トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
4. 映像を見る機会と場所の問題──シネマテーク/美術館/展覧会
阪本──1997年にICCが開館しました。浅田彰らによるニューアカデミズム的な背景を引き継ぎながらも、高度化された情報社会が実現されるという予想や期待を含みながら、メディアアートは一種の夢として、可能性を持ったジャンルとして捉えられていました。美術系大学でもメディアアートに取り組む学科が激増します。
越後谷──ICCができた頃のヴィデオ・アートやメディアアート関係者は、ようやく拠点ができたと、とても喜んでいました。ビル・ヴィオラ やナム・ジュン・パイク の作品アーカイブがあって比較的簡単にアクセスできるようになりました。また、常設展示もあり、原美術館などでやっていた一過性のイベント的ではない場所ができたわけです。
阪本──青山のスパイラルホールでやっていた「ビデオ・テレビジョン・フェスティバル」(1987年、89年、92年)など、中谷芙二子 さんを中心としたSCANの流れとも直接的につながっていると思います。
越後谷──他にも、「名古屋国際ビエンナーレARTEC」もありますし、それ以前だと、山口勝弘 さんや内山昭太郎 たちが「アール・ジュニ」というグループをつくっていましたね。
阪本──山本圭吾 さんたちが「ふくい国際ビデオビエンナーレ」(1985年から99年の計8回)をやっていたりもしました。状況を追っていくと「ビデオひろば」のメンバーや初期のヴィデオ・アートを関わっていた人たちが先生になり、教え子も増えていって、ICCの開館へ繋がっていったと言えます。
越後谷──ただ、携帯電話が普及して、固定電話が時代遅れのものになり、NTTの業績が悪化するとICCが制約を受けるようになります。それはおそらくNTTも予想していなかったと思います。
阪本──2005年にICCが休館されるという話がありましたね。多くのアーティストが反対したりして継続が決まりましたが、季刊『InterCommunication』は2008年に休刊になりました。企画展の活動もその頃から鈍くなります。それらの出来事はメディアアートの隆盛と一致しているような気がします。2005年の「アート &テクノロジーの過去と未来」展は、コンピュータアートやヴィデオ・アートをメディアアート前史と位置づけて、戦後日本のメディアアートを歴史化する重要な展覧会でした。この展覧会が2005年に行われたことも、歴史的に見れば偶然ではなかったかもしれません。
越後谷──1990年代から海外の国際展で映像を使った作品を多く目にするようになりました。つまり、大きな会場でも映像であれば壁一面に投影するだけである程度作品として成立するという側面があります。資材を持ち込んだり、お金をかけなくても成立するということです。メディアアートの流れとはまた別に、現代美術の作家で映像を使う人が出てきました。
阪本──1990年代からいろんな文脈が混乱してきていているので、ちょっと整理する必要があると思います。領域横断的な動きには新しいものが生まれてくるという良い面もありますが、商品のラベルを張り替えただけみたいな表面的な横断については、あまり評価できません。いま見られるような、現代美術の作家による映像の使用の増加は、たまたま結果としての作品が実験映画やヴィデオ・アートに似ていたとしても、ちょっと文脈が違うんじゃないかと思います。作家側としては区別はないかもしれませんが。
越後谷──それは劇映画と実験映画との線引きの問題に近いですね。歴史的な流れを整理して見る必要があるとは思います。ビル・ヴィオラとかゲーリー・ヒル など、かつては60分くらいの長いシングルチャンネルの映像をつくっていた人が、最近では展示向きの映像作品に移行しました。当初、ヴィデオ・アートの展示にはシングルチャンネルの映像をどう空間的に見せるかという問題がありました。最近では、石田尚志もどちらかと言えば美術家という扱いです。作家自身は文脈を横断していますね。
阪本──そうだと思います。あと、1960年代にはじまって1970年代にほぼ終息した、現代美術の作家によるフィルムやビデオの使用が、極めて刺激的な作品を多数残したことも付け加えておきます。ところで「文化庁メディア芸術祭」が始まったのは1997年です。この展覧会は行政がメディア・コンテンツを産業として後押しすることが目的で、いわゆるメディア芸術とメディアアートはイコールではありませんが。
越後谷──文化庁メディア芸術祭は、ゲームもアニメーションも漫画もありのゴチャ混ぜ状態で、美術関係者からはそれで良いのかという疑問を呈する声もあります。一方で、あれだけ継続的にやっているので、それなりに形になってきていますし、個々の作品を見ていくとテレビアニメであっても会場展示に耐える、違和感がないものもあります。文脈横断的な今の状況を端的に示す場でもあります。結果的にそうなっているのか、そういう場のせいでなっているのかはわかりませんが。
僕は個人的には無意味だとも、ゴチャ混ぜがダメだとも思っていません。一方で、ICCのように文脈を踏まえた施設が存続していくことも必要だと思います。
阪本──領域横断的な運動と文脈の形成、この両極が緊張した関係にあるのが生産的な状況だと思います。これが偏ると不毛な状況になったり窮屈な状況になりますね。先に述べたように、現代美術の作家による映像をめぐる文脈の混乱という状況がありますが、実験映画にもそのような混乱があると思います。例えば、今イメージフォーラム・フェスティバルに応募している若手の映像作家は、歴史としての実験映画を参照していないのではないかと思います。イメージフォーラム・フェスティバルは実験映画のためだけのものではなく、いわゆるインディーズ映画的なものを含むようになったと思います。
越後谷──作品を通して実験映画の文脈を学ぶ場がないせいもあると思います。イメージフォーラムは実験映画の定期的な上映スペースのシネマテークがあり、研究所という教育の場がありましたが、2000年に渋谷に移転してからミニシアターになりました。シネマテークは今も存続していますが、どうしてもミニシアターの方が施設としては主になってしまっています。シネマテークとしての地道な活動は見えにくい。
阪本──理想論ではやっていけないと思いますが、実験映画の歴史的な作品を見られる場所は、実質的にイメージフォーラムくらいしかありませんでした。
越後谷──アメリカでは大学のアーカイブがあり、授業でスタン・ブラッケージ やジョナス・メカス を見せていたりします。武蔵野美術大学にイメージライブラリーがあったり、日本に全くないわけでもありません。寺山修司 や伊藤高志 などのミニシアタークラスでの特集上映に耐え得るものは見る機会がありますが、それ以外のほとんどの人たちの作品は実際に見ることが困難です。
阪本──実験映画の作家の何名かは先生になって大学で教えているので、学生にはそれなりに紹介されていると思いますし、イメージフォーラムも頑張っていると思います。ですが、日本の美術業界、たとえば学芸員やキュレーターが実験映画に対して認知や関心が薄いことが問題だと思います。映像専門の学芸員やキュレーターはあまりいません。作家に文脈をつないでいこうという意志があっても、イメージフォーラム以外では限られた場所しかありません。実験映画の作家を紹介する受け皿としての場所がもっとあるといいですね。
越後谷──ヴィデオ・アートを検証する展覧会は結構ありますが、映画でもなく、美術でもない実験映画はそこらからも抜け落ちます。映画祭ではなかなかそういう特集は組まれません。もっと歴史をさかのぼってアヴァンギャルドの時代のものでされば、たとえばマン・レイなどは美術の展覧会に含まれます。
阪本──ロッテルダム国際映画祭でも実験映画は上映されますし、ニューヨーク近代美術館でもフィルム部門があり、海外では実験映像についての認知がありますが、日本では上映される場所も認知される機会もなかなかありません。
越後谷──日本の美術館には講堂が付属していて、講演会やシンポジウムをやっていますが、1990年代までは定期的に映像の上映会なども開かれていました。館によって、名画の特集だったり、展覧会のテーマに合わせた映画だったり、独自に実験映画の特集を組むところなどもありました。
1985年に埼玉県立近代美術館で「日本の実験映画25年」という上映会があり、当時、僕は東京から通い詰めて観ました。そこで集中的に作品を見られたことは自分の経験として大きいです。O美術館が1997年に開館して、一周年記念として「アニメ進化論──日本の実験アニメの現在」という展覧会があり、天野一夫さん(現在は豊田市美術館のチーフキュレータ)がインスタレーション作品の展示とともに充実した上映プログラムを組んでいました。イメージフォーラム・フェスティバルでも松本俊夫や奥山順一さんの特集が組まれたこともありましたが、今はなかなか……。
阪本──日本で実験映画やヴィデオ・アートを収集しているところは、横浜美術館、愛知芸術文化センター、福岡市総合図書館など限られています。上映会としても、写真美術館の「恵比寿映像祭 」、愛知芸術文化センターの「アートフィルム・フェスティバル」、国立国際美術館の「中之島映像劇場」などがありますが少ないです。美術館は、現代美術の作家による映像にはそれなりに関心は持つけど、実験映画やヴィデオ・アートそのものには関心が薄いということが、日本の美術シーンの問題だと思います。1950年代から60年代にかけての、松本俊夫、飯村隆彦、日大映研あたりの作品については、「美術にぶるっ!」の第2部として開催された「実験場1950s」(2012年)や、各地を巡回した「実験工房展」(2012〜2013年)、「ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展」(2013年)において取り上げられており、戦後美術の流れのなかで回顧する動きがみられますが、やはり限定的だと思います。
越後谷──愛知芸術文化センターも、1992年の開館当初にヴィデオ・アート作品を購入したのの、予算は徐々に減少し、現在、購入費はありません。僕の原点として、1980年代にさまざまな映像作品の体験があり、ヴィデオ・アートと実験映画と蓮實重彦さんの映画批評を同時に体験していました。その頃はヴィデオ・アートの熱き時代で、私はその末端にいたという感じでしたが、ブームはその後沈静化していった状況があり、愛知で仕事を始めるに当たっては、そのことを考えなくてはいけませんでした。そこで、やはりジャンル区分を一度フラットにして映像を見たらどうなるかというものが「アートフィルム・フェスティバル」(1996年〜)でした。やはりヴィデオ・アートに特化した特集は、1990年代では困難でした。僕が採用された当時は、事務系の職員の方も「ヴィデオ・アート」という言葉を普通に使っていました。新しい文化施設をつくる仕事の従事者なので当然かもしれませんが、ブームがまだそう遠い時代ではなかったので、ヴィデオ・アートという言葉は一般にも浸透していました。「オリジナル映像作品」という、愛知芸術文化センターによる自主制作の企画も、当初は「オリジナル・ヴィデオ・アート」という名称でしたが、その言葉をあえて使いませんでした。ヴィデオ・アート系の作家だけを対象にしては限られてしまうし、フィルム系の作家も登場できるようなフレームにしないと厳しいと思っていました。一度二度ではなく、継続的にやっていくわけですから。
「映像」という言葉はそれこそ松本俊夫さんが最初に使われたと言われています。彼は映画でもビデオでも劇映画でも実験映画でもないものをやっていますね。
阪本──松本俊夫さんの仕事は昔から脱領域的ですね。
越後谷──ナム・ジュン・パイクはヴィデオ・アートのパイオニア、原点ですね。やはりよく名前は登場しますし、彼の出版物は版を重ねて今でも売られていますね。愛知芸術文化センターでもパイクの作品をコレクションしていて、アートフィルム・フェスティバルでも繰り返し上映していますが、ブームの頃のような爆発的な集客力はないものの、今でもお客さんが集まって、ちゃんと見られています。
阪本──亡くなった2006年にもワタリウム美術館で「さよなら ナム・ジュン・パイク」がありましたが、今や歴史となった作家ですね。
越後谷──やはり1984年に東京都美術館で「ナムジュン・パイク展 ヴィデオ・アートを中心に」があったことはインパクトが大きかったですね。「TVガーデン」や「V-yramid」などの作品が展示されていて、ヴィデオ・アートとは何かということが、理屈ではなく、一目瞭然でわかるといった体験でした。「TVガーデン」などは、テクノロジーと自然が、あまりにも大胆に融合しているので「こんなのあり?」と思いました。同時期に西武美術館で「ヨーゼフ・ボイス展 芸術の原風景」展があり、ふたりが共演したパフォーマンスがありました。僕はちょうど学生になった年で、現代美術という言葉を初めて聞いたくらいでしたが、それらを見たら一発でわかったという体験でした。多分、そういう1980年代の企画が、今、現代アートが受け入れられている下地になっていると思います。
阪本──最近ではナムジュン・パイクとのコラボレーションで知られる阿部修也 さんの「パイク・アベ・シンセサイザー」の実演が早稲田大学の総合人文科学研究センターで開催されています。ここにはビデオアートセンター東京の瀧健太郎 さんが共演していました。瀧さんや河合政之 さん周辺は、近年、こういったヴィデオ・アートの再定義を積極的に試みており、歴史的な文脈は続いているのだなと実感します。韓国には「ナムジュンパイク・アートセンター」ができましたね。
越後谷──韓国では国民的英雄ですね。彼がそれを望んだかどうかはわかりませんが……。
阪本──先ほど文脈の混乱を批判しましたが、不毛な混乱ではなく、文脈が交錯して新しいものを生み出すような混乱は歓迎です。そういった例としては他に何か思い浮かびますか?
越後谷──つくり手側からすれば、区別なく映像に向き合っている人がいると思います。酒井耕さん、濱口竜介さん監督の『なみのおと』(2011年)も、東日本大震災の被災者へインタビューしたビデオ作品ですが、小川紳介 や土本典昭 のように現場に密着して撮ったという点で、正統的なドキュメンタリーの文脈につらなる作品です。一方、ヴィデオ・アートでも、1970年代に中谷芙二子さん、小林はくどうさんによる『水俣病を告発する会 テント村ビデオ日記』(1972年)などのドキュメンタリーがありましたが、『なみのおと』が試みた長時間インタビューする手法には、ビデオが記録に向いているというメディア的な特性も反映されていると思います。
阪本──ビデオには、ベトナム反戦運動の時期に市民のオルタナティヴ・メディアとして、社会的な運動や発言を媒介する役割がありました。それはヴィデオ・アートの重要な側面です。
越後谷──マイケル・シャンバーグとレインダンス・コーポレーションによる『ゲリラ・テレビジョン』(中谷芙二子訳、美術出版社、1974年)という本がありますね。
僕の目で見ると、酒井耕さん濱口竜介さんはヴィデオ・アートを意識してはいないと思いますが、作品そのものはヴィデオ・アートの文脈から解釈してもいいんじゃないかと思っています。歴史を踏まえて文脈は語られていくものですが、その上に、個々の視点や語り方がありえると思います。
イメージフォーラム・フェスティバルは初期からビデオ・インスタレーションなどもやっていますが、やはりあくまで上映が主であって、展示は会場のパークタワーホールの控室ですから、発表する側にとってはやりにくいところがあると思います。恵比寿映像祭は展示と上映が並立してあり、同じようなボリュームなのは画期的でした。かつ、イメージフォーラム以外の場所で実験映画に触れることができることや、継続性も大きいですね。
阪本──恵比寿映像祭について述べておくと、映像作品のコンペを行わず、様々な文脈を背景としたプログラムをゲストキュレーターを入れながら組んでいることが、あの映像祭の最大の特色だと思います。恵比寿映像祭で、今までで一番良かったのが、ジム・オルーク がキュレーションをした「四稜鏡(プリズム) スクリーンの四辺に光満つ」というプログラムです。ジム・オルークはミュージシャンとして著名ですが、カルト映画や実験映画にもかなり詳しい人です。彼は、ウォルター・デ・マリア『ハードコア』、ビバリー・グラント&トニー・コンラッド『ストレイト・アンド・ナロウ』、アーニー・ゲア『サイド/ウォーク/シャトル』、カーク・トーガス『知覚の政治学』という4つの映画を選んでいました。それらを「コンクレート・シネマ(具体映画)」と呼び、直接的に観客の知覚や認識を混乱させるものとして選んでいました。ジム・オルークを介して、音楽好きの層に実験映画を知ってもらう良いきっかけだったと思います。彼が選んだ作品は、実験映画の用語でいえばガチガチの構造映画 ばかりだったので、かなりハードコアでしたが。
イメージフォーラムだけでなく、他にも実験映画やヴィデオ・アートを扱える映像祭があることは良いことだと思います。恵比寿映像祭は「映像」と謳っているからこそ、写真もフィルムもビデオもテレビドキュメンタリーも含むことができます。テレビドキュメンタリーは大島渚 などの映画監督も手がけていますし、村木良彦 の仕事も含めて、これから研究されていく分野だと思います。
越後谷──山形国際ドキュメンタリー映画祭やゆふいん文化・記録映画祭でテレビドキュメンタリーが取り上げられたりすることはありましたが、恵比寿映像祭のような、より広い枠組みから取り上げられると、また別の意味が生まれますね。
有楽町の読売会館(そごう8階)にドキュメンタリーをずっと上映している場所がありました。その「日本映像カルチャーセンター」の牛山純一 さんが持っていた映像は、川崎市民ミュージアムに受け継がれました。川崎市民ミュージアムは映像を扱う公立美術館としての先駆け的存在であり、重要ですね。
阪本──川崎市民ミュージアムは映画にとどまらず、ビデオやテレビを専門にする学芸員をおいて研究を進めるなど、重要な役割を果たしていますね。
越後谷──テレビドキュメンタリーはその放送を見逃したらなかなか見る機会がありません。また、地方によってはネットされていないこともあります。フジテレビの深夜に「NONFIX」というドキュメンタリー番組の枠があって、森達也 さんの『放送禁止歌』(1999年)をやっていたりしました。しかし、「NONFIX」は名古屋では放送されていなかったため、「放送禁止歌」は半ば伝説のように語られていました。そのため、名古屋シネマテークで『A2』(2002年)を上映するプレイベントで「得三」というライブハウスで『放送禁止歌』の上映会があったのですが、メインの『A2』よりもそちらの方が人が集まってしまいました。