2018年01月15日号
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artscapeレビュー

新聞家『スカイプで別館と繋がって』

2015年02月01日号

会期:2015/01/24~2015/01/26

SNAC[東京都]

強烈にストイックでモダニスティックな形式主義。「ポスト・チェルフィッチュ」なんてありふれた形容では片がつかない新鮮さがあった。これはなんなのだろう。プレイヤーがプレイし始めるのをゲームのキャラが待っているかのように、開演前、役者が一人舞台で開始の合図を待っている。白い背景。だからそう思わせるのかもしれないが、役者がしゃべり始めて最初に抱いた印象は、美術作品みたいだということだった。長身の役者(比嘉賢多)は椋本真理子制作のオブジェを抱えると、微動だにせずしゃべり出した。そのまなざしは床に置かれた三脚立てのiPhoneに向けられている。タイトルを思い返せばなるほどと思うのだが、役者の言葉は観客に向けられたようで、どうもiPhoneのスカイプ機能を利用して、iPhoneを経由した誰かに向けられている。少なくともそういう設定のようだ。iPhoneの先にいる誰かの「目」をもって構成されるパースペクティヴが役者を強制し、独特の屈んだ姿勢をとらせる。そのこわばったポーズによって、役者の身体はなにやら肖像画のように見えてくる。もちろん、役者が意識しているiPhone(越しの誰か)の「目」の角度と観客がそれぞれ役者に向ける「目」の角度にズレがあるから、そのズレゆえに役者の人物画的な魅力は増加している。つまり、役者は二つ方向からまなざしを受けているわけで、観客のまなざしをもうひとつのまなざしがあることで役者は軽く無視する寸法になっている。そのズレが、不特定多数の人が読むTwitterを使って個人的なメッセージを書く時のように、なんともいえない緊張感が生まれているのだ。仕掛けはそれだけではない。問題は台詞回しだ。声が極端にうわずったり、つっかえたり、いい間違えたり、言いよどんだり、言葉の中身も脈略のとりにくいものなのだが、それ以上に、この発話の段階での強烈なエフェクトにこの劇の大きな特徴があった。この身体はどんな因果でこんなしゃべり方になってしまっているのか? 身体に障害を持つ人物の役というのでもなさそうだし、役者自身が障害を持っているというのでもないようだし、そもそも観客に「障害」を想起させる意図はないみたいだし。ゆえにこの言いまわしは、一種の音楽的取り組みなのか? しかし、それにしても、例えば吉田アミのヴォイスがある基準のもとである声の質を選択しているとすれば、新聞家の声の質は、その選択の幅が広く、単に声ではなく発話であることも手伝って、なにかを言わんとする思いとそれがコントロールできずに声として漏れる音とが揺れたまま舞台に落ちる。身体というメディアで描く音楽であり美術というのが、新聞家を初めて見たぼくの強い印象だ。演劇というジャンルをここまでドライにモダニズム芸術へと仕立てたその試みには、目を見張るものがある。さて、これが今後どう展開していくのか。形式面のより一層の純化なのか、内容面の深化なのか、あるいは観客へのアプローチなのか、気になる。

2015/01/26(月)(木村覚)

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