artscapeレビュー

都美セレクション グループ展 2018
Quiet Dialogue: インビジブルな存在と私たち

2018年07月15日号

会期:2018/06/09~2018/07/01

東京都美術館 ギャラリーA[東京都]

さまざまな地域、時代状況における「女性」のあり方に焦点を当て、ジェンダーを多角的に検証するグループ展。ソビエト時代から多くの女性で構成されてきたモスクワ地下鉄の監視員のポートレイト、戦前・戦中の婦人参政権運動を牽引した市川房枝、中世ヨーロッパの魔女のイメージと実際に魔女狩りの対象にされた現実の女性など、対象は多岐に渡る。とりわけ、「声の複数性」/「単線的な声への集約」という構造や、「性産業従事者」/「再生産労働従事者」という女性の労働状況をめぐる対比の点で興味深く、秀逸だったのが、本間メイと川村麻純の作品である。 本間メイの映像作品《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、性産業に従事するため、東アジアや東南アジアに人身売買された日本人女性について、フィクション/ドキュメンタリーを織り交ぜて考察する。複数の斡旋業者に売買され、各地を転々とし、梅毒にかかった女性の自伝風の語り。「異邦の地で日本語を忘れた老婦人」について報じる新聞記事。「売春と梅毒の輸出は、ヨーロッパの倫理と健康を脅かす」と懸念を語る男性の声。第二次大戦末期のインドネシアで、学校で習った日本語の歌を覚えていると語る現地の老人。複数の視点と声を織り交ぜながら、小説やオペラに描かれたセックスワーカーを含む多様な女性像を通して、「日本人女性」のイメージ形成についての検証がなされる。


本間メイ《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》2018

一方、川村麻純の映像作品《home/making》では、戦前から2018年現在に至るまでのさまざまな「家庭科」教科書の文章を、若い女性が淡々と朗読する。川村が注目するのは、「家庭科は、教科書のなかで唯一、女性が一人称で登場する科目」である点だ。「私」「私たち」は、料理、一家団欒の準備、洗濯、掃除といった家事や育児、再生産労働への従事を「女性にとって自然で、理想的な、家族に奉仕する喜ばしいもの」として語り続ける。驚くべきは、時代差をつらぬく一貫した連続性だ。ここで女性たちは、「私(たち)」という主語として語ることを与えられつつも、再生産労働に従事する者として、その仮構された主語の下に再び統合されるのだ。複数の異なる時代にまたがる教科書の文章のコラージュであるにもかかわらず、シームレスに続く朗読やループする映像は、その統合の回路の果てしなさを暗示する。だが、時折挿入される、ごく平凡な台所や洗濯場を映す映像が、「無人」であることに注意しよう。そこに存在するにもかかわらず、「インビジブル」なものとして不可視化され、空気のように透明化しているのは、いったい何か。川村の作品は、性別役割分担を内面化し、自明なものとする態度そのものについて、静かに問いかけている。


川村麻純《home/making》2018

2018/06/16(土)(高嶋慈)

2018年07月15日号の
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