artscapeレビュー

九州派展──戦後の福岡で産声を上げた、奇跡の前衛集団。その歴史を再訪する

2016年02月01日号

会期:2015/10/28~2016/01/17

福岡市美術館[福岡県]

美術評論家の宮川淳(1933-1977)は、初の評論「アンフォルメル以後」(1963)において、いわゆる「アンフォルメル旋風」にあおられた当時の日本絵画の状況を、様式概念としての現代と価値概念としての近代の矛盾という論点から分析した。宮川によれば、アンフォルメルとは近代芸術におけるフォルムからマチエールへの価値転換という本質的な構造変化の現われであり、それゆえ本来的にはいまだ確立されていない価値概念としての現代を育む可能性を内蔵していた。ところが、アンフォルメルは依然として価値概念として近代の文脈のなかで、「絵画のテロル」ないしは「激情の対決」、あるいは「抽象のいきづまり」として受容されてしまったがゆえに、その可能性を開花させることなく、ただ様式概念としての現代を捏造することに終始したのである。宮川にとってアンフォルメルとは、近代的な表現概念そのものの価値転換を実行しうる「表現的可能性」にほかならなかった。
九州派は、まさしくアンフォルメルの鬼子と言えよう。岡本太郎がアンフォルメルを日本に紹介した企画展「世界・今日の美術展」は、1956年に日本橋の百貨店「高島屋」で開催された後、翌57年に福岡の岩田屋ホールに巡回しているからだ。本展の企画者で福岡市美術館の学芸員、山口洋三の調査によると、九州派の中心的メンバーであるオチ・オサムはこの展示作業を手伝い、同じく桜井孝身、石橋泰幸、木下新はこのとき岡本太郎に自らの作品を批評されたという。山口は言う。「技術的な習熟よりも、画家の身振りや感情が叩きつけられたかのようなヨーロッパの現代絵画は、素人(下手な絵描き)が世界の最先端(現代美術)であることを、彼らに対して宣言したことになり、これは桜井らにとって大いなる刺激となったに違いない」(『九州派大全』グラムブックス、2015、p.124)。
本展は、1988年に同じ福岡市美術館で開催された「九州派展──反芸術プロジェクト」の成果を受けて、その後に収集・所蔵した作品をまじえて九州派の全貌に迫った回顧展。桜井やオチはもちろん、菊畑茂久馬、山内重太郎、田部光子、俣野衛、谷口利夫、働正ら21人による約60点の作品が展示された。「具体」のように特定の強力な指導者がいたわけではなく、そもそも残存する作品が必ずしも多いわけでもない九州派の謎めいた活動を、展示と図録の両面から詳らかにした意義はきわめて大きい(前述した『九州派大全』は、88年の「九州派展」の企画者である黒田雷児の論考をはじめ、関連するシンポジウムやインタビューも掲載しており、九州派研究の文字どおり決定的な基礎資料となるに違いない)。

冒頭で宮川淳の「アンフォルメル以後」に触れたのは、ほかでもない。時系列に沿って構成された本展の展示を見て、ただちに思い起こされたのが、宮川の批評的なまなざしだったからだ。むろんアンフォルメルと九州派は著しく近しいとはいえ双方を同一視することはできない。けれども、九州派が展開した軌跡に宮川がアンフォルメルに見出した隘路を重ねて見ることは、さほど難しくはない。
九州派の代名詞と言われているのが、当時の都市の路上を覆いつつあったアスファルトである。彼らは生活に密着し、しかも安価なそれを絵画の素材として大々的に導入した。なかでも尾花成春の《自画像》(1958)は、支持体の表面に大量のアスファルトを塗りつけたもので、黒々としたマチエールがひときわ強い印象を残している。フォルムの破壊とマチエールの前景化。そこに宮川がアンフォルメルに認めた「表現行為の自己目的化」、すなわち表現されるものは表現行為によってしか生まれないという、ある種の構造主義的な転倒を見出すこともできよう。
だが、こうしたアンフォルメルの強い影響下で制作されたアクション=マチエール絵画の傾向は、九州派の作品から徐々に退いていく。代わりに台頭してきたのがオブジェやハプニングである。例えば1962年に福岡市の百道浜で行なわれた「英雄たちの大集会」は、いまでも語り継がれることの多い九州派の伝説的なイベントだが、ここで宮崎準之助は砂浜にただひたすら四角い穴を掘り続ける身体表現を実行して、多くの来場者に鮮烈な印象を残した。だが同時に、造形において宮崎が制作したのは木材を球状化した非常にミニマルなオブジェだったのである。会場にはオブジェやハプニングの記録写真のほか、ミニマリズムやポップアートに類した作品も展示されていたから、60年代の九州派は世界的な現代美術の動向と同期していたと言えるかもしれない。
重要なのは、この点をどの立場からどのようにとらえるかである。現代美術との同期を肯定的に考えるのであれば、九州派の前衛性が欧米の現代美術史と順接していた事実を高く評価することもできよう。しかし、実際の展示会場で印象づけられたのは、初期のアスファルト絵画に満ちていた得体の知れないエネルギーが徐々に希薄化していく過程だった。自分でもコントロールしがたい野性的な感性がアートワールドに回収されることで次第にスマートなものとして飼い慣らされていったと言ってもいい。宮川淳はアンフォルメルの表現的可能性について、「もし、現代の表現のさまざまな努力が近代芸術のコンテクストの外にあるとすれば、われわれはついにそれらのアクチュアリティをポジティヴには捉ええないのであり、そこにはつねにひとつの判断の保留、“だが果たしてこれが芸術であろうか”という、いわば負の認識がまつわりつくだろう」と指摘したが、九州派の展開はそのような「負の認識」が雲散霧消していく過程として考えることができるだろう。そもそも近代芸術が外部に設定した他者性を回収することで自己増殖を繰り返してきたことは否定できない事実だとしても、少なくとも初期の九州派には、宮川淳が言うところの価値概念としての現代を育むための土壌が整えられていたと考えられる。

しかし、価値概念としての現代とはいったいどんなものなのか。宮川淳は先述した表現行為の自己目的化という点にわずかに言及しているだけで、その具体的なありようについてはほとんど触れていない。いまもなお価値概念としての近代と様式概念としての現代という矛盾が解決していないとすれば、私たちは価値概念としての近代に拘束されていることを自覚しつつも、価値概念としての現代について想像的に思いを巡らすほかない。
例えば、九州派の結成に大きな力を発揮した桜井孝身は「我流で描きためた無数の作品で公募展作家たちを圧倒し、さらに労働組合の人員獲得の戦法を使って、才能のありそうな画家も、公募展で落選を重ねる素人絵描きも、同列にして仲間に引き込んでいった」(『九州派大全』p.124)という。すなわち、熟練の絵描きも絵画の素人も、誰もが渾然一体となった有象無象の坩堝こそが、九州派の原像だったのだ。そのような「熱」を帯びた空間を読売アンデパンダン展の最盛期にも見出すことができることを思えば、戦後美術の基底には限界芸術の気配が漂っていたと言えるのではないか。アンフォルメルが「素人(下手な絵描き)が世界の最先端(現代美術)であることの宣言」だったとすれば、「アンフォルメル旋風」は限界芸術の契機が現代美術の現場に出現した出来事として考えられるのであり、逆に言えばその表現的可能性を十分に育むことができなかったところから現代美術の隘路は始まったのだ。価値概念としての現代は、今後限界芸術やアウトサイダー・アートを巻き込みながら成熟していくに違いない。

2016/01/17(日)(福住廉)

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