トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
5. 建築展の変容と軌跡
──1997年に注目された建築展として「海市」展
天内──「海市」は同時代ではないのですけれども、やはりあの時の関心には、建築に複数の主体が絡むということがありました。つまり建築展というのが「海市」以前どのように行われたのかというのは分からないのですが、基本的には個人の署名があって、個人の作家としての建築家が自分の作品をずらっとならべるといったようなことが展示のあり方だったのだろうなと想像します。たまたま「海市」が終わった後、田中純さんに大学で授業を受けていた世代なのですが、複数の主体が絡む建築という雑多な対象をどのように展示という俎上に乗せられるのかということが問題意識だったと思います。その後さまざまなジャンルが絡んでくるというのは、建築を取り巻く人々の視野がだんだん広がってきた過程なのかと思っているんですね。ファッションが現れたり、他ジャンルといっても「船→建築──ル・コルビュジエがめざしたもの展」 など全く別のデザインソースからコルビュジエを検討したりする展覧会もそうです。建築が建築家の作品としてあった時代ではなくて、考え方やネットワークの一つの焦点として建築が浮かび上がってくるかたちに人々の建築像が変わってきたのかなという気がします。これは極めて狭い視野からの意見です。
藤村──「海市」はICCのオープニング展でインターネットがテーマのひとつだったのと思いますが、インターネット以後の展示というのは大きく言って二つあると思います。ひとつがインスタレーションでもうひとつがインタラクティブです。建築家はもともとその両方に関わっていたのだと思いますが、わりとインスタレーションに行った人が多かったと思います。自分はどちらかというとインタラクションに興味があるのでインスタレーションのほうにアプローチできていないのですが、その二つの傾向の起点が「海市」だったのではないかと思います。
「ヴァーチュアルアーキテクチャー」展は「アンビルト」 という意味も含まれていました。今はヴァーチャル、リアルというよりは深層と表層という形で棲み分ける形になったのではないでしょうか。
天内──あれはイメージとしての建築ということを主題にしたものだったと思うので、ある種、建築の人文学化みたいな方向がひとつあるという気がします。インタラクションとはやはり違うし、インスタレーションというほどのモノへの方向性もなく、イメージとして語るものですね。
藤村──やはり80年代の集大成のような展覧会だったのではないかという気がします。
天内──田中純 さんはそれを続けている人だと思うので、必ずしも消えた流れではなく、ずっと伏流している流れだと思います。
五十嵐──ちなみに「海市」はどのくらい予算があったのでしょうか。海外からも多くの建築家が参加して、とにかくすごいお金があったなと感じるのですが(笑)、アーキテクチャーオブザイヤーの展覧会も建築学会で毎年企画して、各ゼネコンから協賛金を集めて、最後は1996年の『磯崎新の革命遊戯』
一方で建築の専門ギャラリーであるギャラリー・間やGAgallery は、時代が大きく変化している割には展示の方法も方針はあまり変わっておらず、よく言えば安定していますね。昔に比べると、時代を反映して個別の展示予算は下がっていると思いますが、同じスタイルでやり続けている。それぞれの建築家がセルフキュレーションでやるというスタイルも変わっていない。
いわゆる公立の美術館などの大きなホワイトキューブでも、基本的に美術館には建築専門のキュレーターはいない。「スキン+ボーンズ展」 もロサンゼルスから持ってきたものですし、国立新美術館から担当の学芸員はつくのですが、美術の専門なので外部から僕が手伝ったりしました。96年に都現美でやった「都市(LaVille)展」 はポンピドーから来たものに東京の展示を加え、建築とアートが混ざっています。同じ美術館で鵜沢隆さんが監修したオリジナル企画の「未来都市の考古学展」 もやはり96年ですが、本来は開催されるはずだった世界都市博に合わせて企画されたものでしょう。90年代の終わりに、「建築の20世紀展 : 終わりから始まりへ(The end of century)」 という大きな、都現美をフルで使ったような20世紀の建築を振り返る大展覧会があって、あれは画期的だったと思います。しかし、基本的にはわれわれのコレクションではなくて海外から持ってきたものだし、森美術館の「アーキラボ──建築・都市・アートの新たな実験展 1950-2005」 にしても、フランスのサントル地域現代芸術振興基金(FRAC Centre)のコレクションを活用しています。確かに画期的な展覧会なものだったとは思いますが、海外のコレクションに頼らざるを得ない。そういう意味ではメタボリズム展だとか、「丹下健三展」 は日本の中で組み立てていったので、力作の展覧会だったと思います。また2013年に国立近現代建築資料館が誕生したことは、まだ小さい施設ながら、今後にとっては大きな意味を持つはずです。
──1995年頃から建築展が増えてきたわけですね?
五十嵐──1995年からというよりも、ゼロ年代に入り、インスタレーションを含む建築展が増えたように思います。国立近代美術館の「建築はどこにあるの?──7つのインスタレーション展」 は、同館が企画した大きな建築展としては四半世紀ぶりぐらいでしょうか。フランクフルトの建築博物館から巡回した1986年の「近代の見直し ポストモダンの建築1960-1986展」 以来です。僕がKPOキリンプラザ大阪で企画したアトリエ・ワン 、宮本佳明 、藤本壮介 、遠藤秀平 の展覧会も、空間を体験する大きなインスタレーションが入っています。
キュレーターの保坂健二朗 さんは、建築展はそれなりに動員数が見込めると言います。建築の学生はまじめだし、建築家は自分で作品や展示の管理をするのでキュレーターの手間もあまりかからない。もうひとつ、長谷川祐子 さんのように、空間体感型の展示を企画するキュレーターもいます。金沢21世紀美術館のオープニング展なんかは完全にそれでした。僕はある意味ではエンターテイメントだと思いました。小難しいと思った現代美術が、新しいタイプのアミューズメント施設として「体験して楽しいんだと」いうのを積極的に見せている。藤村君が言ったインスタレーション型は、建築的な素養というのも入りやすいかもしれないですね。
天内──豊田市美術館学芸員の能勢陽子さんは以前に田川市美術館で川俣正 のコールマインのプロジェクト を担当なさっていました。その経験から建築規模のものに関心を持ったのではないかと思われますが、建築と美術を架橋した川俣正の後しばらくそうした作家がいなかったと思います。最近インスタレーション型の建築家が出てきて、それは、建築と美術を架橋する第二のきっかけになるかもしれないですね。美術との架橋は建築にとって、発注や制作プロセスについてはあまり参考にならないと思いますが、形を決めたり、決めた形と人々がどう関係するか考えたりする上で、無駄ではないと思います。いわば建築側のトレーニング期間に見えるかもしれません。建築業界にとって造ることももちろん重要ですが、造った後も新たな見方や経験のあり方が生まれ続けると思います。街に対する経験を蓄積するというと、少し古い都市像を前提にしているかもしれませんが。美術の側は、むしろ発注や制作プロセスの部分を面白がっているので、これで芸術に対する考え方が変わっていくともっと会員制クラブみたいなものから自由になれると期待しています。
──藤村さんが企画した「CITY2.0展」
藤村──情報化について正面切って取り組んでみたいと思っていたことと、インスタレーションというよりインタラクションのほうの展覧会をやろうと思いました。磯崎新さん、カオス*ラウンジ 、名和晃平 さん、泉太郎 さん、日建設計さんなどいろいろな人に出展して頂きましたが、いずれもインタラクションをテーマにして頂きました。自分としては手応えがあったのですが、今のインスタレーション型の展覧会の流れからすると五十嵐さんには「説明読まないと分からないからダメだ、本にした方がいい」と言われて(笑)、「疲れる」展覧会になってしまっていました。
それ以降インスタレーションが自分にとっての課題だったのですが(笑)、青森県立美術館の「超群島─ライト・オブ・サイレンス展」 は会場も広かったので比較的うまくいったのではないかと思います。都心の狭いギャラリーで高密度に作っていこうとするとどうしても説明型になってしまうのですが、青森県立美術館では空間が広いのでのびのびできました。見ていただいた人からも「東京で見たときより全然面白かった」と言っていただきました。
天内──都市像を提示するというよりは、都市へのアプローチの仕方を提示したかった?
藤村──都市設計というものはこうやってやるべきだ、という設計論が多かったです。
天内──Google翻訳を繰り返すみたいなものですね。
藤村──そうです。Google的なものや、集合知、SNS的なものを直接テーマにするという展示がなかなかなかった印象があります。