artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

快快『6畳間ソーキュート社会』

会期:2013/10/18~2013/10/20

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

快快「第二期」というべきかはわからないが、数人の主要メンバーが離れて以後の新体制で初の作品となった本作。「演出家」とか「役者」とかの既成概念を超えて、個々のパーソナリティが強烈に目立っていた快快にとって、これまでの主要メンバーが居なくなったことは、本質的な変貌を余儀なくさせていた。一言で言えば、「つながり」の弱さが目立った。上演直前に出演者から観客に飴が振る舞われるなど、観客との接触を工夫していないことはないのだが、そうした行為が既成の演劇を破壊するほどダイナミックではない。そこに「あれ? らしくない」と観客は思わなくもない。テーマは「iPhoneとともに暮らす若者の人生」。スクエアな空間の周囲を底上げして客席にし、観客が上から舞台を覗き込むように設えられた劇場空間は、テーマとうまく調和していた。真ん中には無印良品のベッド。シーツの上にはiPhoneの画面が映写され、観客は自分のスマホを覗くように、巨大なiPhoneに向き合う。iPhoneは便利だ、「なんでも」と言っていいくらいできる。これと対照的なのは人間。デバイスは人間の暮らしを便利にする。いやそれ以上に、人間の暮らしを支配し、方向付けしてくる。人間よりデバイスが主体となる社会では、アップデートできないどころか老いもする人間は置いてけぼりにされかねない。快快の(裏?)テーマには「文明に疎外される人間」がずっとあった(演出レヴェルで示された、演劇のなかで疎外される役者の身体とかも、そのひとつだろう)。では、人間はどう存在価値を主張するべきか。この問いに快快が本作で用意した視点は、人間は子どもをつくれるということ、それと原始に帰ったところから考えてみようということだった。昨今の女性作家たちが、動物や昆虫に自分のイメージをすり合わせているのと比べると、とても人間的な態度だ。楽観的とも映る。けれども、人間の力を信じることこそ、快快らしい態度であるはず。演劇を破壊したり拡張したりするやり方で「つながり」を実践してきたこれまでと違って、演劇であることに留まりながら、快快はそれでも相変わらず、人間の力を信じて「ソーキュート」な瞬間を求めていくのだろう。その宣言として本作を受け止めた。

2013/10/20(日)(木村覚)

プロジェクト大山『をどるばか』

会期:2013/10/19

BankART Studio NYK[神奈川県]

石井漠という舞踊家がいた。日本のモダンダンスの創始者とも称され、ダンス学校のあった土地を「自由が丘」と名づけたことでも知られている。今作は大野一雄フェスティバル2013の一作で、残されたフィルムや再演の映像をもとに、若手女性グループのプロジェクト大山が舞台上で石井の足跡を辿った。今年8月の川口隆夫『大野一雄について』もそうだったのだが、こうしたたんなるオマージュに留まらず、研究的側面からであれ娯楽的側面からであれ、過去の遺産を映像ベースで丹念に振り返る試みは、これまで乏しかった分、今後は増えてくるかもしれない。音楽業界ならば、過去のマスターピースと新作とが競合する状況は当たり前のものになっているけれども、舞台芸術でも、過去へとアクセスすることで同様のことが起こりうるのかもしれない。とくに残された映像やそれを映写する技術の向上はその状況を促進する力となることだろう。開演前から、ダンサー3人が舞台で書道している。半紙に書くのは「石井漠」「蛇精」「忠純」「馬鹿」など。気になるのは字の汚さ、ラフさで、書道という日本文化が身についていない印象を与える。彼女たちのダンスにも同じ印象を受ける。次々と3人は石井作品を踊っていく。作品が変わる度に、石井と弟子たちの映像や再演の映像がスクリーンに上演された。石井作品の解釈をコント的に表現する場合もある。「食欲をそそる」という作品では、カレーの鍋とご飯ジャーを持った2人が、スプーンを手にした1人の前で、匂いを嗅がせたりカレーライスをよそったりした。「食欲」は確かに扱っているが、カレーライスは石井のアイディアとは直接関係がなかろう。観客は3人の演じるコミカルな場面に笑う。けれども、この笑いが石井から離れてただ目の前の滑稽なさまに向けられただけならば、ちょっともったいない。石井の方法論、アイディアの奇抜さを引きだしてその潜在的な力を目に見えるものにするのでなく、石井を表面的に取り上げておもしろ可笑しく見せるだけでは「ひょうきんなお嬢さんたちがダンスとコントをしていた」という印象しか残らない。しかし、石井の面白さの研究に邁進するとなると、娯楽要素は薄まるだろう。舞台芸術の潮流は、研究的傾向にあるとぼくは見ているけれども、そういう意味では、むしろそうではない本作が将来回顧されたとき、2013年の過渡的な日本の状況をよく示した作品として見直されるのかもしない。

2013/10/19(土)(木村覚)

池田扶美代×山田うん『amness』

会期:2013/10/18~2013/10/20

KAAT 神奈川芸術劇場・中スタジオ[神奈川県]

主宰のアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルとともに長年ローザスを牽引してきた池田扶美代。10年以上日本のコンテンポラリー・ダンスのなかで活動してきた山田うん。異色の顔合わせが実現した本作で2人は、それぞれが蓄積してきた〈ダンス〉を存分に舞台に放出した。2人の個性はかなり異なる。池田の動きは、後ろ歩きで弧を描いたり、リズムをつけて足を蹴り上げたりなど、そこここで「ローザス」を想起させる。そこにいるのは、少女的でしかし芯の強い、凜としているのだけれどユーモアもある、かわいいが度胸の据わった女性。デリケートで、滋味に富んだダンスは、そうしたパーソナリティが背後にあって繰り出されたものだと思わされ、なんと言おうか、動きに説得力がある。緑色のミニワンピースを着た池田に対して、山田は赤いロングのドレス。山田の動きには筋肉を感じる。「体操的」とでも言おうか。池田に感じる女性像の如きパーソナリティが山田の踊りには希薄で、動きの背後になにかがある気がしない。ニュートラルな運動。なぜいまここでこの動きなのか、その必然が伝わってこない。いや、ぼくが受取れないだけなのか。もちろん、見応えのある動きが出てきてはいるのだが、池田と比べると、その点が目立つ。ぼくの山田うんへの苦手意識は要するにここに起因しているのかと気づかされた。それにしても、2人のダンスはもちろんのこと、照明、音響、舞台上のすべてのアイテムが、デリケートに慎重に整えられていて、繊細で質の高い公演だった。


池田扶美代×山田うん『amness』


2013/10/19(土)(木村覚)

イデビアン・クルー『麻痺 引き出し 嫉妬』

会期:2013/10/05~2013/10/07

KAAT 神奈川芸術劇場・中スタジオ[神奈川県]

イデビアン・クルーの舞台が他のダンス舞台と比べて際立って面白いのは「クール」だからで、それはなにより、舞台に客席の観客とは異なる「観客」がいるというところにある。誰かのダンスに誘惑されて、井手茂太(扮する男)がノリノリになって踊ろうとしたら、一寸早く割って入って来た男にステージを取られた。そんなとき、井手(扮する男)は醒めた1人の「観客」として呆然と佇んでいる。井手の振り付けが素晴らしいのは、なんと言おうか、たんなる振り付けではなく、踊ってしまう人間の踊りへ至る心情が表現されているところだろう。日常のテンションからわずかに浮き足立つ瞬間、そこに起こる心情。ブレることなくそこを見定めているからこそダンスは自然と批評性を帯びる。しかも、今作では照明や音響との相乗効果が緻密な仕掛けによって引きだされていた。魚市場の競りでの早口がスピーカーから流れると、井手はまるで音楽にあわせるように、早口のリズムに体を合わせる。あるいは、ただ歩くだけのシーンで轟音の足音がステップに合わせ鳴ったり、勢い込んで目の前の男2人のあいだに割って入ろうとすると、音楽が急に小さくなり、そのためか、2人に拒まれ、勇気を振り絞って出した勢いが削がれてしまったり。照明も同じように、スポットを踊るダンサーからちょっとずらしたりして、「浮き足立つ」気持ちに合わせたり、そっぽ向いたりする。ダンスに必須なものに「ノリ」がある。そして「ノリ」とは日常からちょっと逸脱する内発的なエネルギーだとすれば、ダンサーたちが幾通りにも交錯し、関係のバランスをさまざま変化させるなかで、井手が描き出すのはこの「ノリ」がどう生まれ、どうしぼんでしまうかなのだ。タイトルは作品の構成を示すと同時に、ひとつながりのしりとりになっているが、まさにしりとりのように、つき合わされ、乗せられ、乗っ取られる人々の心情。その揺れるさまを見ていると、この舞台で起きていることの多くは、素直に「ノル」ことというよりは、「ノレナイ」ことだったりするのに気づく。誘惑と幻滅、踊りの裏と表が同時に明かされた。20個ほどの和室用ペンダントのついた蛍光灯が舞台を照らしたラストシーン。次々消えて、最後に一個だけ残った真ん中の蛍光灯。その紐をカチッカチッとやると、オレンジの光が鈍く光った後暗転した。暗転で引き離されるのだが、紐の手に観客の目が集中して、一瞬観客は踊り手たちの和室に吸いこまれた。

2013/10/06(日)(木村覚)

ほうほう堂「ほうほう堂@おつかい」

会期:2013/09/21~2013/09/22

あいちトリエンナーレ2013会場ほか[愛知県]

ぼくはこの公演を上演の現場ではなくiPhoneの画面で見た。あいちトリエンナーレ2013の委嘱作品である本作は、長者町を中心に、栄の街をあちこちと移動しながら踊るという一風変わった公演で、肉眼でつぶさにパフォーマンスを逐一追うという鑑賞スタイルは不可能。その分、パブリックビューイング、踊る場で待ち構える、Ustream中継で見る、という3種類の鑑賞があらかじめ用意されていた。ダンスの作品発表は舞台公演の形式をとらなくてもよいのではとぼくはかねてから思っていたので、今回の上演には未来を先取りするところがあると期待していた。舞台公演というのは、時間のみならず場所も制限しており、この二重の制限は、ネットが浸透した時代にあまりにも不自由ではないか。肉体表現はライブでなければならないというもっともらしい考えも、本当に検討するべき課題を先送りするための言い訳になっていはいないか。新作をYouTubeで公表する作家がいてもいいのだ。そう、例えば、ほうほう堂はすでに3年ほど前から、戸外のあちこちに繰り出して踊り、それを映像に収めてYouTubeに投稿してきた先駆者だ。今回の上演は、そうした活動の集大成だという。ぼくは、上演予定の15時30分にはまだ家族と江ノ島で遊んだ帰り道で、街中にいた。そんなルーズさでも鑑賞体験が成立すると言うことに、まずは痛快さを感じた。さて、放送を見ると、和菓子屋のCMが始まっていた。会場から会場へと移動するあいだなどにも用いられたこのCM。「おつかい」がテーマであることともあいまって、栄周辺がどんな街で、どんな歴史・伝統を宿しているのか、現在の課題はなんなのかを、このCMは伝えてくれる。このCMという仕組みがとくにそう思わせるのだが、この上演は放送が前提になっていたのは驚きだ。ほうほう堂は、CMがフォローした場所を含め、県庁舎や長者町の倉庫、喫茶店、花屋、ビルの屋上などで踊った。彼女たちの踊りは、ミニマルな動きを反復したり、ユニゾンしたり、2人でずらしたり、シンプルで短いフレーズの連続する様が特徴。それは映像化したときに、ちょっとした武器になる。スローモーな動きとか、見る者に緊張を強いる動作だと、映像では伝わりにくい。しかも、まだネット中継の基盤が整っていない現状では、しばしば映像の中断が起こるので、一層、数秒でまとまったニュアンスが伝わる振付のほうがよいのだ。彼女たちの気負いのない、気取りのない、些細だけれど、フレンドリーなダンスは、観客と現場とを上手くつなぎ合わせ、結び合わせる糸の役割をはたしていた。ただ、その糸にもっと独特さを感じさせる「よれ」があってもよいのでは、とも思ってしまった。CMなどとくにそうなのだが、彼女たちの眼差しが特にどこにこだわり、どこに「あいち」の潜在的な力を見いだしたのか、そこにハッとさせられる点があってもよかったのではないか。とはいえ、個性のごり押しで作品が小さくなるよりはよいのかも知れない。ほうほう堂が進めたこの一歩から、どんなネクストが起こるのか? コンテンポラリー・ダンスの未来はこのあたりに鍵があるような気がしてならない。

『ほうほう堂@おつかい』あいちトリエンナーレ2013 ダイジェスト映像

2013/09/22(日)(木村覚)

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