2009年4月アーカイブ

本日でこのブログも終わりになります。3ヶ月間にわたってお読みいただきありがとうございました。この場を提供して下さったartscapeの編集部の方々、そのきっかけを作って下さった森司さんにも改めてお礼を申し上げます。

日々の研究活動に即して文章を書くのは初めての経験でしたので、自らの行動と思考を振り返るきっかけになり、実り多い3ヶ月でした。ソウルのセミナー、『アンフォルム』の翻訳、広島アートプロジェクトなどについて考え直すことで、自分なりの課題が整理できると同時に、お読みいただいた方に多少なりとも情報提供ができたのではないかと思います。初回に予告した日本の現代美術に関して行っている共同研究について書くことができなかったのは残念ですが、いずれ別の場所で紹介したいと考えています。

藤川さんもお書きになっているように、「ブログを読んでいます」と声をかけて下さる方には大いに励まされました。これまで非常に限られた範囲の研究者に向けて文章を書いてきましたので、思いもよらぬ方からコメントをいただいたりして、大いに勉強になりました。お読み下さった皆さま、ありがとうございました。

最後に、今後の活動について簡単に記しておきます。まず、5月22日(金)に東京大学駒場キャンパスで「ロスコ的経験----注意 拡散 時間性」と題するワークショップを林道郎さん、田中正之さん、近藤学さんと一緒に行います(詳しくはこちら)。

それから、前々回書きましたように、9月半ばには広島アートプロジェクト2009を行います(こちらに情報が出ます)。9月は、東京大学教養学部と沖縄県立芸術大学美術工芸学部で集中講義をしますので、忙しくなりそうです。

他にも、執筆、発表、翻訳など進行中の企画がいくつかありますが、随時こちらに掲載しますので、折にふれてご覧いただければと思います。

皆さまといずれどこかでお会いすることを楽しみにしています。3ヶ月間、本当にありがとうございました。
3ヶ月間の担当も今日で終わりです。こうした機会を頂いたことにあらためて感謝しています。

神奈川県立博物館、福岡市美術館、山口情報芸術センター、秋吉台国際芸術村の方々には写真の撮影や手配のほか、さまざまなかたちでご協力を頂きました。本当に有り難うございます。

また、ウェブサイトの編集担当の方には、いつも画像のリサイズで助けて頂きました。お陰さまで希望通りの表示が実現しました。有り難うございます。

執筆を担当していて一番嬉しかったのは、やはり「ブログ読んでます」と声をかけて頂いたり、メールでコメントを頂戴したことです。読者に励まされる、ということを強く実感しました。そうしたきっかけで沸き起こる熱い気持ちは、言葉で言い尽くせないくらいです。


最後に、山口のことをもう少しだけ紹介します。毎朝、自転車で大学まで通っていますが、その途中で川を渡ります。市の中心部を流れる椹野川です。この川は豊かな自然の息づく清流で、もう少ししたら、鮎漁が解禁になったり、支流では蛍が飛び交うのが見られます。

普段は、鯉やフナが泳いでいます。春先の夕暮れどきに、稚魚が一斉に川面から跳ね上がる景色は、山口へ来て初めて目にしました。

私は長崎の割と街中で育ったので、カワセミやキジを見たのも初めてでした。いずれも通勤途中に見つけて、ハッと息を飲む思いをしました。カワセミの体の青色は、光を発しているようにさえ見えます。

大学構内でもさまざまな野鳥を目にすることができます。

山口で好きな風景は、鏡のようにぴんと水の張った水田が一面に広がる初夏の景色と、あぜ道沿いに燃えるように紅く咲いた彼岸花が列を成している初秋の光景です。

国際美術展について資料を集めたり、海外から滞在制作のために招聘された美術家たちと交流し、最先端の情報芸術にも触れる機会もあって、それでいて豊かな自然に囲まれている、とこう書くとあまりにいいことずくめに過ぎて、かえってうまく伝わらないかも知れませんが、私は、自分でひとつの理想的な環境を生きている、と日々実感しています。

最初に書いた通り、私たちひとりひとりが生きている場所が「独楽の落つるところ」であり、世界の中心だと思いませんか?

ここまで読んでくださった皆さまにもう一度感謝の気持ちを込めて、ご多幸をお祈りしつつ筆を置きます。


またどこかでお会いしましょう。


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椹野川(正面に見えているのは井出ヶ原橋) 2009年4月30日8時12分(晴れ)

前回の「広島アートプロジェクトについて(1)」の続きです。

スミソニアンアメリカ美術館での研究生活を終えて2006年に日本に戻ってきたときに驚いたのは、日本のアートプロジェクトの多さです。もちろん、アメリカにもコミュニティー・アートの歴史がありますし、韓国でもアートプロジェクトが盛んになりつつあります。しかし、全国各地でこれほど多くのアートプロジェクトが行われている国は、世界的に見ても少ないのではないでしょうか。

とは言え、現代美術に慣れ親しんだ人たちの中にも、アートプロジェクトにはそれほど関心をもっていない人はいると思います。玉石混交だという批判的な意見があることは承知しています。たしかに、キュレーター(やディーラー)によるスクリーニングを経た作品が展示される美術館の展覧会と比べると、アートプロジェクトのスクリーンは粗いものかもしれません。

しかし、そのスクリーニングの粗さは、アートプロジェクトの自由度の高さでもあると思います。自由度の高さは、クオリティを低下させる要因にもなりますが、未知なるものに挑戦するチャンスにもなります。後者は、作家が主導するアートプロジェクトにおいて重要になってくるように思います。というのも、そこでは、作家が作家の作品を選ぶわけですから、何を作品とみなすのかについて大胆な判断がしばしば行われ、美術でないものとのギリギリの境界で作品が選び取られることがあるからです。私たちの美術に対する考えを揺さぶるような作品に巡り合うことができるのがアートプロジェクトの魅力の一つなのかもしれません。

アートプロジェクトとは、ローレンス・レッシグの言葉を使えば、アートの「アーキテクチャ」について思考し、それを更新し続ける一つの重要な場なのではないかと私は考えています。アートプロジェクトによって、作品の概念も、鑑賞のあり方も、社会的な役割も、大きく変わりつつあります。アートプロジェクトを、まちづくりの観点(「クリエイティヴ・シティ」も含む)や、いわゆる「オフ・ミュージアム」の文脈で語ることも重要ですが、それと同時に、アーキテクチャとしてのアートプロジェクトについて考える時期が来ているように思います。日本におけるアートプロジェクトに対する関心の高まりが、アートのアーキテクチャに関する議論を活発にしていくことを期待してやみません。
2007年はヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展(6/10〜 )、アート・バーゼル(6/13〜 )、ドクメンタ(6/16〜 )、ミュンスター彫刻プロイエクテ(6/17〜 )が連続的に開幕した年でした。

この開幕の順に沿ってイタリアからスイス、ドイツへと北上して行った美術関係者の多くは、だんだんと天候が崩れ、緯度も高くなって肌寒い思いをしたと聞きます。私は、かつてバーゼルの宿を確保するのにかなり苦労した記憶からアート・フェアを割愛し、ドクメンタの開幕に合わせてヨーロッパ入りしてカッセルからミュンスター、ヴェネツィアへと移動する旅程を組みました。現地では、ほとんど同じ旅程で移動していた関西の美術関係者の一団と出会い、一緒に夕食を楽しんだりもしました。

同じ2007年の9月、日本では新たに2つのビエンナーレが開始されました。北九州国際ビエンナーレ(9/28〜10/31)と神戸ビエンナーレ(10/6〜11/25)です。また、現代日本彫刻展の名称で1960年代から続いてきた宇部市主催の野外彫刻展も07年から国際化してUBEビエンナーレを名乗るようになりました(9/29〜11/11)。さらにほぼ同じ時期、BIWAKOビエンナーレも開催されていたので(9/30〜11/18)、この2007年秋は日本でもビエンナーレの集中が見られた年だったと言えます。

もうすぐ発売される芸術批評誌『リア』に「ビエンナーレ化現象と国際美術展史料館」という一文を寄稿しています。ちょうどこの回想を投稿し始めたころに書いた小文です。国際美術展が増える中、展覧会本体の充実と並行して、開催ごとに入手される資料を蓄積して有効活用する体制も整えるべきだ、という意見を述べています。

4月に入って昨年度入手した資料を整理していたら、『マニフェスタ・ジャーナル』第6号が「アーカイヴ特集」でした。ラファル・B・ニーモエウスキ(Rafal B. Niemojewski)さんの論文もまた、ビエンナーレ化現象を総括し、史料館の活動に着目する論文で、親近感を持つと同時に、彼我の間にある言語の壁と時間のずれを意識させられました。ニーモエウスキさんの論文は、2005年冬号の掲載でしたが、同ジャーナルは予算不足のためにしばらく刊行休止になっており、昨年冬になってようやく4-6号の合併号を送ってきたのでした。

同誌の執筆者紹介によれば、ニーモエウスキさんはロンドン王立美術学校で、国際美術展の増加現象について博士論文を準備中とのことでした。多分、もう仕上がっているのではないかと想像します。

ニーモエウスキさんに限らず、アメリカやヨーロッパ、そして日本の大学でも国際美術展を主題とした論文が少しずつ書かれるようになってきているようです。

国際美術展の図録に掲載されている論文の中には、企画者や研究者、作家によって書かれた興味深い内容のものが非常に多く含まれています。特に地球規模化や多文化主義と現代美術の関係を論じた文章に示唆に富むものが見られます。

国際美術展の図録は、美術大学の図書館や美術館の図書室などで閲覧できると思います。より多くの人びとに関心を持ってもらえるよう願っています。

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ドミニク・ゴンザレス=フォレスター《ミュンスターの小説》(過去のミュンスター彫刻プロイエクテ出品作品の模型) 2007年6月19日12時15分(晴れ)

このブログも今月で終わりですので、最後に私が関わっている広島アートプロジェクトについて書きます。

これまで書いてきたエントリーから分かりますように、私は、アメリカを中心とする近現代美術史、とりわけ美術批評史を主な研究対象としている研究者です。30代半ばまでは、主に英語の文献を読んでアメリカの美術と美術批評について考えてきました。

ところが、2007年4月に広島市立大学芸術学部に赴任して、状況が大きく変わりました。現代表現研究室の柳幸典さんがディレクターを務める「広島アートプロジェクト」という地域展開型のアートプロジェクトに携わることになったのです。赴任直後に開催された「旧中工場アートプロジェクト」には関わりませんでしたが、2008年2月にベルリンで開催した「CAMPベルリン」と、同年11月に広島で開催した「広島アートプロジェクト2008「汽水域」」には企画・運営に関わりました。

広島アートプロジェクトは、大学が中心となって企画・運営しているアートプロジェクトです。大学が中心のアートプロジェクトと言えば、取手アートプロジェクトが思い浮かぶ人が多いかもしれません。しかし、最近刊行された『アートイニシアティブ リレーする構造』(BankART1929、2009年)で東京藝術大学の渡辺好明さんが書いているように(この本では私も広島アートプロジェクトについて書いています)、取手アートプロジェクトは、最初の4年間は先端芸術表現科のプロジェクトとして行われたものの、次第に運営体制を学外・市民側に移していきました。それに対して、広島アートプロジェクトは、大学の教育の一環であることにこだわっていこうと考えています(註)。

それはなぜでしょうか。まずアートプロジェクトの担い手の問題があります。広島には、取手のように、20代後半の若い作家が近くに多くいるわけではありません。作家を志す者の多くは、大学を卒業すると、東京や京都などの大都市、あるいは海外に移り住んでしまいます。したがって、広島のような地方都市でアートプロジェクトをやる場合、担い手の中心は、現在大学で美術を学んでいる人たちになります。

そして、私たちには、アートプロジェクトを通して、大学の美術教育を変えていきたいという思いもあります。本学の芸術学部は、他の多くの大学と同様、技術の習得を重視してきましたが、その技術を社会の中でどのように活かすのか十分に教育してきませんでしたし、学生も自分たちの社会的な意味を考える必要がありませんでした。広島アートプロジェクトは、作品の制作や展示だけでなく、そのために必要な財政的な準備、地域住民や行政との交渉や調整なども学ぶ機会を提供し、アートマネジメントの能力育成と同時に、学生のシチズンシップ教育という側面も有した活動を行っています。私自身は、大学内の各種委員会で、芸術学部の教務や社会連携、中期計画作成等に関わって、教育体制の整備に向けて努力しています。

アートプロジェクトとは、「美術とは何か」という問いを生み出し続ける場だと私は考えています。この問いは、「美術館に置かれたものが美術作品となる」というデュシャン的な図式のために、長い間、美術館という制度と密接に関係してきましたが、今日、状況は大きく変わりつつあります。美術館とは無関係の場で制作される美術作品はますます増えています。その一つの場がアートプロジェクトです。街なかの展示では、作品と物体を区別する仕組みがあまり機能しませんし、アートプロジェクトは作品を購入しません。まちづくりを目指す行政中心のアートプロジェクトと違って、大学が中心となるアートプロジェクトにおいては、「美術とは何か」という問いはより根源的になり、作品はより実験的になります。学生の中で作家になれる者がごくわずかであるという事実は、その問いをさらに切実なものにします。大学主体のアートプロジェクトは、「美術とは何か」という問いを最も深刻に受け止めて、美術を前に進めていく重要な役割を担っていると思います。

なお、広島アートプロジェクト2009は、今年の9月半ばに予定しています。ぜひご来場いただければと思います。


広島アートプロジェクト実行委員会は、広島市、広島市文化財団、広島市現代美術館の職員、広島市立大学の教職員、広島市民等からなる非営利団体です。本文は、あくまでも広島市立大学の教員としての立場に基づいた意見を述べたものであって、実行委員会自体が大学の教育をもっぱらに考えているわけでは必ずしもないことをお断りしておきます。
今年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展は77カ国が参加予定です(同展公式サイトより)。

この数は、国連加盟国が現在192、オリンピックへの参加国・地域の数が200強ですから、その1/3程度です。

ヴェネツィア・ビエンナーレは、現在開催されているものの中では最大の参加国数を誇りますが、それでも数の上では参加しない国の数の方が2倍近くある、ということはいつも心にとどめておきたいと思っています。この差は肯定的にも否定的にも考えることができます。

ところで、最近ヴェネツィア・ビエンナーレが開催される年とされない年では、はっきりとした違いが見られるようになりました。私は、同展が開催される奇数年を「表の年」、開催されない偶数年を「裏の年」と表現することにしています。今年は表の年であり、去年や2006年が裏の年です。

1980年代から国際美術展の開催は非欧米圏へと拡大し、90年代、2000年代を通して現在まで、欧米圏・非欧米圏を問わず増え続けています。そして、新設される国際美術展がビエンナーレ(2年ごと)である場合、その多くはヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展が開催されない裏の年に開催される傾向が見られます。また、表の年に開催される場合でも、同展が開幕する6月ではなく、9月から11月の開幕とし、競合を避けているように思われます。ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーを見ても、トリエンナーレも含めた2008年の開催数が32あったのに対し、今年2009年の開催数は約半数の17です。

つまり、国際美術展を見て回ろうとしたとき、裏の年は数が集中しているので、予算や日程の面で調整や熟考が必要になります。

そうした状況を踏まえて、複数の国際美術展の主催者が連携し、開幕日をそれぞれ少しずつずらすことで、関係者が一度のツアーで回れるような工夫が見られるようになってきました。

私の知る限り、そうした調整の最初の試みは、2006年のシンガポール、上海、光州の各ビエンナーレ間での取り組みだったと思います。そして、この時点では特に名称はありませんでした。

しかし同年秋には「トレ・ビエン」という名称のもと、イスタンブール、リヨン、アテネの3つのビエンが協力体制を打ち出しました。さらに、2007年には、ヴェネツィア、ドクメンタ、ミュンスターが重なる10年に1度の機会をとらえて、アート・バーゼルを加えた4都市を結ぶ「グランド・ツアー」が組織され、翌2008年には、シドニー、光州、上海、シンガポール、横浜の5つの国際美術展が連携する「アート・コンパス」、台北、広州、上海が連携した「三館互動」が誕生しました。

2006年には、日本でもA.I.T.とJALの共同企画で「3大ビエンナーレ・ツアー」の募集がありました。私もこのツアーに参加しましたが、A.I.T.の教育プログラムの受講生や、学芸員、新聞記者、美術評論家など職種や世代の異なるさまざまな方々と交流できて、とても貴重な体験となりました。

このツアーは2008年には同種のものが実現しなかったことを考えると、今後定着するかどうかまだ判断の難しいところですが、複数の国際美術展を比較することが、現代美術に対する新しい洞察へとつながる時代が到来している、ということは言えると思います。


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シンガポール・ビエンナーレ開幕式での草間彌生「ファッション・パレード」(パダン広場特設ステージ) 2006年9月1日21時27分(晴れ)

新学期が始まり、あわただしくしています。今回は、大学で担当している美術史の授業について書きます。

昨年は、学部で「現代美術史」として1945年から2005年までの美術を講義し、大学院では、第二次世界大戦後の美術の代表的な作家(ジャクソン・ポロックからヴォルフガング・ティルマンスまで)を毎回1人ずつ取り上げる授業をしました。

今年は、学部では昨年とほぼ同様の授業をしていますが、大学院では批評理論を扱うことにしました。

私の所属する芸術学部は実技の学部で、授業中に現代美術の作品を説明するときに、その作品を理解する上で必要な批評や研究について最初から説明しなければいけないことがあります。ミニマル・アートを論じるときには、クレメント・グリーンバーグからマイケル・フリードへの批評の展開や、ドナルド・ジャッドとロバート・モリスの言説的な差異について、やはり触れておきたいと思うのですが、それを説明するだけで、けっこう時間がかかってしまいます。また、こうした言説を紹介しておかないと、作品について豊かに語ることも難しくなってきます。そこで、現代美術を理解する上で必要と思われる文章を13本選んで、毎回1本ずつ取り上げて論じることにしました。

選んだテキストは、現代美術の専門家でなくても、美術に関心がある人ならおおよそ知っているものばかりです。ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、モーリス・メルロ=ポンティ「セザンヌの疑惑」、クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」と「モダニズムの絵画」、ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクション・ペインターたち」、スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」、ドナルド・ジャッド「特殊な物体」、マイケル・フリード「芸術と客体性」、レオ・スタインバーグ「他の批評基準」、ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」、フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」、ホミ・K・バーバ「まじないになった記号 アンビヴァレンスと権威について――1817年5月、デリー郊外の木陰にて」、アーサー・ダント「芸術の終焉の後の芸術」。本当は全て原文で(少なくとも英語で)読みたいところですが、実技系の学生にそこまで要求することもできず、全て日本語で読むことになります(実は、翻訳の質の問題があるのですが、ここでは措きます)。

以前のエントリー「美術批評とアンソロジー」で書いたこととも関係しますが、こうした論文を集めた日本語のアンソロジーは存在しません(『反美学』や『視覚論』のように原著がアンソロジーであるものを除いて)。日本にはアンソロジーの文化がありませんし、翻訳を助成対象にする出版助成金もほとんどありませんので、採算が取りにくいのかもしれませんが、かつては、『現代の美術 別巻 現代美術の思想』(講談社、1972年)や『モダニズムのハード・コア』(『批評空間』1995年臨時増刊号、太田出版、1995年)など、アンソロジーの要素をもった書籍が刊行されて、好評を博したこともあります。良質な翻訳による現代美術のアンソロジーが出版されることを心より期待してやみません。
2005年から2007年にかけての3年間は、文部科学省の科学研究費補助金を得て、シンガポールや上海、台北、ブリスベン、サンパウロなど、これまで出掛ける機会のなかった国際美術展も含めて集中的に見て回ることができました。

研究課題名は「国際美術展における脱欧米中心主義の興隆の経緯についての研究」と、やや長いのですが、文化のグローバリゼーションについて均質化や画一化でない側面を見ていこう、という姿勢を「脱欧米中心主義の興隆」という言葉に表したつもりです。

グローバリゼーションをもじったものか、「ビエンナリゼーション」という言葉があります。国際美術展について豊富な情報を提供しているドイツのサイト「ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァース(Universes in Universe)」の編集者ゲルハルト・ハウプトが2000年頃に使い始めた言葉だと言われています。

『アートネクサス(ArtNexus)』という雑誌の現物は見たことがないのですが(コロンビアのボゴタで刊行されている雑誌のようです。武蔵野美術大学に英語版が所蔵されています)、ネット検索で国際美術展についての批評記事を見つけました。カルロス・ヒメネス(Carlos Jiménez)によるその記事は「ベルリン・ビエンナーレ―アンチ・ビエンナリゼーションの見本?(The Berlin Biennale a mode for anti-biennalization?)」と題されており、2004年7-9月号の掲載で、「ハウプトが数年前に使い始めた言葉だ」と指摘しています。そこから逆算して、私は2000年頃だろうと推測しているのですが(ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーも一番古い情報は2001年のものです)、この件については、いつか実際に本人に確認してみたいとも思っています。

私自身がハウプトのサイトでビエンナリゼーションという言葉を見つけたのは2004年2月16日より少し前です。ある論文の註にサイトを閲覧した日付を入れているので、そのことが確認できるのですが、否定的な文脈で語られていた、という印象以上のものを残していません。ビエンナーレ・カレンダーのページに添えられた数行ほどの短いコメントの中にあった言葉だったと記憶します。また、当時はビエンナーレ・カレンダーの表題の位置に「キャラヴァン」という単語が掲げてありました。キュレーターと美術家たちを隊商に見立て、同じ顔ぶれが世界中を旅している印象を喚起することをねらったものだと思います。このキャラヴァンの表示も2006年頃までは残っていましたが、今は過去の分も含めて削除されています。

結局、ハウプトがビエンナリゼーション―「ビエンナーレ化現象」と訳したいと思います―という批評を国際美術展をとりまく状況に投げかけた時点、確かに90年代を通して同質化の危機はあったと言えるかも知れませんが、むしろこうした否定的な側面は2000年代の実践の中で解消されていった、と考えることができると思います。

2005年の横浜トリエンナーレが「場にかかわる」ということを重視して個性化を図ったのと同じ問題意識が、他の多くの国際美術展でも共有され、実践されているように感じます。

日本国内だけを見ても、2009年の現在、横浜以外にも福岡や越後妻有、2010年に始まる「あいち」を含めて4つの大きなトリエンナーレがあり、ほかにも神戸や北九州、BIWAKOやUBEなどのビエンナーレがありますが、それぞれ実に個性的です。

2005年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の印象も2003年と一転してすこぶる良く、このとき初めて―文献上評判の悪い―日本館の人造大理石の床を目にしましたが、石内都さんの展示とよく映え合っていて、とても美しく感じました。

どんな状況にも創造的に対峙する、という取り組み姿勢が大切な気がします。

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ヴェネツィア・ビエンナーレ第51回国際美術展 日本館の展示風景=石内都「マザーズ 2000-2005 未来の刻印」 コミッショナーは現・東京都写真美術館の笠原美智子さん 2005年6月15日13時09分(外は晴れ)

※4月25日から6月14日まで、群馬県立近代美術館で「石内都 Infinity ∞ 身体のゆくえ」が開催されます。石内さんは群馬県桐生市のお生まれです。


2004年に研究助成が得られことが決まって、先ず行ったのはマニフェスタ5の記者登録でした。プレス・プレヴューとも呼ばれる内覧会・開会式に参加するためです。記者登録は、ほとんどの国際美術展で、公式サイトから行えます。「Press accreditation(記者認定)」をクリックし、申込フォームに必要事項を入力。後日電子メールで送付されてくる書式を返送します。

かつて、国際美術展の展覧会場での撮影は大らかなものだったと記憶します。記者登録の必要性を感じたのは、2003年の第7回リヨン・ビエンナーレで会期中の撮影許可が下りなかった経験からです。会場撮影は内覧会の日のみに限定する、という方針です。一方、同じ調査旅行で回ったヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展では、そうしたことはありませんでした。

リヨン・ビエンナーレの事務局は、代わりに記者資料として作品画像の入ったCD-Rをくれました。しかし、日本に帰って中を見てみると、出品作家の過去の作品が中心で、展示されていた作品とは異なる写真が随分ありました。設営美術を中心とする現代美術展において、開幕と同時に発売される展覧会図録には、実際に会場で見ることのできた作品ではなく、図録刊行に間に合わせられた過去の作品写真が用いられるのが一般的です。リヨンの記者用CDは、図録に掲載されている図版とほぼ同一でした。

しかしながら、第7回リヨン・ビエンナーレでは2種類の図録が刊行されることになっていました。「アヴァン(事前)」と「アプレ(事後)」と題され、「アプレ」の方に会場写真が収録されています。展覧会終了後や会期中に、こうした記録集が刊行される例はいくつかあります。リヨンの第7回展のほか、ドクメンタ11、横浜トリエンナーレの第2回展(2005)年と第3回展(2008年)が、私の知っている例です。国際美術展の全体数に比して、ごく少数と言えます。

そうした中で、国際美術展の開催に合わせて、ふんだんに作品図版を掲載して特集号を組んでいるドイツの美術雑誌『クンストフォルム(Kunstforum)』や日本の『美術手帖』は貴重な情報源です。しかし、こうした雑誌でさえ、すべての出品作品を網羅してはいないのです。自分で撮影できなかった分については、各作家やその扱い画廊、そして展覧会主催者が蓄積しているであろう記録写真が最後の拠り所になります。


2004年のマニフェスタ5はバスク地方の観光都市ドノスティア=サン・セバスティアンで開催されました。内覧会は6月10日に行われ、翌11日午前中に記者会見、夕方には討論会、夜7-8時頃にジェレミー・デラーの企画による開幕パレードが行われました。

このうち、記者会見では「スペイン人作家がバスク出身のイニャキ・バルトロメ、アシエル・メンディサバル、D.A.E.の2人と1組、およびガリシア州出身でロンドン在住のアンヘラ・デ・ラ・クルスだけだったのには、政治的配慮があるのか」という質問に企画者の1人マッシミリアーノ・ジオーニが「国籍はまったく顧慮していない」とかわし、その直後に「王に死を(¡MUERTE AL REY!)」と書いたボードを掲げた女性が立ち上がり、液体の入ったペットボトルを主催者席に投げつけようとした男性が取り押さえられる、という顛末を目撃しました。

この2004年6月、バスク地方へ列車で乗り入れるための基点としてマドリードに滞在したのですが、同地のプラド美術館では、三脚を使わずフラッシュを焚かなければ作品の撮影ができましたが、2006年10月からは展示室内の写真撮影が禁止となりました。

デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、フィルムの残量を気にせず、持ち運びにも気にならない機器を使って大変気軽に写真撮影を楽しめるようになってきた一方で、撮影禁止区域の設定や許可制度の徹底もまた広がりつつあるように思います。


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マニフェスタ5記者会見での一幕 2004年6月11日11時58分(外は曇り)


『アンフォルム』の翻訳の話の続きです。

前回、『アンフォルム』の方法論的な慎重さや作品重視の姿勢について書きました。それは現代美術の専門家だけを対象としているということではありません。むしろその逆で、現代美術の研究者以外の方にも手に取ってもらえればという思いが私にはあります(なお、以下に書くことは私の個人的な考えであって、訳者同士あるいは出版社との共通見解というわけではないことをお断りしておきます)。

まずお勧めしたいのが、現代美術に関心がある一般の方々です。近年は、出版物の刊行や美術館の教育普及活動等により、現代美術の作品に対する解説や説明に触れる機会が増えてきましたが、作品のもっている歴史的、理論的な背景をここまで真剣に掘り下げている本はそう多くありません。文章は決して平易ではありませんが、それを読んだ後、作品を理解するということがいかにスリリングな体験であるのかがよく分かります。この本に取り上げられている作品の多くは、アメリカやヨーロッパの現代美術館でよく見かける作品ですので、海外で美術作品を見るときにも大きな助けとなります。

また、キュレーターの方にも興味を持って読んでいただけるのではないかと思います。もともとこの本は、イヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスが企画した展覧会のカタログだったこともあり、作品の選択自体にさまざまな主張があります。たとえば、ブルース・ナウマンの《私のスチール椅子の下の空間 Space Under My Steel Chair》(1965-68)は、椅子の下の空間をコンクリートで固めて反転させて作った彫刻作品ですが、この作品が選ばれたのは、同種の作品が「署名作品signature work」となっているレイチェル・ホワイトリードのやや高すぎる評価に対抗するためであったことは明らかです。キュレーターは、現在、制作されている作品に価値を与えていくと同時に、それがどのような歴史を作り出しているのかについても自覚的に活動しています。美術作品を歴史に位置づける際の研究者側の有力な視点の一つを『アンフォルム』は提供していると思います。

そして、哲学思想に強い関心があり、同時に美術にも多少関心がある方にも、興味を持っていだたけるのではないかと思います。日本の読書層は、哲学思想への関心が高く、長い伝統があります。哲学者や思想家はしばしば美術作品を参照しますが、彼らよりもずっと巧みにかつ面白く美術作品を持ち出しているのが本書です。一見すると取りつく島がないように見える現代美術の作品が、理論的にアプローチすることでまったく違って見えるようになると同時に、その理論のもとになった哲学思想もまた新鮮に見えてくるのではないかと思います。

最後に、現在、作品制作に携わっている作家の方々にもお読みいただければと思います。私は、立場上、若い作家や学生のポートフォリオを見たりプレゼンテーションを聞いたりすることがあるのですが、そのときに思うのは、理論的に考えることの大切さです。「理論的に考える」とは、特定の理論的な立場に立って考えるということではなく、曖昧さを残すことなく徹底的に考え抜くということを意味するとすれば、本書は、そうした理論的な思考を鍛え上げる道具として第一級の価値があります。決して平易な本ではありませんが、読み終わった後に得るものもまたその分大きいことは保証できます。

以上書いてきたように、『アンフォルム』は、現代美術の専門家だけを対象とした本ではなく、様々な分野や立場の方々にとっても面白く読むことのできる本です。訳者の一人としては、上記以外の方々にも手を取っていただければ、望外の喜びです。『アンフォルム』のように学際的な性質をもち、より広い読者層に開かれている未邦訳の本は、まだまだあると思います。本書に関心をもって下さった月曜社の炯眼に感謝すると同時に、こうした書籍がこれからもっと注目を集めていくことを心より祈念しています。
先月、翻訳の仕事が一段落しました。近藤學さんと高桑和巳さんと一緒に翻訳していたイヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスの『アンフォルム 無形なものの事典』の校正がほぼ終わりました。3人で翻訳しようと言い始めてから随分と年月が経ってしまい、その間お待ちいただいた方には大変申し訳なく思うと同時に、ようやく出版できそうでほっとしています(月曜社から出版されます)。本来なら、こうした文章は、刊行されてから書いたほういいのでしょうが、このブログも4月末までですので、今の時点での思いを書かせていただきます。

この本は、アメリカで活躍する二人の美術史家が、バタイユの用語を方法論として練り上げながら、主として第二次世界大戦後の美術を論じたものです。もとは、二人が96年にパリのポンピドゥー・センターで企画した展覧会「アンフォルム 使用の手引き」の図録として出版されました。翻訳は97年に出版された英語版に基づいて行いましたが、フランス語版にも一通り目を通して異同もチェックしています。

著者のボワとクラウスは、それぞれプリンストン高等研究所教授とコロンビア大学教授で、アメリカを代表する美術史家です(ボワはアルジェリア生まれのフランス人ですが、80年代半ばからアメリカで活動しています)。ともに学術誌『オクトーバー』の編集委員を務め、様々な理論を援用して美術史の方法論を変革しつつ、主に20世紀の美術作品について画期的な解釈を行ってきました(二人については、林道郎さんによる優れた紹介が『美術手帖』の1996年2月号と5月号に載っています)。

この本は、タイトルにある「アンフォルム(無形なもの)」から分かるように、第一に、クレメント・グリーンバーグが提唱したフォーマリズムに対する批判を目指しています。フォーマリズムに対する批判はその同時代から始まって、1980年代半ば以降は理論的に再検討する作業が進みました。ボワもクラウスも、それぞれの著書や論文の中で幾度となく論じています。本書は、さまざまな論者によって行われたフォーマリズムの再検討を踏まえつつ、これまでの二人の議論を集大成したものと言ってよいでしょう。

それと同時に、この本は、90年代前半に注目を集めていた「アブジェクト(おぞましいもの)」に対抗することも目指しています。松井みどりさんが『アート "芸術"が終わった後の"アート"』にまとめている通り、90年代前半には、アブジェクトと多文化主義に対する関心が高まりましたが、前者に対してはこの本が、後者に対しては1996年夏の『オクトーバー』77号のヴィジュアル・カルチャー特集が、否を突きつけたことになります(当時クラウスははっきり "I hate visual culture." と言っていました)。ボワとクラウスは、フォーマリズムだけでなく、反フォーマリズムの文脈で注目された「アブジェクト」に対しても批判の矛先を向けたのです。

この本を最初に読んだときに印象深かったのは、方法やその対象に対する姿勢の慎重さでした。実は、ボワもクラウスも、一般的に思われているほど、新しい理論や方法に関心をもつような美術史家ではありません。本書に出てくるのは、バタイユだったり、精神分析だったり、記号論だったりと、とても「古くさい」理論ばかりです。フォーマリズムに一時期慣れ親しんでいた二人は、この本において、自分たちが依拠してきた方法を再検討して批判するという、地味な作業を行っています。丸山昌男が『日本の思想』で論じたように、新しい理論が出てくると、それまでの理論は古くさく見えてしまい、新しいものに取って代えようという動きがよく起こりますが(これは日本だけの現象ではなくアメリカのアカデミアでも一部見られます)、そのように意匠として理論を扱うのではなく、自らが依拠してきた方法を愚直なまでに検討し続けているところに新鮮な思いがしました。

そして、それと同時に、彼らが最終的には作品の解釈を豊かにすることを目指しているところも印象的でした。本書はきわめて理論的な書物で、フォーマリズムやアブジェクトに理論的に対抗するという側面もありますが、他方で、彼らの大きな関心が、どうしたら作品をこれまでとは違ったやり方で見ることができるかというところにあることも事実です。二人は、一般的に思われているのと違って、作品分析を重視しています。美術史でもホミ・バーバの議論が注目を集めたこともあり、昨今、作品そのものよりはそれが生産・流通・受容された時代や地域、状況の分析に重きを置く論文が増えましたし、私自身そうした論文を何本か書いたことがありますが、絶えず作品に還っていこうとする二人(とくにボワ)の姿勢を見ると、いつもハッとさせられる思いがします。
2002年4月に山口大学へ着任して以降は、毎年、何らかの国際美術展を見に出掛けています。

研究テーマを国際美術展に絞ろうと考えたのは2003年秋頃です。2002年にドクメンタ11とマニフェスタ4、そしてカールスルーエのZKMで開催されていた「イコノクラッシュ(Iconoclash: 造語、Icon 偶像+clash 衝突)」展を見るためにドイツへ出掛けた時点では、デジタルカメラはまだビクターのGC-S1(98年3月発売)を使っていました。

当時のデジタルカメラの性能が格段に向上していることを認識できたのは、再び国際美術展のスライドレクチャーのおかげです。高価な電気製品は基本的に長く大切に使い続ける、という信条ですが、A.I.T.の主催で2002年7月に開催された「第11回ドクメンタを考える」(東京、スパイラル)で見た作品画像と、自分のカメラで撮影した画像の鮮明度の違いは悲しくなるほどに大きく、質素倹約の思想の一部を切り崩してでもデジタルカメラを買い換えねばならない、という気にさせられました。

それでもおそらく控え目と言えるニコンのCOOLPIX 3100を携えて出掛けた2003年の第50回ヴェネツィア・ビエンナーレを見終わった直後、私は、もうヴェネツィアに来るのはやめよう、と考えました。

第50回展の総合監督を務めたフランチェスコ・ボナーミは、「観客の専制」という副題を与えていましたが、アルセナーレの展示から受けた印象は、むしろ逆で、観客や出品作家をないがしろにし、展覧会の企画者の名前ばかりが飾り立てられているように思われました。同展の国際企画展部門は、複数の展覧会から構成されるオムニバス形式となっており、各会場の入口には、展覧会のタイトルとその展覧会を企画したキュレーターの名前が大きく表示されていました。言っていることとやっていることが違う。これではまるで「キュレーターの専制」だ、と腹立たしい気分になったのです。ボナーミには、「キュレーションのさまざまな方法論を比べる」という意図があったようです(『美術手帖』2003年9月号、42頁)。

そしてこの義憤に似た感情から、私は国際美術展を本格的に研究するための助成金申請書を書き始めました。

「国際美術展とグローバリゼーション―展覧会企画者の理論と実践」として財団法人花王芸術・科学財団の2004年度の芸術文化助成に応募し、幸いにも40万円の研究助成を得ることができました。

同研究課題につけた英語の副題が「Curator's Discourse and Audience's Experience(企画者の言説と鑑賞者の体験)」です。研究に取り組んだ1年のうちに、グローバリゼーションに関する基礎的な文献を読み、国際美術展図録の収集を拡充し、マニフェスタ5と光州ビエンナーレという欧州とアジアの国際美術展を比較しつつ、ビエンナーレ化現象(Biennalization)について考察することができました(マニフェスタと光州ビエンナーレは、ともに2004年に第5回展を迎え、それぞれ約10年の歴史を持っていました)。

また、あれこれ考察していく過程で、当初の怒りの矛先は、結局、展覧会企画者の意図というものは、展覧会の中にうまく実現できる場合もあれば、できない場合もある。思いが先走ることはむしろ多いのかも知れない、というごく当たり前の事実に思いが至って、随分と収まりました。「結果的な言行不一致」という理解です。

ところで、最近大阪でヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展のイスラエル館で見た作品と再会しました。ミシェル・ロブナーの《Order》と《More》で、出品されているのは新しく再編集されたものです。この作品のほかにも第48回展の日本館に出品された宮島達男の《MEGA DEATH》が展示されている「インシデンタル・アフェアーズ―うつろいゆく日常性の美学」(サントリーミュージアム[天保山]、5/11まで。企画・構成:大島賛都)は、国内の所蔵品をうまく活用しつつ、現代作家17名の質の高い作品を会場にバランス良く配した、とても好感度の高い企画でした。

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カステッロ公園の並木道(画面左の椅子を乗せた木の切り株はクリストフ・シュリンゲンズィーフ《恐怖の教会》の部分。砂利道の中ほど右側の大きなパスポートはサンディ・ヒラル&アレサンドロ・ペティ《国境なき国家》) 2003年9月18日11時17分(晴れ)


前回紹介した通り、2001年の第49回展にゼーマンは伊・英・独・仏の併記で「人類の舞台:プラテア・デル・ウマニタ/プラトー・オブ・ヒューマンカインド/プラトー・デア・メンシュハイト/プラトー・ド・ルマニテ(Platea dell'Umanità / Plateau of Humankind / Plateau der Menschheit / Plateau de l'humanité)」というタイトルを与えました。

もしこれに漢字やアラビア文字などアルファベット以外の表記も加わっていれば、より一層国際性や地球時代性を表現できたかも知れませんし、かえって「鼻につく」という批判を浴びたかも知れません。

スイス人のゼーマンは複数の欧州語に通じていました。伊英独仏の4言語に限ったのは、自らの守備範囲に自覚的な態度だと思えます。前回も引いたインタヴューで「アフリカ現代美術の動向を展覧会に反映できているか」という質問に、「アフリカについては、まだ一度も訪ねたことがないから作家を選出するのは難しい。ジュネーヴの現代美術館で見たキンゲレーズなどには関心を持っている」と答えていたくだりが思い出されます(『アートプレス』1999年6月号)。こうしたやりとりから類推されるゼーマン像は、自分の拠って立つところを的確に分析した上で行動の指針を決めていく人物です。

2001年の「人類のプラトー」という表題は、私にとって悩ましいものでした。先に耳に入っていた『千のプラトー』が意識にまとわりついていたためです。調べてみれば、「『人類のプラトー』はドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』が霊感源の一つだ、とゼーマンが冗談交じりに語った」という証言もありました(『アートフォーラム』2001年5月号、ダニエル・バーンバウムによる記事)。

ゼーマン自身は同展の図録の中で「この概念は多くの概念を内包している。それはプラトー(plateau)であり、基礎(basis)であり、土台(foundation)であり、プラットフォーム(platform)である」と述べていました(xviii頁)。さっぱり正体がつかめない、といった印象を持ったものです。

「人類の舞台」という訳は、『美術手帖』2001年9月号の小倉正史さんの記事に倣っています。ドゥルーズ+ガタリの「リゾーム」の邦訳からは「台地」という訳語も導かれるため、当初私は「人類の台地」の方が適切とも考えていたのですが、ある朝、ふとゼーマンが展覧会を「舞台」になぞらえるのには相応の理由がある、と腑に落ちました。

ゼーマンの生涯に関する記事の多くは、彼がベルンのクンストハレの館長に就任し、1969年に「態度が形になるとき」展を企画した辺りから書き起こして、同展の前衛性が問題となって、組織から独立した展覧会企画者の先駆けとなる、という流れでまとめられることが多いため、私自身、意識の表面に引っ張り出すのに時間がかかったように思えるのですが、ゼーマンは彼の経歴を演劇から始めた人でした。

詳しくは、同じスイス人でもあるハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタヴューに書かれていますが、ゼーマンは18歳の頃、友人の役者2人と音楽家1人と一緒にキャバレーを始め、そこで人間関係に嫌気がさして、1955年頃から結局一人芝居を始めた、と語っています(『アートフォーラム』1996年11月号)。

ゼーマンの言葉の中でも特に印象的だったのが「構想から釘まで(From Vision to Nail)」(前出の『アートフォーラム』、112頁)です。思い描いた仕事を実現するために釘を打つことも含めて全部独力でやる取り組みの姿勢として解釈されます。インディペンデント・キュレーターという肩書きと、一人芝居をやっていた経歴は、うまく符合しているようにも思われます。

語の多義性を活かすために「人類のプラトー」と敢えてカタカナ表記することも考えられるのですが、「人類の舞台」とした方が、私は命名者の人生―温もり―が感じられてより良い、と思えるのです。

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リアルト橋から大運河を望む 2005年6月15日20時26分(晴れ)

私が勤務している広島市立大学芸術学部は実技系の学部で、美術学科には、日本画、油絵、彫刻の各専攻が、デザイン工芸学科には、視覚造形、メディア造形、立体造形、金属造形、漆造形、染色造形の各分野と現代表現領域があります。全ての学生は、制作として芸術を学んでいます。

私以外の教員は全て、実技を教える教員で、芸術学部では私だけが「理論系教員」と呼ばれる美術史担当の非実技系教員です。もちろん、一人で美学美術史をすべて教えているわけではありません。美学や日本美術史は国際学部の教員が担当していますし、西洋美術史や東洋美術史などは非常勤講師が教えています。私は現代美術史を受け持っています。

この大学に赴任する前も作家や実技系の学生と知り合う機会はありましたが、私は美術大学の出身ではないので、学生から教員まで周りがここまで作家ばかりという環境は初めてです。もちろん、それゆえに苦労することもなくはないですが(特に校務で)、総じて新鮮な環境を楽しんでいます。

現代美術を教える現代表現領域の授業では何度も作品の講評をしていますし、授業以外で講評を求められることもよくあります。これまで、本当のコンテンポラリーの作品はもっぱら見るばかりで、書く文章は、「現代美術」と言っても数十年も昔の歴史的な作品や作家を対象にしてきましたので、最初は多少の戸惑いを覚えたのは事実ですが、じきに興味を覚えるようになりました。作り手の考えを身の丈で考えるようになりましたし(そもそも研究者もある意味で「作り手」です)、作家である他教員や、非常勤講師などで来学する批評家や学芸員の方が講評する場に立ち会うのも得難い経験です。

現代美術の作品を見るという経験は、研究者が議論を作り上げるプロセスに似たものがあります。最初に受ける印象は漠然としているのですが、そのときに心に引っ掛かったことが徐々に見えてきて、それを明らかにするうちに、あるとき「見えてくる」という経験です。昔、クレメント・グリーンバーグの美術批評における「瞬間性」論を、マイケル・フリードの「瞬間性」論と峻別して、再解釈する論文を英語で書いたことがありましたが、そのときに考えていたのは、まさにそういうことでした。制作と研究はそれほど大きくかけ離れた事象ではないと私は考えています。

研究者として以前から考えてきたことを、作家や作品と触れ合う中で実際に体験するということもありますし、その反対に、作家や作品との対話の中からある種の言説が立ち上がってくることもあります。現在の恵まれた環境をうまく活用しながら、現代美術に関する自らの議論を練り上げていければと考えています。

ブロガー

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