2017年06月15日号
次回7月3日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

群馬の美術2017─地域社会における現代美術の居場所

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会期:2017/04/22~2017/06/25

群馬県立近代美術館[群馬県]

群馬県における現代美術の状況を検証した展覧会。同県内で活動している15人のアーティストによる作品が展示された。
いま「展示された」と書いたが、厳密に言えば、この言い方は正しくない。なぜなら出品作家のひとりである白川昌生の作品が県の指導により撤去されたからだ。基本的には「展示された」が、部分的には「撤去された作品もある」ことを補足しておかなければ、事実を歪曲して伝えかねない。
撤去されたのは、同館と同じく「群馬の森」にある「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフに、その外形を布と支持体で再現した立体作品。以前、東京の表参道画廊で発表されたとき実見したが、《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》というタイトルや関連映像がなければ、モチーフを連想することができないほど、ミニマルな作品である。白川はかつて《敗者の記念碑》という作品を制作したことがあったように、この作品はモニュメントの歴史性や権力性を再考させるシリーズの一環として位置づけられよう。
それが撤去された正確な理由はわからない。県が「朝鮮人犠牲者追悼碑」の廃止を求めて裁判で係争中であることが大きいことが推察されるが、重要なのは鑑賞者の批評を待つより先に、行政が作品批評の機会を独占してしまったという事実である。もとより美術作品の解釈は多様であり、その多様性は行政や、あまつさえ作者でさえ管理することはできない。だからこそ美術作品は私たちの知性や感性を大いに育むのである。にもかかわらず、この件で県は作品鑑賞の機会を独占したばかりか、その解釈を一義的に押しつけることによって、作品の評価を不当に貶めた。私たち鑑賞者は、こうした横暴を到底容認してはならない。美術館は作品を公平に鑑賞させる責任を放棄したばかりか、私たち鑑賞者の「見る権利」を阻害したからだ。これは、アーティストの言い分や美術館の事情、行政の思惑とは一切無関係に、自律的に主張しなければならない。
白川は件の作品が撤去された後、別の場所に展示されていた幟の作品を、当該箇所に移設した。そこに書かれていた言葉は「わたしはわすれない」。むろん撤去を直接的に指しているわけではないが、状況的にそのような文脈に接続されて解釈されることを白川は熟知しているのだろう。撤去を柔軟に受け入れつつ、返す刀で斬りつけるアーティストの挟持を見た気がしたが、それに満足してはならないだろう。このような事態が続けば、私たちはますます「現代美術の居場所」を失うことになりかねないからだ。

2017/05/07(日)(福住廉)

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未来への狼火

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会期:2017/04/26~2017/07/17

太田市美術館・図書館[群馬県]

1881(明治14)年、高橋由一は《螺旋展画閣》を構想した。文字どおり螺旋状の回廊を昇り降りしながら壁面に展示された油絵を鑑賞するという、ある種の美術館である。由一は日本橋を望ましい立地として考えていたらしいが、結局この構想は実現せず、現在ではその文書と図面が辛うじて残されているにすぎない。しかし、由一によるこの二重螺旋構造の楼閣は、明治期に輸入された「美術」概念の制度化の開始を告げる象徴的なモニュメントとして位置づけられている(北澤憲昭『眼の神殿』ブリュッケ、2009)。事実、それは江戸的な見世物性を排除する一方、絵画を一定の秩序のもとで展示することによって、この世の森羅万象を視覚的なイメージとして統合する装置だった。
高橋由一の《螺旋展画閣》の話から始めたのはほかでもない。この4月に開館した太田市美術館・図書館の建築的な特徴が、由一の《螺旋展画閣》の構想と著しく近しいように思われたからだ。吹抜けの空間を中心に、その周囲を回廊が螺旋状に取り囲む。館内を巡り歩くうちに、いつのまにか上階へと移動しているという経験が何より楽しいし、このような文化施設に恵まれた太田市の子どもたちが心底うらやましい。ただ異なっているのは、その動線が単線的ではなく複線的であること、そしてその回廊には美術が展示されているわけではなく、図書が陳列されているという点である。
美術館は館内の中央部に組み込まれていた。回廊や階段によって接続された大小さまざまな展示空間を移動しながら鑑賞するという仕掛けである。開館記念として催された本展は、太田市という歴史的風土のなかで生まれた絵画や写真、映像、工芸、詩など、9名のアーティストによる作品を見せたもの。いかにも総花的な展覧会で漫然とした印象は否めないが、それでも見応えがある作品がないわけではなかった。
例えば淺井裕介の泥絵はすでに各地で発表され高く評価されているが、今回最も大きな展示空間で発表された作品は以前にも増してダイナミックな魅力を倍増させていた。それは、消すことによって描くスクラッチの技法をより効果的に画面に取り込んでいたばかりか、メディウムの飛沫やしたたりをおそらくは意識的に前面化させていたからだろう。ときとして単調になりがちだった泥絵の画面に、果てしない広がりと奥行きをもたらすことに成功していたのである。
だが本展の拡散した印象はキュレーションに起因するというより、むしろ建造物の性格に起因しているのではないか。なぜなら本館における美術館の機能は図書館のそれと絶妙な距離感で隔てられており、そうであるがゆえに、この美術館には《螺旋展画閣》のような視覚効果を取り込むことが期待できないからだ。美術館と図書館を棲み分けるのではなく、双方を有機的に統合する方向にこそ、未来の狼火は立ち上がるのではないか。

2017/05/07(日)(福住廉)

篠山紀信写真展 LOVEDOLL×SHINOYAMA KISHIN

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会期:2017/04/29~2017/05/14

アツコバルー[東京都]

写真家、篠山紀信がラブドールをモデルに撮影した写真を見せた個展。山河や廃墟、あるいは映画館などを背景にした等身大のラブドールの写真と、それらの画像を編集した映像が展示された。
ラブドールの造形的完成度が高いことは、改めて言うまでもあるまい。その技術的達成は、ラブドールの意味を人間と人形の境界線上に押し上げた。それは人間そのものではないが、だからといって人形にすぎないわけではまったくなく、ある種の人間の生にとっては必要不可欠な存在であるという点で、限りなく人間に近い、極めて特殊な意味合いを帯びている。篠山がとらえようとしたのは、そのようなラブドールの曖昧で不確実な両義性である。
むろんラブドールは人間そのものではないから、不自然な人工性が際立って見える作品がないわけではない。身体の圧倒的な美しさに比べると、パターン化されたメイクと質の悪いランジェリーも気にならないわけではない。しかし、それらの難点を差し引いたとしても、ラブドールという人形の人間らしさを打ち消すことにはならない。これはいったい人間なのか人形なのか。
このような視覚的混乱は、おそらくは篠山の戦略的な演出に由来している。というのもラブドールのなかには人間のモデルが混在していたからだ。彼女は不自然なまでに人形らしいポーズを取っていたから、一見すると彼女が人間なのか人形なのかわかりにくい。人間が人形のように見えるし、人形が人間のように見える。私たちの視線は、人間と人形のあいだの曖昧な領域をあてどなくさまようほかないのである。
極めつけは、四肢や頭部を切断されたラブドールの作品。廃墟の中でバラバラに切断されたラブドールたちは、まるで河原温の《浴室》シリーズのようで、あたかも「密室殺人」という惨劇を連想させる。だが、それ以上に強力に醸し出されていたのは、生々しい人間性である。それらはなぜか、人間と同じようにヘアメイクを施したラブドール以上に、人間を感じさせたのだ。ベルメールの球体関節人形がそうであるように、人形の内部構造を露呈させているにもかかわらず、あるいはだからこそと言うべきか、人形の内奥から人間性がにじみ出ているのが不思議でならない。
ラブドールはいまや立体造形の最先端にとどまらず、ポスト・ヒューマンの議論を先取りした造形として評価されるべきではないか。それは、ペットと同じように、人間の「生」にとって必要不可欠な存在でありながら、ペットと違い、そもそも生命を持ち得ていないという点で、「死」とも無縁である。ペットは私たちより先に死にゆく場合が多いが、ラブドールは私たちが死んでもなお、依然として美しいまま佇んでいる。彼女たちに人間らしさや自分たち自身の生を部分的に見出すとき、ラブドールは人間の後に続く、新たな「人間」なのかもしれない。

2017/05/03(水)(福住廉)

小泉明郎展 帝国は今日も歌う

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会期:2017/05/03~2017/05/11

VACANT[東京都]

小泉明郎の真骨頂は自己言及的に演出された映像によって現実と虚構の境界線を撹乱する点にある。小泉自身が役者に演出するシーンが含まれていることが多いから、鑑賞者はそれが決して事実そのものを映し出した映像ではないことをあらかじめ知らされる。ところが、そうであるにもかかわらず、エモーショナルな音楽とともに役者の演技が過剰にエスカレートしてある沸点を超えた瞬間、私たちの感情は大きく揺さぶられることになるのだ。そして、そのように翻弄される自分自身を顧みたとき、私たちは自分自身に問い直さずにはいられない。おのれの感動が現実に由来しているのか、あるいは虚構に起因しているのか。それとも……。
本展は、新作の映像インスタレーション《夢の儀礼─帝国は今日も歌う》を見せた個展。父親が警察に連行されるという幼少期に見た怖しい夢をモチーフにしながら、反天皇制運動のデモとそれらに対するヘイトスピーチを映し出した。父親役の役者は両手に手錠をかけられたままデモの最後尾を歩いているため、デモを管理する機動隊に背中を押されながら歩くことになるが、それが警察に連行される夢の情景と重なって見えるという仕掛けだ。しかも、その父親の映像は、横に並べられた3面のスクリーンのうち、真ん中の画面に映し出されていたが、両サイドの画面にはヘイトスピーチの映像を、いずれか一方を反転させたうえで、ほぼ同時に投影していたため、まるで父親がヘイトの罵声を両側から浴びながら警官に連行されているように見えるというわけだ。むろん映像を見る私たち自身も、その下劣な言葉を浴びることを余儀なくされる。
父親は言う。「誰かが犠牲にならなければならない…」。つまり彼は自らが生け贄であることを十分に知っていた。その瞬間、私たちの脳裏をよぎるのは、天皇である。まさしく天皇は、最も尊ばれる存在であると同時に、最も蔑まれる存在であるからだ。いまも皇族は大衆的な人気の的でありながら、一切の人権が保証されていないという事実が、その恐るべき二重性を如実に物語っている。かつての戦争でもそうしていたように、天皇を声高に崇拝する者が、天皇を最も露骨に利用しているのだ。日本国憲法において天皇は主権者である私たち自身の象徴とされているが、この作品においては父親が天皇の象徴なのだろう。
虚構と現実の境界線を溶け合わせる小泉の演出は、確かな批評性に基づいている。反天皇制のデモに対してヘイトスピーチを繰り広げる者たちの卑しい言葉は、父親=天皇に投げかけているようにも見えてしまうからだ。小泉自身が皇居に向かって射撃の身ぶりを見せる最後のシーンにしても、それは文字どおり「無鉄砲」という点でナンセンスな笑いを醸し出す一方、天皇の暗殺を象徴するメタファーであると同時に、天皇を祝福する祝砲であるようにも見えた。呪いの言葉と祝いの言葉が表裏一体であることを、これほど明快に表現した映像はほかにないのではないか。
このような両義的な天皇のイメージは、しかし、イデオロギー的に断罪も賞賛もしがたいという点で、あるいは批判の対象になるのかもしれない。だが、左右のイデオロギーがすでに失墜して久しいばかりか、平成天皇こそがいまや最もリベラルであるという現状を正確に診断することができれば、天皇制を一方的に肯定ないしは否定することがどれほど単純にすぎるかは想像するに余る。小泉にしても、かつて天皇を不可視のイメージとして表現したことがあったが、それは完全な時代錯誤とは言い難いにせよ、現在の政治状況のなかでアクチュアリティーをもつとは到底考えられなかった。天皇はいまや見えつつあるからだ。
だが目元を隠しながら唄う人々が暗示していたように、見ていないのは私たち自身である。ヘイトスピーチの現場を見ていないだけではない。天皇の両義性を直視せず、特定の誰かを生け贄としながら共同体が再生産されている現状にも眼を向けず、ひいては現実と虚構の境界線を確かに問い直すことからも眼を背けている。あの映像を見たときの身体がこわばる感覚は、私たちが世界そのものに眼を向ける第一歩なのではなかったか。

2017/05/03(水)(福住廉)

アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国

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会期:2017/04/29~2017/06/18

東京ステーションギャラリー[東京都]

ジャン・デュビュッフェがアロイーズと並ぶアール・ブリュットの双璧として高く評価したアドルフ・ヴェルフリの回顧展。日本でこれほどまとまったかたちで作品が紹介されるのは本展が初めてだという。ヴェルフリは生涯の大半を精神病院で過ごしながら絵を描き続けたが、本展ではそのうちの74点が一挙に展示されている。
よく知られているように、ヴェルフリの絵画は空想的な物語と一体である。理想的な王国ないしは冒険譚から、あのように緻密な線と音符が複雑に交錯した独自の絵画空間を生み出している。その余白を埋め尽くすほど執拗な執着心を体感できる点が、本展の醍醐味である。
だがその一方、作画に関して言えば、前期と後期とで大きな質的な差異を痛感させられた点は否定できない。前期、すなわち1904年から1905年にかけて制作されたドローイングは、モノクロームを基本にしながら、まだ文字や音符が大々的に出現することはなく、空間の隅々を数々の記号で埋め尽くす執着心がすさまじい。それに対して色彩が導入され、文字や音符が出現したばかりか雑誌写真の切り抜きをコラージュした後期の作品は、その執着心がやや薄まっているように見えた。あるいは文字の羅列が示す物語の展開や色彩の配色の方に関心が移っていたのかもしれない。だが、アール・ブリュットないしはアウトサイダー・アートとしてのヴェルフリの魅力は、前期に見られたような空間を充填せざるをえない強迫観念にこそ凝縮していたのではなかったか。
その前期の作品をよく見ると、様式化された記号表現の連続のなかに人の顔が挟み込まれていることに気づく。濃い眉毛と髭をたくわえているから、あるいはヴェルフリ本人なのかもしれない。だが重要なのは、それらの顔が適切な居場所を与えられているように見えるという点である。世界の中心に自分がいるというわけではなく、世界の隅々に自分がいるべき居場所を確保すること。複雑でダイナミックに動いてゆく現実世界にあって、その還流のはざまで息継ぎをできる安全な居場所を見つけること。それらをしっかりと線で縁取ることによって自分が安息できる居場所を確実に構築すること。ヴェルフリを診断した医師は「空想の無秩序」という言葉で彼を解説しているが、少なくとも初期のヴェルフリが取り組んでいたのは、むしろそのような意味での「空想の秩序」だったのではないか。既存の世界秩序とは切り離されつつも、絵画空間の中で独自の世界秩序を構築する。その類まれな「秩序への意志」こそが、ヴェルフリの核心的な魅力である。

2017/05/02(火)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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