artscapeレビュー

菊地成孔+大谷能生『アフロ・ディズニー』

2009年11月01日号

発行所:文藝春秋

発行日:2009年8月28日

映画によって視覚が、レコードによって聴覚が、それぞれ自律した二十世紀。菊地+大谷は、この2つの記憶装置に「感覚が統合された後には絶対に思い出せないはずの、乳幼児期の『認識の分断』状態」を見る。二十世紀は、夢の記憶に似た、幼児期の経験の記憶が映画とレコードによって反復される時代。なるほど、ならばトーキーは、視覚と聴覚を再統合することで、この記憶を忘却する装置なのである。本書の白眉は、この再統合のあり方を通して(彼らはそこに「マリアージュ」という言葉もおき添える)、二十世紀以降の芸術、ポップカルチャー、文化現象が分類・分析されているところだ。しかも、それは優れたダンス論として読める。タイトルの「ディズニー」は、ディズニー初のトーキー『蒸気船ウィリー』を例に挙げながら、視聴覚の過剰なシンクロ(「ミッキーマウシング」という用語があるそうだ)の象徴として用いられている。対して「アフロ」は、「揺れ」と「ズレ」の象徴。この議論がとくに菊地によって〈なぜランウェイではハウス系の音楽が求められ、しかもモデルたちはそのビートを適度に無視するのか〉という問いへと展開する。その音楽とウォーキングのズレについて彼らは、北朝鮮のマスゲームがその完璧なシンクロによって永遠の価値=モード変換の拒否を示すのとは対照的に、ファッションショーの時空では、複数のモード(例えば、音楽とウォーキングのモード)が交差し、しかも見る者と見られる者という異なる立場の者たちの交差する「社交」さえもが発生しているのだ、と説く。きわめて刺激的な問題提起だ。ただし、本書の整理では、シンクロ=ダンスとあるのだが、むしろこうした「社交」の「ズレ」「揺らぎ」こそ、今日のダンスの優れた作家たちが模索している焦点にほかなるまい。(彼らも承知のことだと思うが)この点は付言しておきたい。

2009/10/30(金)(木村覚)

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