2018年11月01日号
次回11月15日更新予定

artscapeレビュー

建築に関するレビュー/プレビュー

田根剛「未来の記憶 Archaeology of the Future─Digging & Building」/田根剛「未来の記憶 Archaeology of the Future─Search & Research」

会期:2018/10/19〜12/24(Digging & Building)/10/18~12/23(Search & Research)

東京オペラシティ アートギャラリー/TOTOギャラリー・間[東京都]

「未来の記憶」という言葉は、一見、矛盾をはらんでいるように思える。記憶とは、過去の出来事を指すのではないのか。そんな疑問を持って、まず東京オペラシティ アートギャラリーを訪れると、最初のメッセージで、建築家の田根剛はその疑問を解き明かしてくれる。「記憶は過去のものではなく、未来を生み出す原動力」「場所の記憶からつくる建築は未来の記憶となる」と。では、場所の記憶とは何なのか。それはその場所で人々が繰り広げてきた文化や風習、風土、歴史などを指している。田根は場所の記憶を発掘するところから建築を思考する、「考古学的リサーチ」という手法を行なっている建築家だ。本展は2館にわたり、その手法を解き明かす展覧会だった。

展示風景 東京オペラシティ アートギャラリー[撮影:Keizo Kioku]

田根が考古学的リサーチを意識し始めたのは、世界的にデビューするきっかけとなった「エストニア国立博物館」の設計からだと言う。これは場所の記憶という点で、非常に特殊である。旧ソ連から独立したエストニアが、国家プロジェクトの一環として初めて国立博物館を建設する。しかもその敷地は旧ソ連が使用していた軍用施設。そこで田根をはじめとするチームは、真っ直ぐに伸びた軍用滑走路の先に博物館が延長的に建つ案を国際設計競技で発表し、見事に選ばれた。その場所の負の記憶をあえてさらけ出し、そこで人々が営みを重ねることで、それを正の記憶へと転換することを狙ったのだ。まさに「記憶は過去のものではなく、未来を生み出す原動力」を体現する事例と言える。

私はたまに地域のモノづくりをお手伝いすることがあるのだが、その際に「土着と洗練」というキーワードをよく持ち出す。土着とはその地域ならではの文化や風習、風土、歴史などを指し、洗練とは現代の暮らしに即しているかどうかを指す。土着ばかりでは野暮ったいものになるし、洗練だけでは奥行きのない薄っぺらいものになるため、どちらも欠けてはならないと考えている。それに当てはめると、田根は土着のベクトルが非常に強い人なのではないか。世界的に成功している現代建築家としては珍しいタイプだ(もちろん、洗練されていないわけでは決してないのだが)。ただし田根はそれを土着とは言わず、また一般的に建築の世界で使われるコンテキスト(文脈)とも解釈せず、「記憶」というキーワードを用いて独自の解釈をしている点に、言葉のセンスを感じた。

展示風景 TOTOギャラリー・間
© Nacása & Partners Inc.

公式ページ:
http://www.operacity.jp/ag/exh214(「未来の記憶 Archaeology of the Future─Digging & Building」東京オペラシティ アートギャラリー)
https://jp.toto.com/gallerma/ex181018(「未来の記憶 Archaeology of the Future─Search & Research」TOTOギャラリー・間)

2018/10/27(杉江あこ)

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アルヴァ・アアルト──もうひとつの自然

会期:2018/09/15~2018/11/25

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

フィンランドの建築家、アルヴァ・アアルトは、自らデザインした家具を工業生産しようと考えなければ、ここまで世界的に有名な人物にならなかったのではないか。本展を観て、あらためてそう思った。アアルトは教会の改修や設計で建築家デビューをする。その後は知人の邸宅や公共施設の設計などに精力的に携わるが、もし活動分野が建築のみにとどまっていたとしたら、一介の建築家で終わっていたかもしれない。建築とあわせて、その空間に設える家具まで設計する建築家はほかにもたくさんいる。しかしアアルトが目をつけたのは、家具の量産化と国際的な販路である。1935年、彼は37歳のときに、妻のアイノ・アアルトや友人たち4人でインテリアブランド「アルテック(Artek)」を設立した。アートとテクノロジーを掛け合わせた造語だというこの社名にこそ、時代の潮流だったモダニズムの精神が表われていた。ヨーロッパを手始めに、アルテックの製品が世界中に広まるのにともなって、アアルトの名も知られていったのである。

アトリエのアアルト(1945) Aalto in his studio, 1945
©Alvar Aalto Museum[Photo: Eino Mäkinen]

例えば、アアルトがデザインした家具の代表作に《スツール 60》がある。これは正円の座面と3本脚で構成された、これ以上、そぎ落とす要素がないくらいシンプルなスツールである。そのため1933年にデザインされてから80年以上が経ついまも、あらゆる家具におけるスツールの代名詞となっている。しかもそのシンプルな形状は、堅牢さや軽さを追求するため、実は手の込んだ構造で成り立っていることが工場の映像を見るとわかる。また、建築と家具両方においてアアルトを一躍有名にしたのが、パイミオ市の結核療養所「パイミオのサナトリウム」だ。この空間に設えられた椅子《アームチェア 41 パイミオ》は、積層合板を使った有機的なラインが特徴で、眺めるだけでも美しいが、実際に座ってみるとその快適さを実感できる。背もたれや肘掛けなど、人間の身体に触れる部分すべてが曲線で構成されているため、人間に非常に優しい椅子なのだ。ちなみに、本展ではこのサナトリウムの病室が原寸大で再現されており、それはそれで見応えがあった。展示の最後には特設コーナー「アアルト ルーム」が設置されており、アアルトの家具に自由に座ったり触れたりできるようになっていた。人間の身体にもっとも近い家具が多くの人々に受け入れられたことが、アアルトが世界中で愛された要因だろう。特設コーナーでの来館者の幸せで満足そうな顔が、それを物語っていた。

アルヴァ・アアルト《スツール 60》(1933) Stool 60, Alvar Aalto, 1933
©Vitra Design Museum[Photo: Jürgen Hans]

公式ページ:http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2018_aalto

2018/09/24(杉江あこ)

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磯崎新《京都コンサートホール》

[京都府]

磯崎新が設計した《京都コンサートホール》(1995)を、元所員の京谷友也の案内で見学した。これまで機会に恵まれず、きちんとホールの内部やバックヤードを見学できたのは初めてだ。まだ自治体にお金がぎりぎり残っていた時代にしっかりとつくられた公共建築である。やはり、そうした意味でも建築は時代の産物である。したがって、オープンして20年以上が経つが、材料もあまり劣化していない。コンペでは、磯崎のほか、槇文彦、高松伸、石井和紘らのポストモダンを賑わせた建築家が参加し、1991年のヴェネツィア・ビエンナーレ建築展の日本館でも川崎清がコミッショナーとなって、各案が展示された注目のプロジェクトだった。当時は磯崎が『GA JAPAN』においてデミウルゴス論とビルディングタイプに関する連載を開始した時期に近いが、なるほど彼の案はホールの形式を深く考察しながら、新しい空間を提案することに成功している。

限られたヴォリュームの制限のなかで、大ホールと小ホールをいかに構成するかが課題のコンペだったが、磯崎の提案はユニークである。最初に出迎えるエントランスホールである、螺旋のスロープに囲まれた吹き抜けの上部に、未来的な照明がつくUFOのような小ホールをのせるという解決法だった。京谷によれば、柱が囲む多角形のエントランスホールは、磯崎が好むヴィラ・アドリアーナの「海の劇場」がモチーフではないかという。また敷地に対して、少し角度を振った大ホールは、音響性能にすぐれたいわゆるシューボックスの形式を基本としながらも、ステージを囲むようなワインヤード式の座席を上部に加え、空間に彩りを添えている。また中心軸からずらしたパイプオルガンや空間のフレームも、空間を和らげており、興味深い。

《京都コンサートホール》外観


エントランスホール


小ホール(左)、小ホール ホワイエ(右)


大ホール


大ホール ホワイエ

2018/09/18(火)(五十嵐太郎)

玉置順《トウフ》、FOBA《ORGAN I 》《ORGAN II 》

[京都府]

京都へのゼミ合宿の機会を利用し、1990年代半ばに登場した2つの建築を見学した。玉置順による画期的な住宅の《トウフ》と、FOBAの拠点である宇治の事務所《ORGAN I 》である。院生だった筆者が現代建築の批評を執筆するようになった時期の話題作だが、いずれも20年ほど前に現地を訪れたものの、なんのアポイントメントもとっていなかったので、外観を見学したのみで帰ったために、内部に入ったのは今回が初めてである。

《トウフ》は名称が示すように、矩形の白いヴォリュームが印象的な住宅であり、公園に面した絶好の立地だ。ただし、今風の開いた建築ではなく、公園があまりに目の前なので、むしろ絞られた開口のみが公園と対峙する。特徴は、外部の白いヴォリュームと内部をえぐったかのような空間のあいだに大きな懐をもち、そこに異なる色味をもったいくつかのサブの空間を設けていること。もともと高齢者向けの住宅として設計されており、確かに中心のワンルームを核にしたバリアフリーの建築でもある。また天井が高いことで、使い倒されても、変わらない空間の質を維持していた。当初から居住者は変わったが、壁の細い穴にぴったり入るマチスの画集も設計の一部らしく、これが残っていたことは興味深い。

FOBAの事務所《ORGAN I 》は、真横に同じデザイン・ボキャブラリーをもつ大きなビル《ORGAN Ⅱ 》が建ち、これも彼らの設計によるものだ。いずれもトラックなどの外装に使われる材料を転用したメタリックな表皮に包まれたチューブがランダムに成長し、あちこちで切断したような造形である。FOBAの事務所は3階建てだが、基本的に全体のヴォリュームを持ち上げ、周辺の環境や形式を意識しながら、開口のある切断面が設けられていた。もっとも、竣工後に周辺にマンションが増えたことで、眺めが変わってしまったところもなくはない。室内には大量の書籍が高く積まれており、事務所の歴史を感じさせる。見学の途中で梅林克が合流し、台湾のプロジェクトや最近の木造住宅シリーズなどの熱いトークに聞き入った。

《トウフ》外観


《トウフ》脇の玄関(左)、公園に面した絞られた開口(右)


玉置順さん


《ORGAN I 》外観


《ORGAN I 》外観(左)、事務所内観(右)


《ORGAN II 》外観


ふたつの模型

2018/09/17(月)(五十嵐太郎)

《京都大学吉田寮》

[京都府]

存続をめぐって揺れ動いている京都大学の吉田寮の見学会に参加した。じつは筆者にとって初の訪問なのだが、東京大学の学部生のとき、2年間、駒場寮に住んでいた経験があるので、むしろ懐かしさを覚えるような感覚だった。もっとも、駒場寮は関東大震災後につくられた頑丈なRC造の3階建て、両側にS部屋とB部屋(おそらくSTUDYとBEDの略であり、かつては対で使われていた)が挟む中廊下であるのに対し、吉田寮はさらに古い築105年の木造2階建て、居室が南面する片廊下である。それゆえ、居住者が比較的簡単に増改築できるので、あちこちに独自の変形が起きていた。一方で駒場寮は、そうした増築は難しい代わりに、約24畳の各部屋の内部を、居住者が決めたルールによって、オープンなまま使ったり、ベニアで間仕切りを入れるなどしてカスタマイズしていた。なお、吉田寮は台風で中庭の大木が倒れたことで、屋根が部分的に壊れ、痛ましい姿だった。

筆者が駒場寮に暮らしていた1980年代半ばは、もう当初の定員を大幅に下回り、各部屋に2〜3人がいる状況で、部屋ごとに直接交渉してどこに住むかを決定していた。見学会での説明によれば、吉田寮はまず二段ベットがある大部屋に入り、そこでしばらく過ごしてから(適性がなければ、この段階で寮を出ていく)、どの部屋に暮らすかを決めるという。現在は留学生も多く、女性も住んでいるらしい。おそらく運用の方法は時代によって変化しているが、大学のキャンパス内に存在する有名な自治寮のシステムを詳細に比較すると興味深いだろう。駒場寮は大学によって廃寮扱いを受けてからも、長く存続し、ある時期からは電気の供給も絶たれた。そのときはまわりの建物からケーブルで電気を引っ張り、建物が解体してからも横にテント村を形成し、約半年は粘っていたが、約15年前に完全に撤退した。今後、吉田寮も大学から厳しい処置を受けると思われるが、駒場寮のときはあまり広がらなかった、まわりの支援の輪が拡大するかが存続の鍵になるだろう。

2018/09/16(日)(五十嵐太郎)

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