう。地震による亀裂という物理的な線、「原発20km圏内」や警察の規制線といった人工的な境界の恣意性、さらに当事者/非当事者の線引き、分断や排除の構造の可視化など、「線(境界線)」が孕む意味の多重性を提示する秀逸な作品だった。
今回の個展で発表された《光のない。》は、その発展形と言える作品。沖縄高江のヘリパッド建設工事のゲート前を、エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗唱しながら歩くパフォーマンスの記録映像である。イェリネクの戯曲は、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故をきっかけに書かれたものだが、「第一ヴァイオリン」と「第二ヴァイオリン」による抽象的なモノローグという形式を採り、具体的な事故の描写はないものの、言葉遊びやメタファーが散りばめられている。また、「わたし/あなた」「わたし/わたしたち」という人称代名詞の多用も特徴だ。このテクストが、沖縄の高江でどのように響くのか。
柳瀬の作品《光のない。》では、現実から安全に切り離された劇場ではなく、現実の出来事が起きている路上で発話することで、抽象的で難解な印象のテクストが極めて生々しい意味を帯びて鮮やかに立ち現れてくる。「戯曲である」、つまり黙読ではなく、生身の身体によって「声」として発話されることで戯曲の言葉は受肉化され、初めて力を持つことが、十二分に示されていた。そこでは「白線」の代わりに、「わたし/あなた/わたしたち」という発話行為が、一人称/二人称、単数/複数の相違によって、風景の中に境界線を次々と浮かび上がらせる。「わたし」「あなた」「わたしたち」とは誰なのか? 指示内容の充填を待つ空白が、「歩行しながら暗唱する」柳瀬の身体的行為によって、さまざまな意味/主体が書き込まれては次の場面で更新され、絶えざる書き替えに晒されていく。
例えば、「わたしにはあなたの声がほとんど聞こえない」という台詞。「わたし(日本)にはあなた(沖縄)の声が聞こえない」と解釈可能だ。あるいは、柳瀬を無視し、無言で人間の壁をつくる機動隊員の姿が画面に映るとき、「わたし(機動隊員)にはあなた(柳瀬)の声が聞こえない」という二重性を帯びた発話となる。さらに、柳瀬の震える生身の声が、拡声器ごしのデモの演説や怒号、行き交う車両の騒音にかき消されるとき、「わたし(鑑賞者)にはあなた(柳瀬)の声が聞こえない」という三重の意味を帯びてそれは聴取されるだろう。また、伴奏をつとめる「第二ヴァイオリン」が「わたしはあなたに寄り添う」と告げるとき、「わたし(沖縄)はあなた(日本)に寄り添う」のか? 「わたし(日本)はあなた(米国)に寄り添う」のか? あるいは、柳瀬の後を無言で付き添う「わたし(機動隊員)はあなた(柳瀬)に寄り添う」のか? また、「異物はいつもわたしたちのなかにあった」という別の台詞がある。「わたしたち(日本)の中の異物(沖縄)」なのか、「わたしたち(沖縄)の中の異物(基地)」なのか?
ここでは、「暗唱しながら路上を歩く」柳瀬の身体的行為によって、戯曲の言葉と現実の風景が複数の層でリンクし、相互浸透し合うことで、解釈は常に多重的に揺れ動き、ひとつの位置に定位できない。さまよい歩く柳瀬の声は、イェリネクのテクストの多義性の発露を引き受けながら、いくつもの主体の間を憑依し続けるのであり、そこで露わになるのは、「わたし」という主体の固定の不可能性、「日本」という主体の曖昧さや不安定さである。そして「わたし/あなた」の決定不可能性は、分断と排除の論理が支配するあらゆる周縁化された場所/主体をめぐる名前と交換可能である。
このように本作は、書かれた戯曲のテクストが「声」によって受肉化され、現実の音や風景と物理的に「接触」することで、テクストに胚胎する意味をクリアに浮上/拡張させるとともに、現実の様々なレイヤーが複雑に揺れ動く界面を鋭く照射する。しかし一方で、受肉化された「声」は、現実(が立てる音)からの干渉を受けることで、ひとつの支配的な完全な声としては響かない。であるならば、対峙し耳をそばだてる者には、より慎重で繊細な聴取の態度が要請されている。



柳瀬安里《光のない。》2016-17 映像

2017/03/12(日)(高嶋慈)

砂連尾理『猿とモルターレ』

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会期:2017/03/10~2017/03/11

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作される本作。2013年に北九州で、2015年に仙台で上演され、今回の大阪公演は、市内の追手門学院高校演劇部とのワークショップを経て上演された。また、震災後の東北でメディアと記録活動に関わる作家の集団 NOOKとも協働。映像作家の小森はるかとユニットを組む画家で作家の瀬尾夏美は、「2031年」の想像上の陸前高田を春/夏/秋/冬の4つのシーンで描いた小説『二重のまち』を朗読した。また、映画監督の酒井耕は、自身も舞台に上がって時に群舞に加わり、出演者との距離を限りなくゼロに縮めながら舞台作品を記録した。
公演は、瀬尾を含む4人の女性出演者が「あの日」を振り返る雑談風のシーンで始まる。客席に向かってフランクに語りかけ、「第四の壁」の消失と観客の存在の肯定がなされるなか、背後ではスーツ姿の2人の男(ダンサーの砂連尾理と垣尾優)が黙々と、フラットな台を運び込み、積み上げていく。瀬尾の朗読が始まる。2031年春、「僕」が父親に連れられ、石碑の裏にある扉から地中に続く階段を降りると、そこは一面の花畑の中、消えかけた道路や家の土台が残る不思議な空間だった。それは、かさ上げ工事で埋め立てられる前の、震災の爪痕と生活の痕跡を残した「かつて」の町の姿だ。台を積み上げる男たちの姿が、かさ上げ工事とオーバーラップする。出来上がった「高台」の上にぶわっと被せられ、波のようにはためくブルーシート。本作はこうしたメタファーを随所に散りばめつつ、声と身体を駆使した圧倒的なパフォーマンスと反復の密度によって、構成の計算高さを吹き飛ばす強度を備えていた。
とりわけ何度も反復されるのが、向かい合った2人が握手して手をつなぎ、互いを強く求め合うゆえに、自分の方へ引き寄せようと引っ張る力が拮抗し、ギリギリのバランスが崩れた瞬間、手が離れて仰向けに倒れてしまうシークエンスだ。求め合う力が反発力に反転し、共倒れになる。このシークエンスが砂連尾と垣尾の2人のみならず、十数人の高校生たちが次々に行ない、地に横たわる死者たちへと擬態する。シークエンスの反復と、春から夏、秋から冬へと移りゆく時間。円陣の群舞が象徴する、円環的な時間。反復され、循環する時間と、二度と元に戻らない不可逆的な時間が交錯する。舞台を見ているうちに、時間軸が混乱をきたし、過去も遠い未来も渾然一体となった密度に飲み込まれそうになる。ここは遠い未来なのか、地底に埋もれた古層なのか。人間とも獣ともつかない、尾を引く不穏な声は、死者の嘆きなのか、生まれる前の赤ん坊の叫びなのか。
シークエンスの反復、時間の循環性と不可逆性に加えて、本作のもうひとつの特徴が、「声の憑依」と「発話の困難」である。砂連尾と垣尾はマイクを持ってテクストを朗読しようとするが、声は裏返り、かすれ、異物として喉から漏れる。相手の身体を背負って重みに耐えながら震え声で朗読するシーンは、「発話」の行為に負荷がかかり続けていることを文字通り体現する。また、圧巻なのが、舞台上の小舞台に銀色に輝く猫の仮装をした人間が立ち、その周囲をやぐらのように十数人が取り囲んで群舞する、後半のクライマックスだ。うめきとも泣き声ともつかない声で、絞り出すように朗読される小説の一節。よく見ると猫人間は口パクで、その背後から女性が操り人形の操者のように声を吹き込んでいる。召喚された死者の声のうめくような軋みと、憑依された者が声を発する苦痛。砂連尾と垣尾は仮面をつけ、高校生たちとともに盆踊りのような群舞が展開される。祭の狂乱に、「記録者」も身を投じる。(死者の)声の継承、声の憑依、仮面や仮装が象徴する人間ならざるものの到来、盆踊り=死者の魂を再び迎える儀式、共同体性、円環が象徴する時間の循環など、本作のキーワードが凝縮されたシーンである。
声の倍音的な重なりはまた、瀬尾のテクストの「一人称」の語りともリンクする。「私」「僕」は交換可能性に開かれており、その座は特定の固有名によって占められていないのだ。


写真:松見拓也


この他にも、本作には忘れられない優れたシーンが数多くあった(くんずほぐれつしながら十数人が互いの「足裏マッサージ」を行なうシーン、孤独な独楽のように女性が回転し続けるシーンと、突然糸が切れたような中断など)。作り手の必然性を感じる、ものすごい密度の体験だったことは間違いない。「フィクションである(~のフリをする)、舞台上では誰も本当に死なない、ここに死者はいない」という前提と、「生きた身体が今ここにある」という身体的なリアルとの解消不可能な溝、つまり舞台・演劇のダブルバインドを「跳躍(サルト・モルターレ)」して架橋するという困難な試みに、本作は成功していたのではないか。


写真:瀬尾夏美


2017/03/11(土)(高嶋慈)

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高嶋慈

美術批評。 京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員 。『明倫art』(2011~13年)、批評誌『ART CRITIQUE』、小劇場レビ...

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