artscapeレビュー

2021年06月01日号のレビュー/プレビュー

「約束の凝集」 vol. 3 黑田菜月|写真が始まる

会期:2021/03/16~2021/06/05

gallery αM[東京都]

インディペンデントキュレーターの長谷川新の企画による連続展「約束の凝集」の第3弾として、黑田菜月の「写真が始まる」展が開催された。黑田は2013年の第8回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞するなど、写真家として着実にいい作品を発表してきた作家だが、今回は30分近い映像作品を2本出品している。両方とも「写真を見る」ことをテーマにしており、これまでの仕事との継続性も感じられた。横浜市金沢動物園で、小学生たちが「問題チーム」と「推理チーム」に分かれ、写真に写っている動物についてやりとりする「友だちの写真」も面白かったが、もう1作の「部屋の写真」の方がテーマとその描き方に切実性があり、見応えのある作品に仕上がっていた。

画面にはまず、どこかの部屋で撮影された写真のプリントが映し出される。見ているうちに、それが介護の現場で撮影されたもので、それについて語っているのが部屋の住人に長く関わってきた介護者であることがわかってくる。彼らは、写真に写っているモノについて、こもごもその記憶を辿り、かつての住人たちの姿を描写していく。ここで見えてくるのは、1枚の写真が、それを見る者の記憶や経験や被写体との関係性によって、薄くも、厚くも、表層的にも、深みをもつようにも、いかようにも語られうるということである。「写真を見る」という行為そのものの多義性と可能性を、思いがけない角度から照らし出すいい仕事だった。それとともに、これは自戒を込めていうのだが、われわれが普段、1枚の写真をほんの短い時間しか見ていないことがよくわかった。画面に固定画像で写真が映し出される時間が、とても長く感じるのだが、測ってみるとほんの2分余りなのだ。「写真を見る」ことを、ただの一瞥で終わらせてしまうことが、あまりにも多いのではないかとも思った。

2021/03/24(水)(飯沢耕太郎)

石川竜一「いのちのうちがわ」

会期:2021/03/20~2021/04/18

SAI[東京都]

このところ、あまりまとまった発表がなかった石川竜一の、満を持した新作展である。石川はここ5年余り、サバイバル登山家の服部文祥と行動をともにして、最小限の装備で山の中に入り、植物や動物を採取してはそれらを食べて歩き続けてきた。その過程で、生き物たちの「いのちのうちがわ」、つまりその血肉や内臓が異様な美しさを湛えていることに気がつき、撮影を開始する。今回、東京・渋谷のMIYASHITA PARKに新設されたギャラリー、SAIで開催された個展に出品された42点の作品は、そうやってできあがってきたものだ。

石川が展覧会に寄せたテキストに記しているように、鹿や鳥や蛇や蛙の臓器は「どんな機械よりも機能的で、その美しさは完璧」である。そのことを伝えるために、彼は写真家としての経験と技術を、ほぼ極限近くまで使い切っている。この種の写真のむずかしさは、オブジェとしての美しさを追求すれば、生命感や現実感が失われ、逆にリアルに撮影すれば、ただのグロテスクな異物に見えてしまうことだ。石川はその綱渡りを見事に乗り切っている。結果的に、このシリーズは「自然のうちがわに触れ、その圧倒的な力を思い知らされたとき、物事の区別は緩やかなグラデーションで繋がって、自分自身もその循環のなかにいるのだと感じる」という、撮影によって得た彼の認識を、充分に体現した作品として成立していた。 会場を出ると、そこには「いのちのうちがわ」の対極といえる、均質で人工的な渋谷の街の眺めが広がっている。「自然と向き合う」ことの意味をあらためて問い直す、批評的な観点もしっかりと備わった作品といえるだろう。

2021/03/25(木)(飯沢耕太郎)

鶴巻育子「夢」

会期:2021/03/23~2021/04/11

Jam Photo Gallery[東京都]

Jam Photo Galleryは、目黒通りの目黒川近くに2019年にオープンしたギャラリーである。これまで足を運んだことがなかったのだが、個展を開催するにはちょうどいい大きさの居心地のいい空間だった。近くにはコミュニケーションギャラリーふげん社があり、やや離れてはいるが、POETIC SCAPEも歩いて行けない距離ではない。隣駅の恵比寿には東京都写真美術館もあり、目黒から恵比寿にかけての地域は密度の濃い写真環境になりつつある。

そのJam Photo Galleryでは、主宰者でもある鶴巻育子の展覧会が開催されていた。作品をきちんと見るのは初めてだが、とてもいいスナップシューターである。観察力と認識力と表現力がバランスよく備わっていて、切りとられた場面に明確な発語感(肉声)が感じられる。今回はあたかも夢の中を彷徨っているような「現実感の喪失」、「離人感」を、写真撮影を通じて探っているのだが、その狙いがうまく形にできていた。展示に合わせて刊行された『夢』(Jam books、2020)も、写真の並び、レイアウト、印刷に気を配って、クオリティの高い写真集に仕上がっている。ただ、黒白写真でいいかどうかには疑問が残る。鶴巻はこれまで『THE BUS』(Jam books、2018)、『back to square one』(Jam Books、2019)、『PERFECT DAY』(冬青社、2020)の3冊の写真集を、すべてカラー写真で刊行していている。そのヴィヴィッドな色彩感覚には見るべきものがあり、いきいきとした臨場感を感じさせた。モノクロームだと、古典的な「いい写真」の範疇にすんなりおさまってしまうのが逆にもったいない。また、いわゆる「心象風景」に傾きがちな写真が増えて、写真の世界を内向きに狭めているのも気になる。ただ、今回のような試みがまったく無駄であるとは思えない。むしろ、新たな方向に踏み出そうとする意欲のあらわれと見ることもできる。試行錯誤を経て、さらに大きな世界に出ていくことができるのではないだろうか。

2021/03/28(日)(飯沢耕太郎)

クロダミサト「裸婦明媚」

会期:2021/03/19~2021/04/04

神保町画廊

2010年代以降、ヌードをテーマにした写真展や写真集の数はかなり減ってきている。男性の性的な欲求に応えるような写真が、フェミニズムの観点から批判されるようになっただけでなく、ネット上で裸の写真が流通することの危険性に敏感にならざるを得ない状況だからだろう。とはいえ、ヌード写真がタブー視されることには問題があると思う。裸体はとても魅力的で、さまざまな可能性を孕んだ被写体であり続けているからだ。クロダミサトが2017年から開始したプロジェクト「裸婦明媚」の写真を集成した今回の展示を見て、そのことを強く感じた。

「裸婦明媚」は、ユニークなやり方で制作されてきた。SNSでモデルを募集し、クロダが今回の展覧会の会場でもある神保町画廊のスペースで、スマートフォンを使ってヌードを撮影する。それらはアプリで加工され、10cmの正方形にプリントされて、その日のうちにギャラリーの壁面に展示されていく。これまで、2017-2019年の間に行なわれた3回のセッションで60人余りの女性モデルを撮影してきた。今回の展示に合わせて、神保町画廊から刊行された同名の写真集には、3人のモデルと、クロダとの対話がおさめられているのだが、彼女たちは異口同音に「女性に撮られて安心できた」、「緊張感がなかった」、「自分を認めてもらえる、受け止めてもらえる感じがした」、と語っている。たしかに、男性写真家のヌードとは一味違う、肯定的で、開放的な気分がこのシリーズの持ち味といえるだろう。さまざまな身体のあり方を、ストレートに選り好みすることなく受け止めていこうとする姿勢が、写真家にもモデルにも共有されている。

今回の展示では、写真が以前の展示よりやや大きめ(12.5×12.5cm)にプリントされていた。あまり大きすぎると威圧的になってしまうし、小さいとモデルの周囲の空気感が伝わらなくなる。今回のサイズが、このシリーズにちょうどいい大きさだと思う。

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2021/04/02(金)(飯沢耕太郎)

ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island ─あなたの眼はわたしの島─

会期:2021/04/06~2021/06/20(会期延長)

京都国立近代美術館[京都府]

夏に水戸芸術館にも巡回するが、京都市美の「平成美術」のついでに見た。インスタレーションだから会場によって作品の見せ方が異なるはずだし、なにより美術館が向い側だし。これは好都合。

ふつう国際展では何百点もの作品を一気に見るので、数年も経てば大半を忘れてしまうものだが、いい悪い、好き嫌いに関係なく、妙に記憶に残る作品というのがある。経験的にいうと、そのアーティストはその後たいてい世界的に活躍するようになる。1997年のヴェネツィア・ビエンナーレで見たピピロッティ・リストがそうだった。若い女性が楽しそうに、路上に止めてある自動車の窓を叩き割っていくというマルチスクリーンの映像作品で、衝撃的な内容とは裏腹の軽快な音楽、鮮やかな色彩、スローモーションの上映に、どう反応していいのかわからない不思議な感覚に襲われ、「ピピロッティ」という軽やかな名前とともに深く記憶に刻まれたのだ。ちなみに、彼女の本名はシャルロッテ(ロッティ)だそうで、『長くつ下のピッピ』から拝借した「ピピロッティ」という愛称を、そのままアーティスト名にしたという。

展示会場へは靴を脱いで上がる。他人の家にお邪魔するみたいな親密感とワクワク感がある。口の字型の暗い会場をぐるりと回りながら(前半は迷宮巡りのよう)、映像インスタレーションを見ていく、いや体験していく仕組み。ソファやベッドが置かれているところもあり、みんなくつろいで鑑賞している。彼女の作品は、華やかな色彩や軽快なサウンドもさることながら(内容はジェンダーや身体、自然など必ずしも軽いものではない)、映像が垂直の壁面だけでなく、天井や床、家具や食卓、衣類や陶器などあらゆる場所に投影されるため、見る側の視点が固定されず、観客に気ままにくつろいで見ることを要求するのだ。昔「ヴィデオ・アート」と呼ばれていたころから映像作品の鑑賞には窮屈さが伴うものだったが、ピピロッティがその可能性を大きく広げ、楽しめるエンタテインメントに仕立て上げたひとりであることは確かだろう。

2021/04/09(金)(村田真)

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