artscapeレビュー

村川拓也『ムーンライト』

2023年02月15日号

会期:2023/01/12

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

出演者の逝去を受け、「主人公不在」という異例の形式で「再演」されたドキュメンタリー演劇。村川拓也の演出作品『ムーンライト』は、70代の視覚障害者の男性、中島昭夫と村川の対話の合間に、「ピアノの発表会」が挿入される構造である。青年時代にピアノを習い始めた動機、同じ頃に発症した目の病気、娘のために買ったピアノ、中島自身の子ども時代、母親の思い出、ベートーヴェンの「月光」に惹かれた理由……。村川に質問を投げかけられた中島が語る、人生を彩った楽曲が、複数の演奏者によってピアノ演奏されていく。この作品は2018年に京都で初演、2020年に東京で再演されたが、2021年に中島が急逝したため、2022年の札幌公演は、主人公がいない「不在」バージョンとして上演された。本公演も同様の形式である。「不在」は村川作品の重要なキーワードのひとつだが、「主人公不在」という新たなバージョンは、単に現実的な要請にとどまらず、『ムーンライト』という作品の射程をより多角的で豊かに拡張していた。特に要となるのが、後述するように、「マイク」の秀逸な演出が示す、ドキュメンタリー演劇それ自体へのメタ批判である。

舞台上には、下手にグランドピアノ、中央と上手に2脚の椅子が向かい合って置かれている。村川が登場し、作品の経緯を説明し、「中島さんはいないが、作品の構成は変えず、できるだけ前と同じように上演したい」と述べる。「では、中島さん、どうぞ」という村川の声。やや長い「空白の間」は、白杖をついた高齢男性が舞台上をゆっくりと歩んでいく時間を想像させる。村川は、対面の無人の椅子に白杖を立てかけ、座面にマイクを置く。そして、もう1本のマイクを握った村川から、目の前の「中島さん」に向けて質問が投げかけられていく。



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]


「今、客席はどんな感じで見えていますか?」「……」「あ、ほとんど見えていないんですね」。冒頭のこのやり取りは、「中島には観客が見えていない/観客には彼が見えている」という、初演バージョンでは存在した視線の非対称性を解消してしまう。それは、観客かつ晴眼者という二重の視線の特権性を手放しながらこの場に立ち会うことを意味する。また、「中島の回答の不在」は、「記憶の想起」という本作の核を二重化して強調する。初演では、村川のインタビューを受ける中島は、「過去を思い出しながら、現在時において語る」という二重化された時制のなかにいた。さらに本公演では、(筆者のように)初演を見た観客は、「中島が初演で何を話していたか」を思い出そうと、「初演時の記憶」を召喚して空白を埋めながら観劇することになる。

もちろん、初演を見た観客はすべての会話を記憶しているわけではないし、初演を見ていない観客もいる。だが、本作の構造が「モノローグ」ではなく「村川との対話」であること、さらに「中島が視覚障害者であること」により、中島の語りはまったくのブラックボックスではなく、ある程度輪郭を保って保存・伝達される。ここに「不在」バージョンの成立の鍵がある。村川は、対話相手の言葉を繰り返す「ミラーリング」のテクニックをしばしば駆使し、要所要所で「話の流れの整理」をし、「では、いま話してもらった○○の曲を演奏してもらいます」といった「進行役」を務める。また、背景のスクリーンには、中島の自宅のピアノ、子ども時代や大学生の頃の写真が投影されるのだが、「何が写っているか」が「見えない」中島に対し、村川は視覚イメージを「言葉」に置き換えて伝達するからだ。



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]


このことは逆説的に、「ドキュメンタリー演劇」を自己批判する事態へと変貌する。「インタビューに基づき、本人が出演して自身の言葉で語る」ものであっても、舞台上のやり取りは原理的に「何度でも再現可能」で「編集・再構成されている」ことをさらけ出すのだ。「中島が質問に答えて話している時間」を「適切に」取る村川は、「そこに中島がいる」フリでふるまう「演技」と区別不可能になっていく。また、しばしば質問から「脱線」してしまう中島に対して「○○の話はもういいので」と遮り、「ナマの会話では予測不可能なはずの脱線のコントロール」さえも「再現」してみせる。「ドキュメンタリー演劇」も「演劇」である以上、再現可能性と演出家のコントロール下に置かれていることの露呈。この原理的枠組みの強調により、「何が話されたか」は相対的に軽くなっていく。その極点としての「出演者の消去」がここに露出する。

「出演者不在」でも、「制御する演出家」さえいれば「ドキュメンタリー演劇」は上演できてしまうという暴力性。だが、村川は、この暴力性や権力性に対し、終盤の「マイクの仕掛け」により、極めて自覚的かつ誠実に向き合ってみせる。青年時代に目の病気を発症し、同年代で聴覚に障害を抱えたベートーヴェンに対して同じ苦悩を抱えた者どうしとして惹かれ、特に「月光」の曲が弾けるようになりたいと思ってピアノを習い始めた中島の人生。その語りの合間に、中島の娘、母親、ピアノ教師の役を務める女性たちが登場してピアノ演奏を披露する。そして終盤、中島自身による「月光」の演奏が『ムーンライト』のハイライトだ。「不在」バージョンでは、「白杖をもつ中島の腕」に手を添えた村川がゆっくりと舞台を横切り、ピアノの椅子に白杖を立てかけると、中島が演奏した「月光」の録音が流れる。だが、「演奏」は何度も途中でつっかえ、止まってしまう。「74歳になり、記憶が衰え、ここまでしか弾くことができない」と弁明する中島の録音音声が流れる。



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]


「不在」バージョンで唯一、「中島の声」が流れるこのシーンの最大のポイントが、「マイク」である。村川がマイクをピアノの椅子の上に置くと「中島の声」が流れる。ここで重要なのが、「中島が座っていた空白の椅子」に置かれたマイクBではなく、「村川自身が使っていたマイクA」であることだ。これは、演出家が握っていた「発言権・発言能力」の譲渡である。もし、単純に「マイクBをピアノの椅子に置くと中島の声が流れる」のであれば、それまでが「声の封印」という暴力的事態だったことの露呈にしかならないからだ。

1ヵ月前に再演された村川の『Pamilya(パミリヤ)』も、同様に「マイク」の戦略的な使用により、「日本社会で不可視化された要介護の認知症高齢者の声」が、外国人介護士との擬似家族的で親密な関係の中で確かに存在したことを、「抑圧と不在化」を潜り抜けた先に、倫理的態度とともに提示していた。本作でのマイクの転倒的な使用もまた、ドキュメンタリー演劇における演出家の倫理的態度の表明である。舞台上のやり取りが演出家によってどれほど「再構成」されていようとも、ここで中島が語ることは、「彼の記憶力の限界」すなわち「演出家・村川の支配できない領域」が存在することを示す。「途中でつっかえ、それ以上曲を弾けないこと」も含めて、「中島の人生で流れた時間の堆積」の尊厳を否定せずに示すこと。出演者の「不在」によって、『ムーンライト』という作品の輪郭はむしろクリアに浮かび上がったといえる。

なお、「出演者不在」でも、「演出家」さえ存在すれば、「上演」は成立できてしまうという構造は、同時期に上演された相模友士郎『ブラックホールズ』でも共通しており、同公演評をあわせて参照されたい。


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/96108/

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2023/01/12(木)(高嶋慈)

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