artscapeレビュー

福井裕孝『デスクトップ・シアター』

2021年08月01日号

会期:2021/07/02~2021/07/04

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

「デスクトップ・シアター」というタイトルを聞いて想起されるのは、Zoomや動画配信サービスを利用した「オンライン演劇」の四角い画面だろうか。だが本作は、劇場というフレームを問い直すことなく映像の再生フレームに移植しただけの多くの「オンライン演劇」の凡庸さとは異なり、通常は不可視の基底である「舞台のフレーム」それ自体を複層的に問う、優れてメタ演劇的な思考を提示していた。

会場に入ると、計7台の「テーブル」がコの字型に設置され、文庫本、小さな植物の鉢、動物や人型のフィギュア、マグカップ、ペットボトルなどが置かれている。観客はテーブルの外側に「着席」し、アクティングエリアとなるコの字型の内側の空間およびテーブル上で行なわれる、「もの」と出演者のふるまいとの交差を目撃することになる。ここで「テーブル」は、アクティングエリア/観客の領域を区切る境界であると同時に、両者が共有する界面でもあり、両義的な機能を帯びている。



[撮影:中谷利明]


出演者たちは無言で1人ずつテーブルにつき、日常的な/日常を逸脱した「もの」の使用と再配置に興じはじめる。几帳面に整列されていく「もの」たちは街路の整備や拡張を思わせ、角を揃えて積み上げられる本のタワーもまた、擬似的な街並みを形成し、仮構的な「風景」を出現させる。ペットボトルやマグカップ(=建物)、小さな鉢植え(=街路樹)、ミニカー、人型のフィギュアのあいだを縫って、紙袋をゆっくりと移動させていく、ヘルメットを被った男がいる。「Uber Eatsです」という静寂を破る声は、彼が仮構された街を進む配達員であったことを明かす。「テーブル」=舞台、もの=俳優や舞台美術、ものを動かす人間=黒子や演出家によって、「擬態」としての演劇と、それを支える不可視の基底面の露出がまずは提示される(ただし、テーブルの縁に沿って交互に差し出される人差し指と中指が演じる「フィンガー・シアター」や、出演者に実際の「黒子」が混ざる事態は、この単純な図式を攪乱させる)。加えて、複数のテーブルで同時並行的に「出来事」が進行することは、「視線の一点集中」という劇場機構の支配的力学に対するアンチとして機能する。一方、例えばテーブルの前の椅子に座って本を読む、トランプを並べて神経衰弱のゲームをするなど、「テーブル」それ自体も、「概念としての舞台」と「日常的な使用」とのあいだを曖昧に揺れ動く。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


静謐な進行に秘かに亀裂を入れるのは、モノローグの挿入だ。ひとりの出演者が、「壊れた旧式の電気コンロの上に、新しく買ったIHコンロを置いて使用している」と語り出す。一見たわいのない日常的な話だが、「層構造」の示唆を端緒に、物理的な高低差においても「もの」の水平的な移動においても均質な水平レベルを保っていた「テーブル」のあいだに、レベル差が生じ始める。ローテーブルが持ち込まれ、「もの」はテーブル上から床の上へ降ろされ、垂直移動を開始する。ただし、「ものの置かれた秩序」は生真面目に厳密に保たれたままであり、「秩序の再インストール」が可視化される。食器やナイフ、フォークが配置されたテーブル上で語られる「テーブルマナー」についてのモノローグもまた、「テーブル=秩序・ルールが支配する場」であることを示唆する。

後半では、盤石で不動に見えた「テーブル」自体が分割され、切り離された一部が移動を開始する。それは本土から切り離された島か飛び地の領土のように空間の中に新たな位置を占め、床の上に再構築された「もの」の配置の上にも覆い被さる。一方、床ではなく、「テーブル」の上を歩いたり、「テーブル」の上に椅子を並べる者も現われ、テーブル/床の弁別が等価になり、垂直というレベル差がもつ階層秩序も攪乱・上書きされていく。



[撮影:中谷利明]


きわめて具体的な「もの」(テーブル自体も含む)を用いながら、抽象的なレベルにおいて、不可視の基底面の可視化、再物体化、水平/垂直のレベル移動、複層化とその弁別の攪乱、「秩序」の構築と解体の政治学を示した本作。終盤では、「床/ローテーブル/テーブル/床面として使用されるテーブル」のレベル差の複数性とその混乱は保持したまま、「日常の事物の秩序」が回復されていく。リュックを背負って現われた者に、ホテルの設備について説明するフロント係。飛沫防止のアクリル板が置かれたテーブル。マイムでパソコン作業する者。テーブルを挟んで椅子が並べられた、会議室の光景。

食卓の配膳、食器棚や本棚の並び順、デスク上の書類やパソコンの配置から「デスクトップ」上のアイコンの整列まで、私たちの日常生活は「もの」とその秩序化によって成り立ち、そこに微細な政治性が宿っている。それは微視的なレンズで見れば「日常の事物を構成する秩序」だが、より巨視的なレンズで抽象化すれば、「秩序のインストールや上書きによる、国家や共同体の成立/排除」へと変容する。福井は過去作『インテリア』においても、「部屋」という個人の私的領域における日常的な「もの」とその再配置を通じて、空間の私有化や(再)領土化の政治学を浮かび上がらせていた。興味深いことに『インテリア』では、「部屋の住人」のルーティンを規定する起点=中心が「テーブル」であったが、本作はさらに、この「テーブル」それ自体を入れ子状に「舞台」のメタファーとして扱い、垂直移動や分割といったより複雑な操作を通して、優れてメタ演劇的な省察を内蔵させていた。


関連レビュー

福井裕孝『インテリア』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
福井裕孝『インテリア』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)

2021/07/04(日)(高嶋慈)

2021年08月01日号の
artscapeレビュー