トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
3. 個々の作家による映像作品へのスタンス
阪本──ジェームズ・ベニング
越後谷──カメラを魚とか鳥に取り付けていて、まさに魚の眼、鳥の眼という、すごい視覚を提示していましたね。『リヴァイアサン』は公開前から情報が伝わってきて、関心を持っていました。確かにすごいと思いましたが、一方で「こういうカメラがあるのでやってみました」というニュアンスも感じました。それはある種の清々しさや健全さ、気持ちよさでもありましたが、作品としてはまだ荒いとも思いました。漁船の過酷な労働などが生々しく捉えられていて、『鉄西区』(2003年)などのドキュメンタリーを監督した中国の王兵(ワン・ビン)に近いものも感じましたが、やはり撮られた映像のインパクトをどう構成していくのかについてはまだこれからだと思いました。
ジェームズ・ベニングについては、ハイビジョンを用いるようになった裏話として、現像所とトラブルがあったからだとも聞いています。かわなかのぶひろさんなどの作家もフィルムからビデオへ移行した理由として現像所の問題を挙げています。自分が思っていたような画が仕上がってこないという現像所への不信感があったそうです。そもそも現像所で扱うフィルムの量が少なくなって、一定の技術的水準を保つのが難しいという側面があるようです。
阪本──そういった制作条件の話以外にも、ベニングが風景映画を撮るようになって変わった部分もあると思います。観客としての実感で言えば、何の変哲もない映像でも高解像度だと一時間見ていても飽きないんですね。16mmよりもレンジの広いクリアな映像で、情報量の多さを感じます。
越後谷──確かにそれはあると思います。森をずっと撮っていても、木々のゆらめきや光の変化があり、高画質でないと、そういった映像の質は得られなかったと思います。16mmのフィルムが危機的ではありますが、今はフィルムで映写するよりもビデオに変換した方がクリアだという状況になってきています。どんな映写機を使うかとか、プロジェクターのクオリティといった条件にもよりますが……。
阪本──牧野貴 さんは8mmやフィルムの一眼レフで素材を撮って、それをデジタルに変換して実験的な映像をつくっています。そういったスタイルが可能になったのは、フォーマットの解像度が上がったこと、制作環境の変化という背景があります。フィルムのスクラッチノイズや細かい粒子の運動がデジタルに置き換えられていて、スクリーンで見ていても、フィルム上映かデジタル上映か分からなくなります。
越後谷──牧野さんは批評家よりも端的に、映像の現在ある状況を、作品として提示できる作家だと思います。フィルムかDVかということではなく、表現したいものをどの手法で実現できるのかという現実的な選択をしています。フィルム的質感といったフェティシズムに溺れるのではなく、非常に正直にメディアに向き合っています。
阪本──新しい技術に飛びつくのでも、古いメディアにしがみつくのでもなく、状況に対して冷静ですね。牧野さんの映像はレイヤーが大量に重なっていますが、フィルムであれをやることは困難で、あれだけ多く重ねると、どのレイヤーもクリアに見えるということはないと思います。
越後谷──フィルムとビデオの移行期には、ビデオで撮影して、フィルムにして完成させるということがありました。たとえば、大木裕之の『3+1』(1997年)は、作品のベースになるコラボレーション公演『舟の丘、水の舞台』(1996年、於:愛知芸術文化センター・フォーラムⅠ)の記録をDVで撮り、ロケーション撮影した8mm・16mmフィルム、Hi-8ビデオの映像を重ね、最終的にしていました。当時はその方が画質は安定していました。ところが今はフィルムに変換すると逆に画質が落ちますね。牧野さんはフィルムにこだわってはいないから、デジタルで完成だというスタンスです。
阪本──アニメーションでのここ10年の新しい動きはどうですか。
越後谷──1960年代から自主制作と呼ばれるものは連綿と続いてきました。たとえば、16mmで実験映画をつくっている古川タク さんがいます。そういった流れがありましたが、1990年代のデジタル化によって現像処理をしなくてすむようになり、つくりやすくなりました。ビデオではコマ撮りがやりにくくて、アバウトなコマ撮りでアニメーションをつくってしまう人もいて、それはそれで味がありましたが。やはりデジタル環境になり、つくりやすくなって、自主制作の作家の裾野が一気に広がったと思います。
阪本──アプリケーションが安価になり、AdobeのAfter EffectsやAdobe Premiereが一般化して、2000年には「デジタル・スタジアム」が始まって裾野が大きく広がりました。
越後谷──1990年代に登場した石田尚志 さんは元々は画家で、絵の中に運動や時間を導入したいということで、フィルムを学び、両者が融合したアニメーションへ移行していきました。私の見方では、石田さんは『部屋/形態』(1999年)や『フーガの技法』(2001年)まではフィルムにこだわる人だという感じがしていましたが、デジタルへの移行も意外にスムーズでした。牧野さんとはまた違うメディアとの向き合い方だという気がします。つまり、石田さんの作品自体もデジタルの導入に伴って変わっていきます。ドローイングの線を動かしたいということで、一枚一枚描いてアニメーション化していたのが、ドローイングを描くことそのものを一種のパフォーマンスのように提示する表現になりました。厳密なアニメーションという観点からは、雑に見えるところもあるかもしれませんが、元々画家だったことを考えると、ある種の原点回帰かもしれません。彼は元々、描くことそのものを提示したい、という志向があった。彼は、映像を手がける前に路上でライブペインティングをやっていましたが、絵よりもその行為に観客の目がいってしまうので、自分の身体を消してしまって、自分ではなく絵を見てほしいという欲求があって映像に向かったと言っていました。動機からさかのぼって考えると、今の作品はそれがようやく形になってきている感じがします。大山慶 さんら、CALF(カーフ) の作家とは微妙に世代が違いますね。
阪本──石田さんはCALFとも山村浩二 さんのようなアニメーション作家とも少し違っていて、あまり比較できる人がいません。私は、相原信洋 さんと石田さんのふたりはアニメーションの異端だと思っています。
越後谷──相原さんと石田さんは一緒にライブペインティングイベントをやっていましたよね。石田さんは相原さんを敬意を払っていましたし、相原さんも描くことそのものをアニメーションにしようとしていました。相原さんの『STONE』(1975年)は、屋外で延々絵を描いていて、そのままアニメーションになるようなものでしたね。
阪本──あれは一番いい作品ですね。アニメーションという枠組みにとらわれず、動くことの喜びや驚きに素直ですね。
こつこつと動画を描いてゆくような、職人的なアニメーション作家ではどうですか。
越後谷──大山慶さんは、紙に描いてスキャンしてデジタル化するのではなく、パソコンに直接ドローイングした上で、人間の皮膚とかを実写素材で取り込み、細かく分断した上で、キャラクターの肌のテクスチャ等に再構成していく、という方法です。彼もデジタルとアナログを超えてしまったというか、ちょうど境界線にいるという意味で新しい作家だと思います。また、彼のような作家が、伝統的なアニメーションの文脈にも連なるところから出てきている点がおもしろいと思います。
辻直之 や和田淳 は、もっと純粋なドローイングアニメーションの作家といえるでしょう。しかも抽象表現の石田さんとも違い、漫画のニュアンスが入っていたり、キャラクターのかわいらしさがあったりして、一般にもアピールする側面があります。彼らはどちらかと言えば、伝統的なスタンスに近いのかもしれませんが、1970年代のフィルム時代の実験映画だと、動画の枚数を必要とする動き主体で見せるアニメーションは大変だったので、どちらかというと止まった絵で見せていくものでした。動きのおもしろさやアニメーション特有のメタモルフォーゼや変化を見せることを追及するのも、1990年代以降の作家の特色ですね。
アニメーションで言えば、クエイ兄弟 が1980年代に日本で紹介されて衝撃的でしたね。それまで、1秒24コマで動かすという、クオリティの高い動きを見せる実験アニメーションは日本にありませんでした。クエイ兄弟はその後、実写の制作をしたりもしましたが、今でも人気があってある種神話化されています。ヤン・シュヴァンクマイエル も1960年代から制作を続けていますが、改めて光が当たってポピュラーになったのは1990年代からです。それまでは「広島国際アニメーションフェスティバル」や、自主上映会をマメにチェックしなければ見られなかったものが、ミニシアターでかかるようになったことが大きかったと思います。テレビアニメーションのように色が均質なセル画でなくても良いとか、ラフな線でも良いとか、すごく刺激になったと思います。シュヴァンクマイエルのアニメートは結構アバウトで、似たような映像を並べて意図的にギクシャク動かしたりもしていますが、ちゃんとアニメーションとして成立してしまうのはすごいと思います。
阪本──1990年代のデジタル化によって、商業アニメ的な表現をベースとして、個人レベルで作品をつくる人が出てきたのも新しい現象です。『ほしのこえ』(2002年)の新海誠 や、吉浦康裕 のような作家が出てきました。今の学生は、そういった商業アニメ的な表現と、シュヴァンクマイエルやクエイ兄弟のような表現の区別はあまりなくて、単にスタイルの違いとして捉えていると思います。
越後谷──ヴィデオ・アートを学んでいた学生が蓮實重彦の本を読んでいて影響を受けたという話もありましたが、見る側やつくり手はあまり区別がなくて、おもしろいものはおもしろい、取り込めるものは取り込むという態度だと思います。
僕の実体験から言うと、先日引退宣言をした宮崎駿さんは、かつてNHKの『未来少年コナン』(1978年)や映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)を立て続けに発表したことが衝撃的でした。それ以前のテレビのアニメーションは、動きを省力化して、ストーリーのおもしろさで見せるという方向性でした。宮崎さんは動きそのもののおもしろさを提示し、その後のアニメーションの展開につながっていきました。それは自主制作の作家にも影響していると思います。裏話的なことですが、実は石田尚志さんも『カリオストロの城』が大好きで、台詞を全部言えるそうです。
最近は、深夜アニメで実験映画に近いものもありますよね。
阪本──今でいうと『魔法少女まどかマギカ』を制作しているシャフトの演出なんかがそうですね。1990年代の『新世紀エヴァンゲリオン』TV版最終二話の演出あたりから、商業アニメの定型を外した演出が広まったように思います。
越後谷──『エヴァンゲリオン』に登場する敵〈使徒〉は、従来の怪獣的なものではなく、抽象的なオブジェのようなデザインでしたし、『まどかマギカ』の魔界の描写は実写素材を取り込んだりして、自主制作アニメーションのような感覚がありました。アニメのつくり手が実験映画やゴダールを意識しているのかはわかりませんし、知らぬ間に取り込んでいるのかもしれませんが、それらは不即不離なものだと思います。
阪本──僕らはつくり手のアウトプットを遠くから眺めて、どうしても分類的にジャンル化して見てしまいますが。
越後谷──映画は蓮實重彦さん以降の世代が、画面を細部にわたって分析していく研究を色々されていますが、細かくなればなるほど語れるジャンルが絞られてしまいます。例えば、『アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブ』(2003年、河出書房新社)の編著者・平沢剛さんは、足立正生 ら1960年代のドキュメンタリー系で実験的な活動を行っていた作家に再び光を当てた、という点で非常に有意義な活動を行いましたが、イメージフォーラムに代表される実験映画系の作家はほとんど取り上げていません。