2017年12月15日号
次回1月15日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

新海誠展「ほしのこえ」から「君の名は。」まで

会期:2017/11/11~2017/12/18

国立新美術館[東京都]

国立新美術館に到着したら、チケット売り場は長蛇の列だった。新海誠展だけではなく、同時開催の安藤忠雄展がさらに会場を混雑させていたせいもある。展覧会の背骨としては、彼の名前が知られるようになった劇場デビュー作の『ほしのこえ』(2002)から大ヒットとなった最新作の『君の名は。』(2016)まで、各章で主要作を取り上げ、その絵コンテ、ロケハンの資料とそれを参考にしてつくられたシーンの比較、音楽、雨など細部のこだわり、使用機材の変化、背景や美術の設定などを紹介している。これに加え、別章では、CMや短編など、ほかの作品、海外における新海作品の波及、そして彼に影響を与えた本などを取り上げていた。興味深いのは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(1980)を挙げていたこと。新海は大学の講義で読んだらしいが、自明と思っていた人間の「内面」や「風景」が発見されたことに驚いたという。意外なように思われるが、個人と風景の直結は、彼の作品におけるセカイ系的な特徴と関連して考えられるだろう。

新海誠の表現と制作手法を見ながら改めて気づかされたのは、ピクサー展でも紹介されていたような、フルCGによって彫刻を動かすアメリカのアニメと大きく違うこと。すなわち、一部の作画では3DのCGを導入しているとはいえ、ときには40に及ぶレイヤーを重ねた動く平面絵画としての密度の高さである。そして浪漫的な風景画としての圧倒的な美しさだ。日本の地方の風景を描きながら、ハドソン・リバー派のような崇高性をかもし出す。ただ、注目すべきは、電柱や電線の表現だろう。これらは一般的に醜い景観の代表として政治家がよく槍玉にあげるものだが、むしろ彼らが好むクール・ジャパンの風景表現においては重要な景観要素となっている。これは庵野秀明のアニメや映画においても同様だ。おそらく海外からは、電柱こそが日本で見たい風景と思われているのではないか。

2017/11/24(金)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00042472.json s 10142139

ブレードランナー2049

丸の内ピカデリー[東京都]

ヴァニシング・メディエーター(vanishing mediator)とは、「あるエージェント(行為者)がある状態から別の状態への大きな変動や変化の条件をつくり出し、このプロセスが安定するようになると、それが目に見える場面からは消え去っていく運動」(上野俊哉「使徒と天使─ヴァニシング・メディエーター再考」『現代思想』1996年12月号、p.106)。スラヴォイ・ジジェクやフレドリック・ジェイムソンら、ポストマルクス主義の議論でたびたび参照された概念である。その主旨は、マルクス主義やラカン派精神分析が前提にしていた主体概念を批判的に相対化する点にあった。差異や矛盾を弁証法的に止揚する主体ではなく、それらの敵対性を仲介しながら安定と同時に消滅する媒介者。ポスト構造主義の思想の多くがそうだったように、この概念の射程にはある種の動的なダイナミズムや運動性が収められている。
本作はいまもカルト的な人気を誇る伝説的なSF映画『ブレードランナー』(1982)の続編。『灼熱の魂』(2010)や『複製された男』(2013)、『プリズナーズ』(2013)で知られるドゥニ・ヴィルヌーヴが監督した。その演出は美術や音楽などの面で前作の世界観をやや過剰に踏襲しすぎている印象が否めない。とはいえ前作のヒロイン、レイチェルをわざわざ当時の姿のまま登場させたうえで、あっさり拳銃で頭を撃ち抜いてみせたように、ヴィルヌーヴは前作を十二分に意識しつつ、前作の神話性をあえて切断することで、本作を2010年代の現代に示そうとしたのではなかったか。160分あまりを一気に見せる、傑作中の傑作である。
人間とレプリカント──。前作と同様、映画の全編を貫いているのは双方を隔てる境界線である。ただ、本作におけるそれは前作以上に曖昧なものに感じられるのが大きな特徴だ。人間であるはずなのに機械のように冷酷だったり、レプリカントであるはずなのに暴力の前後に涙を流したり、物語が進行するうちに人間とレプリカントを峻別する境界線が次第に酷薄になってゆくのだ。
結果として映画の中心に浮かび上がってくるのは、はたして人間が人間である根拠は何なのか、すなわち人間の条件を問う、きわめて根源的な設問である。前作において、人間として生きてきたレイチェルがじつはレプリカントであることを知り激しく動揺したように、本作において、主人公のレプリカント、Kはレイチェルから生まれた可能性に煩悶する。ジョーという人間らしい名前を得たとき、彼は人間とレプリカントの境界線上で不安定な均衡を保ちながら、内なる人間性を弄り出そうとしていたように思えてならない。だからこそ自らの生命が終わることを悟った瞬間、彼は人間としてのふるまいを選び取ったのである。ちょうど前作においてレプリカント、ロイがそうしたように──。
ロイとKが体現した人間的なふるまい。それが「消滅する媒介者」である。ロイはデッカードとレイチェルを、Kはデッカードと彼の娘を、それぞれ自らが消えることと引き換えに媒介した。それが、いわゆる通俗的な「滅びの美学」と重複していることは否定できないとしても、しかし、重要なのは、ロイにしてもKにしても、他者を媒介するという行為に人間の条件を見出したという点である。結果的に生かされることになるデッカードよりも、むしろロイやKのふるまいに鑑賞者の視線が惹かれるのは、両者がデッカード以上に人間らしいからにほかならない。映画の終盤で、降りしきる雪を全身で感じていたKは、消滅せざるをえない存在の寂しさを抱えつつも、媒介することの豊かな意味をかみしめていたに違いない。
「主体は(中略)潜在的には『消滅する媒介者』であり、一種の『複製=レプリカント』である」(上野、前掲書、p.119)。だとすれば、「消滅」の意味は必ずしも生命活動の終焉だけを意味するわけではない。それは人間とレプリカントを分類する基準が消え失せ、ひいては「人間」というカテゴリーが消失する可能性すら暗示している。そのとき、私たちはいったい何なのか。

2017/11/20(月)(福住廉)

レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル

会期:2017/11/18~2017/04/01

森美術館[東京都]

まず初めに暗い通路に通され、ゆるやかなスロープを上っていく。なにが起きるのか期待を持たせる憎い演出だ。広い空間に出るとボートが数隻プールにプカプカ浮かんでいる。《反射する港》と題する作品だ。しかしよく見ると、水面に映ってるボートの反射像が揺らがないので、実際には水がなく、ボートを上下対称につなげて揺らしているだけであることに気づく。いきなりカマしてくれるじゃねーか。ほかにも《教室》、《眺め》、《試着室》など趣向を凝らした装置がいっぱい。
最初はおもしろいけど、しょせんトリックアートにすぎない。と思っていたが、見ていくうちにそんな素朴な作品でないことに気づく。これらはいずれも絵画と関連の深い「窓」と「鏡」から発想されたものなのだ。最初の《反射する港》は鏡、マンション住人の生活をのぞき見る《眺め》は窓、迷路のような《試着室》は鏡といった具合。なかには《雲》のように窓とも鏡とも結びつかない作品もあるが、これは発想が陳腐だし、完成度も低い駄作だ。逆に窓と鏡の双方を結びつけたのが、最後の《建物》と題するインスタレーション。床に窓のあるビルの壁を再現し、観客がその窓に手をかけて横たわると、斜め上45度の角度に据えられた巨大な鏡に、窓から落ちそうな観客の姿が垂直に映るという仕掛け。観客参加型で、しかも撮影可能なインスタレーションだから、まさにインスタ映え。

2017/11/17(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00042161.json s 10141764

『ジャコメッティ 最後の肖像』

会期:2018/01/05

[全国]

試写会場でチラシをもらったとき、「あれ? これドキュメンタリー映画?」と勘違いしてしまったほど、役者(ジェフリー・ラッシュ)がジャコメッティそっくりだった。本人だけではない。アトリエの様子もいかにもジャコメッティらしいし、パリのカフェも半世紀前の雰囲気。どこまで実話に基づいた話か知らないけれど、いかにもありそうなお話ではある。アメリカ人の美術評論家ロードがパリ滞在中、老芸術家ジャコメッティに肖像画のモデルになることを依頼され、アトリエに赴く。すぐできるといわれたが、2、3日すぎても終わらず帰国を延ばし、1週間たっても完成せず再び帰国を延長、結局18日かかってしまった。というより、描いては消し描いては消しを繰り返す芸術家に我慢できなくなったロードが、策を巡らせて打ち切らせたのだ。そのあいだに繰り広げられる奔放な愛人や浮き沈みの激しい妻、アシスタントを務める弟とのエピソードを挿入したストーリーだ。
というと重苦しい映画だと思われかねないが、そんなことはない。むしろコメディと呼べるくらい笑えるのだ。これがほんとのジャコメディ、なんてね。まず笑えるのは、ジャコメッティの性格づけ。頑固で気まぐれで気難しく、酒と女が好きで悩んで絶望するのも好きというのは事実かもしれないが、いかにもありがちなアナクロ芸術家像だ。彼は制作中しばしばユビュ王のように「クソッタレ!」を連発しながら筆を投げ出し、頭を抱えるのだが、けっして深刻ぶることなく、むしろステレオタイプの芸術家を揶揄するかのようにユーモラスに描かれる。ほんのちょっとだが、イサクも出てくる。アイザックではなく、遺作でもなく、矢内原伊作。なんと奥さんと浮気しているのだ。しかも旦那公認で。いろいろな意味で楽しめる映画。

2017/11/15(水)(村田真)

アリン・ルンジャーン「モンクット」

会期:2017/10/28~2017/11/26

京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA [京都府]

アリン・ルンジャーンは1975年バンコク生まれ、2017年のドクメンタ14に参加するなど国際的に活躍する作家。繊細な映像とインスタレーションを組み合わせた複合的な作品を制作している。モノの移動や移民がもたらす地政学の書き換え、流通と消費の政治学、植民地化や異文化の接触といった近現代史の捉え直しの中に、個人的な記憶を交差させて現在と接続させるのが特徴だ。2015年の「PARASOPHIA:京都国際芸術祭」で展示した《Golden Teardrop》では、商品としての砂糖の歴史から西欧とタイの関係を再考。ヨーロッパから17世紀のタイに伝えられた砂糖菓子を、タイ在住の日本人女性がつくる様子を収めた映像に、彼女の祖父母が広島で被爆したことを語る声が重ねられる。写真など歴史資料を用いつつ、砂糖菓子の型をつくる工場労働者も登場するなど、作品は断片的で複数の語りへと開かれている。

本個展でルンジャーンは、西欧諸国が植民地支配を強めた19世紀半ば、シャム(タイの旧称)のラーマ4世が、自らの王冠を複製したレプリカを、ナポレオン3世に贈ったという史実に着目した(「モンクット」はタイ語で「王冠」を意味する)。映像の前半では、パリのギメ東洋美術館のキュレーターが、ラーマ4世とナポレオン3世それぞれの政治的な思惑と両者のズレについて語る。植民地化を回避するための友好的な外交政策として、また自らの権力を西欧に誇示しようとしたラーマ4世。一方、権力基盤の弱さを克服するため、遠い異国の主権者からの敬意を受けることで、自身の正統性や覇権を示そうとしたナポレオン3世。政治的な駆け引きの象徴となった「王冠のレプリカ」について語る声とともに、映像は、フォンテーヌブロー宮殿の豪華な室内を映し出す。ある若い男が無人の部屋をめぐり、ガラスの戸棚に陳列された「王冠のレプリカ」を見つけると、手持ちの3Dスキャナーで形状を読み取っていく。後半では、このスキャンデータを元に、「複製の複製」の王冠をタイの女性職人がつくる様子が映される。工房の様子や繊細な手作業の手元を映すカメラとともに、ラーマ4世の子孫にあたるという彼女の家系や、家業である伝統舞踊劇の仮面の制作、王冠に用いられる技法についての説明が語られる。また、彼女が制作した「レプリカをさらに複製した王冠」とともに、使用されたパーツや図面、ラーマ4世の外交使節を迎えるナポレオン3世を描いた絵画(複製画)や絵入り新聞も展示された。
ここで、ルンジャーンの手つきは両義的だ。一見するとそれは、東南アジアで唯一植民地支配を免れたシャム王国の威容を再提示する身振りにもとれる。一方で、国家の象徴たる王冠の「レプリカ」をさらに複製する、という二重の複製の手続きは、「オリジナル」から二重に隔たった距離を生み、「文化的アイデンティティの真正性」への疑義を呈する。また、「わざわざレプリカを元に複製する」という行為は、「オリジナル、本物には触れられない」という不可触領域の存在を示唆し、王室への不敬罪があるタイの政治的状況を逆説的に浮かび上がらせるだろう。そうした政治性を内包する一方で、手仕事に従事する女性へのルンジャーンの眼差しは、温かな敬意に満ちている。

2017/11/02(木)(高嶋慈)

文字の大きさ