2019年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

「仮留(かす)める、仮想(かさ)ねる 津波に流された写真の行方」展

会期:2019/02/23~2019/02/24

ららぽーとEXPOCITY 光の広場[大阪府]

宮城県亘理郡山元町において、東日本大震災による津波に流された写真約80万枚を洗浄、デジタル・データベース化し、持ち主に返していくプロジェクト「思い出サルベージ」。被災写真救済活動のひとつのモデルをつくったこの活動から派生的に展開している「LOST&FOUND」プロジェクトは、損傷が激しく持ち主の判別が難しいと判断された写真を譲り受け、国内外の美術館やギャラリーでの展示を行なってきた。

「思い出サルベージ」と大阪大学の共同主催による本展では、持ち主への返却が難しい被災写真約8,000枚が展示された。企画者は、「関西災害アーカイブ研究会」のメンバーである3人の研究者(岡部美香(大阪大学人間科学研究科准教授)、溝口佑爾(関西大学社会学部助教)、高森順子(愛知淑徳大学コミュニティ・コラボレーションセンター助教))。これまでの「LOST&FOUND」の展示活動と異なり、本展の最大の特徴かつ挑発的な点は、開催場所がホワイトキューブではなく、あえて「ショッピングモール」という商業空間を選択したことだ。それは、いくつもの矛盾や裂け目がせめぎ合い、反発し合いながら、無数の意味の層と問いを連鎖的に生み出していくような場をつくり出していた。



会場風景

休日の買い物客でにぎわうショッピングモール。通路の交差する中央の吹き抜け空間。通常はライブやトークショーなどの華やかなイベントが開催されているであろうその広い空間に、約1m四方の正方形の低い台が並べられ、50枚ほどの写真がびっしりと敷き詰められている。そのほとんどはL判の家庭用プリントだが、激しい引っ掻き傷のように、あるいは焼け焦げた跡のように、画像は白く消え失せ、マーブル状に混じり合ったインクが画面を覆っている。一枚一枚に目を凝らすと、旅行先や結婚式、宴会、子どものスナップ、卒業式や運動会などの行事を写したと分かる写真もあれば、ほとんど真っ白に消失し、何が写っていたのか定かではない写真もある。

これらは「二重の痕跡」を刻印された写真である。被写体の人々の(多くは人生のかけがえのない瞬間の)記憶の断片であり、かつ津波を受けた痕跡を有すること。そして第二の「痕跡」が第一の「痕跡」を上書きし、かき消そうとしていくさまは、(被写体の多くが「人物」であるからこそ)彼らの身体に無残にも付けられた「傷」を否応なく想起させる。それは、「写真」であると理解しつつも、悪寒のように襲ってくる直感的な想像である。

ここに、写真(紙焼き写真)が写真であることの本質的な矛盾が顔を出す。それは、誰かの記憶が焼き付けられたイメージであり、時に本人の存在と等価にまで近づき、同時に物質でもある。ほぼ真っ白になった写真であっても、洗浄と保管の対象となる。被写体が何か/誰であるかにかかわらず、ただ「写真である(あった)」という一点のみが、これら無数の被災写真の「救済」を等しく支えている。

また、一枚一枚の写真に目を通していくうちに、「被写体の人物の顔が消去されている」という共通点に気づく。「持ち主への返却が難しい」理由のひとつはここにある。それは、「固有の顔貌の消去」という暴力的な事態を想起させる一方で、「写真を見る者が自身の記憶をそこに投影し、代入できる想像的余白」としても働く。



会場風景

同時にそこには、「傷、トラウマ、時制(の混乱)」をめぐるメタフォリカルな事態を読み込むこともできる。写真の表面を覆う津波の痕跡は、過去に起きた出来事の傷痕でありつつ、写された人々は今も渦巻く水に飲み込まれ、炎に包まれているように見える。それは、「受難の瞬間を凍結された現在」という矛盾した時制を生き続ける。

一方で、これらの被災写真が美の観想のための場ではなく、「ショッピングモール」という空間に置かれることで、さらなる意味の層が輻輳的に発生する。ポジティブな側面としては、展示目的でない通りがかりの来場者も巻き込み、ホワイトキューブにおける「展示」が暗黙のうちに要請する「厳粛な気持ちで見なければならない」という倫理的要請や心理的バリアを解除し、あるいは「美的なものとして眼差してしまう」罪悪感を和らげるだろう(例えばホワイトキューブでの展示は、絵具の飛沫が飛び散ったような被災写真を、ゲルハルト・リヒターの《オーバー・ペインテッド・フォト》に重ねる視線を誘発しうる)。その一方、「ショッピングモール」という消費資本主義の象徴空間に異物として置かれることで、これらの写真は、「消費の快楽と忘却、不快なものの排除」という消費資本主義空間の暴力性に晒されてもいる。館内アナウンス、各店舗から流れる大音量のBGM、買い物客のざわめき、子どもの歓声……。周囲のノイズが絶えず観想を妨げ、音響が剥き出しの暴力として襲ってくる。それは、「ショッピングモール」という具体的な場のみならず、東京オリンピックと大阪万博へと向かう日本社会全体を覆い尽くそうとする明るくも暴力的な力であり、その意味でこれらの写真は「津波」に続く「二度目の暴力」に今まさに晒されているのだ。

「写真を元の持ち主に返す」目的で出発し、個人の宛先を想定した活動の過程で、持ち主不明となった写真が次第に集合体を形成し、保管や展示の対象となり、一種の公共財として次第にアーカイブ的な性質を帯びること。「個人的な思い出」として完結していた存在が、公共空間での展示により、上述のような複数の意味の層を発生させ、問題提起し始めること。アーカイブは静的な場ではなく、読み取る視線によってこそ活性化し、内部で変容を遂げていくのだ。

この点において本展は、通行人をも注視する眼差しに変える、いくつかの秀逸な仕掛けを用意していた。まず、壁によって境界画定された場ではなく、出入り自由なオープンな場に、水平の平台を仮設的に設置したこと。台の「低さ」も意図的な選択だ。近づいてよく見ようとする者は、必然的に屈みこまねばならない。「屈みこむ」という身体的なアクションが、注視の姿勢へと誘う。「低さ、見にくさ」というハードルは、むしろ見る者の能動的な関与を引き出す触媒として作用する。そして、鑑賞者は、「気に入った(気になった)写真を1枚だけ選び、ポラロイドカメラで撮影し、現像を待つ間、スケッチブックにコメントを書き込む」ように勧められる。ポラロイドカメラの手軽さ、記念撮影的な楽しさ、写真を貼るマスキングテープやカラフルなペンも用意され、参加する人も多かった。それぞれの視線で切り取られた展示の記録と言葉が、スケッチブックに蓄積されていく。


「1枚だけ選んでよい」という仕掛けも秀逸だ。自分の記憶と重なるような写真、感情的に揺さぶられた写真、色合いが「美しい」と感じられた写真……。自分にとって何かを訴えかける写真を選ぼうと一枚一枚に目を凝らす鑑賞者は、「流された写真を探す」被災者の目線を擬似的にトレースし、追体験するようになる。それは、「他人の撮ったアマチュア写真を見る」という経験につきまとうバリア(無関心や退屈さ、他人のプライベートを覗き見する気まずさ、倫理性、被災者/非当事者という距離)をゆるやかに解除し、元のアルバムから引き剥がされて「津波の被害を被った写真」としていったん一般化・集合化されたものを、再び個別的な唯一無二の存在へと回帰させていくのだ。また、「ポラロイドカメラで複写する」行為は、「記憶に留めたいものを写真に撮ることで、イメージの世界に結晶化させる」、すなわち自らの手中に留められないものを永遠化するために写真を撮るというささやかな欲望が、これらの膨大な写真を撮った人々と同様、自身の内にも内在することを再確認するだろう。

「災害の記憶の保存と継承」から出発し、写真論的な観点(写真の抱え込む複数の矛盾の開示)、アーカイブの機能、展示装置、社会批判、記憶の分有の可能性といった幅広いトピックスについて示唆的な問いを投げかける、極めて意義深い企画だった。

2019/02/24(日)(高嶋慈)

DANCE PJ REVO『STUMP PUMP』

会期:2019/02/23~2019/02/24

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

NPO法人DANCE BOXが今年度より新たに開始した「アソシエイト・アーティスト/カンパニー制度」。ダンサーやカンパニーと3年間にわたって協働し、作品づくりを継続的にサポートする事業である。アソシエイト・カンパニー枠では公募を行ない、田村興一郎が主宰するDANCE PJ REVOが選出された。

客入れの段階で既に、男女7名のダンサーが行き交いながら個々の身振りを立ち上げようとしている。動きの萌芽を探ろうとするような、身体をほぐそうとするような、何かを地面から持ち上げるような身振りが、雑踏のざわめきのように現われては消えていく。ノコギリで木を切るようなノイズと、黒ずくめの服装に黒手袋といういで立ちが、肉体労働の現場のような印象を与える。



[撮影:岩本順平]

前半は、ノコギリの音とトラックの走行音が響き続けるなか、彼らは淡々と、「何かを持ち上げる」「運ぶ」「上へ上へと積み上げる」という動作に従事し続ける。だが彼らのいる世界は秩序の建設と同時に崩壊の力に支配されており、作業を遂行中の彼らは突然空気を抜かれた風船のように、力なく床に倒れこむ。横たわった身体に、別の仲間が手を差し伸べると、見えない磁力に引っ張られるように、手が直接触れることなく、倒れた身体が起き上がる。あるいは、倒れた身体は、丸太を転がすように、足の裏でゴロゴロと転がして運ばれていく。モノに働きかける身体と、モノのように扱われる身体。機械的な作業にただ従事し続ける自動化された身体と、物体に還元された身体。その両極を行き来し続けるダンサーたちは、全員がユニフォーム的に統一された衣装を着用していることも相まって、男女の性差を消去され、個性を剥奪された匿名的な身体の様相を帯びてくる。

作業に従事するロボット化した身体と、モノ化した身体との両極が際立つのが、中盤だ。バックヤードの扉が開けられ、段ボール箱が続々と舞台上に運び込まれていく。林立するビル群のように、あるいは視界を塞ぐ壁のように、積み上げては次々と組み換えられていく段ボール箱。電池の切れた機械のようにフリーズしたダンサーの頭上にも、段ボール箱は容赦なく積み上げられていく。危ういバランスで積まれた段ボールのタワーが崩れると、呼応するかのようにダンサーの身体も倒れ込む。あるいは、自ら段ボール箱を頭にかぶり、倒れ込んで機能を停止させる者も現われる。スピードの加速がリズムを生み、交通と運動のベクトルが錯綜するほどに、無機的な「作業」が「ダンス」へと接近していく。その様相を眺める楽しさとともに、ここには、巨大な機構の一部と化した身体/建設と(自己)崩壊を繰り返すタワーや壁/耐えきれず自ら機能停止する身体、といった現代社会批判のメタファーも読み込める。



[撮影:岩本順平]

ただ、後半はやや失速した感があった。通常は照明や音響など裏方の作業ブースを「舞台の一部」として用い、螺旋階段の柱を数人で儀式のように叩く、赤い天狗のお面をかぶった者が現われるといったシーンが展開されたが、アイデアの提示段階に留まり、作品全体との有機的な結びつきや説得力が弱いように感じられた。当日パンフレットによれば、新作のリサーチのため、昨年夏の台風災害の被害を受けた京都北部の鞍馬に行き、倒木が線路や民家に倒れた被害状況や撤収・伐木作業を目の当たりにしたという。天狗のお面は「鞍馬」からの発想だろう。

また田村は、「当事者ではないという倫理的な葛藤を抱えつつ、社会問題と結びついたダンス作品を作りたい」「倒れても何度でも立ち上がる、前向きな思い」について当日パンフに書いている。「倒れても何度でも立ち上がる」、それを肉体への負荷として提示した作品として、例えば、昨年11月に上演されたMuDA『立ち上がり続けること』が想起される。私見では、MuDAの場合、「身体的な負荷によって逆説的に輝き出す身体」とか、「倒れても倒れても立ち上がり続ける生命の力強さ」といった物語をあえて排除することで、「身体」が、スポーツ観戦や災害復興に顕著な(資本や国家、共同体の)物語へと回収され、搾取されることに対して「抵抗」を示していた。物語性を排除するか、社会的意味を積極的に付与しようとするか、どちらの態度が良い/悪いというのではない。ただ田村作品の場合、「コンセプト」として書かれた文章(の「正しさ」)と実際の作品から受ける印象との齟齬や、説明がなくても感取される段階にまで身体が追いついているか? という疑問が残った。「アソシエイト・カンパニー制度」はあと2年続く。次回、同じ劇場でより進化した姿を見たい。

関連レビュー

MuDA『立ち上がり続けること』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/02/23(土)(高嶋慈)

共創の舞踊劇『だんだんたんぼに夜明かしカエル』

会期:2019/02/17

ジーベックホール[兵庫県]

奈良市を拠点に、障害のある人の表現活動を支援している一般財団法人たんぽぽの家。2004年には、たんぽぽの家アートセンターHANAがオープン。制作のためのスタジオ、展示ギャラリー、カフェやショップも備えたコミュニティ・アートセンターであり、約60名の障害のある人が、絵画、手織り、書、陶芸、パフォーマンスなどに取り組む。2011年からは、ジャワ舞踊家の佐久間新を招き、月2回の「ひるのダンス」を行なっている。90分間、すべて即興ですすむ「ひるのダンス」には、障害の内容、年齢、性別もさまざまなメンバーやスタッフが参加するとともに、福祉関係者、学生、アーティストなども見学に訪れる。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、障害者による芸術文化活動への支援体制が整備されるなか、文化庁の事業に採択され、今回初めて「舞台作品」としての発表が行なわれた。



[撮影:草本利枝]

客席と段差がなくフラットな舞台上には、大・中・小3つのフロアマットが敷かれ、ピアノとガムランのブースが設えられている。冒頭、アドバイザーであるダンサー・振付家の砂連尾理が登場し、挨拶と出演者の紹介を行なう。その傍らで既に、ゆらゆらと手を振る中年男性の動きを、向き合う佐久間が鏡合わせのようにマネし、ダンスの時間が立ち上がり始めている。いや、それは既存の「ダンス」というよりも、全身、声、表情を使った濃密な身体的コミュニケーションの時間であり、(他人に見せるためのダンスや決まった振付の習得ではなく)相手との関係性をつくる、その場にいることを肯定する、非中心的かつ多中心的な場の生成に向けた時間である。相手の動きの断片を拾ってマネし、投げ返す。キャッチボールのような交通が生まれると、とことん没入してみる、少し距離を取って眺めてみる、さらに別の動きにどういけるか探ってみる……。

「声」「言葉」も重要な表現要素だ。例えば「シッチャカメッチャカ」と誰かが発すると、口々に発声が連鎖的に広がり、音の連想が「カムチャッカ」という言葉に展開する。「シッチャカメッチャカ、カムチャッカ」と言い合うリズムにノる身体たち。

あるいは、佐久間がカエルのように飛び跳ねると、たちまちカエルの群れが発生し、「グワッ」「ココココ」「シャウシャウ」といったカエル語が口々に飛び交う。インドネシアのバリ島で行なわれる「ケチャ」を模したものであり、ガムランやケチャ、中盤には影絵芝居のシーンもあるなど、インドネシアの伝統芸能のエッセンスが取り入れられていた。また、自主保育グループの子どもたちがゲスト出演するシーンもあった。



[撮影:草本利枝]

このように、たんぽぽの家アートセンターHANAのメンバー(以下、たんぽぽメンバー)と佐久間の活動を紹介するという点では意義深い公演だが、いくつかの疑問も残る。
1)「ディレクションの介在」の必要性。違和感の一例を挙げると、何回か発せられた「やめてほしー」という言葉。その場で自然発生したアドリブではなく、(数回は)外部から参加した健常者のダンサーが発声していた。おそらく、普段の現場で、苦手な音や状況に反応したたんぽぽメンバーが発した言葉を拾い、「タイミングを図って発声する」演出上の指示があったものと思われる。だが他の言葉と違い、言葉遊び的に変換されず(例えば「ほしー」→「ほししいたけ」とか)、「膠着した空気を変える」強制力としての機能を担わされていた。「障害のある人と共につくる」作品が「ポジティブさ」を前景化する傾向に陥りがちななか、唯一否定的な異義申し立ての声として異質さが際立っていただけに、出演者のたんぽぽメンバーがその場で実感したことの表出ではなく、「演出」の一環であったことに疑問が残る。この疑問はさらに、普段のワークショップでやっていること(の豊かさ)をシンプルに見せるという方法をなぜ取らなかったのか、「作品」としてパッケージングすることの必要性への問いへとつながる。

2)「ポジティブさ」の肯定や前景化。例えば、「掌で水を掬い、相手の手に手渡す」動きのシークエンス。中盤では、白いシーツのような布をはためかせ、身体に巻き付け合う。それは赤ん坊をくるむ布とともに死骸を包む布も想起させ、「命の誕生と終わりを包む布にみんな等しく包まれている」というメッセージを提示する。そこに、一人ひとりが生まれた月日、時刻、病院名、出生時の状況(未熟児、肌が紫色だったなど)が読み上げられ、母親に「産んでくれてありがとう」と言う詩の朗読が重なる(ただしこの詩は後半、「なぜ母親と同じような(子どもを産める)身体ではなかったのか」という内容に変わるのだが)。もちろん、「命の肯定」というメッセージは重要だが、「ポジティブな要素しか(作品として)表に出さない」傾向は、その背後にある排除と表裏一体である。

3)「劇場」「作品」という制度。上述の1)とも関連するが、「普段のワークショップでやっていること」を、「作品」という枠組みで見せることにどこまでの必然性があるのか。「普段のワークショップ」と「観客に見せること」の隔たりを、ディレクションでカバーし、「作品」としての強度を高める方向に振り切るのか。あるいは、(弛緩した時間のリスクを背負ってでも)なるべく普段に近い状態で見せる、そのために必要な設えや配慮を突き詰めるのか(いわば影に徹したディレクションの要請)。神戸公演では車イスの観客も多く、上演中に客席から言葉にならないさまざまな「声」が漏れていた。その「声」にどこまで反応するのか。「劇場」という場は、「舞台」と「客席」を切り分け、ノイズを排除してしまう。普段の活動を「作品」として「劇場」に持ち込んだ時に不可避的に被る変容に対して、「演出家」としてどう対応するのかが問われている。

「障害のある人」「子ども」「インドネシアの古典芸能(舞踊、語り、音楽、儀礼の複合的な結びつき)」「カエル(動物化)」など、「コンテンポラリーダンス」にとっての「外部」がそれぞれ異質なレイヤーとして持ち込まれているが、ディレクションしようとして空中分解している印象を受けた。意義とともに、「劇場」という制度や助成金を含め、今後のあり方を考える上で肯定的な課題を浮上させた公演だったと思う。

2019/02/17(日)(高嶋慈)

木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』

会期:2019/02/10~2019/02/11

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

劇場とアーティストが協働するプログラム「レパートリーの創造」第2弾として、昨年度の『心中天の網島―2017 リクリエーション版―』に引き続き、糸井幸之介とタッグを組んだ木ノ下歌舞伎。『摂州合邦辻』は、説教節「しんとく丸」、「愛護の若」、能「弱法師」などを元にした人形浄瑠璃、歌舞伎作品として成立し、現代の文学まで語り継がれてきた物語である。

大名の高安家の跡取りに生まれ、才能と容姿に恵まれた俊徳丸は、異母兄に妬まれ、継母の玉手御前からは許されぬ恋慕の情を寄せられる。玉手御前を拒絶する俊徳丸だが、業病にかかり、家督相続の権利と許嫁を捨てて失踪してしまう。彼の行方を訪ねる許嫁が探し当てたのは、両目の視力を失い、醜く顔貌が崩れ、社会の底辺で彷徨う俊徳丸の姿だった。許嫁に横恋慕する異母兄が連れ戻そうとするが、2人は合邦道心という僧侶に助けられ、家に匿われる。この合邦道心は玉手御前の父親であり、俊徳丸を追い求めて高安家を飛び出した玉手御前は、2人が匿われているとも知らず、実家へ身を寄せる。俊徳丸への邪恋を諦めさせようと諭す両親だが、玉手御前は聞く耳をもたない。俊徳丸を連れて逃げ出そうとする許嫁に、襲いかかる玉手御前。元武士である道心は、高安家へ義理立てするために、愛娘を手にかける……。



[撮影:東直子]


舞台は、「許嫁に襲いかかる玉手御前を、父親の道心が斬りつける」というこの緊迫したシーンで幕を開ける。いきなりのクライマックスの提示から、時間を過去へと巻き戻し、ストーリーの進行と過去の回想が時間軸を行き来しながら語られていく仕掛けだ。生と死、愛と憎しみ、聖と俗、真実と嘘が渦巻く重厚なドラマだが、ポップなメロディに乗せて歌い踊る、糸井幸之介によるミュージカル調の演出が、軽やかさと推進力を与える。舞台の前半は俊徳丸の生い立ちや病による凋落に、後半は玉手御前にスポットが当てられる。息も絶え絶えの彼女が真実を吐露する独断場は、内田慈の熱演が光る。実は、俊徳丸への恋慕はカモフラージュのための演技であり、異母兄が俊徳丸の暗殺計画を立てていることを知った彼女は、彼の命を救うため、毒酒を飲ませて業病にかからせた。失踪した俊徳丸をなおも追い求めたのも、恋に狂ったからではなく、自分だけが彼を癒せるからだった。「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の生き血」を飲ませれば病は癒え、まさに自分がそれに該当する女なのだ。玉手御前は後妻になる前は高安家に仕える使用人であり、彼女の行動原理は、恋慕の情ではなく、元使用人としての主への忠誠心と(継)母として子を救う想いだったことが明らかになる。最後の力を振り絞って血を飲ませる玉手御前の周りを、登場人物たちは輪になって囲み、数珠を回して祈りを捧げる。数か月後、病から癒えた俊徳丸は許嫁と式を挙げ、玉手御前の両親は娘を想って空の月を見上げる。



[撮影:東直子]

序盤での群舞とコーラスのシーンは、このクライマックスを念頭に振り返ると、伏線が散りばめられていたことに気づく。例えば、トラが爪を立てて獲物に襲いかかるような手の振りや、真ん中の1人を囲んで円陣を組んで踊る構成だ。また、舞台美術も秀逸。10数本の柱を使ったシンプルなものだが、俳優たちの手で組み替えられる度に、現代の都市のビル群、神社の社、掘っ立て小屋、家の骨組みや敷居へと自在に変化する。冒頭、垂直に立っていた柱の列は、ストーリーの変化に応じて分解され、さまざまに組み替えられた後、再びラストで「垂直の柱の列」に戻り、「秩序の回復」を暗示する。また、後半で運び込まれる大玉は、初め不穏な異物として現われ、玉手御前を囲んで人々が回す数珠になった後、夜空に浮かぶ星へと変貌する。人々の祈りや、超越的な力の顕現を現わすようだ。


このように見応えある舞台だったが、「古典を現代(の問題として)上演する意義」と「玉手御前の二面性」について最後に考えたい。ラストで明かされる玉手御前の行動原理は、一応の辻褄は合うが、彼女がそこまでの自己犠牲に徹する動機を理解するのは(現代の観客としては)困難だ。むしろ、こう考えた方が良いのではないか。玉手御前はほぼ終始、「恋に狂い、男を追い詰めて滅ぼす悪女」として振る舞う。一方、終盤、いまわの際の告白で彼女は、「貞操深く慈愛に満ちた、自己献身的な貞女の鑑」へと反転する。毒酒によって死に至る業病をもたらす一方、自らの生き血で病を癒す。「(男の)命を奪う悪女」と「癒し、命を与える女」という二面性。「恋と嫉妬に狂い、我が身と男を滅ぼす悪女」(例えば『娘道成寺』で僧の安珍に愛を拒絶され、蛇に身を変えて焼き殺す清姫)と、「命に代えても夫への貞操を守る、自己献身的な貞女」(例えば、自分に横恋慕する男に夫を殺すよう頼み、就寝中の夫と入れ替わって不貞の代わりに自らの命を捧げる袈裟御前)。古典ではおなじみの、両極端な二つの典型像すなわち「テンプレキャラ」を統合し、貼り合わせて造形したのが「玉手御前」である、と。


従って、古典をどう「現代」に接続し、「現代の問題」として上演するのかにあたり、より重要なのは、整合性の高さでも、古典に詳しくない観客でも楽しめるエンターテインメント性でもない。本作の場合、「玉手御前の両極端の二面性は、(男性の)ファンタジーを貼り合わせた産物に過ぎない」という問題こそ問われるべきである。従って、玉手御前の両親が柱の森を彷徨って「あの子はどこにいったのか」とつぶやき、舞台端の柱を背に玉手御前(の霊魂)が無言で佇むラストシーンは、「親子の情」というエモーショナルなオチに帰着する演出に堕しており、「玉手御前など(実は)いない」という彼女の不在性にこそ言及すべきだった。

だが、「現代の問題として古典を上演することの意義」は、少なくとも、木ノ下歌舞伎がKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで上演した『勧進帳』にはあった(外国人やトランスジェンダーの俳優を起用することで、人種や国籍、セクシャリティなどの差異に基づき排除が正当化される構造をメタレベルで示唆する秀逸な上演だった。リクリエーションによる初演版のアップデートである点も大きい)。「古典」は、時代の要請によってアップデートされていくものであり、アップデートの作業が作品を延命させる。例えば今作の場合、ジェンダーに意識的な演出家ならば、「死と破滅をもたらすファムファタル」/「自己犠牲に徹する聖女」という玉手御前の二面性に対して、どう批評性を加えるだろうか。また、木ノ下歌舞伎の今後の可能性として、「古典」にとって外部の視線である女性や外国人の演出家と組む選択肢も考えられる。ただ女性演出家の場合、男性に比べて数が圧倒的に少ないという問題がある。この事態もまた、「誰の視線からの上演なのか」という問題、「繰り返し語られる『物語』を駆動させる政治性」を問う姿勢を妨げている。

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 木ノ下歌舞伎『勧進帳』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/02/10(日)(高嶋慈)

上田愛「{De}code 」

会期:2019/02/05~2019/02/10

KUNST ARZT[京都府]

奇妙な軟体動物のような、捻じ曲げられた人体のようなオブジェが台座に載っている。壁にズラリと掛けられたものはお面やマスクを思わせるが、ツノや触覚のように突き出た突起は攻撃性やペニスを連想させる。だが、近づいてよく見ると、綿を詰められ、ぬいぐるみのように柔らかく有機的なフォルムのそれらの表面は、レースやフリル、リボンといった装飾で覆われ、刺繍や愛らしい花柄も見える。全体の色合いも、淡いピンクやベージュ、レッド、パープル、薄いブルー、レモンイエローなどカラフルで華やかだ。上田愛の彫刻作品《Dress code》は、ブラジャーやショーツといった女性用下着を縫い合わせ、綿を詰めて成形して制作されている。



会場風景

元々、大学でジュエリーデザインを学んだ上田は、「装飾」というポイントから「下着」に関心を持つようになったという。他人に「見せる(魅せる)」ことが前提のジュエリーと異なり、下着は通常、不特定多数の他人の目に触れるものではない。だが、ブラジャーやショーツは、下着としての機能に加え、レースやフリル、リボン、刺繍といった装飾性が付加されている。「見せない」「見えない」ものであるにもかかわらず、「見せる」ための装飾が付けられている下着。その曖昧な両義性への関心が、《Dress code》をシリーズとして制作する動機になったという。

私たちは日常生活のさまざまな局面で、社会的要請に従い、あるいはファッションを楽しむために、日々さまざまな衣服をまとい、その都度アイデンティティを形成している。だが、「外皮」としてまとう衣服のさらに内側、「外皮」と自身の肉体との狭間にある中間的なレイヤーである下着もまた、アイデンティティ形成の手段なのではないか。「例えば、喪服を着ていても、セクシーな下着を着けるのは自由」と上田は言う。「見えない」私的な領域だからこそ、ある時はセクシーに、ある時はフリフリのプリンセスに、密かな変身願望を肯定し、皮膚に一番近い存在として内面を支える下着。それは、より複雑かつ微妙な領域においてアイデンティティを可変的に形成/解除する装置であり、ある種の「武器」でもある。上田の作品が、仮面(ペルソナ)や攻撃性を帯びたものとして存在するのは、偶然ではない。



《Dress code No.034》

「(女性用)下着」というと男性は性的な連想を抱きがちであり、男性消費者の欲望を喚起する記号としてグラビアなどで大量に溢れる一方、「女性は性(的なこと)を公に語ってはいけない」という社会的風潮や抑圧から、「下着」は隠すべきものとされ、不可視化されてきた。だが上田は、抑圧され、不可視化されてきた「下着」に、私たちがまだ見たことのない未知の生物のような新しい形を与え、可視化させる。個展タイトルの「{De}code」は、「デコレーション(装飾)」という言葉の残響を内包しながら、「デコード (decode)」つまり「下着」に埋め込まれたさまざまな社会的意味の層の解読と、タブーの解除を指し示しているのだ。

2019/02/10(日)(高嶋慈)

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