トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
3. 展示物としての建築
五十嵐──今回あいちトリエンナーレで、建築出身だけれどアートプロジェクトをやっている作家が何組かいました。彼らに、なぜアートプロジェクトをやっているのか聞いたところ、アメリカのシアトルを拠点にしているレッド・ペンシル・スタジオ
藤村──アートや大学という、制度に守られた空間が表現の場としてフォーカスされるのは、社会構造の転換点で建築家にとっての広義の意味でのクライアント像が転換する時だと思います。丹下研究室が活躍したのも民主主義の体制のもとで新しい官僚組織が立ち上がっていった時期ですし、80年代のバブルのときのように発注状況が安定していれば分業体制を敷いてそれぞれのパートの精度を上げていけばいい。でも今のように民間と公共が混ざってプロジェクトごとに色々な出資の割合でものを作るというような新しい発注状況が生まれてくるときには、それが制度化されていない段階では社会実験をする場所として大学やアートが浮かび上がってきます。状況がもう少し安定してくると大学やアートはあまり注目されなくなってくるのではないでしょうか。
五十嵐──90年代くらいから若手のアトリエ系の建築家がどんどん大学の先生になるというのは、両方にメリットがあって、若手建築家はなかなか仕事のパイがなく、一方で大学の方も生き残りをかけているので、人気の建築家が入ったほうが学生も集まるわけです。今では当たり前だと思われていることも、そんなに当たり前のことではなかったような気がします。昔の大学は良くも悪くもアカデミックな牙城として存在していた。
天内──長谷川豪 さんがギャラリー・間から展示物をそのまま建築として被災地に持っていきました。通常は建築というリアルがあり、それを微分したものが展示物だと思うのですが、展示物がそのまま建築として実際にリアルに建つという事態は何なんだろう、というのがありました。それはギャラリー・間 が大学や美術館のようなインキュベーターのような役割を果たしたからということもあるし、被災地という特殊な状況もあったからかもしれませんが。
五十嵐──単純にそこから制作費が引き出せるケースもあると思います。assistant がやっているプロジェクトもせんだいメディアテークや青森のレジデンスで展示を行ないながら、各部分をつくり、それらを合体させて最終的な建築にしています。本来であれば単独でプロジェクトが成立すればいいんだけど、展示やワークショップの場をいくつか活用してそれの集合体として完成させる。それで言えば「スミレアオイハウス」 はもう10年前くらいですが、最小限住宅の増沢洵さんの9坪ハウスの軸組を展示で再現し、会期の後、廃棄するのはもったいないからそれで家を作ろうとして動きだしたのがきっかけですよね。
天内──展示物が建物になるという話をしましたが、一方で建物そのものが展示物になる例も数多くあって、それが観光資源になってもいるというのは、例えば「金沢21世紀美術館」にしても「十和田現代美術館」「青森県立美術館」もそうです。もちろん美術館として建築見学の対象になる分にはいいのですが、伊東豊雄さんの今治の「伊東豊雄建築ミュージアム」では「シルバーハット」 を見るためにみんな行くみたいなそういう変な状況も起こっていて、それがどう理屈の上に乗せられるかは分かりませんが、ある種建築物のアーカイブみたいなものが各地にバラバラに生まれている。建物もアーカイブ化しているという所は希望なのかな、というように見ています。
五十嵐──それはそれでツーリズムなんじゃないですかね。それ自体が新しい場所性をつくろうとするアイコン建築もそうだろうし、ビエンナーレやトリエンナーレが増えるのも、かつてのお寺・仏像巡りに代わって、アート巡りなら旅にでる若い層が確実に増えているからです。世界的にも建築そのもののコレクションという現象は起きています。ジャン・ヌーベル とザハ・ハディド と安藤さんで一つずつ美術館作らせるとかいうプロジェクトも、世界的な建築家による建築自体がコレクションの対象になる感じがあります。直島や犬島で起きていることも、そうですね。
天内──そうでもしないと、いきなり「KPOキリンプラザ大阪」 みたいに、活用できない建築だと判断されて潰されてしまうという状況がある。だから、観光でもツーリズムでも何でも来いという気がします。建築家が考えていたことを物から観察するというタイプの研究者の位置からは、アーカイブ化というのは歓迎すべき事態だというふうに僕は思います。
藤村──今、建築のことを論じる際にアートとの関係にばかり焦点を当て過ぎている気がします。建築家も美術館にコレクションされていくことに興味を持ちすぎている気がして、本当にそれだけなんだろうかということを時々思います。アートのネットワークはとても強いので、そのネットワークに登録するとある程度仕事が回ってくるということはあるでしょう。でもアートは投資用の商品という側面も大きいので経済状況に左右されやすい。別の回路も持っておいたほうがいいのではないかというように思います。
五十嵐──今、東京の新しい開発は、JPタワーや歌舞伎座など、しばしば隈研吾さんが何らかの形で関わっているけれど、隈さんはきちんと施主の要望に応えられる建築家なのでしょう。
藤村──黒川紀章さんは政治家に対してものを言い続けていたそうですが、隈さんはあまり政治家に興味を持っていないのではないでしょうか。他方で政治家は公共インフラをこれから一斉に更新するためにどうやって民意をまとめようかと頭を悩ませている。空間設計に長けた建築家のアイデアはすごく欲しいのだけれど、話ができる建築家が少ないという状況はあるのではないかと思います。
4. 建築家とアートプロジェクト
──藤村さんは、美術館の発注の方法が過渡的な段階になっていると発言されましたが、「青森県立美術館」や「十和田市現代美術館」などもその流れのなかにあるということですか?
藤村──「東京都現代美術館」が出来たのが1997年で、そこから「金沢21世紀美術館」や「青森県立美術館」が立て続けに竣工して現代美術館がブームになったという90年代後半から2000年代にかけての特殊事情があったのだと思います。
五十嵐──公立の施設で「現代美術館」という名前がついたのは、広島が最初なんですよ。黒川紀章による80年代の美術館トリロジーの三つ目の作品です。ビエンナーレやトリエンナーレの関係で言うと、「越後妻有トリエンナーレ」 や「瀬戸内トリエンナーレ」 が成立するのは高度経済成長期のときにはあり得ないモデルだと思うんですよ。人口はガンガン増えているし過疎化といった話も今のように起きない時代です。空き家もない。それどころか小学校にどんどん子供が増えている時代でした。ああやってアートが入ってくるのは明らかなに日本が違う社会のフェーズに入って、地方で人がいなくなって小学校がガラガラになって空き家が大量に出たからこそ可能になったことです。ある意味で予期せざるインフラが出現したことをうまく突いた形で越後妻有とか瀬戸内は動いています。一方であいちトリエンナーレは都市の中でやっているのでそこまで完全な空き家はなく、やはり生きている不動産なんです。一方、名古屋ほどの規模がない岡崎は、地方都市なので、昭和の雰囲気が色濃く残る空きスペースを使っています。
20世紀後半に一通り日本中に箱モノを作ったので、現在はその箱をどうソフトで使うかというところにシフトしています。ビエンナーレ、トリエンナーレがなぜ増えているかという理由として、自分が関わって思うようになったのは、箱モノだと一度作るとそのメンテナンスの費用がずっとかかりますし、かといって壊すのにもお金がかかる。ですが一応20世紀後半に各都道府県にある程度の文化施設は揃った。しかしまだハードを作るとそれはさらにランニングのコストを抱え込むことになる。そこでああいった芸術祭というのは違う税金の使い方として、ソフトでどう使っていくかにシフトしており、今の時代と非常に相性がいいと思います。さらに言うと手切れしやすい。つまりハコモノは作ってもずっと維持管理費がかかるけれど、ビエンナーレ、トリエンナーレはやめたらその瞬間から一円もかからない。コレクションもしないし、全てがそこで解散するから、今の日本の地方のお金のやりくりを考えると、そういうメリットが多分あるんだろうなと、穿った見方ですが。確か20代、30代女性が来場者の多くを占めるのですが、そうした層が新しい消費行動というかツーリズムを起こしている。多分その人たちは一回楽しいと思ったら基本的に反復するはずなので、今後40代、50代になっても続けるのではないかと思います。
建築家がなぜそこに入るかというと、現状復帰を前提としない越後妻有などはリノベーション的に空き家を半分壊してもいいような使い方さえできます。リノベーション的なプロジェクトになると、アートも建築の人も入りやすく、共通のプラットフォームを持つことができる。
藤村──「越後」や「瀬戸内」は中山間離島地域の町おこしという側面が大きいのではないかと思いますが、「あいち」の場合は愛知万博で盛り上がった市民活動を定着させるというねらいがあって、特殊だと思います。
大阪万博からはじまる一連の地方博ブームというものがあり、いわゆる広告企画型のものが続いてきたわけですが、これが日本の巨大開発の型になっていて、サンシャインシティでも恵比寿ガーデンプレイスでも天王洲アイルでも、真ん中に広場を作り、そこにソフトでどう人を呼ぶかという形で開発していくやり方があったと思います。しかし愛知万博では、地元の人が交流を求めて何度も通うというような動員の仕方が起こっていたと聞きます。人のつながりを求めてそこに通うといったソーシャルな動員がおきつつあるのではないでしょうか。
天内──それは越後妻有も一緒じゃないですかね。ボランティアの「こへび隊」を組織して、地元に何度も通ってもらうという形は同じです。瀬戸内は地中美術館や豊島美術館など大きな施設も建っていて、もしかしたら箱を持ってきて人を呼び込む型なのかもしれません。
藤村──豊島は建築自体が作品ですよね
天内──住んでくれなくてもいいから通ってくれというのが越後妻有のやり方です。おそらく愛知万博の場合はたまたま周りに人口がある程度いるため、市民型と呼べますが「通い型」と呼べる点では一緒ですね。
五十嵐──愛知万博は、実情からいうと地元の人が何度も通う大きな地方博として成功している。一方、瀬戸内の犬島は人口が100人を切った限界集落のような状態ですから地元のリピーターどころではない。越後妻有も居住者は多くないから、ボランティアも遠くの都市部から来てもらう。画期的だったのは、こんなに不便なのにその不便さをある種許容させることです。あいちが損をしていると思うのは、名古屋から岡崎は電車で30分で行けても、それでも遠いと文句を言われることです。しかしそんなことを言ったら瀬戸内とか越後妻有とかは、クルマでないと移動できなかったり、決して多くはない便数の船がないと島に渡ることができない。もっとめちゃくちゃ不便だと思ったけれど、あそこに行く人たちは、逆に不便であることをむしろ非日常的な体験とすることがうまく設定されている。それは一つの発見ですね。絶対に全会場は回れないし、全会場をつなぐ公共交通機関も一つもないし、あえて普段は体験しない面倒臭いことを楽しんでいるという。
藤村──越後では林道みたいなところをすれ違って校庭に車を停めていくのに、愛知は……。
五十嵐──あんなに公共交通機関があっても暑いだの何だのさんざん言われる(笑)。都市にいると便利なのが当然だから、少しでも不具合を感じると、どうしても文句を言われやすい。