2018年09月15日号
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artscapeレビュー

東京デスロック『RE/PLAY(DANCE Edit.)』

2014年03月01日号

会期:2014/02/14~2014/02/16

急な坂スタジオ[神奈川県]

ダンサーたち本人の実存(=ダンサーの生/人生)が、曲のリプレイ(と同時に振り付けのリプレイ)を通して、またそれに限らず、シンプルだけれど強固な演劇構造の設えによって、一種の「リアルな物語」として語られる演劇。本作を要約するならば、こう言えるだろう。90分ほどの上演時間は、10曲近いポップソングが一曲につき一度ならず、二度、三度と再生されるなか、ダンサーたちが自分で発案したのだろう短い振りあるいはポーズを数珠つなぎしていき、一曲分の一見でたらめ的即興のように見える動きの連なりを、曲の音量に呼応したダンサーたちのテンションの変化をともないいつつも淡々と繰り返す、その仕組みの遂行にあてられていた。一曲目はサザンオールスターズ『TSUNAMI』。二回目の再生でダンサーは一回目と同様の動きを見せていることがわかり、この作品の構造が明かされた。選曲に「東日本大震災」を連想させられもする。ただ、ダンサーたちの振り付けには、日常の出来事から切り離されたダンシーな要素が色濃い。とはいえ、バレエでもモダン・ダンスでもなく、いわゆるコンテンポラリー・ダンス的な動き。興味深いのは、それらの動きが、個々のダンサーの個性を観客が感受することにほとんど奉仕していない、ということだ。遠田誠、岩渕貞太、北尾亘、きたまり、岡田智代など、単体として見れば十分個性的で、ソロ公演も行なっている魅力的なダンサー/振付家ばかりだ。ただし、この舞台の場では、踊れば踊るほど、彼らは純粋に自分のダンスを見せるというより、演出家の多田淳之介に設えられた「演劇構造の枠」のうちに取り籠められてしまう。いや、「取り籠め」られるからこそ出てくるものがあるのであって、二曲目のビートルズ『オブラディオブラダ』で10回ほども曲がリプレイされ、新たにイントロが鳴るたびに、最初のポジションに戻りポーズを決め、先の振りを繰り出しはじめるダンサーたちを見ていると、演劇というよりは、まるでポスト・モダンダンス(ex. ジャドソン・ダンス・シアター)の舞台みたいだと思わされてしまった。つまり、審美的な振り付けというよりも、シンプルな行動の約束ごとを設定して、それを遂行している、というように見えたわけだ。個々のダンサーの思惑とは別に、リプライが重ねられるたびにダンサーが表現主体ではなく客体(オブジェ)化していく、そうなればなるほど、舞台は独特の充実した状態を達成していった。ところが、全体の2/3が終わったあたりで、突然、ダンサーたちが喋りだすと、様相は微妙に変化した。「今度いつ会えるか」などの会話から察するに、ダンサーたちは中華料理屋でこの公演の打ち上げをしている。そのあと再び、曲が鳴ると、リプレイの遂行が再開された。ここからダンサーたちは水をえた魚のように、これまでの抑制された動きから解き放たれて、主体的に踊りだした。「振り付けのリプレイ」という構造は相変わらずで、だからもちろん、躍動的に踊れば踊るほど、多田の「演劇構造の枠」に絡めとられ、演劇的に見える。「ダンサー」という役のダンサーたちは、踊れば踊るほど「ダンサー」という「役」を演じることになる。自己顕示欲にかられた、ナルシスティックな、踊らずにはいられない男や女の「リアルな物語」。くたくたになって「倒れる」が、本当は毎日何時間でも踊り続けてしまう人たちのはずで、疲れていないとは言えないとしても疲労した様子は一種の「演劇的」仕草でもあるはず。バレエ作品『ジゼル』にも、踊り狂う場面はあるけれど、ダンサーの踊らされる運命と踊りたい欲望の相克が、ここでは演劇的効果のなかで露呈させられていた。そこが「うまい!」とも言えるし「残念!」とも思う。演劇的な理解に回収されぬままに、ダンサーの狂気を(これはただ踊っていても表われない、一種の批評的視点が必要だ、故に)一種の批評的な「枠」にとじ込めつつ見たい。けれども、これを実践すべきは演劇を企図する作家ではなく、ダンスの分野の作家たちであって欲しい。

2014/02/14(金)(木村覚)

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