2019年01月15日号
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artscapeレビュー

2010年05月01日号のレビュー/プレビュー

シュウゾウ・アヅチ・ガリバー EX-SIGN展

会期:2010/02/27~2010/04/11

滋賀県立近代美術館[滋賀県]

「ガリバー」こと、安土修三の大規模な回顧展。高校在学中に発表されたハプニング《草地》のイメージ・ドローイングからフーテンの名士としてマスコミをにぎわせた60年代末に製作された個人映画、自分の死後の肉体を80分割にして80人にそれぞれの部位を保管させる契約を結ぶ《Body Contract》、自分の体重と同じ重さのステンレススチールの球体《重量(人間ボール)》、そして「立つ」「座る」「寝る」というそれぞれの姿勢にあわせて密閉された箱のなかで240時間を過ごす《De-Story》など、ガリバーのこれまでの制作活動を一挙に振り返る構成になっている。一見して明らかなのは、現在のアートの傾向を先取りした先駆性はもちろん、みずからの肉体への並々ならぬ関心である。そこに一貫しているのは、おそらく「わたし」の根拠としての肉体を凝視するナルシスティックな視線というより、むしろ自分の肉体を物体として徹底的に客観視することによって逆説的に「わたし」を浮き彫りにする方法的な手続きである。本来、土に返るはずの肉体を焼却や腐敗から免れる反自然的な物体として保存させる《Body Contract》は、そのことによって「ガリバー」という「わたし」を自然の摂理から切り離すかたちで浮上させるが、その「わたし」はまるで時空を超越して価値を発揮する芸術作品のようだ。芸術作品を作り出すアーティストとしての「ガリバー」にとどまらず、「ガリバー」そのものを芸術作品としてしまう、きわめて野心的かつコンセプチュアルな作品である。

2010/03/26(金)(福住廉)

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てんとう虫プロジェクト「未来への素振り」展

会期:2010/03/05~2010/03/28

京都芸術センター[京都府]

京都芸術センターのボランティア・スタッフが中心となって企画を運営する「てんとう虫プロジェクト」。今回は出品作家の小山田徹と伊達伸明を迎え、何度もミーティングを重ねながら企画を練り上げたという。ギャラリー南には小山田が中心となってミニアートセンターを設置して連日ゲストを招いたトークショウを開催し、ギャラリー北では伊達がコーディネイトしながら「記憶」をテーマとしたインスタレーションを制作した。とくに印象深かったのが、後者。暗室の中をペンライトのわずかな明かりを頼りに進んでいくと、壁のいたるところに「蛍」や「星空」、「落書き」、「友」といったテーマに即した言葉が描かれており、見る者の脳裏に焼きついた原風景がいやおうなく喚起されたが、さらに所々に仕掛けられた針金細工の影が夢幻的な光景を効果的に演出していた。とりわけ大掛かりではないものの、必要最低限の装置によって「記憶」というテーマを最大限に引き出すことに成功していたと思う。

2010/03/26(金)(福住廉)

東北芸術工科大学卒業・修了展[東京展]

会期:2010/03/26~2010/04/03

東京都美術館[東京都]

東北芸術工科大学の卒業・修了展。本校での卒業・修了展の中から選抜された学生による作品が発表された。先に国立新美術館で催された東京五美大展と比べると、全体的に平均値が高く、ひとつひとつの作品の輪郭が際立っており、楽しめた。なかでも抜群だったのが、工芸の菊池麦彦。漆黒の机の上に木箱と漆を塗り重ねた色とりどりのルアーを並べ、あわせてそのルアーを使って本物の魚を釣り上げた映像も発表した。作品の見せ方もうまいし、何よりも漆のルアーで魚が釣れるという意外性がじつにおもしろい。美的に鑑賞されるだけではなく実用的な価値をも満たすのが工芸の本領だとすれば、美しくもあり使えるルアーは工芸の王道であり、古い技を刷新し続けていくことが伝統だとすれば、菊池のルアーはまちがいなく工芸の伝統である。

2010/03/27(土)(福住廉)

第13回岡本太郎現代芸術賞

会期:2010/02/06~2010/04/04

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

13回目を迎えた岡本太郎現代賞。昨年と比べると、全体的に突き抜けた作品が多く、一つひとつの作品をじっくり楽しめた。アルミホイルで騎馬軍団を作り出して太郎賞を受賞した三家俊彦をはじめ、黒光りする銃器を紙と鉛筆で制作した長谷川学、日常用品の表面に塗料を幾重にも塗り重ねたうえでそれらを削り取って色彩のテクスチュアを見せる辻牧子など、愚直な手わざをひたすら追究した作品が目立つ。特定の美術理論が衰退したおかげなのか、作り手の創造性がじつに素直に発揮されている印象だ。そうした自由奔放さが、プロとアマはもちろん、国籍や年齢制限も問わない、この賞の間口の広さに由来していることはまちがいない。ただその一方で、審査員の趣向や好みを狙い撃ちにしたような作品が数多く見受けられたのも事実である。応募者のなかで「傾向と対策」が画策されているとすれば、それは審査員の評価基準が時代の先端からやや遅れ、硬直化しているということにほかならない。これを放置しておけば、せっかく良質の公募展としての評価を確立してきたのに、旧態依然としたセンスで現代の最前線を標榜する公募展に成り下がらないともかぎらない。いっそ審査員を丸ごと入れ替えて刷新を図るべきではないか。

2010/03/28(日)(福住廉)

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山川冬樹『黒髪譚歌』

会期:2010/03/28

VACANT[東京都]

ランウェイを模したと思われる白く細長い舞台、その両端に楽器が置かれたスペース。約90分。冒頭、ランウェイの真ん中で長髪をゆっくり洗うと、山川は「2007年8月20日月曜日……」と語り出した。その日、彼は死者の棺に自分の髪を捧げたという。髪をテーマにした本作は、この死者(山口小夜子と想像される)へのオマージュでもあった。髪を振り乱しながらギターをかき鳴らすと、瞬時にそれは映像化されスクリーンに逆回転の状態で映写された。逆回転の効果で髪は独特のうねりをみせた。哀切に満ちたギターと歌。心臓の鼓動や骨の鳴る音がリズムをつくる。合間に髪をいつ切るかといった街頭インタビューや、中国でのエクステンション用の頭髪売買の様子(テレビ番組の一部)がモニターに映される。そうして髪への思いを山川個人から切り離す振る舞いも見せはする。とはいえ、やはり中心を占めるのがきわめて個人的な髪への思いと死者への哀悼であることは変わらない。喪の儀式は、死者の死後伸びた分を残して山川の長髪がばっさりと切り落され、その髪が亡霊のようにランウェイの中空を漂うと、ギターを弾きながら山川がつきそうエンディングできわまった。これがただ純粋な喪の儀式だったのか、その「パフォーマンス」だったのか、それとも「パフォーマンス」の衣を借りた中身は純粋な儀式だったのか、簡単に断定できない。ただし、パフォーマンスの場を喪の儀式の場にしてみようと思う現代の作家がいて、さほどの違和感も抱くことなくその作家を見守る観客がいるということ、これは間違いのない事実。特定の時間・場所に料金を支払ってひとがわざわざ集まる「上演」という機会が、テレコミュニケーションの高度に発達した時代の僕たちにとっていったいなんであるのか/ありうるのか、考えさせられる公演だった。

2010/03/28(日)(木村覚)

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