artscapeレビュー

シャンカル・ヴェンカテーシュワラン『犯罪部族法』

2019年01月15日号

会期:2019/01/13~2019/01/14

京都芸術劇場 studio21[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNにて、太田省吾の「沈黙劇」の代表作『水の駅』を演出し、反響を呼んだインドの演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワラン。再び京都で、「身体と言葉の創造的行為を巡って──インド/京都による国際共同研究」公開研究会において、最新作『犯罪部族法』が上演された(シアターコモンズ ’19にて東京公演も開催)。

ヴェンカテーシュワランはインドの大学で演劇を学んだ後、シンガポールの演劇学校へ留学し、2007年に劇団シアター・ルーツ&ウィングスを旗揚げ。ヨーロッパの演劇シーンで活動するとともに、多民族・多言語国家であるインド国内でも文化的周縁部であるケーララ州に劇団の拠点を置いている。対外的/国内的にも多文化・多言語状況に常に直面する制作状況は、作品にも先鋭的に反映されている。『水の駅』では、一切のセリフを排した「沈黙」によって、人間存在の本質とともに、統一的なナショナル・ランゲージを持たない多言語状況をネガとして浮かび上がらせていた。一方、本作『犯罪部族法』では、徹底して「対話」を重ねつつ、やり取りが逐次通訳を挟むことで、「翻訳」と媒介性、国際語である英語/ローカル言語の非対称性、間接話法と直接話法、主体の交換・転位の(不)可能性といった問題を浮上させ、インドの社会構造への批判とともに、「言語」に依拠する演劇それ自体に内在する問題へと深く切り込んでいた。

冒頭、無言で行なわれるシーンは美しく象徴的だ。ゆっくりと円を描くように、箒で丁寧に床を掃き清めていく男性。「何もない」かに見えた舞台上の中央に、細かな赤土の砂が集められていく。掃除=汚れの除去ではなく、今まで「あった」のに「見えていなかった」存在を可視化する静かな身振りが、導入として示される。続いて、もうひとりの男性が登場。二人は無言のまま、観客一人ひとりと視線を合わせていく。簡素な舞台上には、テーブル、椅子、小さな平台が置かれているだけであり、二人は立ち位置を交換するたびに、互いに見交わし、観客がそこにいることを承認するように、一人ひとりと視線を交わす。立場の交換や流動性と、存在の承認。穏やかな時間とともに上演は始まった。

二人はまず、自己紹介を始める。都市部のデリー出身で主に英語を話すルディと、農村出身で主にカンナダ語を話すチャンドラ。二人は、大英帝国による植民地支配下で1871年に制定された「犯罪部族法」についてのリサーチに取り組んだと話す。これは、植民地支配の円滑化のため、カースト制度という既存の社会構造を利用して、非定住民の約150のコミュニティを「犯罪部族」と指定した差別的な法律である。この法律はインド独立後に廃止されたが、カースト制度および「制度外」の不可触民への差別や排他意識はなお現存することが、二人の「対話」によって語られていく。



『犯罪部族法』京都公演 [撮影:松見拓也]

本作はそもそも、チューリッヒで開かれた演劇祭への参加作品であったため、ヨーロッパの観客の受容を念頭に制作されている。そのため、「犯罪部族法」及びカースト制度について、俳優自身が自らの出自や経験を交えつつ分かりやすく語る「レクチャーパフォーマンス」の体裁がとられている。カーストは四層の大きな建物に例えられること、この建物には入り口も階段もなく別の階へは行けないこと、そして「建物の外」に住む不可触民がいること。不可触民は「カースト内」の人々の家に入ることを禁止され、居住区には境界線があり、彼らが触った物にも触れてはならず、食堂では食器が区別されていること。農村出身のチャンドラはカースト外とされる出自で、一方ルディは、都市部出身の英語話者で「カーストをほぼ意識せず育った」と話す。ルディ(=欧米の観客の近似的存在)が投げかける質問にチャンドラが答える形で、「対話」は進んでいく。

ここで注目すべきは、チャンドラが話すカンナダ語は、「字幕」に一切表示されず、「彼は『~だ』と言っている」とルディが英語で逐次「通訳」して伝える点だ。チャンドラが身振り手振りを交えて語る内容は、(欧米でも日本でも)ほぼすべての観客にとって「理解できない音声」として浮遊し、英語を介さなければ「伝達」されず、「聴こえない声」として抹殺されてしまう。インド国内における多言語状況や植民地支配者の言語による抑圧とともに、グローバルな流通言語としての英語と、ローカルな言語との非対称性が浮き彫りとなる秀逸な仕掛けだ。

また、この「通訳」の介在と「字幕」の表示/非表示という操作は、言語や翻訳をめぐるポリティクスのみならず、「演劇」に内在する問題も照らし出す。チャンドラの経験を「通訳」するルディは、「彼は『~だ』と言っている」という間接話法からかっこを外し、「僕は~だ」と直接話法で話してしまい、代名詞の間違いを指摘される。この「混乱」は、他者の言葉を媒介する「翻訳」という行為が、「自分ではない誰かを表象する」演劇という営みにすり替わる臨界点を示し、翻訳者や俳優の帯びる媒介性、主体の交換可能性を指し示す。それは、「自分ではない他者の立場に身を置く」という想像力の発露であるとともに、「他者の言葉の奪取」という危うい暴力性も孕む。 主体の交換・転位が暴力的な形で噴出するのが、中盤、チャンドラの農村での少年時代の経験を「再現」するシーンだ。炎天下での農作業、耐え難い喉の渇き。淡い恋心を寄せる少女が水を渡そうと近づくが、そのコップに触れることは禁じられている。誘惑と罰を受ける恐怖を振り払うように、鍬を振り下ろし続けるチャンドラ。だがそれは「ルディ」によって演じられ、「チャンドラ」は少女の役から怒号を飛ばす雇い主へと変貌し、ヒステリックな叫びと鞭の音は次第にエスカレートしていく。



『犯罪部族法』京都公演 [撮影:松見拓也]

「対話」によって(俳優同士の、舞台上と観客との、隔てられたコンテクスト間の)相互理解の橋をかけ渡そうとしつつ、本作は安易な解決を提示しない。チャンドラが床にチョークで描いた、村のコミュニティを分断する境界線の図は、冒頭と同じく箒で掃く所作によって線が薄れていくが、完全に消えることはない。テーブルに置かれた水がめから自由に水を飲めるのはカースト内の「ルディ」だけであり、「チャンドラ」は渇きを癒せない。ラスト、ルディは水がめを渡そうと差し出すが、チャンドラの手に触れた途端、落下して割れてしまう。苦い後味の残るラストシーンだが、見終わった後に重苦しさよりも希望が感じられたのは、ヴェンカテーシュワランと俳優たちの誠実な態度と、レクチャー/通訳/ロールプレイングといった複数の形式を横断して「演劇」を自己批評的に問う緻密な構造のなかに、社会への批判的視線がしっかりと織り込まれていたからだ。

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