artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

小野晃太朗『おわれる』

会期:2021/12/29~2021/12/30

こまばアゴラ劇場[東京都]

2020年に『ねー』で第19回AAF戯曲賞を受賞した劇作家・小野晃太朗の新作『おわれる』が上演された。プロデューサーの松岡大貴によれば、豊岡公演・東京公演それぞれ2日間4回で合計8回のみの上演となった今回の公演は、AFF戯曲賞の受賞で注目を集めた小野のほかの戯曲にも光をあて、上演の機会を設けるために企画されたものだったという。なるほど、本作では小野自身が演出を手がけているが、そもそも小野は肩書きとして劇作家・ドラマトゥルクを名乗っている。AFF戯曲賞の受賞作である『ねー』は2021年11月に受賞記念公演として今井朋彦の演出で上演されたが、そういう場でもなければ演出を兼ねない若手劇作家の戯曲にはなかなか上演の機会は回ってこない。コロナ禍においてはなおさらである。

2015年に執筆した短編戯曲「通過」を書き直し、新たに後半を書き下ろしたという本作は、ある部屋を舞台に3人の人物が言葉を交わす1時間程度の作品。AAF戯曲賞の受賞作である『ねー』が登場人物34人、「都市のあらゆるところ」を舞台にした戯曲にして119ページ、今井演出では上演時間2時間20分という大作だったのと比較するとシンプルな構成だが、テーマは通底している。描かれるのは加害と被害、償いと糾弾、そして赦しの可能性だ。


[撮影:トモカネアヤカ]


ある部屋に同居しているらしい女(毛利悟巳)と男(矢部祥太)。「話をして」と女に請われた男は過去の話をしはじめ、いつからか自分は「海に追われている」と打ち明ける。どこに行っても追いかけてくる波の音。理由はわからないという男は一方で「僕のほうから何かしたんだと思う」とも言う。罪の意識が聞かせる幻聴のようなものだろうか。「そのうちここを出ることになると思う」という男の言葉を女は「仕方ないことは必ずある」と受け入れる。女もまた「私の中で暴れるもの」や「ずっとかなしい気持ち」を抱えて「時間を待って」いるらしい。


[撮影:トモカネアヤカ]


[撮影:トモカネアヤカ]


女はまた男に対し「いま考えてる責任のとりかた」は間違っているとも言うが、どうやって男を止めたらいいかわからないでいる。「海は墓場なんだ。海は僕を迎えにきている」と言って部屋を出て行った男はすぐに、別の女に刃物をつきつけられた状態で戻ってくる。彼女は鉄の女を名乗り「家族も友達も、家も故郷も、全部沈んだ」と男を糾弾し殺そうとする。「自分のしたことを思いだせ」と詰め寄られるも「覚えがない」と答える男。女は隙をついて刃物を取り上げると「殺した後、あなたは何をするの?(略)人殺しが」と鉄の女に問うが、彼女は「この男に聞いて欲しい」と応じ、男が答えられないのを見ると「なら宿題だ」と言って去っていってしまう。


[撮影:トモカネアヤカ]


この作品では加害/被害の具体的な内実はほとんど語られず、抽象的な言葉だけが連ねられていく。加害の記憶が忘れ去られる一方で被害の記憶が思い出したくないものとして押し込められてしまうということはしばしばあり、鉄の女も「痛みを避けて言葉にすると、そんなもんだ」とそれらしきことを言いはするのだが、それにしてもこの作品からは奇妙なまでに具体性が排除されている。

このあと「帰る場所がない」という鉄の女が再び部屋に現われ、三人はお茶を飲み言葉を交わす。会話を通じて男と鉄の女には変化が訪れ、男は改めて考えるために散歩に出かけ、鉄の女はしばしその部屋に止まる。単純な筋なので話がわかりづらいということはないのだが、具体的な内実に欠けるやりとりから登場人物の感情の動きを追うことは困難だ。鉄の女の登場場面を除けば終始淡々と発せられる言葉の調子も感情を見えづらくしている。結末はある種の予定調和でありながら、短い上演時間も相まって男と鉄の女の変化に至る過程は十分に描かれていたとは言えないように思う。目を背けてきた罪とようやく対峙した加害者、追い続けてきた加害者とようやく対峙した被害者が少しだけ変わり、そして未来に目を向けるようになる。そんな図式だけが示されているようでさえある。


[撮影:トモカネアヤカ]


だがもちろん問題は、なぜそのように具体性を排除したかたちでこの物語は描かれているのか、という点にある。率直に言ってしまえば、観終えた直後の私は作品に対して大いに不満を抱いていた。加害/被害の問題を扱うのならば、それは具体的な内実とともに描かれるべきで、そうでなければ良し悪し以前の問題ではないか、と。

そう、これはおそらく良し悪し以前の問題なのだ。鉄の女が言うように「人間が人間を裁くためには、ライセンスと、そのための場所が必要」なのであり、客席はそのための場所ではない。登場人物たちの選択は彼女たち自身のもので、私にそれをジャッジする資格はない。小野は『ねー』で客席を「無力な世界、見ているだけで何もできない世界」と呼ばせていた。『おわれる』には直接的に客席に言及するような台詞はないが、世界の具体性は明らかに観客に対して伏せられている。それでも私はなんらかのジャッジを下そうとし、情報の不足に不満を覚える。あるいは登場人物に過剰に寄り添うのも同じことだ。そのような傲慢さは現実にもありふれている。『おわれる』を通してジャッジされるのは登場人物ではなく観客のふるまいなのかもしれない。


小野晃太朗『おわれる』:https://owareru-2021.jimdosite.com/

2021/12/30(木)(山﨑健太)

プレビュー:レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」

会期:2022/01/21~2022/01/24

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

劇場のレパートリー演目の製作を念頭に、アーティストに新作やリクリエーションを依頼するロームシアター京都のプロジェクト「レパートリーの創造」。第五弾では、『バッコスの信女─ホルスタインの雌』で第64回岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家・演出家、市原佐都子の代表作のひとつ『妖精の問題』がリクリエーションされる。2016年の相模原障害者施設殺傷事件をきっかけに創作された『妖精の問題』では、老人介護、ルッキズムに基づく女性差別、障害者、害虫、体内常在菌、女性器といった現代日本社会で「見えないもの=妖精」とされるタブー的事象が俎上に載せられ、美醜、善悪、有用性、清潔/不潔の価値基準や優生思想、見えない抑圧や偏見に対して問いを投げかけていく。一部「ブス」、二部「ゴキブリ」、三部「マングルト」の三部構成からなる本作は、初演版では女優の一人芝居により、それぞれ「落語」「歌謡ショー」「セミナー」という(演劇の外部の)異なる形式で演じられる点も大きな特徴だった。2020年には、コロナ下の状況で、出演者たちがZOOM上で演じる「オンライン版」が国内外で発表された。特に、「菌=不潔」ではなく、体内常在菌との共生について語る三部は、「視聴者参加」を巧みに組み込んだ構成もあり、コロナ下で加速する「異物・他者の排除」を絶対的善とする思想を改めて問うものだった。

「デラックス版」と銘打たれた今回は、一人芝居の形式を解体し、公募やオーディションで選出された7人の俳優が演じる。初演版では落語として演じられた一部「ブス」は、漫才の形式として大幅に改稿され、ほぼ書下ろしの新作になる。また、ドラマトゥルク、音楽、舞台美術、衣裳も大きく変更。音楽は初演版に続き額田大志が担うが、ピアノ伴奏による歌謡ショーの二部を、4人編成のバンドとして再構成する。ドラマトゥルクにパフォーマンス批評の木村覚、衣裳に「お寿司」主宰の演出家・衣裳作家の南野詩恵を迎える。「下半身はオムツを履いただけ」という初演版のショッキングな衣裳が、南野の独創性によってどう再提示されるか。また、舞台美術は建築家ユニットのdot architectsが新たに担当。これまでの市原の作品は、舞台と客席を二分した正面性の強いものだったが、観客も舞台に参加しているような構造になるという。オンライン版での「視聴者参加型」をリアルの場へ実装させる展開であり、「傍観者」であることを揺るがし、観客自身が内に抱く偏見や嫌悪の感情を身体的にあぶり出す仕掛けになるのではと期待される。



「妖精の問題 デラックス」[撮影:中谷利明]

関連レビュー

Q/市原佐都子 オンライン版『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年06月15日号)
Q オンライン版 『妖精の問題』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年06月01日号)
市原佐都子/Q『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月01日号)
Q『妖精の問題』|木村覚:artscapeレビュー(2017年10月01日号)

2021/12/30(木)(高嶋慈)

Choreographers 2021 次代の振付家によるダンス作品トリプルビル&トーク
KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD(KCA)2020 受賞者公演

会期:2021/12/30

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

上演とトークを通して「振付家」に焦点を当てる、NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)の企画シリーズ「Choreographers」の第1弾。2020年にスタートしたコンペ「KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD(KCA)2020」の受賞振付家3名による3つのダンス作品が一挙上演された。ロームシアター京都のサウスホールという広い空間での再演にあたり、尺や出演者の変更などのリクリエーションを経て、より練り上げられた再演となった。

横山彰乃/lal banshees『海底に雪』は、ポップで歯切れのよい振付のなかに、可愛らしさと不穏さが同居する。おそろいのチェック柄のツーピースに、青い靴下と白い靴を身に付け、機械のようにシンクロして動く女性ダンサーたちは、記号的な少女性や制服的な匿名性を思わせ、アイドルへの近似性も感じさせる。浮遊感と不穏さが同居するビートにピタリとはまった精緻な振付は魅力的で、トリオとしてのシンクロ、時にズレる動きの緩急、ソロやデュオへの編成のなかに、無邪気な少女たちの遊戯が顔をのぞかせる。だが、舞台下手には、上演開始からうつ伏せに倒れたままの4人目の身体が横たわっており、少女たちの世界はこの死体が見ている出口のない夢なのかもしれない。正面の壁には、水の入ったペットボトルの列がずらりと吊り下げられており、照明の変化や指先でそっと触れるダンサーに反応し、水面のようにキラキラと光を放つ。死体の擬態という「静」と対置させることで、トリオの「動」を引き立たせる、計算に満ちた夢幻的な世界を見せた。



[Photo by Toshie Kusamoto]



[Photo by Toshie Kusamoto]


松木萌『Tartarus』は、タイプの異なる音楽の巧みな使い分けのなかに、黄金に輝くチューバ、白い花束、個人のテリトリー/ベッド/船/扉/墓標へと変貌する平台といった小道具を駆使して、生と死と性をめぐる抽象的なドラマを繰り広げる、男女デュオ作品。冒頭、闇に響く霧笛のように規則的に響き続ける重低音は、目覚めの合図だ。次第に闇のなかから金色に輝き出すチューバの物質感。それを挟んで対峙する男と女。舞台中央に敷かれた長方形の平台の上で、女(松木)は伸びやかなソロを繰り広げる。それは、「私だけの領域」にいることの自由さと、その限定された狭さを同時に突きつける両義性に満ちている。限られた安全な領域を奪い合うように、平台の上から女を何度も蹴って転がす男。闇のなかに伸ばされた手に握る花束は、誰かの手に渡ることはなく、虚空に孤独なストロークを描く。平台はやがて小船へと変貌し、男の乗った船板を女は苦役のようにロープで引っ張る。暗く駆り立てるような弦楽合奏、南無妙法蓮華経を唱える荘厳な声明しょうみょうと音楽が次々と入れ変わり、軽快なキャバレー音楽に合わせて女は孤独なチャールストンを踊る。垂直に立てられた平台は別世界への扉か墓標を思わせ、その頭上では宙に浮いたチューバが動かない金色の旗のようにきらめく。目覚め、愛と憎しみ、苦難の生、孤独、葬送と死の予感。絵画的な世界のなかに、凝縮されたドラマを見せた。



[Photo by Toshie Kusamoto]



[Photo by Toshie Kusamoto]


トリを飾った下島礼紗/ケダゴロ『sky』は、2018年の初演から国内外で再演を重ねている怪作にして問題作。連合赤軍事件(1971-)とオウム真理教事件(1988-)にインスピレーションを得て創作されたというが、中心的な主題は「集団と暴力」をめぐる外延であり、その批判の矛先は「ダンスという暴力」へと向けられていく。白いオムツを履き、同様の素材で胸を覆っただけの女性ダンサー10名が、口々に悲鳴を上げながら舞台上に転がり込んでくる。ただ一人、赤いフンドシで区別された髭面の男が悠々と登場。オムツをずり下ろし、半ケツ状態で露出された女性たちの尻をピシャリと叩いていく。「痛ッ」という悲鳴の連鎖。女性たちは赤く腫れた尻を剥き出しにしたまま、ダイナミックな群舞を繰り広げる。それは一糸乱れぬ軍隊的な規律のようにも、恐怖と群れの本能につき動かされる奇妙な動物のようにも見える。活を入れる/懲罰を与えるケツ叩きと群舞の反復のなかに、不穏なサイレンと赤く染まる照明、「君たちは完全に包囲されている」というアナウンス、そして革命歌「インターナショナル」の調子外れの大合唱が挿入される。

後半、女性たちは両手に大きな氷の塊を持って登場し、ダンベル体操のようにそれを持ち上げ続ける。「痛い」「もうダメ」という弱音がもれるたび、「頑張れ」「まだいける」と励まし合う声が運動部のノリで飛び交う。「極厳修行は楽しい」「必ず解脱するんだ」というリフレインをポップな音頭に乗せて歌うオウム真理教の「極限修行者音頭」が流れ、肉体の鍛錬/教祖が指揮する修行/不可解な命令への一方的従属に、ダンサーたちはひたすら従事し続けるが、一人、また一人と氷を床に落とし、脱落していく。



[Photo by Toshie Kusamoto]



[Photo by Toshie Kusamoto]


具体的なモチーフのレベルでは、指導者への絶対的忠誠や内部粛清を繰り返した集団的狂気だが、フンドシやハチマキ、紅白や音頭のリズムといった「ムラ」「祝祭」「前近代的共同体」を連想させる仕掛けによって、日本社会の持つ同調圧力と排除の暴力があぶり出されていく。そこには同時に、「ダンスのサークル」「体育会系」の集団内部の暴力性が重ね合わされる。ここで、「特権的なただ一人の男性と、彼に従順に従い、暴力=指導を受け入れる女性たちの集団」という構造は、さまざまな社会集団の権力構造が、ジェンダーという暴力も含むものであることを物語る。「ケツを叩く指導者の手」が「尻を執拗に撫で回す手」に変わる瞬間は、権力関係を利用した性暴力を示唆する。さらに、左翼運動をもじり、「私は、この作品から逃げたことをソウカツする!」という出演者の「自己批判」は、批判の矛先を「振付家」へと向けていく。最終的に露呈するのは、「規律と権威への服従」という集団的暴力と、ダンスカンパニーの同質性である。肉体への過酷な負荷と乾いた笑いとともに、集団のはらむ同調/排斥の暴力、ジェンダーの暴力、そして振付という暴力を見る者に突きつけた。

ラストシーンで、自身も出演する下島は、氷ではなくドライアイスの塊を手に再登場する。火山の噴煙かテロの爆発を思わせる、もうもうと噴き上がる白い煙。それは、ダンスに対する革命の狼煙だ。



[Photo by Toshie Kusamoto]


公式サイト:https://choreographers.jcdn.org/

2021/12/30(木)(高嶋慈)

水の駅

会期:2021/12/19~2021/12/26

彩の国さいたま芸術劇場[埼玉]

この演目のシンプルな設定の話を聞いて以来、一度は太田省吾の名作「水の駅」を見たいと思い、彩の国さいたま芸術劇場に足を運んだ。始まる前から舞台の上にある蛇口から、水が流れ続け、劇中はさまざまな人々が次々とゆっくりやってきては、手前に通り過ぎていく。水を飲んだり、汲んだりするときだけは、下に落下しないため、水の音は変化する。なるほど、会話も独白もない。考えてみると、まったく発話しない沈黙劇は、コロナ禍というタイミングにふさわしい。また台詞を暗記する必要がないことは、平均年齢が81.7歳に到達した役者陣の負担も減らすだろう。どういうことか。「水の駅」は、芸術監督だった蜷川幸雄が2006年に創設した55歳以上の高齢者から構成される演劇集団、さいたまゴールド・シアター(以下、ゴールド・シアター)が活動終了することになり、その最終公演だった。冒頭までは、幾つかのバトンなどの機構がだいぶ下まで降り、機材が乱雑に置かれていたが、それらがすぐに片付けられると、舞台の後方に「GOLD」という大きな文字が立体の工作物として立っている。これまでのゴールド・シアターの活動を讃えるかのように。



彩の国さいたま芸術劇場ガレリア



さいたまゴールド・シアターの活動展示



蜷川幸雄のメモリープレート


意表を突いて感動的だったのが、カーテンコールだった。高い位置に吊られた蜷川の写真の前に出演したメンバーが一列に並び、右から順番に名前と年齢を大きな声で宣言する。なかには90代半ばの俳優もいて、会場から拍手が起きていた。芸術劇場のガレリアでは、ケラリーノ・サンドロヴィッチや松井周らの書き下ろし作品への挑戦など、ゴールド・シアターの歩みを紹介する展示も行なわれていた。これを見て思い出したのが、2015年に同劇場で観劇した蜷川演出の「リチャード二世」である。ゴールド・シアターが若手のさいたまネクスト・シアターとコラボレーションした演目で、ホールの座席を使わず、舞台上に三方から囲む場をつくり、長大な奥行きも確保する面白い空間の使い方だった。さらに車椅子、タンゴ、和装+洋靴、若手と高齢の男女俳優の組み合わせなど、台詞は流麗なシェイクスピアのままだが、古典劇を徹底的に異化し、強烈な印象を受けたものである。おそらく今後も移民を積極的に受け入れないであろう日本は、さらなる高齢化社会に突入していくが、ゴールド・シアターの試みはパフォーミング・アーツの分野において新しい活動の可能性を開拓したと言えるだろう。

2021/12/24(金)(五十嵐太郎)

libido:Fシリーズ episode:02『最後の喫煙者』

会期:2021/12/10~2021/12/26

せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]

libido:所属俳優によるひとり芝居シリーズ「libido:F」のepisode:02が上演された。今回、俳優の緒方壮哉が題材として選んだのは筒井康隆の「最後の喫煙者」。嫌煙権運動が過激化し喫煙者が排除されていく世界で「最後の喫煙者」となった小説家が、そこに至るまでを振り返る体裁の短編小説だ。筒井を思わせる作家の独白として書かれたこの短編を緒方はほとんどそのまま舞台に載せ、ひとり芝居として上演してみせた。

木ノ下歌舞伎やロロ、FUKAI PRODUCE羽衣の作品でも活躍する緒方の魅力のひとつはその身体能力の高さにある。舞台で跳ね回るような大きな動きから指先だけで行なわれるミニマムな演技まで、よくコントロールされた身体はどの舞台でもパッと目を引く。本作でも緒方は狭い会場で縦横無尽の暴れっぷりを見せる、のみならず、ラップやモノマネなどの「芸」も披露し、上演はさながら緒方壮哉ショーの様相を呈していた……のだが、50分の上演時間のほとんど最初から最後まで全力投球を(しかも間近で!)見せられるので、終わる頃にはこちらも少々疲れてしまった。もちろんそれは原作の作家の語り、筒井の文体が持つ勢いを体現したものではあるのだが、緒方のよさを活かすという意味ではもう少し緩急があってもよかったかもしれない。終始見せ場では見せ場がないのと同じである。


[撮影:畠山美樹]


さて、俳優が自ら持ち込んだ企画を演出家の岩澤哲野とともに練り上げていくこのシリーズだが、アフタートークによれば、今回の演出上のアイデアの多くは緒方が持ち込んだもので、岩澤の主な役割はともすれば詰め込みすぎになるアイデアを上演を成立させるために整理していくことにあったという。アフタートークでは作品選定や演出の意図についても緒方が自らの言葉で語っており、自立したつくり手としての頼もしさを感じた。

会場である元社員寮を改装したアトリエはアパートの一室といった趣。そこに緒方が「帰ってくる」ところから芝居ははじまる。ドアを開け靴を脱ぎ、手にしたコンビニのレジ袋をちゃぶ台に置いた緒方はマスクを外すと一旦下手に消える。どうやら手洗いうがいをしているようだ。戻ってきた緒方はおもむろにタバコに火をつけると部屋の奥の神棚らしきものを拝む。よく見るとそれはタバコのパッケージが積み上げられたものだ。レジ袋から取り出した缶チューハイとタバコを手に、緒方は『最後の喫煙者』の文庫本を読みはじめる。

実はこの冒頭部はlibido:Fシリーズepisode:01『たちぎれ線香』を反復している。舞台側の出入り口が玄関の一箇所しかないことを逆手にとってか、男が帰ってきて手洗いうがいをし、部屋の奥に向かって拝んでみせるまでの一連の流れが『たちぎれ線香』と『最後の喫煙者』でまったく同じなのだ。シリーズを追う観客にとっては楽しいくすぐりだがそれだけではない。『たちぎれ線香』で拝まれていたのは主人公の若旦那が入れ上げていた芸者・小糸の位牌。『最後の喫煙者』でその位置をタバコが占めているのはブラックユーモア以外の何物でもない。小糸は恋煩いの末に亡くなってしまうが、タバコに執着した作家が結局は「最後の喫煙者」として(強制的に)保護されようとする結末を考えればなおさらだ。『たちぎれ線香』は線香が消えて終わるが、タバコに火をつけるところからはじまる『最後の喫煙者』のタバコの火は最後まで消えないのである。


[撮影:畠山美樹]


続く物語世界への導入部分も秀逸だ。緒方が文庫本を読んでいると蠅の羽音らしきものが聞こえてくる。読書に集中できず追い払おうとするが、蠅はしつこく飛び回る。やがて緒方がちゃぶ台の上で蝿を踏み潰さんとしたその瞬間、蠅の羽音はヘリコプターのローター音へと切り替わり、一転して緒方は追われる側となる。BGMはモーリス・ラヴェルの『ボレロ』。部屋の奥に設置されたモニターには逃げ惑う緒方の姿が映し出され、隠れる場所はどこにもない。観念したのかちゃぶ台の上に丸椅子を置き、その上にどっかと座りタバコを吸う緒方。そこは国会議事堂の頂だ。

小説「最後の喫煙者」は国会議事堂の頂に追い詰められ「最後の喫煙者」となった語り手が「地上からのサーチライトで夜空を背景に照らし出され」「蠅の如きヘリからのテレビ・カメラで全国に中継されている」場面ではじまる。『ボレロ』が終わると同時に明かりは消え、再び明るくなると緒方は何事もなかったかのようにちゃぶ台で文庫本を読んでいるが、そこはすでに物語世界のなかだ。


[撮影:畠山美樹]


原作の短編小説が発表されたのは1987年。しかしここで描かれた「禁煙ファシズム」は2021年の日本においてはすでにほとんど完成されてしまっている。優れたSF小説がしばしばそうであるように「最後の喫煙者」もまた未来を先取りしていた。小説「最後の喫煙者」を上演するということは俳優の身体でもって小説世界を現実化するということだが、「最後の喫煙者」の世界はすでに「現実化」されてしまっているのであり、だからこそ喫煙者である緒方が2021年の日本で演じる『最後の喫煙者』にはどこか哀愁が漂う。

蠅の羽音は直接的には「蠅の如きヘリ」の比喩から導かれたものであろうが、追う側であったはずの緒方が突如として追われる側に転じる導入も効いている。『ボレロ』の旋律は繰り返されるなかで異なる楽器に引き継がれていく。排除の旋律もまたその対象を変え繰り返されるだろう。たとえばマスクの着用をめぐる諍いが殺人にまで発展する現実を見れば、30年以上前の筒井のブラック・ユーモアはますますアクチュアルなものになっていると言えるだろう。それがもはや笑えないものになっているとしても。

2月には緒方個人としてK-FARCEプロデュース公演『#スクワッド』への出演が予定されている。libido:Fシリーズとしては鈴木正也によるepisode:03が4月に上演予定だ。


[撮影:畠山美樹]



libido::https://www.tac-libido.com/


関連レビュー

libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月01日号)

2021/12/10(金)(山﨑健太)