トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
8. 新しい発注形態に対応する建築家
天内──建築作品とは別の話をするとしたら、素材が浮上してきたという現象があると思います。木材を使った話、豊島美術館のような土をコンクリートの型枠として使った話や、岩見沢複合駅舎のレンガとレールを使った話もそうですけど、素材の浮上というのは現象としては把握できる気がします。それを整理する議論というのは藤村さん的な位置づけで、僕もその通りだなという気がします。
五十嵐──市川紘司らの編集する同人誌の『ねもは』 も「メタマテリアル」特集をやっていますし、関心は高いですね。
藤村──かなりベタ化したというか、即物的になったので、メタレベルでの流れというのはないように見えますね。
天内──僕も含めとっつきやすい所からやっているんだと思います。
五十嵐──藤森照信 の建築だって、構造や空間の形式とは別に、表面のテクスチャーが圧倒的な存在感を持つからこそ、一般の人からの共感を呼んでいるところがあります。
藤村──それは磯崎さんまでの都市へアプローチする流れが一度途切れて、伊東さん、藤森さん以後は都市から撤退して目の前の物質と格闘するというベタ化が進んでいって、それが大西麻貴 さんまで到達して拡散しきった、ということなのではないでしょうか。それが被災地でコミュニティと結びついているので、それは2011年の後に起こったことのように見えますが、どちらかというと90年代の総決算という意味合いもあるのではないかと思います。もう少し後になって新しい政治システムが本格的に動いてくると、ああいう流れは見えにくくなって、別の手法を持っていないと新しい発注状況、権力の型に対応できなくなる可能性があります。
──同時代の建築家も含め、95年以降の建築家のなかには、そういったベクトルを持っている建築家はいますか?
藤村──現在のところ、そういうガバナンスレベルでの議論で勉強になるのは都市計画や土木の人たちです。若い建築家たちはアートとコミュニティに関心が強すぎて、ガバナンスに興味がある人が少ないのですが、行政組織と仕事をするのは大学への依頼がきっかけになることが多いので、大学にいるタイプの人たちは今後強くなるんじゃないかという気がします。
五十嵐──一番若くて公共施設をやり始めている人はどんな人がいますかね。
藤村──乾久美子 さんが被災地で立て続けにコンペを取られていますし、平田晃久さんが釜石で公営住宅を手がけています。
五十嵐──コンペに勝って、七ヶ浜の保育所を手がけた高橋一平もそう。とするとやはり震災は機会にはなっているんだ。
藤村──くまもとアートポリス の一連の動きが、今の被災地の動きに飛び火しているように見えます。
くまもとや被災地のような特殊な枠組みでなくとも、若くして公共施設の設計者に選ばれるのは、シーラカンスの打瀬小学校あたりが最後だった気がします。ただ、これから公共建築の一斉更新が始まるので、シーラカンス のような回路も復活してくるんじゃないか。公共施設は60年が耐用年数とされていますが、事実上40年を過ぎると建替えられるケースが多いです。70年代以降に集中投資されたものが今後一斉に建替えになる。そのとき、建替えで施設の数を縮小して住民の政治的な状況をまとめつつ、「これがこの町のシンボルです」というものをパッと提示できる柔軟で実力のある建築家に対するニーズが、今後大量に発生するはずなんです。1990年代の打瀬小学校を「終電」とするならば、2020年代以降の動きは「始発」のようなものですが、私たちは今、始発と終電の間で始発に備えているのです(笑)。
天内──始発と終電の間ということは、今はネオンも落ちた夜なんですね(笑)。
藤村──そろそろ電車が動きだすかな、みたいな感じです(笑)。動き出してからが勝負です。
──大学の研究室で新しい建築家像が出現すると仰いましたが、大学の研究室で設計は可能なんですか?
藤村──東大などでは大学紛争以降、大学内で実務をやるということはタブーになっていましたが、東工大などでは主に住宅に限られていましたが、大学で設計を行うことが維持されています。
今、パブリック・プライベート・パートナーシップと呼ばれる新しい発注形態が生まれつつあります。現状ではワークショップや基本構想を準備するための費用を行政では弁償できないので、そうすると大学教育の範囲内での実習という形が有効なのです。今から10年間くらいの間は大学の枠組みが重要視されるのではないかと考えています。
小学校建築でいうと、以前は実施設計の費用しか弁償されなかったそうですが、新しい教育のあり方を議論するにあたって、85年に基本設計まで費用を弁償しましょうということになった。それで基本設計料というものが払われるようになったので、建築家が参加できるようになってきた。シーラカンスの90年代初期の活躍というのは、その制度的な背景を下にして成立していると聞きました。
土木のほうは道路を通すとか川を改修するときに、既にワークショップの費用を確保しているので、コンサルや民間企業が受注できるようになったわけですが、建築の方はそれを15年くらい遅れて追いかけていると思います。
五十嵐──今の大学モデルは古谷誠章 さんがけっこう活用しているのではないでしょうか。茅野市民館の膨大なワークショップは事務所だけだと大変ですが、研究室が関わってますよね。ほかに統廃合を前提にした庁舎のプロジェクトなどもありましたが。
天内──その状況は建築だけでなく美術も同様です。大学研究室が地域の便利屋さんになって細かいことを拾い上げて役所に伝えたりイベント化したりするといった流れが、この10年くらい起こっていると思います。さきほどの越後妻有みたいな地域おこしみたいな需要とも重なっていると思うんですけれども、発注から実現までの流れをある種実験的に辿りつづけているということがワークショップの近年の役割かなという気がするんです。大学の側も学問の存在意義に自信を失って、公の投資を受ける説明責任を果たさなくてはいけなくなっているので。
ところで藤村さんの議論は、建築家が社会の中でいかに発注を受けるかという職能論にもなっていると思うんですけれども、一方で建築家がどういうものを造るのかという議論は別個やらなければいけないことで、藤村さんに言わせるとしなくていいのかもしれないですけれども。社会や発注者といった要素が連動したかたちで建築家がどのような建物を生み出すべきなのか、この問いを視野に置きながら建てていく必要があるのかなという気がしています。発注の話は置いておいて、都市との関係、あるいは縮小する都市・集落とあるべき建築の姿形をどう繋げるかというのが、僕も何も答えはないのですが、考えるべきテーマのひとつだという気がします。
藤村──丹下健三さんの時代を思い起こすと、もともと丹下さんが戦ってきた状況というのは官庁営繕局の官僚組織の設計に対して、大学研究室を使って、RCラーメンの均質な箱という営繕部的な建築に対抗したわけです。現代で公共施設の統廃合みたいなことをやっていくとコストカットの理論が働くので、きわめて均質な、60年代の団地や学校建築からまるで進化してないようなものが出来上がってくる。それをどうやって個別の状況に適合したものを作るかというときに、さきほどの集合知的な考え方がヒントになるわけです。それは政治家にとって、コストカットと同時に色々な人のニーズを反映して満足度を高めることもできるので、歓迎されるものになるわけです。
それは表現としてはどう現れるかというと、色々な人の意見が入っているきわめてコンプレックスな、圧縮された表現になっていくはずです。ヴェンチューリ的に言うと多様で複合的なものになっていって、あまりピュアな単一の原理があって貫徹されたものにはならないのではないか。
その予兆的なものが新居千秋 さんの建築なのかなと思います。新居千秋さんはルイス・カーン の事務所にいて、ロンドンで官僚の仕事も経験して日本に戻って集会所などを作っているうちに、大分県の国見町でずっとワークショップをやってようやくホールをひとつ作る。そのあとホールをばんばん作っていくのですが、最近新居さんが強いのは、四角い箱でプロポーザルを取ってその後、住民と揉んでいって複雑な建築を作るという方法論を確立したことによって、「大船渡リアスホール」だとか「由利本荘市文化交流館」のようなものすごく複雑な形態を作っている点です。形態的にはものすごくコストがかかっているように見えるのですが、実は全体としては色々な施設を統合して、むしろダウンサイジングしているそうです。ああいう多様な圧縮された表現というのがこれからの建築表現の典型になるのではないかというような予想があります。
──被災地ではその方法は採れないのでしょうか。
藤村──今の政治状況がもう少し安定するまでは分かりませんけれども、とある自治体で打ち合わせを始めたところです。そこでは民間のシンクタンクに依頼をすると復興予算を使って巨大な箱をつくりましょうという結論になってしまうので、そうではない畳むほうのストーリーを作れる人が欲しいのだとのことです。
他方で私はいま目黒区とか相模原市とかさいたま市とか鶴ヶ島とか、都市近郊で委員会に参加したりプロジェクトを動かしているので、まずはそちらで実績を積み重ねるのが先かなと思います。
天内──問題を早く察知しているのが大都市近郊であるということなのですね。
──五十嵐さんは監修者としてで『3.11/after』 を刊行されましたが、それ以降、被災地の建築のあり方や制度的な変化はありますか。
五十嵐──最近は名古屋にかかりきりなので、あまりフォローアップしていないのですが、東北大関連だと小野田泰明 さんがキーパーソンになって、色々なところで建築家をインストールできるような場を作っています。また土木の平野勝也先生だとか都市計画をやっている姥浦先生を巻き込み、ArchiAid など建築をつなぐことを石巻なんかでやっていています。被災地はあまりに全体が膨大なので、全てが一度にひっくりかえることはないと思うのですが、そもそも土木と建築の対話がなかったということはお互いに分かり、今回はそうではない事例を少しでも作ろうとしています。一方で宮城県知事はとにかくスーパー堤防を作れと息巻いていて、どんなに批判されようとも俺のやっていることは歴史に残るんだというマッチョ主義になっています。僕はいまArchiAidの会合はあまり出られていないのですが、藤村さんはどうですか。
藤村──ArchiAidの実行委員を務めさせて頂いていますが、牡鹿半島での活動は、大学の活動として関わるのは困難だと判断して、震災一周年を期に辞退させていただきました。
五十嵐──ArchiAidが実効的に入り込んでいるのは、牡鹿半島や雄勝などの本当に小さい集落です。そういうところなら顔が見える範囲でのガバナンスが可能です。しかし釜石規模の大都市になるとそれが難しくなってくる。大きな都市計画のレベルでいま建築家が介入できるかと言えば、まだ心許ない。さっきの「くまもとアートポリス」的にいくつかのプロジェクトに建築家を投入できるというのであれば、くまもとと同様、伊東さんはまさに釜石で復興アドバイザーとなっています。
藤村──そうだと思います。ただしそれだけではサステナブルではなくて、インフラの統廃合のような全体像に関わる必要があると思います。
9. 建築史・建築論の展開
──天内さん、研究者として、建築的な批評あるいは建築史の新しい動向があればお願いします。また、影響のある建築家や理論家についてはいかがでしょうか。
天内──結局批評にせよ、研究にせよ、基本的には建築家がやっていることをフォローしていくという後ろから追走するというのがひとつの姿なので、何とか主義などといった旗竿を挙げて建築家を導くといった研究者や批評家の姿は想定していません。そういう立場からすると、最初の話と重なるかもしれませんが、今進んでいることがモダニズムの読み直しであり、その次にポストモダンの位置付直しというのが課題になってくるかと思います。しばらくはモダニストたちの動向を戦前から戦後、最近の時代に至るまでの一本貫いた歴史として記述することが課題になっていると思います。
それにあたって必要なことに「戦中」がひとつの壁になっています。やはり語りたがらない人が多いし、資料が残っていないというのもあります。物のレベルで救いになっていることが、近代住宅はオーナーがちょうど世代交代している時期にあり、最近クライアントが亡くなったり相続で家がつぶれるかというような瀬戸際にあると思うのですが、その中で資料を構築していく、あるいはそれをチャンスとして保存に振り向けていく営みが各地で行われているはずです。そういう話を積み上げていった結果、日本の中で建築家たちがモダニズムの時代をどのように乗り切ったかということが見えてくると同時に、21世紀の建築家がどうするかということも、パラレルなかたちで語られるようになっていくと思います。
基本的には建築家が動いてくれないと批評家はついていけないので、頑張って下さいとしか言いようがないのですが(笑)、それのためのカタパルトをみんなで整備していこうということは、研究者はみんな思っていることだと思います。
影響力のある理論家・建築家については、それはコールハースを乗り越えないと、力のある言説というのはなかなか出来ないのではないかなとは思いますが、コールハースを読み直す作業もまた別個に必要かもしれません。コールハース以後をどう捉え直すのか、あるいは『錯乱のニューヨーク』
藤村──そのためには情報化と日本の巨大建築史を語らないといけないと思います。霞が関ビルディングから大阪の梅田北ヤードの巨大開発まで、日本の近代化が集中的に現れた空間についての世界史的な整理をするのが必要なのではないかと思います。コールハースは外国人だということもあって、歴史を詳細に読むということはしなかったので。
他方で私が聞きたいのは、豊川斎赫 さんの研究をどう捉えるかということです。都市計画の方では中島直人 さんも、高山英華 以降の戦後都市計画史をまとめ、石川栄耀 の本を書いて、さらに大高正人の本を書いています。五十嵐さんが新宗教を取り上げられていたことと比較すると、当たり前すぎて誰も言わなかった王道について、豊川さんは取り組んだわけですよね。
五十嵐──豊川さんが次にどこに行くかは興味ありますね。あの論文というのはすごく賢いというか、最小限の努力で最大限の効率を出すときの発明的なテーマ設定だと思うんですね。とりあえず今は丹下さんの話でいろいろやると思うけど、性格的にずっと丹下研究者だけであるわけではないだろうし、本人は批評をやりたいのか、設計をやりたいのか、歴史研究をしていきたいのか、まだよく分からないところがあります。
藤村──豊川さんは「コールハースをやっている」と言っていますね。
五十嵐──設計者になるつもりなんですね。
藤村──そうだと思います。『錯乱のニューヨーク』をまとめたところだと言っていました。そこの理論を基に設計をしていくんだと。
天内──王道の研究が実はされていなかったという事情があるので、一人の戦略ももちろんありますが、建築史、あるいは建築の言説を扱う人にとっては、メインとなる戦後建築史の骨格を作らないことには話は始まらないということもあると思います。だって分離派建築会についての単著だって出たことがないという状況ですから。豊川さんがヒーロー丹下健三ではなくて丹下研究室というチームを取り上げたというのはひとつ壁を超したと思うんです。それと地方の実践であったり商業建築の実践というものを拾い上げながら全体像を描いていくことは、また別の段階なのだと思います。建築史の研究者はたくさんいるけれど、それは建築の実際の史料を掘り出すことが重要になってくるので、それをまとめあげるような仕事というのはまた別なところから生まれなければいけない。そこは数がそんなにいないのでコツコツとやっていかざるを得ないという所ですかね。それを支える土壌のような部分でも、建築学生もワークショップだ何だで本を読む時間もないみたいなこともきっとあると思うのですね。
五十嵐──やはりそれも時代です。やはりポストモダンのときは良くも悪くも、近代以前のものも含めた過去の歴史的なものをレファレンスしていたし、当時のトップアーキテクトである磯崎新さんがルドゥ—とかミケランジェロとかパラーディオとかコーリン・ロウとかを『新建築』で書いていたら、やはり当時の建築学生はこれくらいの固有名詞知らないといけないと思うとやはり読む。だけど今、伊東豊雄さんや妹島さんが文章を書いてもそういう固有名詞はまず出てこない。素直に「私はこう思う」という話だと、今の学生はたしかにその必要性を感じない。かつてはまさに教養の抑圧があって、蓮實重彦 みたいな人がいて、「知らないのは恥ずかしい」ことが成立していた時代から、現在は「知らないこと言っているアンタが悪い」みたいな状態になっています。ただ西洋建築史も本当は知識のレベルに役立つとかそういう話ではなく、それをめぐる膨大な研究と理論の蓄積があるので、モノの基本的な見方や解釈の仕方といったレベルで、いまのデザインを考えるうえでも価値を失っていないと思います。
藤村──大学で教えていて毎日実感します(笑)。今の学生は建築家のような近代的な主体が大嫌いなので「西洋建築史」にはアレルギーがあるかも知れませんが、「東洋建築史」などは大工的な職人の歴史なので、むしろすんなり聴くところがあります。
ただ、自分は少なくとも「1995年」という転換点を経験しています。1970年や1945年前後の動きを参照することは今のような不透明な時代を生き抜くための大きなヒントになると思うので、積極的に歴史の解釈を行なっていきたいと思っています。