2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

野村恵子『Otari - Pristine Peaks』

発行所:スーパーラボ

発行年:2018

野村恵子の写真家としてのキャリアにおいて、ひとつの区切りであり、新たな方向に一歩踏み出した、重要な意味を持つ写真集である。写真の舞台になっているのは、山深い長野県北安曇郡小谷村。「厳しくも豊穣な山の自然とめぐる季節の流れの中で」暮らす住人たちの姿が、新たな命を妊ったひとりの若い女性を中心に描かれる。特に注目すべきなのは、狩猟と祭礼のイメージである。農耕民とはまったく異なる原理に貫かれた、まさに日本人の暮らしの原型といえるようなあり方をしっかりと見つめ、写真に残しておこうという意欲が全編に貫かれている。

いわば、濱谷浩が『雪国』(1956)や『裏日本』(1957)で試みた、民俗学をバックグラウンドとするドキュメンタリー写真の現代版といえるのだが、野村の写真は、若い女性の身体性を強く押し出すことで、「女性原理」的な視点をより強く感じさせるものになっている。プライヴェートな関係性にこだわってきた、これまで野村の仕事と比較すると、風土性、社会性へもきちんと目配りしており、緊張感を孕みつつ、気持ちよく目に馴染んでいく写真集に仕上がっていた。

なお、野村は入江泰吉記念奈良市写真美術館で古賀絵里子との二人展「Life Live Love」(2018年10月26日~12月24日)を開催した。同展にも本書の作品の一部が展示されていた。

関連レビュー

野村恵子×古賀絵里子「Life Live Love」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/30(日)(飯沢耕太郎)

中井菜央『繡』

発行所:赤々舎

発行日:2018/12/03

中井菜央の写真はこれまで何度か目にしたことがあるが、公募展に応募されたポートフォリオや写真展に並んだ作品を見て、いつもどこか物足りなさを感じていた。よくまとまった、志の高い作品なのだが、着地点が定まっていない印象をずっと持ち続けてきたのだ。だが、今回赤々舎から上梓された写真集『繡』のページを繰ると、もやもやしたものが払拭され、中井にとっての写真のあり方が、一本のクリアーな筋道としてすっきりと見えてきたように感じた。「写真集を作る」ということが、ひとりの写真家を大きく成長させるという有力な証左ではないだろうか。

中井が「ポートレート」を撮り始めたきっかけは、祖母のアルツハイマーの症状が進行していったことだった。亡くなるまでの数年間に撮影された写真群には、「祖母自身が培ってきた自己イメージの祖母でも、私のうちに蓄積されて北イメージの祖母でも、また、新たなイメージの祖母でもなく、しかし『祖母』としかいいようのない個の存在」が写り込んでいた。中井はやがて、その「個の存在」は「意味よりも先行し、かつ強い」と確信するようになる。その認識を敷衍することで、被写体の幅は、身近な他者の「ポートレート」から、モノ、植物、小さな生きもの、都市や森の光景などにまで広がっていった。

写真集には、それらがまき散らされるように配置されている。だが、写真を見ているとそれぞれが勝手な方向を向いているのではなく、見えない糸でつなぎ合わされているように見えてくる。それもそのはずで、中井の関心は次第に「個の存在」そのものより、むしろそれらが絡み合い、重なり合うことで形成される、「人が意図せず、束の間で解ける関わり、結び目」に向けられていったからだ。その「結び目」を嗅ぎ当てる能力が、以前より格段に上がっていることに瞠目させられた。一冊にまとめるタイミングと方向性はこれでいいのだが、ここから先をもっと見てみたい写真集でもある。

2018/12/29(土)(飯沢耕太郎)

山元彩香「We are Made of Grass, Soil, and Trees」

会期:2018/12/01~2019/01/15

ビジュアルアーツギャラリー[大阪府]

青味がかった静謐な光が室内を満たし、奇妙に美しい衣装をまとった異国の少女たちが立つ。内省するように閉じられた瞳。永遠に時間が凝固したかのような結晶化したイメージ、繊細なざわめき。古典的なポートレートの端正さと、前衛的なファッション写真を思わせる先鋭さが同居する。少女たちは繊細で風変わりな衣装を身に着けているが、背景の室内空間をよく見ると、壁紙は剥がれ落ち、壁にはヒビが走る。その荒廃感が、彼女たちの発する神聖さや透明感をより際立たせるかのようだ。少女たちは頭部を髪の毛やベールで覆われ、あるいは瞳を閉じたり、虚ろな眼差しを虚空に向けており、その「眼差しの遮断」は、彼女たちが時間も空間も遠く隔たった異空間の住人であるかのように感じさせる。



[Ayaka Yamamoto / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film]

山元彩香は、ロシアやその周辺国、東欧諸国に赴き、現地で出会った少女たちのポートレートを撮影してきた写真家である。言葉の通じない彼女たちとの撮影過程は、身振り手振りによる身体的コミュニケーションを取りながら、現地で準備した衣装や小道具をあてがうというものであり、山元と被写体との一種の即興的な共同作業であるとも言える。それは目の前に存在する個人から、普段身に着けている衣服や属性、固有名といったものを丁寧に剥ぎ取り、別の「イメージの皮膜」をそっと纏わせていく、親密にして暴力的な作業だ。だが、明示的な言語によらない曖昧さを孕んだコミュニケーションの介在が、例えばファッション写真におけるようなディレクターからモデルへの一方的な権力関係をぎりぎりのところで回避し、被写体への尊重とイメージとしての奪取が微妙に混ざり合った魅力的な領域を形成している。

こうして捕捉された少女たちの像は、生と死、人間と彫像、人間とひとがたの境界を淡く漂うかのようだ(流木を人体に見立てた、あるいは粗い石像で象ったひとがたが、少女のポートレートと実際に並置される)。青いベールを被った少女は聖母像を連想させるとともに、ベールに覆われた頭部は繭に包まれて脱皮を待つ幼虫を思わせ、少女から大人へと変態途中のイメージ、聖性と死の同居を印象づける。めくれて剥がれかけた壁紙、垂れ下がった赤い毛糸の束、カーテンの襞やドレープ。これらの「背景」は、皮膚、かさぶた、髪の毛、血管、女性器の襞や陰裂を想起させ、1)人体(女性の身体)のメタフォリカルな置換、2)その傷つきやすさ、そして3)(写真の)「表皮」性を強く示唆する。



会場風景

「仮面」もまた、頭部を覆う髪の毛やベールの膜と同様、注目すべき小道具である。山元の写真には、写真が「表皮」「仮面」であること(でしかないこと)を示唆する装置がそこここに記号的に埋め込まれている。少女や若い女性の被写体、その人種的な偏好性、衣装や小道具のセットアップ、演出と即興の同居といった撮影手法や、現実離れした審美性への嗜好、「ファッション写真」との境界といった点で、山元の写真は、ヘレン・ファン・ミーネのそれと多くの共通点を持つ。だが一方で、写真の「表皮」性を自己言及的に埋め込む手つきが、単なる追従者や二番煎じから分かつ。山元の写真は、少女たちのイメージが、そして写真が「表皮」であることを(さらにはその脆い傷つきやすさを)さらけ出す。それは、自らの表皮性を忘却・隠蔽することで成り立つ一般的なファッション写真から隔てるとともに、それでもなお、仮初めの薄膜であるがゆえの美に引き込もうとする魔術的な魅力に満ちている。

関連レビュー

山元彩香「We are Made of Grass, Soil, and Trees」 |飯沢耕太郎:artscapeレビュー

2018/12/22(土)(高嶋慈)

釣崎清隆「Days of the Dead」

会期:2018/12/14~2019/12/26

新宿眼科画廊[東京都]

「九相図」とは、死体が朽ち果てていく様子を九段階の場面に分けて描いた仏教絵画である。絶世の美女が腐敗し、骨になって焼かれるまでの変化を観ることで、現世の肉体が不浄であり、無常であることを認識するために、中世に絵巻物や屏風の形で盛んに描かれた。釣崎清隆の「Days of the Dead」のシリーズは、まさに写真による現代の「九相図」といえるだろう。

釣崎は、1994年からタイ、メキシコ、コロンビア、ロシア、パレスチナ、そして日本などで、死者たちの姿を撮り続けてきた。自殺、交通事故、殺人事件、死体安置所、法医学鑑定所など、死体をめぐる状況は多種多様だが、美的、主観的な解釈を最小限に留めてその佇まいを客観的な記録として撮影している。それらを集成した写真集『The Dead』(東京キララ社)の刊行を受けた、今回の新宿眼科画廊での個展では、180点をおさめた写真集から20点を抜粋して展示している。

死者を撮影し、その写真を発表するという行為には、絵画以上の困難がある。当然ながら、より直接的で生々しい画像となる写真の場合、死者、あるいは遺族に対する冒涜ではないかという倫理的な非難がつねにつきまとってくるからだ。そのようなタブーの意識は、このところ、さらに強まってきているようだ。実際に、今回の写真集の出版に際しても、印刷や製本を引き受けてくれる会社を探すこと自体が大変だったようだ。だが釣崎の写真を見れば、それらがけっして覗き見趣味の産物ではなく、現代社会における死者のあり方について真摯に考え抜き、答えを出すことを求め続けてきたものであることがすぐにわかるだろう。彼の仕事には、死者たちの姿を隠蔽してきた現代文明に対する根本的な批判が含まれている。

2018/12/21(金)(飯沢耕太郎)

小野祐次「Vice Versa - Les Tableaux 逆も真なり - 絵画頌」

会期:2018/12/12~2019/02/02

シュウゴアーツ[東京都]

教えられることの多い展示だった。1963年、福岡県生まれ、フランス在住の小野裕次のコンセプトは単純である。美術館等に展示された絵画作品を、わざわざ窓を開けてもらって自然光で照らし出し、大判カメラで正対して撮影する。そうすると、絵画の表面に当たった光によって、画家が描いた図像はほぼ消失し、キャンバスのマチエールやその上に塗られた絵具の層などが、額縁とともにくっきりと浮かび上がってくる。かつて画家たちがその絵を描いた時と同じ光の条件を追体験することで、まさにそれが絵画として生成していくプロセスが、リアルな物質感を伴って引き出されてくるといってもよい。

観客は小野の写真作品に、なんとも判然としないぼんやりとした像を見るわけだが、それがルーベンスやホルバインやフェルメールやモネの名画であることを知っていても知らなくても、その視覚的体験そのものが充分に面白く魅力的だ。「二次元の絵画を二次元の写真に還元する」というシンプルな行為によって、絵画がほんの数ミリほどの絵具の層が生み出すイリュージョンであることが暴かれるだけでなく、結果として、それがじつに豊かな想像力の広がりを生み出すことに驚きつつ感動した。光そのものを撮影の対象とする写真作品は、これまでもたくさん制作されてきたが、小野の試みは物質としての絵画を被写体とすることで、その可能性をさらに一段階、拡張・増幅したものといえるだろう。絵画に対するオマージュであると同時に、銀塩写真の表現力を褒め称える行為でもあるこの連作は、今後もさらなる厚みを持つシリーズに成長していくのではないだろうか。

2018/12/19(水)(飯沢耕太郎)

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