artscapeレビュー

マームとジプシー『カタチノチガウ』

2015年02月01日号

会期:2015/01/15~2015/01/18

VACANT[東京都]

三人の役者(青柳いづみ、吉田聡子、川崎ゆり子)は三姉妹。長女は母親を猛烈に憎んでいる。というのも、三人は父親が全員違う。その違いがタイトルの「カタチノチガウ」(併記された英語はMalformed)の意味を一部担う。三人は高台のお屋敷に暮らす。屋敷はとてもリッチで、ファンタジックな雰囲気。しかし、長女はある日家を出て行く。その理由は、ことの断片をパッチワークのようにして進む藤田貴大らしい語りから憶測するに、三女の父が長女と近親相姦していた事実にある。次女は長女を思い出したくて三女の父と性交する。三女はそれを許せず、父を殺し、父殺しの罪を償いに行く。取り残された次女が1人暮らす、次第に世界は戦争状態になる。その最中、長女は子どもの手を引いて帰ってくる。その子どもは「カタチノチガウ」子どもだという。次女に子どもを託すと長女は飛び降り自殺を計る。ざっと要約するとこのような物語。出口のない家族の悲劇。藤田はファンタジックな空間に絶望的な人間関係を据え置いたわけだけれど、そしてその出口のなさが藤田らしい情感を引き出しもしたのだけれど、しかし、出口のなさが情感の喚起のために活用されている気がして、やりきれなさというかあるいは演劇表現の限界を感じた。彼女たちには友人や幼稚園・小学校の先生はいなかったのだろうか。隣人たちは彼女たちをどう見ていたのだろう。ここには社会がない。「ない」かのように描かれている。しかし、どうなのだろう。事実ないのならばそのなさ加減に視線が向かってもいいはずだ。外(社会)へとまなざしが向かわないことで、内側(家族)の気圧が高まる。けれども、そこで情感に浸っている場合なのだろうか。心に残る情感を観客に与えることが演劇表現なのだとしたら、情感に浸るのと引き換えに、観客は社会への視線を失うことにならないか。藤田の台詞は、個人の心の苦しみを吐露する言葉が多い。人前では「言えないでいた言葉」が吐き出されると、観客は「言えないでいた自分」に気づいて感動するのかもしれない。青春の演劇だ。けれども、あえていえば、ぼくたちは人前ではそんなふうにしゃべらない。そのことにこの作品は目を瞑っている。「カタチノチガウ」こともそうだ。これが親の違うことあるいは身体的障害をさすのだとして、そのことにナルシスティックに絶望していたい気分に当事者は陥ることもあろう。けれども、生活はもっと過酷だ。社会へとまた他者へと開かれずに生きてはいけない。ラストの長女の飛び降りシーンが、外へと開かれない気持ちの終わり(青春の終わり)であるのならば、少し救われるのだが。物語にフォーカスすれば以上なのだが、音楽と演劇が絡まりあう、ラップとロックの中間のような台詞のしゃべり方というか唄い方は絶妙で、とくにそれが目立つ前半の緻密な演出には演劇の新しい次元を見た気がした。ここは脱帽。センチメンタルなポップ音楽のような演劇。そう考えると、上記したことはさらっと流せてしまいそうでもある。

2015/01/17(土)(木村覚)

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