2018年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

メディアアートの輪廻転生

会期:2018/07/21~2018/010/28

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

開館15周年を迎えた山口情報芸術センター[YCAM]。アートユニット、エキソニモとの共同企画展として、メディアアートの保存や継承について考える本展が開催された。コンピュータや映像機材などを使用するメディアアート作品は、物理的なハードの故障や、OSのアップデートなど技術環境の変化によって動かせなくなることも多く、保存修復や継続的な展示の難しさが近年の美術館の大きな課題となっている。本展では、YCAMと関わりのある作家100名以上に対し、「作品の死や寿命」と「作品の未来」についてアンケートを投げかけ、寄せられた回答を記したバナーを会場に吊り下げた。また、会場中央には、古墳を思わせる小山型をした「メディアアートの墓」を設置。その暗い内部には、作家自身が「死を迎えた」と考える作品の「亡骸」が、ガラスの棺に収めるように展示ケース内に陳列されている。観客は、オーディオガイドから流れる合成音声による説明を聴きながら、計10個の「作品の亡骸」と向かい合う(オーディオガイドの再生機器は、iPhoneやiPadに加え、ラジカセやポータブル音楽プレーヤーなど新旧のメディアから自由に選ぶことができ、「メディアの変遷自体も鑑賞経験を通して実感できる」というメタな仕掛けになっている)。



会場風景[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

「メディアアート作品の死や寿命」というと、ハードの故障や動作環境の更新を考えがちだが、そうした技術的要因に偏らず、バラエティに富むのが「出品作品」の大きな特徴だ。物理的・技術的要因に始まり、ネット環境や(情報)プライバシーに対する意識の変化、企業の意向、体験の一回性の重視、そして非物質的なコンセプトに至るまで、さまざまな「死」の要因が提示されている。例えば、ナムジュン・パイクの《ビデオシャンデリア No.1》(1989)に使用されていたモニター3台は、「故障」により取り外されたものだ。これは作品の構成要素の交換可能性の例だが、一方、パイク直筆のサインが施された別のモニターは、「交換可能な工業製品に唯一性のアウラが宿る」という矛盾を体現する。また、ネット黎明期に制作された江渡浩一郎の《WebHopper》(インターネット1996ワールドエキスポジションの日本ゾーンのテーマ館「sensorium」にて発表)は、ユーザーがアクセスするウェブサーバーの位置情報を可視化し、ウェブがまさに全世界的な通信網であることを示すものだ。だが、情報セキュリティに対する意識の変化によって展示不可能になったと判断され、「取り外されたハードディスク」が「亡骸」として展示された。一方、企業の技術的協力に依ることも多いメディアアート作品が企業側の意向により発表できなくなった例として、岩井俊雄の《サウンドファンタジー》(1994)がある。これは、ユーザーが画面上に描いた絵がサウンドに変換されるというスーパーファミコン用の音楽ゲームソフトだが、発売直前に中止となった。ケース内には、この幻のゲームソフトがパッケージやトリセツとともに収められた。また、エキソニモの《ゴット・イズ・デット》(2011)は、同名の語句が展覧会タイトルのように記されたポスターの作品である。実は日付に仕掛けがあり、開幕日が「翌日の日付」になったポスターが、毎日貼り替えられていた。「常に明日から始まる展覧会/永遠に始まらない展覧会」を想像することがこの作品の眼目だが、再展示した場合、「翌日」だった日付は「過去のある日付」を指し示し、「実在しない展覧会への想像」は「過去に実在した展覧会の証左」にすり替わってしまう。「コンセプトそのものの破綻」が本作の「死」の要因だ。

本展のポイントは、作品に「死」の宣告を下す判断を、生み出した作家自身に委ねている点だ。ここには賛否両側面が伴うだろう。作家の自作品に対する考え方が明確になるメリットがある一方で、実際の現場で「死の宣告/延命」の判断を下す主体は、キュレーターやコンサバターなど第三者であることが多いからだ。伝統的な絵画や彫刻は物理的な支持体や素材から成る以上、劣化や破損を免れえないが、美術館はその「生」を仮死状態に凍結させ、可能な限り「延命」を施して永続的な保存を目指してきた。だが、その「可能な限り未来へ引き延ばされた生」の背後に「死」が常に潜むことは、非永続的な素材を使用した現代美術作品やメディアアートによって加速的に示されてきている。

また、本展に対するもうひとつの疑問として、「輪廻転生」というタイトルと実際の展示内容とのズレや齟齬がある。作家自身の声に委ねているからこそ、(飛躍や再解釈、アップデートをも含んだ)「転生」のあり方の可能性を提示してほしかった。「保存修復」は後世の介入を最小限にとどめ、出来る限りオリジナルの状態を保持するという原則に依るが、作家自身が考える「作品のコア」をどう抽出し、どう現在の技術的条件でアップデートさせられるか。実験的な取り組みへのチャレンジを今後期待したい。


[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


展覧会公式サイト:https://rema.ycam.jp/

2018/09/02(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00044936.json s 10149057

映画『スカイスクレーパー』試写会

会期:2018/09/21

[全国]

試写会場にて、ローソン・マーシャル・サーバー監督の映画『スカイスクレイパー』を鑑賞する。香港の海辺にたつ高さ1kmの超高層ビルが舞台であり、ひと言で表現するならば、ビル火災映画の古典『タワーリング・インフェルノ』+ビルを舞台に格闘する『ダイ・ハード』という感想だったが、じつは脚本の制作者もまさにそれを狙っていたらしい。ほかにも既存の映画をあげると、ドバイの《ブルジュ・ハリファ》が登場する『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』や、主演のドウェイン・ジョンソンがやはり家族を救出するために地震の現場で奮闘した『カリフォルニア・ダウン』が想起されるだろう。もっとも、『タワーリング・インフェルノ』のような群像劇にすると、3時間超えの作品なることを避け、オープン前の火災という設定にすることで、最上階にいる金持ちの施主と家族と悪役しかビルにいないシンプルな物語とし、全体を100分程度でおさめている。

さて、「ザ・パール」と命名された超高層は、いかにも中国圏なら登場しそうなアイコン建築のデザインだった。すなわち、垂直になった竜が口を開けて、最頂部で玉を咥えているような造形なのである。最上階の派手な階段も、ありそうなデザインだ。場所は九龍サイドのフェリーターミナル付近だろうか。もっと内陸側ならともかく、ここにオフィスビルではなく、上部がタワーマンションになった超高層ならば(低層はショッピングモールなど)、相当にゴージャスなものになるはずだ。全体は240階建て、途中の吹き抜けには公園や風力発電の施設などがある。中国や中近東ならば、本当につくりそうだが、逆に現在の日本だと、あからさまなアイコン的な造形のビルは忌避されるだろう。もし建てるならば、外観はあえて凡庸にして、内部を豪華にするのではないか。なお、映画の冒頭は、主人公がいまの仕事に転職するきっかけを説明しているが、明らかにあとで同じ状況が反復されることが簡単に予想できるシーンで、もう少し予想を裏切るような展開が欲しかった。

2018/08/08(水)(五十嵐太郎)

試写「太陽の塔」

[東京都]

太郎にゆかりの研究者、学芸員、万博関係者、芸術家らへのインタビューに昔の映像を織り交ぜ、多角的な視点から「太陽の塔」に迫る。どっちかというと造形面より思想的な背景が語られる。太陽の塔から縄文へ、アイヌ、沖縄、民族学、バタイユ、マンダラ、チベット仏教、南方熊楠、粘菌へとテーマは連想ゲームのように広がっていく。おもしろいけど、風呂敷広げすぎ。インタビューされたのは平野暁臣、赤坂憲雄、中沢新一、椹木野衣、関野吉晴、糸井重里、Chim↑Pomまで25人におよぶ。これも多すぎ。あれこれ詰め込みすぎ。映画長すぎ(112分)。90分でよかった。

興味深いのは、だいたいみんな太郎に関しては同じような意見を持っていること。だれかの意見を、最後のほうだけ別の人の結論につなぎ合わせても違和感がない。みんな似たようなことを考え、みんな太郎を神格化している。でもこれって、太郎がいちばん嫌ったことじゃなかったっけ? 「太陽の塔」に対して「みんな深読みしすぎ。あれはできそこないの裸の王様」とかいうやつはいないのか。もっと異論を差し挟んだり、ケンカになったり、映画自体が空中分解したほうが太郎にふさわしかったのではないか。

2018/08/03(村田真)

『未来のミライ』

[全国]

細田守監督の『未来のミライ』は、ネット上の評判をチェックすると、家族のホームビデオを見せられているようだなど、あまり芳しくないが、本来、アニメで表現しづらい、派手さに欠けた家族の日常を細やかに描いた点で、実験的な作品だ。例えば、彼の過去作『サマーウォーズ』(2009)における親戚の集まりのシーンもそうだったが、実写ならば簡単に撮影できることも、逆にアニメは難しいのである。ただ、アニメならではの派手なアクションを期待するファンにとっては、退屈になるかもしれない。テーマとしては、『おおかみこどもの雨と雪』(2012)や『バケモノの子』(2015)でも子供の学びと成長を描いていたが、本作はこれを受け継ぎながら、さらに主人公の年齢を4歳にまで下げたこと、また日常的な住空間を舞台として、ファミリーヒストリーの系譜と現在の偶然性も加味したことが特筆されるだろう。

さて、建築の視点からは、主人公の両親が独立したばかりの建築家と編集者の夫婦であること、また遠くにみなとみらいのランドマークタワーが見える冒頭の俯瞰シーンが提示するように、父の設計により家を建て替えたことが興味深い。したがって、おそらくひな壇造成をよしとせず、傾斜地に対し、何段階にも各部屋のレベル差を設け、あいだに中庭を挟む、独特な構成をもつ。また父の作業机の後にある本棚には、ザハ・ハディド、清家清、バウハウスの作品集のほか、『人工楽園』などの書籍の背表紙が見える。実際は谷尻誠に住宅の設計を依頼したものだが、行動範囲が狭い子供にとっては、幼稚園以外で過ごす大きな世界である。と同時に、のび太の家の2階の窓や机の引き出しのように、住宅の中庭と樹が、時空ファンタジーへの入り口として機能していた。未来の妹ミライと出会うのも、まさにここである。そうした印象的な舞台が、建築家によってデザインされていた。

2018/07/25(水)(五十嵐太郎)

im/pulse: 脈動する映像

会期:2018/06/02~2018/07/08

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

文化人類学を従来の「書かれた」民族誌に限定せず、映像、写真、サウンド、アートなどの表現領域と交差する複合的実践として行なう「映像人類学」に焦点を当てたグループ展。映画監督のヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモン、野外での遊戯的かつ即興的なパフォーマンスの記録映像や装置を展示したcontact Gonzo、映像人類学者の川瀬慈が率いる研究会「Anthro-film Laboratory」が参加し、同研究会のメンバーである若手映像人類学者らの作品上映やセミナーなどが行なわれた。

とりわけ本展で圧倒的なのは、ヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモンによる映像インスタレーション《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》である。4年間にわたってブラジル各地のさまざまな儀礼やスピリチュアルな儀式を記録した映像が、3面のマルチスクリーンに投影される。どの地方のどの部族でどういった意味合いを持つか、といった説明的な要素は一切なく、臨場感あふれる映像と音響のめくるめく渦のなかに巻き込まれるような体験だ。半裸の体躯に装飾品をまとい、大地を踏みしめ、リズミカルな掛け声を続ける男たち。薄暗い小屋の中で目を閉じ、呪文のような短いフレーズを唱えるシャーマンらしき人物。そうした先住民族の儀礼の映像の隣に、現代的な服装の人々による宗教的な集いやセレモニーが並置される。ハグし合い、痙攣的な身振りで集団的なトランス状態に至る人々。飾り立てられた女神像をみこしのように担ぎ、海へ入っていく男たち。花火が彩るカーニバルの都市的祝祭。黒人も白人も先住民族もいて、ブラジルという国家を構成する多様な民族、人種、宗教、文化を映し出す。

それらの記録映像を複数並置+ループという構造で見せる本作において、特に重要なのは音響的操作である。マルチスクリーンは、ある時はくっきりと浮上したひとつの音響によって主旋律のように貫かれ、ある時はそれぞれの音響の輪郭が溶け合い、遠くから響くざわめきのように感じられる。男たちが刻むリズミカルな掛け声は、ある瞬間、隣のスクリーンでたゆたうように踊る女性の身体と同調する。かと思うと、潮が引くようにすべての音響はカオティックに混じり合う。速度や抑揚こそ違えど、それぞれが刻むリズムは、神、自然、祖先の霊、世界とつながり交感するための媒介である。共鳴と混淆を通して、儀礼や宗教儀式に宿る根源的なものを探ろうとしていることが、体感的に理解された経験だった。



ヴィンセント・ムーン&プリシラ・テルモン《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》2014–17
「im/pulse: 脈動する映像」(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018)での展示風景
[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学]

2018/07/01(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00044569.json s 10148070

文字の大きさ