artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

プレビュー:劇団ダンサーズ『都庁前』

会期:2020/10/09~2020/10/11

SCOOL[東京都]

劇団ダンサーズが岡田利規の能「都庁前」を上演する。「『ダンス当事者』が流動的に集まる場」であるダンス作戦会議から生まれたダンサーによる演劇プロジェクト・劇団ダンサーズは2019年5月に岸田國士『動員挿話』を上演して旗揚げ。今回の『都庁前』が第二回公演となる。

「ダンサーによる演劇プロジェクト」とは一体どういうことか。ダンス作戦会議のWebサイトには「ダンスの枠組みの中で演劇的手法を用いるのではなく、ダンサーがあえて演劇を演劇として実践することで、演劇の中にあるダンス的な可能性を探る」とある。ここに書かれていることは『動員挿話』『都庁前』双方の出演者でもある神村恵と美術家の津田道子によるユニット「乳歯」の取り組みとも共振している。彼女たちは『スクリーン・ベイビー』シリーズを通して「映画をダンスとして見」ることを試みていた。では、結局のところ追究されているのはやはりダンスなのであって、演劇や映画はそのための媒介に過ぎないのだろうか。

劇団ダンサーズによる『動員挿話』は私の目には「演劇のニセモノ」のように映った。ダンサーたちの演技は演劇として「巧い嘘」を立ち上げることには確かに失敗している一方、その一挙手一投足は並々ならぬ「真実味」とでも言うべき強度を湛えている。戯曲に基づいているという点でダンサーの身体動作に宿る「真実味」は『動員挿話』という演劇の「嘘」と無関係ではないのだが、同時にその強度は演劇の「嘘」を食い破るようでもあった。

このような「真実味」と「嘘」の奇妙なバランスが私に「演劇のニセモノ」という印象を抱かせたのだが、しかし私は「これは演劇ではない」などと言いたいのではない。むしろ、私はそれを演劇として観たからこそ、演劇の俳優とは異なるやり方でダンサーが立ち上げる「真実」の奇妙な手触りに魅せられたのだと思われる。そこで触知されたのは未知なれどたしかに「演劇」の面白さであり、ダンスはそれを発見するための触媒として機能していた。

今回上演される『都庁前』は岡田がドイツの劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品として書き下ろした『NŌ THEATER』の一編。都議会で「お前は子どもを産めないのか」と野次を浴びた女性議員の生き霊(それは「フェミニズムの幽霊とも呼ばれる」)が登場するこの作品は、ドイツの俳優によってドイツ語で上演されドイツの観客によって観られることを前提に(日本語で)書かれたもので、そのような背景も含めてきわめて演劇的な目論見に満ちた作品として評価されるべきものだ。だが、今回の、つまり日本の「俳優」による日本語での上演ではそのような批評性/演劇性は抜け落ちてしまう。ダンサーの身体の導入はこの作品に新たな批評性/演劇性を見出す契機となり得るのだろうか。10月9日(金)からの本番を楽しみに待ちたい。


公式サイト:https://dance-kaigi.com/

関連記事

乳歯『スクリーン・ベイビー#2』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年03月01日号)
岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年09月15日号)

2020/10/01(木)(山﨑健太)

草野なつか監督『王国(あるいはその家について)』

会期:2020/09/11

新文芸坐[東京都]

2020年9月11日、草野なつか監督による映画『王国(あるいはその家について)』(脚本:高橋知由、以下『王国』)が新文芸坐で上映され、同時に上映開始の19時より24時間限定で有料の「上映同時間配信」が行なわれた。コロナ禍もあって演劇公演の有料配信は増えているが、映画でこのような試みがなされるのは珍しい。新文芸坐はTwitterアカウントで、劇場での上映と配信とでは主催者が違うため「劇場の儲けが減ってしまう可能性がある」「今回の配信は物議を呼ぶかもしれません」としつつ「配給会社を持たない優れたインディー作品の可能性を広げるためにも挑戦したいと思」ったのだと言い、「併せて劇場鑑賞の良さも再認識していただれば幸いです」と発信している。かく言う私も配信があったことでこの映画を観ることができた観客のひとりだ。

『王国』はもともと2016年度愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品として製作され、17年に64分版として発表された作品。その後、19年の第11回恵比寿映像祭で150分の再編集版が上映され、以降、150分版が三鷹SCOOLや新文芸坐で上映され、あるいは映画配信サービスMUBIで限定配信されてきた。英国映画協会により2019年の優れた日本映画の1本にも選ばれている。

休職し数日間の帰省をしている亜希(澁谷麻美)は幼なじみの野土香(笠島智)とその夫でサークルの先輩でもある直人(足立智充)夫婦の新居を訪れる。娘・穂乃香の相手をしているうちに彼女は亜希に懐くが、ある台風の日、亜希は穂乃香を橋から投げ落として殺害してしまう──。

物語はしかし、通常の映画のようには描かれない。亜希が穂乃香の殺害に至るまでのいくつかの場面は、稽古場のような場所で台本を手にした役者たちによって演じられ、しかもそれはリハーサルのように何度も繰り返されるのだ。

この映画は「役者たちの変化の過程」を捉えた作品なのだと紹介されることがある。なるほど、確かに映し出されるリハーサルらしきやりとりのなかで役者は徐々に台本を手にする頻度が減り、周囲の様子も稽古場然とした場所から「実際の」ロケーションへと変化しているようにも思える。だが、そこには本当に「役者たちの変化の過程」が映し出されているのだろうか。リハーサルは「物語」の時間軸に沿っては進んでいかない。同じ場面の異なる回のリハーサルがワンカットに収められているわけではないため、ある一回のリハーサルとまた別の回のリハーサルの前後関係も(カチンコによって数字が示される場合を除けば)観客にはわからない。そもそも、映画というのは完成時の場面の順序に沿って撮影することの方が珍しい。だから、観客が見るのは現実の時間経過に伴う「変化の過程」というよりむしろ、無数のバリエーションとしての変化ということになるだろう。

この作品が供述調書をその内容確認のために読み上げる場面からはじまっていることは示唆的だ。犯罪の容疑者となった人物は取調べから裁判へと至る過程で同じ内容を繰り返し供述させられることになる。その繰り返しは供述調書へと収斂し、内容確認のため「他人」である取調官によって読み上げられたのち、本人によってその内容が承認されることで「真実」として扱われる。だが、亜希と取調官とのやりとりからは、そこに記された内容が必ずしも真実を示すものだとは限らないということも見えてくるのだった。

リハーサルの場面はこの供述調書の内容確認場面に続いて始まる。演じられるのは取り調べよりも前、亜希がほのかを殺害するに至る過程にあたるいくつかの場面だが、すでに供述調書の内容を知っている観客にとってそれは、すでに起きた犯罪の再現ドラマのようでもある。

まるで供述調書を台本にしたようなリハーサルは、その一回一回が異なる回の供述をもとにしているかのように、少しずつ違ったニュアンスを帯びている。少しずつ異なるリハーサルの様子はむしろ、そのどれもが真実であると主張するかのようであり、唯一絶対の真実というフィクションは揺らいでいる。

事件に至る一連の出来事と記憶の反芻としての証言、そして供述調書。映画の台本と繰り返されるリハーサル、そして完成形としてのフィルム。パラレルな両者の関係はしかし、取り調べにおいて最終的なアウトプットであるところの供述調書と映画撮影のスタート地点である台本とが擬似的なイコールで結ばれることで奇妙な循環を生み出すことになった。供述調書も完成形のフィルムもあり得た帰結のひとつの可能性に過ぎない。供述調書へと収斂した真実は再び無数の真実へと発散していく。唯一の真実に至ることは不可能だ。


公式Twitter:https://twitter.com/domains_movie
草野なつかTwitter:https://twitter.com/na2ka

2020/09/11(金)(山﨑健太)

ロロ『心置きなく屋上で』

会期:2020/09/09~2020/09/13

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

高校演劇のフォーマットを用いた連作「いつ高」シリーズの新作が約2年ぶりに上演された。2015年に『いつだって窓際であたしたち』で幕を開けたこのシリーズは当初から全10作となることが予告されており、8作目となる今作の当日パンフレットには「いつ高FINALシーズン開始です」という作・演出の三浦直之の言葉もある。

舞台は新校舎の屋上。屋上の床面に描かれた円を描きかけの魔法陣だと言い張る茉莉(多賀麻美)。瑠璃色(森本華)に手伝わせて魔法陣を描いていると友人・海荷(田中美希恵)の元カレである太郎(篠崎大悟)が来合わせる。気まずい3人。太郎と入れ違うようにして現われた海荷の妹・ビーチ(端田新菜)は偽物のラブレターを使って姉と太郎のよりを戻そうと画策しているらしい。やがて完成した魔法陣に瑠璃色が「望む」となんと魔法が本当に発動してしまう。宙に浮かびどこかへ飛び去る瑠璃色。追いかける茉莉とビーチ。無人になった屋上にやってきた海荷が魔法陣をなぞると再び魔法が発動。海荷の「望み」に呼応してか彼女のことを好きだと言う太郎が出現し──。

[撮影:三上ナツコ]

出現した太郎が自らの願望の産物であることに気づいた海荷は「あたしの願望が、あなたに好きって言わせて、それをあたし振ってんのか……きも」と独りごちる。一方、ビーチが書いた太郎からのラブレターを偽物だと見破った海荷は太郎はそんな文章は書かないと言うが、当の太郎は「おれ、この手紙、書いた気がするよ」と言い出す。自分の理想を他人に押しつけること。他人のすべてを知ったり想像したりすることはできないこと。それでも、他人の書いた言葉が自分の言葉のように響く瞬間が確かにあり得ること。太郎も海荷に未練があるようだが、海荷はよりを戻すことを選ばない。「あんまり物事二択で考えないほうがいいとおもう」とは茉莉の言葉だが、好きか嫌いかの二択では割り切れないこともある。

一方、瑠璃色は瑠璃色で進路の選択で悩んでいるようだ。どうやら三者面談で親と揉めて泣いていたらしい。空に浮かび上がってしまった瑠璃色が願ったのは、自由になりたい、あるいは、望むところへ行きたいという願いだろうか。「線のまだ安定しきっていない感じが好き」な瑠璃色は「いまもし自分が漫画だったら何巻くらいの絵なんだろう」「まだ1巻であってほしい」と言う。

[撮影:三上ナツコ]

[撮影:三上ナツコ]

[撮影:三上ナツコ]

渦中にいる彼女たちにはそう思えないかもしれないが、未来は可能性に開かれている。進路にせよ恋愛にせよ、あるいはほかの何かにせよ、彼女たちは日々選択をし、ときにそれが選択だと気づかないまま選択をしている。屋上の床面に書かれた円は○×クイズの○で、旧校舎の屋上には×が記されていた。彼女たちが気づかぬうちに○を選んでいたように、気づかないうちに選んだ道が「正解」だということもある。あるいは、正解だと思って選んだ選択肢が後から間違っていたと思えることもあるだろう。○×クイズの○は正解を意味せず、×も間違いを意味しない。いずれにせよ、自らの選択が「正解」かどうかがわかるのはまだ先のことだ。いや、人生にやり直しがきかず、複数の選択肢を比較することが叶わない以上、本当の意味で「正解」を判定することは不可能だろう。

すでに高校生でない私は、彼女たちの選択の本当の結果はずっと先にならなければわからないことを「知って」いる。高校生のときの切実さも、振り返ればひとつの思い出となる。だが、日々選択し続けているという意味では、高校生の私もいまの私も変わらないはずだ。切実な願いは選んだ選択肢を(それが「正解」であれ「不正解」であれ)思い描く未来につなげる力を持つだろう。それこそが本当の魔法だ。いまの私に、魔法を使えるほどの切実さはあるだろうか。

[撮影:三上ナツコ]


公式サイト:http://loloweb.jp/

関連記事

ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2020/09/10(木)(山﨑健太)

範宙遊泳『バナナの花』

会期:2020/06/05~2020/09/30

範宙遊泳『バナナの花』が2020年9月4日に公開された#4をもって完結した。#4の冒頭では同時に、「むこう側の演劇」を掲げYouTubeで無料公開されてきた本作が、2020年9月30日午後4時21分には削除されてしまうことも予告されている。この日時には物語に関わる重要な意味があるのだが、そのことについては後に触れる。未見の方はまずは『バナナの花』#1〜#4を見てからこの先を読み進めることをお勧めしたい。

#1で出会い系アプリのユーザーとサクラとしてオンラインで出会った「穴蔵の腐ったバナナ」(埜本幸良、以下バナナ)と「百三一桜」(福原冠、以下桜)。#2では桜の「会えませんか?」という呼びかけに応じ、桜とバナナが現実の世界で対面する。#3で描かれるのはどうやら探偵事務所を構えたらしいバナナと桜がミツオと呼ばれる男の身辺を調査している様子。バナナは客を装いミツオの元カノであるデリヘル嬢・レナ(井神沙恵)から話を聞く。#4でバナナはそのミツオらしき男(細谷貴宏)に監禁されているのだが、バナナを解放するよう訴える桜・レナとのやりとりから、その男はミツオではなく、しかもバナナをやがて来る死の運命から救うために監禁=保護しているらしいことがわかってくる。桜とレナは男(バナナによってシュワちゃんと呼ばれるようになる)の妄言とも思える言葉を受け入れ、バナナを救うためにともに彼を監禁しようと提案するのであった。

最初は独りだったバナナだが、#2で桜を、#3でレナを仲間にし、#4では自らを監禁しようとしていたシュワちゃんさえ仲間にしてしまう。桜たちが仲間になったのは、フィリップ・マーロウに憧れ、「僕は人を救いたいんだ」と衒いなく言えてしまうバナナの純粋さゆえのことだと思われるが、同時に、桜たちのなかにもそのような純粋さがあったということでもある。そう言えばシュワちゃんもまた、バナナを救うために彼を監禁していたのだった。

バナナが読んでいた『君の友達が君自身だ』という自己啓発本、桜を殴ったはずのバナナ本人が流血してしまうこと、ミツオがバナナに似ているというレナの言葉、「僕は人を救いたいんだ」というバナナをシュワちゃんが救おうとすること。他者は自分自身を反射する。#2のラストでバナナは「君の顔ってやつはさ、出会った人の数だけあるかもね」と歌う。#3のラストでレナは自分たちはやがて「甘くない現実を受け入れないぞ認めないぞっていうそういうスタンスを決め込んでいく」のだと宣言する。それは現実逃避ではなく、そうすることで現実を変えようという革命の宣言ではなかったか。

だが、運命からは逃れられないらしい。2020年9月30日午後4時21分、バナナの死体は発見されることになっている。#3のラストでそのことを告げるレナはつまり、そのことをすでに知っている。#4の冒頭には次のような文言が示される。「むこう側の演劇[バナナの花]#1〜#4の一連は、2020年9月30日午後4時21分、今作の主人公の死体が発見された瞬間にこのプラットホームから削除される」。物語の主人公の死が確定するその瞬間に、物語そのものが消えてしまうということ。シュワちゃんの「いまきみたちの目の前にいるこの男の消失をきみたちは止めることができない」「きみたちと彼の間にある圧倒的な無力を傍観者でいることの圧倒的な無力を感じたらいい」という言葉は観客たる私にも向けられている。

変えられない過去の断片としての映像はしかし、未来への予言として(戯曲のように)バナナの運命を縛っている。その時が来れば動画は削除され、バナナの存在は観客の記憶に残るのみとなる。だがそれでも、そのようなフィクション(の登場人物)にも、現実を変える力はあるはずだ。死んだバナナの遺骨の灰が風にのって無人島に漂着し不毛の地に花を咲かせるというシュワちゃんの言葉は、お互いの本名を知らなくても信じることはできるという桜の言葉は、フィクションの力を信じるという範宙遊泳/山本卓卓の改めての宣言でもあるだろう。

『バナナの花』は「舞台版[バナナの花は食べられる]につづく」。バナナは、あるいは遺された三人はどうするのか。観客である私には待つことしかできない。






公式サイト:https://www.hanchuyuei2017.com/

関連レビュー

範宙遊泳『バナナの花』#1|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

2020/09/06(日)(山﨑健太)

岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』

発行所:白水社
発行日:2020/08/03


岡田利規の新たな戯曲集『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』には「能にインスパイアされた」2編(『NŌ THEATER』『未練の幽霊と怪物』)5本の戯曲と、岡田が能に魅せられこれらの戯曲を書くに至った背景を記した2本の短いエッセイが収録されている。

狂言「ガートルード」を除いた4本の戯曲はすべて夢幻能の形式に基づいており、つまりは亡霊が登場する物語なのだが、それらは通常の意味の亡霊=回帰する過去ではない。能「六本木」に登場する男の「こうならないことも、あるいはできたはずだった」という言葉に集約されるように、それらは失われた未来の亡霊とでも呼ぶべきものだ。

「六本木」「都庁前」「挫波」「敦賀」に登場するのはそれぞれ、自殺した金融マン、都議会で差別的な野次を飛ばされた女性議員、ザハ・ハディド、そして核燃料サイクル政策の亡霊/生霊だ。経済発展、男女平等、ザハ・ハディドのプランによる新国立競技場、そして核燃料サイクル政策。彼ら彼女らが(あるいは「私たち」が?)信じた、いまだ実現しない、あるいはすでに頓挫した輝かしい未来。

ザハが「線を描き続けて 探り続けていたビジョン」は「活気を信じることのできる 未来を信じることのできる フィクション」と呼ばれ「ザハ・ハディドのスタジアムを 今や擁した東京は」「世界を生き延びる 都市の ビジョンの ひとつとなる」と歌われて能「挫波」は幕となる。だが周知の通り、そのような未来は到来しなかった。それどころか、2020年に予定されていた東京オリンピック自体が1年後に延期され、東京オリンピックもまた失われた未来となりかねない状況が続いている(いや、それはすでに一度、1940年に失われた未来だ)。

当初、『未練の幽霊と怪物』は2020年6月に神奈川芸術劇場で(ザハの描いたものとは異なる未来と対置されるかたちで)上演される予定だった。だが、新型コロナウイルスの影響を受け、公演は(延期を前提とした)中止に。代わりにKAAT YouTubeチャンネルを通じて「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」(以下、「上演の幽霊」)が配信された。

「上演の予定がなくなった演劇は、幽霊になるのでしょうか?」という問いを掲げたこの配信では「挫波」「敦賀」それぞれが途中まで上演されたのだが、その形式もまたユニークだった。配信画面に対して斜めの位置にテーブルが置かれ、その上にはいくつかの直方体のオブジェが配されている。テーブルの奥の窓越しには路上を行き交う人の姿が見える。やがて上演が始まると直方体のそれぞれに俳優の姿が映し出される。つまり、卓上プロジェクションマッピングでの上演だったのだ。近年、岡田が継続的に取り組んでいる映像演劇のシリーズには、卓上に並んだスマートフォン2台を使った作品(「Standing on the Stage」)があったが、「上演の幽霊」をその系譜に連なるものとして見ることも可能だろう。その場にはいないはずのものと「鑑賞者」とが出会うという点において映像演劇と夢幻能とは似た部分がある。

夢幻能では旅人がある場所を訪れることで亡霊と遭遇するが、「上演の幽霊」のすぐそばを行き交う路上の人々はそこにいる「幽霊」に気がつかない。いま、私の机の上に置かれている『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』の戯曲と同じように、それは演劇未満の状態に止まっている。未来は可能性のままに潜在し、上演を、観客を待っている。戯曲の上演という演劇の形式は失われた未来を繰り返し回帰させ、そのたびに新たな未来の選択を私に迫る。

2020/08/30(日)(山﨑健太)