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artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

プレビュー:DANCE BOX ARCHIVE PROJECT vol.1 1995年のGUYS

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会期:2017/02/11~2017/03/05

アートエリアB1[大阪府]

関西ダンスシーンの中核を担ってきたNPO法人DANCE BOXは、20周年記念を機に、これまでの膨大で貴重なダンス関連資料を整理するとともに、舞台芸術関係者のみならず、さまざまな立場の人が活用できる仕組みの構築を目指して、「アーカイブ・プロジェクト」を立ち上げている。2016年10月には、「アーカイブ・プロジェクト vol.0」をアートエリアB1で開催。2014年のKOBE-Asia Contemporary Dance Festival #3で上演された、松本雄吉×垣尾優×ジュン・グエン=ハツシバによる『nước biển/ sea water』のアーカイブ展示を行なった。作品映像に加え、衣装、舞台美術、朗読テクスト、ミーティングの音声データなど、複合的な要素を展示空間に再配置し、モノと情報、記憶が交差する場をつくることを試みた。
「アーカイブ・プロジェクト」の本格的な始動となる今回の「vol.1」は、「1995年のGUYS~ダンスボックス設立前夜、関西のコンテンポラリーダンス激動の時代~」と銘打たれている。DANCE BOX設立のきっかけともなった、1995年に伊丹市のアイホールで行われた公演『GUYS』を基軸に展開する。冬樹、ヤザキタケシ、サイトウマコト、由良部正美ら、今も活躍するダンサーをはじめ、関西の男性ダンサー陣が一堂に出演した『GUYS』にまつわるさまざまな資料を振り返り、当時のアーティストが何を志向していたのか、そして彼らが現在に何をもたらしたのかを検証するとともに、関西ダンスシーンのこれからを考えるための場づくりを試みるという。本プロジェクトは、関西ダンスシーンの歴史的検証の場となるとともに、舞台芸術の記録・アーカイブのあり方をめぐって考える機会となるだろう。
また、90年代半ばの関西(とりわけ京都)では、アーティストたちが緩やかに連帯しながら、自分たちの手で環境作りを行なっていったことがひとつの動向として挙げられる。例えば、ダムタイプ周辺のアーティストたちが1992年に立ち上げた自主運営のアートセンター「アートスケープ」や、京都を拠点に活動するコンテンポラリー・ダンスカンパニーMonochrome Circusのメンバーが中心となって1995年に始めた国際ダンスワークショップフェスティバル「京都の暑い夏」がある。DANCE BOXの設立も、単にダンス分野の一団体の設立であることを超えて、そうした同時代的な動向の中で再考されるべきだろう。

関連レビュー

『nước biển/ sea water』特別展示上映 ダンスボックス アーカイブプロジェクト(高嶋慈):artscapeレビュー

2016/12/21(水)(高嶋慈)

プレビュー:小森はるか『息の跡』

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会期:2017/02/18~

ポレポレ東中野(東京都)、横浜シネマリン(神奈川県)、フォーラム仙台(宮城県)、フォーラム福島(福島県)、名古屋シネマテーク(愛知県)、第七藝術劇場(大阪府)、神戸アートビレッジセンター(兵庫県)

映像作家、小森はるかによる劇場長編デビュー作品。小森は、画家で作家の瀬尾夏美とともに、東日本大震災後、岩手県陸前高田市に移住し、アートユニット「小森はるか+瀬尾夏美」としての活動を開始。土地の風景や人々の声を、色彩豊かなドローイング、詩的なテクスト、ドキュメンタリー映像によって記録する活動を続けてきた。本作『息の跡』は、山形国際ドキュメンタリー映画祭、神戸映画資料館、せんだいメディアテークでの上映を経て、待望の全国劇場での上映となる。
この映画では、津波によって流された種苗店を自力で再建し、ブリコラージュ的な工夫と知恵をしぼりながら経営する「佐藤さん」の日常が、季節の移ろいとともに約1年間かけて映し出される。さらに、佐藤さんは種屋の経営に加えて、もうひとつ別の仕事も行なっている。それは『The Seed of Hope in the Heart』という被災記録の自費出版であり、震災後に独学で習得した英語と中国語で執筆され、作中では英語の第5版を執筆中であるという。「記録すること」のそれほどまでの執念に彼を向かわせるものは何なのか。なぜ彼は、外国語の独習という困難な試みを引き受けて、「非-母語」で書くことを選択したのか。その答えは、ぜひ映画を見てほしい。
『息の跡』というタイトルは詩的で示唆的だ。吹きかけた息のように一瞬で儚く消えてしまうものと、息を発すること、すなわち「声」の痕跡をとどめること、という相反する契機がそこには読み取れる。本作は、単に「震災のドキュメンタリー映画」を超えて、「記録する」行為や衝動それ自体へのメタ的な言及をはらんだひとつの記録と言えるだろう。
公式サイト:http://ikinoato.com/

2016/12/21(水)(高嶋慈)

プレビュー:山下残『悪霊への道』

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会期:2017/02/03~2017/02/05

アトリエ劇研[京都府]

コンテンポラリー・ダンサー、振付家の山下残と、バリ島という異色の組み合わせ。「あえてバリ島に縁が薄そうな振付家への委嘱作品。韓国のAsia Culture Center、Asian Arts Theatre(国立アジア文化殿堂 芸術劇場)とインドネシアのダンスキュレーター、ヘリー・ミナルティによるオリエンタリズム再考プロジェクト」とチラシには紹介されている。山下は、なじみのないバリ島に単身赴き、バリダンスを習いに行くも完全に観光客扱いされてしまう。伝統芸能が観光資源であり、植民地時代の支配を和らげる武器ともなったバリ島において、「コンテンポラリー・ダンサー」と名乗れば、伝統を侵しにきた「現代の悪霊」と見なされ、呪いをかけられる。だが、バリ島では良い霊も悪い霊も等しく祀ることで世界のバランスを保つという話を現地で聞いた山下は、「この島で自分の存在を認めてもらうには悪霊になるしかない」という逆説的な戦略を採ることを決めたというのが、本作の経緯だ。
山下には、異文化交流をテーマにした舞台作品への出演がこれまでにもある。KYOTO EXPERIMENT 2010で上演された『About Khon』では、タイの伝統舞踊「コーン」の踊り手のピチェ・クランチェンと「対話形式」のパフォーマンスを行ない、伝統と現代、アジアと日本といった文脈の差異、歴史的厚みに支えられた身体と技術的熟達を放棄した身体、といったトピックについて示唆的な対話を行なった。本作においても、「観光資源」としての「伝統文化」、異文化への眼差しがはらむエキゾティシズムの構造、「歴史」との切断の上に成立してきたコンテンポラリー・ダンスと伝統・歴史との(再)接続など、多角的な問題に対して、山下ならではのラディカルさとユーモアでもって、どう切り込むのだろうかと期待される。

2016/12/21(水)(高嶋慈)

前谷開「Drama researchと自撮りの技術」

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会期:2016/12/14~2016/12/20

Division[京都府]

写真家・前谷開の本個展は、先立って上演された舞台作品に前谷自身が写真家として出演し、舞台上で同時進行的に「撮影」した写真を展示するというものだ。この舞台作品『家族写真』は、演出家・振付家と写真家が協働して制作する企画『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』のひとつとして、2016年8月に上演された(この上演の詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
『家族写真』は、舞台中央に置かれた簡易テーブルの周囲に、男女の出演者6名が集い、「父親」役が自分の死と生命保険について語ったり、激しい動きのソロやデュオが展開される作品だった。そこで描かれる「家族」「家庭」は、テーブルが象徴する一家団欒の温かい光景とは裏腹に、不協和音や痙攣的身体に満ちた不穏なものだった。前谷はこの「家族」の一員を演じつつ、時折、舞台の端に身を引いては三脚に据えたカメラを操作し、三脚を移動させ、内部と外部、見られる客体と見る視線を行き来しながら撮影を行なっていたが、上演時にはそれらのイメージ自体を見ることはできなかった。
本展で展示された「上演時に撮影された写真」は、奇妙な印象を与える。「自撮り」と題されているように、それらはすべて、ダンサーたちが激しく交差する舞台上でただ一人、静止してこちらを見つめる前谷自身の「セルフ・ポートレイト」なのだ。前谷は、自分が写らない舞台上の光景を「外から」撮影していたのではなく、レリーズ(カメラのシャッターボタンに取り付けるケーブルで、遠隔でシャッターを切るための道具)を舞台上で操作し、密かに「自撮り」を行なっていたのである。これらの写真を眺めていると、舞台の鑑賞時と見え方の印象が反転する。生の舞台の鑑賞時、私の眼は動いているダンサーに注がれ、前谷の地味な動作は後景に退きがちだった。一方、写真では、ダンサーの激しい動きはブレやボケとなって曖昧に希薄化し、フレームアウトして「意味の中心」から退くのに対して、こちらを見つめ返す前谷の存在が突出して前景化し、「異物」として見えてくる。
加えてここでは、舞台のフレームと写真撮影のフレームという、視線のレイヤーの二重化が起きている。自撮りという身体的行為の介在によって、舞台のフレームの正面性が撹乱され、解体され、瞬間的な凍結がいくつもの切断面に切り分けていく。連続した時間の流れはコレオグラフィの構成という必然性から切り離され、「シャッターの遠隔操作による自撮りのタイミング」という別の必然へと転送される。 この転送の結果として切り取られたイメージでは、作為と偶然、静止した一瞥と運動の軌跡の揺らぎが一つの画面内に奇妙に同居する。そこでは、「予め厳密に振付られた動き」がむしろ予測不可能なブレやノイズのように現われ、「振付られた身体の運動」というフィクションが曖昧なブレによって意味を解消させられていく一方で、その合間を縫って遂行された「撮影(自撮り)」が、強い作為性をまとって屹立し、写真という別のフィクションの機制を浮かび上がらせる。前谷は、舞台という「一方的な視線に晒される場」に自らも立ちながら、しかし同時にこちらを「見つめ返す」ことで眼差しの主体性を取り戻そうとする。そのとき、写真の中の前谷の眼差しを受け止め、(疑似的に)視線を交わす観客は、フレームの解除と再設定、眼差しの主体性の回復という企てに立ち会う目撃者として、共犯関係に巻き込まれるのだ。

関連レビュー

「家族写真」(高嶋慈):artscapeレビュー

2016/12/20(火)(高嶋慈)

宮田彩加「裏腹のいと」

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会期:2016/12/10~2016/12/25

Gallery PARC[京都府]

宮田彩加は、大学で染織を専攻し、手やミシンによる刺繍をベースにした作品制作を行なっている。手塚愛子、伊藤存、青山悟、竹村京、秋山さやか、清川あさみなど、刺繍という技法を用いる現代美術作家は珍しくないが、宮田が注目するのは「コンピューターミシン」の特性を逆手に取った表現だ。コンピューターミシンでは、専用ソフトで作成した刺繍図案データを読み込ませ、糸の色や密度、ステッチの種類などを指定すると、コンピューター制御されたミシンが自動的に図案を刺繍してくれる。この入力→出力のスムーズな回路に対して、宮田は意図的なバグ(画像データ上の空白)を介入させることで、予想外の糸の振る舞いを出現させている。「WARP」シリーズでは、野菜や果物のイメージを緻密に紡いでいた糸が、不自然な段差や縫い目の飛んだ空白といった「エラー」を生み出し、バーコード状に露出した糸のグラデーションの美しさを見せるとともに、突然変異を起こしたかのような変容のイメージを生み出す。こうした生物学的な関心は、ダーウィンの進化論を支持したドイツの博物学者エルンスト・ヘッケルが描いた、放散虫や珪藻類、植物などの精緻な生物画をモチーフにした作品例からもうかがわれる。宮田は、コンピューターミシン/生物学的図像という制作手段/モチーフを組み合わせることで、「プログラム制御とバグの介入」を「有機的生命体の創造的進化」へと読み替える。それは、バグやエラーの意図的な侵入によって、完全に制御されたシステムの完結性や管理の徹底性に対して亀裂を入れる抗議的振る舞いであると同時に、予定調和を外れた分岐的な可能性を肯定する態度である。
また、新作「MRI SM20110908」のシリーズは、自身の脳のMRI画像を元にした刺繍作品。糸の密度を分厚くすることで、布という支持体を無くし、多層的な糸の絡まり合いだけで構築されている。肉眼視できない身体の断面、しかも厚みを持たないはずの画像データが、糸という物質に置換され、さらに刺繍の特性のひとつである「裏」面(と「表」面との落差)も見ることができる。「制御されたプログラムとバグの侵入」という今日の社会状況へ敷衍できる批評性に加え、画像データと物質、イメージと認識、手工芸と機械生産、「裏」面の存在を忘却した絵画への批評という支持体をめぐる問題など、さまざまな示唆をはらんだ展示だった。

2016/12/17(土)(高嶋慈)

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高嶋慈

美術批評。 京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員 。『明倫art』(2011~13年)、批評誌『ART CRITIQUE』、小劇場レビ...

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