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甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性

2023年08月01日号

会期:2023/07/01~2023/08/27

東京ステーションギャラリー[東京都]

彼のような人物を「異才」と呼ぶのだろう。大正時代に妖艶な女性像で名を馳せたと思ったら、芝居にハマってみずから女装したり、映画界に進出して時代考証家として衣裳づくりを担うなど「迷走」した日本画家、甲斐荘楠音のことだ。「妖艶な」と述べたが、彼の描く女性像は妖艶というだけでは物足りないグロテスクさを伴っている。そんな美学を岸田劉生は「デロリ」と表現したが、これは「サラリ」の逆で、デロッとした粘着質な濃い表現を指す。20年ほど前に郡山市立美術館で「再発見、日本の姿:キーワードはデロリ」という展覧会が開かれ、ぼくは見逃したのだが、その後『芸術新潮』の「デロリ特集」で初めて甲斐荘を知り、衝撃を受けた。だから甲斐荘と聞くと反射的に「デロリ」というキーワードが浮かんでしまうのだ。それはともかく。

作品はほとんどが大正時代に描いた女性像。まず目につくのが《横櫛》で、同題作品が2点あるが、ゾッとするのは京都市立絵画専門学校研究科に在籍中の最初のほう(1916)で、にっこり微笑む女性の目の下に褐色のクマがあってホラーなのだ。その2年後に描かれた《横櫛》(1918)は色や細部が異なるだけでまったく同じ構図の女性像だが、清楚な大正の美人画として仕上げている。同一人物だとしたらよけい怖い。

《白百合と女》(1920)と《女人像》(c. 1920)はどちらも女性と花の取り合わせで、やはり謎の微笑みを浮かべている。前者の白百合は西洋では純潔の象徴とされ、聖母マリアのアトリビュートでもあるから、腹がふっくら膨らんだこの女性は処女懐胎か。《島原の女(京の女)》(1920)は伏し目の太夫を描いたものだが、わずかに微笑むその容貌はどこかで見たことがあると思ったら、レオナルド・ダ・ヴィンチの描く女性像、とりわけ《聖アンナと聖母子》のアンナによく似ているではないか。どうも甲斐荘の女性像には日本画・美人画に収まらない、西洋の古典に通じる水脈が流れているのかもしれない。

もっとエキセントリックな作品に《幻覚(踊る女)》(c. 1920)がある。炎のように赤い衣装を着けて舞う女性は口も目も赤く縁取られ、伸ばした手の影が背後の壁から伸びている。ホラー映画の見過ぎではないか。《春宵(花びら)》(c. 1921)は、豪勢な髪飾りをつけたふくよかな太夫が、盃に落ちた桜の花びらを拾おうとし、左下の禿と思しき少女がやはり笑いながらそれを受けようとしている。不気味なのはふたりとも微笑むのではなく、口を開けて笑っていること。フォッフォッフォッと笑い声が聞こえてくるようだ。なんなんだこれは!?

以上はすべて大正期の作品で、昭和に入ると作品はめっきり減り、戦争が近づくにつれ映画にのめり込んでいく。同展では、これまでほとんど知られることのなかった映画の衣裳考証家として、彼のデザインした衣裳とその映画ポスターを並べて展示している。関わった映画は「雨月物語」や「旗本退屈男」シリーズなど計236本に及ぶが、ここでは省略。

最後は再び日本画に戻り、《畜生塚》(c. 1915)と《虹のかけ橋(七妍)》(1915-1976)という2点の大作が紹介される。《畜生塚》は未完の大作だが、さまざまなポーズの裸体の女性20人ほどを描いた奇怪な群像だ。右から2人目はやはりレオナルドの聖母を思わせるが、中央の人物を抱える集団はミケランジェロのピエタを、全体としてはやはりミケランジェロの未完の壁画《カッシーナの戦い》の下絵を彷彿させる。一方、《虹のかけ橋(七妍)》のほうは逆に着飾った7人の女性の群像だが、驚くことに大正時代から60年以上にわたり断続的に描き続けてきたという。《畜生塚》と違い、せっかく絢爛豪華な衣装を描いたのだから死ぬまでには完成させたかったに違いない、というのは貧乏人の考えか。いずれにせよ常人ではない。


公式サイト:https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202307_kainosho.html

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