artscapeレビュー

粘土の味『オフリミット』

2018年02月15日号

会期:2018/01/26~2018/01/28

京都芸術センター[京都府]

笑っていいのか笑えないのかの瀬戸際の不条理な世界を上演する「努力クラブ」主宰の劇作家で演出家の合田団地。一方、多和田葉子の小説やテレサ・ハッキョン・チャによる多言語の実験的テクスト『ディクテ』など、「戯曲」以外のテクストを上演台本として使用する「したため」主宰の演出家、和田ながら。京都を拠点に活動し、作風の異なる気鋭の2人が今回組んだユニットが、「粘土の味」である。合田の書いた戯曲に対し、和田は演出家としてどう応答するのか。

『オフリミット』は、積極的に生きることを放棄した男に起こる不条理ともラブコメともつかない物語だ。誰からも必要とされていないと厭世的になり、仕事も辞め、しかし絶望というには微温的な日常を引きずり、「貯金がなくなったら死のう」と思って公園のベンチに座り、日々をやり過ごす。そんな男に、自分も孤独だと言う女が声をかける。詐欺を心配する友人を尻目に舞い上がる男。デートで距離を縮めた後、女は「遠くへ連れてって」と頼み、二人は温泉のある海辺の町へ出かける。海を見ながら「死にましょう」と誘う女。だが、一夜が明けると女は失踪していた。失意のうちに元の町に戻った男の前に、今度は「妹」と名乗る女が現われ、「姉はいつも、突然行方をくらまし、男が追いかけてきてくれるか試している。私は姉の居場所を知っているから一緒に来て」とドライブに誘う。「姉への手土産」といってスイーツを物色するなど、男を焦らせたあげく、彼女は最後に言い放つ。「姉の居場所なんて知ってる訳ないじゃない。これから私とホテルへ行きません?」。発狂した男の声が暗転した闇のなかに響きわたる。


撮影:前谷開

ここで特筆すべきは、物語ではなく、小道具をメタフォリカルに駆使した和田の「演出」、とりわけ「マイク」の効果的な使用だ。舞台は劇中のストーリーと男のモノローグが交錯して進むが、「モノローグ」部分はマイクを通して発話される。厭世的な孤独感の激白が、本来はパブリックに声を届ける道具である「マイク」で発せられる逆説によって、「誰も彼に耳を傾ける者などいない」という孤独感が増幅される。だがそれだけではない。男のモノローグは、「自分が性技に長けている」台詞から始まる。その時、天井からするすると逆さまに降りてくるマイクは、明らかにペニスの代替だ。マイク=ペニスを撫でるように触りながら、性技について語り続ける男。だがそれは彼自身が告白するように、全て妄想でしかない。生きることに無気力で受動的な彼だが、マイクを介したモノローグの時だけは、口調も激しく、声も大きく響く。マイク=ペニスは、握りしめている間は彼に攻撃的な力を与えるが、実際にその力が外の世界に及ぶことはない。天井からコードが垂れ下がったままのマイクを持って右往左往する男の姿は、鎖か縄に繋がれた哀れな猿のように見える。さらにマイクは最終的に、彼を誘う女たちに奪われてしまう。


撮影:前谷開


和田の演出は、「女たちに残酷に翻弄され、破滅する男性主人公」という物語を、被虐的なロマンティシズムとして描くのではなく、「優柔不断で流されやすいだけの男と、それを滅ぼすのは女」という図式が内包するジェンダー的な偏差に対して密かな逆襲を仕掛けている。彼が発狂したのは「人間不信(女性不信)」に叩き落とされたからではなく、「マイク=ペニス=発話の主導権を奪われた」こと、すなわち自らの去勢に気づいたからではないのか。和田の演出は、物語の解釈をラディカルに書き換えてしまう。戯曲に埋め込まれたジェンダー的な偏差とファロセントリックな欲望を明るみに出した上で奪い返すという批評性でもって応答した和田は、「演出」が(戯曲への奉仕ではなく)クリティカルな営みであることを提示していた。

2018/01/28(日)(高嶋慈)

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