artscapeレビュー

乳歯『スクリーン・ベイビー#2』

2020年03月01日号

会期:2020/01/24~2020/01/26

トーキョーアーツアンドスペース本郷[東京都]

乳歯は振付家・ダンサーの神村恵と美術家の津田道子のユニット。『スクリーン・ベイビー』は主に「小津安二郎の映画作品からシーンをいくつか取り上げ、登場人物の動きを振付として捉えて、分析、スコア化、再現、撮影し、それを検証」するシリーズで、2017年にSCOOLで上演された『#1』に続く今回は「TOKAS OPEN SITE 2019-2020 公募プログラム パフォーマンス部門」での上演となった。

今回は『東京物語』から「紀子泣くシーン」「片付けシーン」と『麦秋』から「朝食のシーン」がそれぞれ検証された。取り上げられた三つの場面はそれぞれ異なる形式でスコア化されており、「紀子泣く」のスコアではx軸y軸によって画面を16分割したグリッドを使い「セリフ・音」「アクション」「グリッド位置」「顔の上下方向」「体の緊張度」の五つの項目が記述されている。

観客は元となった映画の一場面の映像、配布されたスコア、神村らによる再現とそれを撮影したリアルタイムの映像の四つを見比べながら「検証」に参加する。興味深かったのは、二つの映像の間にスコアと上演が挟まることで、その都度そこにズレが生じてしまう点だ。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

ズレはいくつかの限界による。例えば記述の限界。映像に映るものすべてを記述することは(同じ映像でもないかぎり)不可能であり、スコアからは必然的に欠落する情報がある。あるいは身体の限界。映画のなかの俳優と画面外で彼女らの挙動を真似る神村たちの身体は異なっている。またあるいは反復の限界。人間は何かを完全に繰り返すことはできない(ダンサーである神村の反復の安定感は特筆に値するとはいえ)。再現はつねにいくらか失敗する。そして次元の限界。映画も元は3次元を撮影したものだが、2次元の映画が3次元の再現を経由して再び2次元の映像へ「戻って」くるとき、そこにはやはり欠落と余剰が生まれることになる。いや、これらはやはりすべて引っくるめて記述の限界であり問題なのかもしれない。

記述の限界はカット割りによってあからさまに露呈する。「片付け」と「朝食」では場面のなかで何度かカットが切り替わり、例えばあるカットで画面左側へと出て行った人物が次のカットで画面右側から登場するということが起きる。その映像を観た観客の多くは人物の一貫性を担保にカメラの視点が隣の部屋へと切り替わったことを了解する。だが、現実でそれは不可能だ。

もちろん、単に再現映像をつくるということであれば、映画と同じようにすれば(撮れば)よい。だが奇妙なことに乳歯の二人は、ひと部屋分のセットと一台のカメラで、かつリアルタイムの(つまり編集なしの)映像での再現を試みる。演者が瞬間移動することはできない。必然的にひとりの映画内人物の動きを複数の演者が担うことになる。例えばある人物が画面左側へと出ていく動きを神村が担い、直後に同じ人物が画面右側から再び登場するその動きは津田が担う、というような具合である。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

このような「再現」が「あり」なのは、まず第一に乳歯の二人が注目しているのが画面内の「意味」や「物語」ではなく「運動」だからだ。さらにここには、抽出した小津映画の場面の特性も関わってくる。カットが切り替わってもそこに映し出される空間の構造にほとんど変化がないのだ。日本家屋の特性だと言ってしまえばそれまでだが、カットが変わっても同じような空間が映し出されるようカメラが配置されていることは明らかだ。「再現」用のセットの手前(=カメラ)側には木の棒が吊るされており、それはカットが変わっても大体同じ位置に柱など縦のラインが走っているからだというのを聞いて笑ってしまった。

実は私は個人的には小津映画が苦手で、それは難しい話が展開されているわけでもないのにしばしばそこに何が映し出されているのかわからなくなってしまうからなのだが、それもこの空間の相似性が原因だったのではないか。私は映画内人物の移動、あるいは空間の移動についていけていなかったのだ。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

小津ではないが思い出したのが『スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のあるシーンだ。主人公のレイと彼女から遠く離れた場所にいる敵役のカイロ・レンとがあたかも同じ場所にいるかのように剣を交える場面。それを可能にしているのはフォースの力(超能力のようなものである)だ。カットごとに目まぐるしく切り替わる背景。遠く離れた二つの場所に同時に存在し、あるいは二つの場所を瞬時に行き来することを可能にする時空を超越した力こそがフォース=映画なのだ。

人物さえ一貫していれば背景が切り替わっても観客はそこに連続性=物語を見出し折り合いをつけることができる。それを極端なかたちでやってみせたのが『スカイウォーカーの夜明け』だ。一方で乳歯は、空間内での人物の配置を運動/構造として抽象化して取り出し、そこに一貫性の根拠を置く。「映画をダンスとして見」るとはそのことだろう。そして観客には、元となった映画、配布されたスコア、神村らによる再現とそれを撮影したリアルタイムの映像の四つがほとんど同時に手渡される。時系列はキャンセルされ、四つのメディアの比較のなかから新たな何かが立ち上がる。


公式サイト:https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2020/20200124-6966.html
神村恵:http://kamimuramegumi.info/
津田道子:http://2da.jp/

2020/01/26(日)(山﨑健太)

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