2018年11月01日号
次回11月15日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

チームラボ ボーダレス

会期:2018/06/21から(終了日未定)

お台場パレットタウン[東京都]

いやーおったまげっす。なににおったまげたかって、まず広さ。お台場はヴィーナスフォートの奥の建物丸ごと1棟を会場にしている、というのは後でわかったことだが、そのうえ会場内は暗くて順路もマップもなく、あちこちに鏡が張り巡らされているため、迷路のようにどこまでも続いているように感じられる。行き当たりばったり歩いているうちに何度も同じ場所に出たりして、いったいどれくらい奥行きがあるのかつかみにくいのだ。

第2のおったまげは、そんなに広いのに広さを感じさせないほど多種多様な「出し物」が用意され、観客を飽きさせないこと。迷路をさまよいながら次々と新しい出し物に出くわすのだから、よくできていると感心せざるをえない。多種多様といっても大きく分けると2パターンあって、ひとつは動物や植物など自然をモチーフにしたCG映像のプロジェクション、もうひとつは「光の彫刻」や「ランプの森」など色の変化や明暗で表わした光の立体作品。どちらも手で触ると映像が変化したり、観客数によって色が変わったり、子供の描いた絵が作品に採り込まれたり、インタラクティブな仕掛けが施されている。

最初の動植物をモチーフにした映像を見ていてふと気がついた。これって日本画じゃん、花鳥風月の世界じゃん。動植物がなにか主張したり意味を持ったりするわけではなく、あくまで装飾として、平面として使われるだけなのだ。そういえば今春、加山又造の絵をCGで動かす「Re又造」展が開かれたとき、ぼくは「ちょっとやりすぎではないかと思ったが、よくも悪くもこれが展覧会の未来像なのだ」と書いた。その「展覧会の未来像」の延長上にこのデジタルアートミュージアムがあるのではないか。

そして第3のおったまげは、オープンから早4カ月も過ぎた平日の昼前に訪れたにもかかわらず、けっこう混んでいたこと。いやこれだけ楽しませてくれるんだから人が集まるのは当たり前でしょう。でも楽しませるといっても美術展のような知的刺激とは違い、どっちかといえばディズニーランドのように感覚を刺激する楽しさだ。その意味ではセンセーショナルな世界といえる。

2018/10/26(村田真)

1968年 激動の時代の芸術

会期:2018/09/19~2018/11/11

千葉市美術館[千葉県]

「1920年代」とか「1980年代」とかひとつのディケードをテーマにした展覧会はたまにあるが、それに比べて、ある特定の年に焦点を絞った展覧会は少ない。記憶にあるのは、目黒区美術館の「1953年ライトアップ」、東京都現代美術館の「よみがえる1964年」くらいか(両展とも1996年の開催)。展覧会というのは個展にしろテーマ展にしろ通史的に構成されるものが多いので、特定の年に絞ると時間的な推移が示せなくなるからだろう。一方で、地域性やジャンル間などの横との関係性が明確になり、時代性や社会背景を浮き彫りにしやすいメリットがある。ちょうど半世紀前の1968年が選ばれたのは、その年の美術を紹介したいというより、当時の美術を通して1968年という時代と社会を浮かび上がらせることが目的だったのではないかと思えてくる。

1968年というと、ノンポリのぼくでもパリの五月革命が思い浮かぶように、世界的な反体制運動の季節。日本でも全共闘などの学生運動やベ平連をはじめとする反戦運動などが盛り上がっていた。展覧会はそうした闘争を記録した東松照明や北井一夫らによる写真に始まり、橋本治による駒場祭のポスター、赤瀬川原平の『櫻画報』や「千円札裁判」の記録・資料、羽永光利による新宿風景やハプニングの写真、美共闘のガリ版刷りアジビラ、70年の万博および反万博の写真や資料、横尾忠則、粟津清らによる天井桟敷や状況劇場、暗黒舞踏の公演ポスター、つげ義春や林静一らの漫画、『プロヴォーク』の中平卓馬や森山大道によるブレ・ボケ写真、もの派や概念芸術の作品・資料まで、ざっと450点ほど。時代的には1968年を中心に、赤瀬川原平のいわゆる「千円札裁判」が始まる66年から、万博の開かれる70年まで幅をとっている。

よく半世紀も前のものをこれだけ集めたもんだと感心するが、お気づきのように記録写真や資料、ポスターや漫画などアーカイブやサブカルチャーものが大半を占め、いわゆる「美術作品」らしきものは少ない。もちろん写真も漫画もポスターも美術作品といえばいえるが、いずれも複製芸術であり、1点ものの絵画・彫刻となると、鶴岡政男の《ライフルマン》、山下菊二の《海を渡る捕虜服》、高松次郎ら「トリックス・アンド・ヴィジョン」の出品作、山口勝弘らによる環境芸術やインターメディア作品、李禹煥らのもの派の作品(再制作)など数えるほどしかない。まあ半世紀も前のことだし、当時はインスタレーションやパフォーマンスの先駆的作品が多く、作品自体がその場で消えて残っていないし、なにより「絵画」「彫刻」といった形式が風前の灯だったから仕方がないといえば仕方がない。その代わり勢いがあったのが、時代や社会を反映しやすい写真やポスターや漫画などのサブカルチャーだったというわけだ。見終わったときは美術展とは違い、資料の山にひととおり目を通したという快い疲労感が残った。

2018/09/18(村田真)

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『カメラを止めるな!』

[全国]

話題になっている映画『カメラを止めるな!』をようやく鑑賞した。なるほど、低予算でも撮影できるジャンルはゾンビものだが、これもそのセオリーを正しく継承した傑作である。謎解きのストーリーではなく、ネタばれという類の作品ではないので、映画の構成を説明しておく。まず第一パートでは、C級と言ってもよいであろう下手なゾンビ映画を見せられる。その内容は、ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが登場するというプロットだが、あきらかに不自然なシーンがところどころで発生し、なんとなく記憶に引っかかる。エンディングが流れたあと、第二パートが始まるのだが、それは第一パートのメイキングであり、不自然と思われたシーンが起きた原因が、じつは撮影現場のハプニングの連続であることが判明し、伏線がすべて回収され、笑いに転化してく。またカメラが上昇する俯瞰のショットだったエンディングは、ある種の感動的な場面として再定義される。

もっとも、この映画の最大のポイントは、「カメラを止めるな!」というタイトルが示すように、ゾンビ専門チャンネルのテレビで生中継されるワンカットの撮影であるという設定だ。それゆえ、現場で不具合が発生しても、絶対に撮影を中断できない。映画の映画である第一パートは、たとえ出来は悪くても、ワンカットゆえの独特の緊張感が持続する一方で、さらにメタ視点に立つ映画の映画の映画である第二パートでは、それがドタバタのコメディになっていく。何が起きてもカメラが執拗に追いかけること、そして全員の努力と協力によって作品を終了させることを通じて、映画的なカタルシスが醸成される。もとは舞台用の作品を翻案したという話だが、少なくとも「カメラを止めるな!」は映画というジャンルの本質に迫る面白さをもっている。なお、映画が終わったあと、エンドロールでは、第三パートというべき「本当の」メイキングが流れるのも楽しい。第二パートが偽のメイキングであり、もう一度、シーンの背景を異なる視点から再解釈できるからだ。

2018/09/15(土)(五十嵐太郎)

メディアアートの輪廻転生

会期:2018/07/21~2018/10/28

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

開館15周年を迎えた山口情報芸術センター[YCAM]。アートユニット、エキソニモとの共同企画展として、メディアアートの保存や継承について考える本展が開催された。コンピュータや映像機材などを使用するメディアアート作品は、物理的なハードの故障や、OSのアップデートなど技術環境の変化によって動かせなくなることも多く、保存修復や継続的な展示の難しさが近年の美術館の大きな課題となっている。本展では、YCAMと関わりのある作家100名以上に対し、「作品の死や寿命」と「作品の未来」についてアンケートを投げかけ、寄せられた回答を記したバナーを会場に吊り下げた。また、会場中央には、古墳を思わせる小山型をした「メディアアートの墓」を設置。その暗い内部には、作家自身が「死を迎えた」と考える作品の「亡骸」が、ガラスの棺に収めるように展示ケース内に陳列されている。観客は、オーディオガイドから流れる合成音声による説明を聴きながら、計10個の「作品の亡骸」と向かい合う(オーディオガイドの再生機器は、iPhoneやiPadに加え、ラジカセやポータブル音楽プレーヤーなど新旧のメディアから自由に選ぶことができ、「メディアの変遷自体も鑑賞経験を通して実感できる」というメタな仕掛けになっている)。



会場風景[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

「メディアアート作品の死や寿命」というと、ハードの故障や動作環境の更新を考えがちだが、そうした技術的要因に偏らず、バラエティに富むのが「出品作品」の大きな特徴だ。物理的・技術的要因に始まり、ネット環境や(情報)プライバシーに対する意識の変化、企業の意向、体験の一回性の重視、そして非物質的なコンセプトに至るまで、さまざまな「死」の要因が提示されている。例えば、ナムジュン・パイクの《ビデオシャンデリア No.1》(1989)に使用されていたモニター3台は、「故障」により取り外されたものだ。これは作品の構成要素の交換可能性の例だが、一方、パイク直筆のサインが施された別のモニターは、「交換可能な工業製品に唯一性のアウラが宿る」という矛盾を体現する。また、ネット黎明期に制作された江渡浩一郎の《WebHopper》(インターネット1996ワールドエキスポジションの日本ゾーンのテーマ館「sensorium」にて発表)は、ユーザーがアクセスするウェブサーバーの位置情報を可視化し、ウェブがまさに全世界的な通信網であることを示すものだ。だが、情報セキュリティに対する意識の変化によって展示不可能になったと判断され、「取り外されたハードディスク」が「亡骸」として展示された。一方、企業の技術的協力に依ることも多いメディアアート作品が企業側の意向により発表できなくなった例として、岩井俊雄の《サウンドファンタジー》(1994)がある。これは、ユーザーが画面上に描いた絵がサウンドに変換されるというスーパーファミコン用の音楽ゲームソフトだが、発売直前に中止となった。ケース内には、この幻のゲームソフトがパッケージやトリセツとともに収められた。また、エキソニモの《ゴット・イズ・デット》(2011)は、同名の語句が展覧会タイトルのように記されたポスターの作品である。実は日付に仕掛けがあり、開幕日が「翌日の日付」になったポスターが、毎日貼り替えられていた。「常に明日から始まる展覧会/永遠に始まらない展覧会」を想像することがこの作品の眼目だが、再展示した場合、「翌日」だった日付は「過去のある日付」を指し示し、「実在しない展覧会への想像」は「過去に実在した展覧会の証左」にすり替わってしまう。「コンセプトそのものの破綻」が本作の「死」の要因だ。

本展のポイントは、作品に「死」の宣告を下す判断を、生み出した作家自身に委ねている点だ。ここには賛否両側面が伴うだろう。作家の自作品に対する考え方が明確になるメリットがある一方で、実際の現場で「死の宣告/延命」の判断を下す主体は、キュレーターやコンサバターなど第三者であることが多いからだ。伝統的な絵画や彫刻は物理的な支持体や素材から成る以上、劣化や破損を免れえないが、美術館はその「生」を仮死状態に凍結させ、可能な限り「延命」を施して永続的な保存を目指してきた。だが、その「可能な限り未来へ引き延ばされた生」の背後に「死」が常に潜むことは、非永続的な素材を使用した現代美術作品やメディアアートによって加速的に示されてきている。

また、本展に対するもうひとつの疑問として、「輪廻転生」というタイトルと実際の展示内容とのズレや齟齬がある。作家自身の声に委ねているからこそ、(飛躍や再解釈、アップデートをも含んだ)「転生」のあり方の可能性を提示してほしかった。「保存修復」は後世の介入を最小限にとどめ、出来る限りオリジナルの状態を保持するという原則に依るが、作家自身が考える「作品のコア」をどう抽出し、どう現在の技術的条件でアップデートさせられるか。実験的な取り組みへのチャレンジを今後期待したい。


[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


展覧会公式サイト:https://rema.ycam.jp/

2018/09/02(日)(高嶋慈)

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試写『顔たち、ところどころ』

シネスイッチ銀座、新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか全国順次公開[全国]

世界中の建物や車両に大きな顔のモノクロ写真を貼り付けるストリートアーティスト、JR。その彼が、ヌーヴェルヴァーグの女性監督のひとりアニエス・ヴァルダとともに、荷台を巨大カメラに改造した車でフランスの片田舎を旅しながら、人々の顔を撮って作品を残していく道行きを描いたロードムービー。若くてスラリとしていつも帽子とサングラスを外さないJRと、小さくてずんぐりむっくりで髪の毛を2色に染めたおばあちゃんのアニエスの視覚的対比が、まず目を引く。なんでこの2人が一緒に旅することになったのかとか、最後にアニエスの旧友ゴダールに会いに行ったなんて話はこの際どうでもいい。興味あるのはJRがどこにどうやって写真を貼っていくかだ。

まず、さびれた炭鉱街で坑夫の昔の写真を借りて引き伸ばし、空家の外壁に貼る。ゴーストタウンに近隣住人の顔写真を飾ってパーティーを開く。浜辺に打ち捨てられたトーチカの残骸に、アニエスが昔撮った思い出の写真を残す(翌朝には満潮で流されていた)。積み上げたコンテナの表面に港湾労働者の妻たちの全身写真を貼る……。だいたいいまちょっとさびれていたり元気がなかったりする場所や人ばかりを選んでいる。なのにみんなよく協力してくれるもんだと感心する。ノリがいいというかユルいというか。途中ポリスが「写真を貼るのはいいが、足場を組むのはダメだ」と注意すると、JRは「罰金はアニエスに、ホメ言葉はぼくに」とかわし、ポリスもにこやかに応じる。こうした「ウィット」と「おめこぼし」精神が愉快で痛快なストリートアートを育んでいるのだ。そんなことがわかっただけでもよかった。

2018/08/29(村田真)

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