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artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

鴻池朋子展 皮と針と糸と(根源的暴力 vol.3)

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会期:2016/12/17~2017/02/12

新潟県立万代島美術館[新潟県]

「根源的暴力」展(神奈川県民ホールギャラリー、2015)、そして「根源的暴力vol.2 あたらしいほね」(群馬県立近代美術館、2016)に続く、鴻池朋子の個展。基本的な構成は以前と同じだが、作品の見せ方を変えたり、新作を部分的に加えたり、その都度新たな一面を発見させる巡回展である。
今回新たに展示されていたのは、《テーブルランナー》(2016)。鴻池が東北の各地で展開しているプロジェクト「物語るテーブルランナー」から生まれた作品で、その土地で暮らす女性たちがかつて経験した逸話を鴻池が聞き取り、さらにそれぞれの話を絵に描き起こし、それらの下図をもとに当人を含む女性たちがテーブルランナーを縫うというものだ。漬物小屋の箪笥を開けるとたくさんのネズミが出てきた話や、人間の顔と同じくらいの大きさのカエルに出会った話、悪いことをして穴蔵に閉じ込められた話、あるいは学校帰りの子どもに向けて入れ歯を外して驚かせていたおじいさんの話。いずれも公の歴史として残るような物語ではないが、だからといってたんなる個人史として括るにはあまりにも惜しい、人間の欲動や情感と深く結びついた、ある種の民俗学的な物語である。それぞれのテーブルランナーには文字が縫い込まれているほか、傍らに語り手による「語り」が掲示されているため、鑑賞者はそれらの言葉を手がかりにしながら、その情景を思い浮かべ、その語り手の肉声や表情をありありと想像するのである。
美術の専門家と美術の非専門家との協働作業。この作品を、そうしたある種のコラボレーションとして考えることは、できなくはない。けれども、鴻池朋子の作品をそのような現代美術の専門用語で解釈したとしても、いかにも物足りない。それらは、人間の条件としては不可欠でありながら実体としては不可視である「人間の想像力」を正面から問うているからだ。
今回の展示で深く印象づけられたのは、表面のイメージである。《テーブルランナー》はもちろん水平面に置かれるものであるし、素焼き粘土に水彩絵具で着色した立体作品も底が浅く広い展示ケースに並べられたせいか、水平方向に果てしなく広がってゆくイメージが強い。牛革を支持体にした平面作品にしても、《皮緞帳》のように天井から吊り下げることで光の世界と闇の世界を切り分ける境界線として見せられている作品もあれば、《あたらしい皮膚》や《あたらしいほね》のように、何枚かの牛革をキャンバスに張って絵画というメディウムを強調した作品もあるが、いずれにせよ奥行きを欠いた表面であることにちがいはない。そして、何よりも本展のタイトル「皮と針と糸と」には、表面と表面を連結してゆくイメージがある。
ただ、ここでいう表面は2つに大別されうるように思う。ひとつは、《あたらしい皮膚》や《あたらしいほね》のような牛革をキャンバス状に仕立てた作品であり、もうひとつは《皮着物》や《白無垢》のような牛革を着物に仕立てた作品である。そのように大別しうると考えられるのは、後者が見る者の視線をどこまでも深く誘うのに対して、前者はむしろ見る者の視線を跳ね返すほど固く閉じていたように見えたからだ。事実、前者の表面には牛革を外側に伸ばす張力が漲っており、見る者の視線を拒むような緊張感が漂っていたが、後者の表面はむしろ柔らかく、不在の身体を想像させる着物という外形も手伝って、私たちの視線を包み込むような抱擁感があった。前者と後者は同じ空間に正対するかたちで展示されていたため、同じ牛革というメディウムを用いた作品でありながら、想像力の質が正反対であることを否応なく痛感させられたのである。
この著しい対照性は、いったい何を意味しているのか。むろん、絵画=現代美術を切り捨てる一方、民衆の想像力=創造力を持ち上げるという一面がないわけではない。だが、より本質的には、そのような想像力の二面性に同時に立ち会うことによって、私たち鑑賞者は現代美術や民俗学といった制度的分類を超えた、根源的な想像力をイメージしたのではなかったか。
そのことを如実に物語っていたのが、《着物 鳥》である。かたちとしては着物でありながら、一枚の絵画のように見える作品だ。中央に羽を広げて翔ぶ鳥のイメージを認められるが、その躯体には森や湖が描かれているため、まるで鳥の中に大自然が広がっているように見える。しかも、その鳥のイメージの背景は、本物の鳥の羽毛で埋め尽くされているため、地と図が反転しながら同一化する世界を垣間見たような気がするのだ。部分と全体が入れ替わりうるという点でいえば、フラクタル構造として考えることもできなくはない。だが、これこそ人間の根源的な想像力を体現した作品のように思われる。イメージは特定のかたちに拘束されているわけではなく、想像力によって解放することができるし、それらの内側と外側を反転させることすらできる。「根源的暴力」とは、じつのところ「根源的想像力」なのだ。

2017/01/27(金)(福住廉)

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池田学展 The Pen ─凝縮の宇宙─

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会期:2017/01/20~2017/03/20

佐賀県立美術館[佐賀県]

細密描写の超絶技巧で知られる池田学の個展。幼少時に描いた絵画から東京藝術大学の卒業制作、その後の代表作、そしてアメリカ・ウィスコンシン州で3年ものあいだ滞在しながら制作した新作まで、約120点に及ぶ作品によって池田の画業の全貌に迫る本格的な回顧展である。おおむね時系列に沿って作品を展示した構成は堅実だが、要所で資料や映像を見せるなど、ほどよく抑揚をつけているため、最後まで飽きずに楽しむことができる。まちがいなく、見逃してはならない個展だ(同館ののち、金沢21世紀美術館と日本橋高島屋に巡回する予定)。
1ミリにも満たない線の重なり──。このほど刊行された画集(池田学『The Pen』青幻社、2017)でも存分にその細密描写の妙を味わうことはできるにせよ、その絵肌を肉眼で鑑賞することができる点が本展の醍醐味である。細密描写というと強い筆圧の狂気を連想しがちだが、池田の線はむしろ柔らかい。いや、むしろ「弱い」と言ってもいい。結果として画面に出現した対象の量感性が大きいぶん、その構成要素である一本一本の線のはかなさが際立って見えるのである。
内向的な求心力と外向的な遠心力の拮抗。あるいは、見る者を画面に誘わずにはいられない繊細な線の技巧と、見る者をのけぞらすほどのマッスの圧倒的な迫力との同時経験。池田絵画の真髄は、そのような相矛盾する志向性が絶妙な均衡を保ちながら同居している点にある。いずれか一方に傾いてしまえば、全体の統一性や有機的な調和がたちまち破綻してしまいかねない。思わずそのように危惧してしまうほど、それは鑑賞者の視線すらも危ういバランス感覚に巻き込むのだ。事実、展覧会場を出た後に残る心地よい疲労感は、細部に目を凝らした眼精疲労というより、バランス感覚を研ぎ澄ましながら全身の筋肉を躍動させるロッククライミングのそれに近い。
考えてみれば、このような快い疲労感は日本の絵画史上稀に見る経験ではなかったか。外来の理論や現代思想を鵜呑みにしてきた類の抽象絵画は、鑑賞者にも同じ水準の知的努力を強要したため、絵画を堪能する視線の快楽を奪い取ったばかりか、知的徒労感だけを残してやがて滅んだ。その後に現われた具象的な傾向の強い現代絵画にしても、理論や思想を無邪気に退ける一方、アニメやマンガの意匠をふんだんに取り込むことで同時代性を獲得しようとしたが、結局のところそのようなイメージを絵画で表現する必然性に乏しいため、世代的な共感は呼んだかもしれないが、真の意味での同時代性を獲得するには至っていない。特定の趣味と結託した世代論ほど退屈かつ厄介な言説はほかにあるまい。
これらに対して池田学の絵画は、絵画を鑑賞する視線の快楽を肯定する身ぶりを一貫させることによって、現代絵画が陥りがちなそのような徒労感を巧みに回避している。事実、池田の絵画を前にした私たちは、細部と全体のあいだに視線を幾度も往復させることができるし、平面に沿って水平方向に滑らせることもできれば、平面に対して垂直に奥深く突き刺すこともできる。しかも池田の絵画は、基本的には再現性の高い具象絵画だが、随所にリアリズムの観点からは不自然なイメージが織り込まれているから、それらの意味や連関を想像する楽しみもある。あえて極論を言えば、池田学の絵画の前に立ったとき、私たちは、たとえ空前絶後の疲労感に襲われたとしても、その一方で、いつまでも絵を鑑賞していられるような、ある種の永遠性の感覚に包まれるのだ。おのれの眼球がかつてないほどの悦楽を味わっていることを自覚できること。それこそ凡百の現代絵画には到底望めない、池田学の絵画ならではの特質にほかならない。

2017/01/23(月)(福住廉)

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青龍社の女性画家 小畠鼎子~苦しみながら描くことの楽しみ~

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会期:2017/01/14~2017/02/26

武蔵野市立吉祥寺美術館[東京都]

小畠鼎子(1898-1964)は川端龍子の青龍社に所属していた日本画家。大正末期から晩年まで吉祥寺で長く暮らしていた。本展は、小畠の遺族から同市に寄贈された作品のうち、約20点を展示したもの。比較的小規模な展示とはいえ、小畠の画道を的確に紹介した好企画である。
青龍社といえば、日本家屋の床の間に鎮座する優美な日本画とは対照的に、近代的な美術館にふさわしい「会場芸術」としての日本画を目指したことで知られているが、おもに花鳥を描いた小畠の大作は川端龍子や横山操のような「剛健なる芸術」とは明らかに異なっている。それは、サイズこそ大きいものの、全体的な印象はむしろ大味で、筆運びもどちらかといえば粗い。まるで巨大な画面を持て余しているかのような印象だ。鳥を描いた小品が精緻で丹念な筆致で描かれていることを考えると、小畠の本領はじつのところ大作には向いていなかったのではないかとすら思える。
しかし、そのようなサイズによる質の偏りが意味しているのは、小畠の未成熟な技術というより、むしろ彼女の私的な境遇ではないか。というのも、本展でも強調されていたように、小畠鼎子の画道は彼女が家庭の主婦として家事や育児に追われながら絵筆を振るったという事実と分かちがたく結びつけられているからだ。小畠は言う。「親も兄弟も亦、他に楽しみがない身には、筆をやめては生きがいがないので御座います。少なくとも筆を持って居ります間だけは何事もなく、只それのみの世界に入る事が出来ると思ひます」。つまり、小畠にとって絵を描くことは、人生のすべてを費やすことを余儀なくされる家事労働からの一時的な離脱という一面が強かったのである。
生活圏という重力に拘束された日本画。小畠の大作が小品に比べて著しく魅力に乏しく見えたのは、おそらく、それらがいずれも彼女自身の生活圏に大きく規定されていたからである。あるいは日々の生活に追われる「主婦」という立場が、大作の制作に必要とされる十分な時間も集中力も彼女に許さなかったのかもしれない。だからこそ、その才覚はその生活圏に収まりうる小品でこそもっとも十全に発揮されたのだった。小さな和紙の上に描写された鳥たちの、なんと生き生きとしていることか。
裏を返して言えば、小畠鼎子の作品は、従来の「日本画」がいかに生活圏から遊離しているかを逆照している。川端龍子にせよ横山操にせよ福田豊四郎にせよ、ダイナミックで迫力のある大作は確かに見応えがあり、作品の質も高いことに疑いはないが、そのような大作が私たちの生活圏とほとんど無縁であることは否定しがたい事実である。いや、日本画の事大主義が戦争画と結びついた歴史的事実を思えば、むしろ「日本画のマチズモ」こそ批判的に位置づけなければならないのではないか。とうぜん、小品より大作を高く評価しがちな私たち自身の偏った視線も自己批判しなければなるまい。

2017/01/22(日)(福住廉)

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祝いの民俗─ハレの造形─

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会期:2017/01/02~2017/02/12

埼玉県立歴史と民俗の博物館[埼玉県]

季節や人生の節目を祝う民俗を紹介する企画展。おもに埼玉県内の伝統的な行事に注目しながら、正月、婚礼、棟上げ、進水式などでつくられた飾りや衣装、贈答品などの造形物を展示した。比較的小規模な展示だとはいえ、かつて日本社会のなかで機能していた「ハレ」の機会の実態を総覧できる好企画である。
しめ縄でつくられた宝船、恵比寿様や大黒様を描いた引き札、そして結納品飾りとして送られていた松竹梅の水引細工。それらは、いずれも人生や季節という時間の流れを分節化するために、日常生活と密着した素材で庶民の手により制作された、ある種のブリコラージュである。都会的で洗練された現代美術とは到底言い難いが、無名の庶民のあいだで流通していた造形物という点では、まさしく限界芸術と言えよう。だが、本展で展示された数々の民俗資料を目の当たりにすると、むしろ現代美術との強い関連性を思わずにはいられなかった。
むろん、一般論で言えば、現代美術と民俗文化は反比例の関係にある。都市文化の象徴である現代美術の普及は、各地の隅々にあった民俗文化の衰退と、ほぼ同時進行の現象として考えられるからだ。事実、かつて地方に乱立された公立美術館は、各地の民俗を取り込むというより、むしろ塗りつぶすかたちで建造された。どこの常設展でも同じような作品が同じように展示されている風景は、固有の民俗性を決して含めない現代美術の排他性を示す何よりの例証である。
ところが現在、私たちの視線と欲望は明らかに民俗文化に向いている。昨今の地方芸術祭の隆盛に見られるように、私たちが目撃したいのは土地と切断された美術館で普遍的な価値を備えた美術作品などよりも、土地と密接不可分な価値を内包した美術作品である。快適で美しいホワイトキューブに展示された美術作品に飽き足らない思いを抱えた者たちは、たとえ過酷な環境であっても、未知の民俗を実感できる美術作品に率先して脚を伸ばしている。すなわち、現代美術と引き換えに失ってしまった民俗文化を、当の現代美術の只中で取り戻すこと。少なくとも2000年代以後の日本の現代美術に何かしらの構造的変化があったとすれば、それは、スーパーフラットやらマイクロポップやらの消費を煽るだけのキャッチフレーズの衰退というより、むしろ都市型の現代美術から民俗的な現代美術への重心移動と要約できるのではないか。
とはいえ現代美術と民俗文化の接点は、そのような時事的な構造変化に由来しているだけではない。そもそも現代美術の作法には民俗文化のなかで繰り返されてきた精神的な営みと通底する部分があった。それが「神」をめぐるイマジネーションのありようである。
長谷川宏の名著『日本精神史』(講談社、上下巻、2015)によれば、仏教が導入される以前から続く古来の霊信仰において、神とは「善いものでも悪いものでも、特別の威力をもち人間に畏敬の念を起こさせるもの」(同書上巻、p.75)である。つまり神は、あらゆる天地に偏在するのであり、それらは「目に見えるというより心身に感じ取られる存在」(同、p.79)とされた。それゆえ古代人にとって「対象を見ることにはさほど重きが置かれず、霊を感じ取ることこそがなにより大切なことだった」(同、p.89)。例えば、それ自体に聖なる価値が置かれた仏像とは対照的に、新年に歳神を迎えるための門松のような依代や霊が寄りつく人間である憑坐は、信仰の対象そのものではない。神の存在を感知するには、それらの物質の先をイメージすることが求められていたのである。
そう、現代美術とは、改めて言うまでもなく、物質の造形に基づきながらも、その先に想像力を飛躍させることを要請する芸術である。「見る」ことと「感じる」ことが表裏一体になっていると言ってもいい。いや、(神に代わって)コンセプトを金科玉条として崇める現代美術だけではあるまい。絵画であれ彫刻であれ映画であれダンスであれ、はたまた演芸であれ、あらゆる諸芸術は本来的に造形や身ぶりの彼方に何かしらのイメージを幻視させる技術によって成立していたはずだ。その想像力の行き先が神ではないとはいえ、私たちは、つねにすでに、神を感知するための技術をそれと知らずに使いこなしていたのではなかったか。
だとすれば私たちが現在求めている民俗文化とは、まさしく現代美術のハードコアから再生しうるものなのかもしれない。例えば近代的な都市生活に疲弊した現代人に地方の農村をある種のユートピアとして幻視させる物語が、ある一定の成果を導き出していることは事実だとしても、その道のりは現代美術の外側にしかないわけではない。むしろその内側の核心に潜在している批評的な契機をこそ切り開く必要があるのではないか。

2017/01/20(金)(福住廉)

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年賀状展─春を寿ぐ─

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会期:2016/12/10~2017/01/15

郵政博物館[東京都]

年賀状の衰退がとまらない。日本郵便が今年の元旦に配達した年賀状は約16億4,000万枚で、8年連続で前年を下回る傾向にあるという。こうした背景に電子メールやSNSの普及があることは想像に難くないが、文化論ないしは芸術論の視点から考えてみたとき、年賀状の現状と未来には別の一面が見えてくる。
本展は、古今東西、有名無名を含めて、さまざまな年賀状を一堂に集めた企画展。川端康成や幸田露伴といった著名な文学者から、「年賀状甲子園」に応募した高校生まで、その作者はじつに多様で幅広い。前者が達筆な筆使いを見せる一方、後者はアニメやマンガ風のイラストレーションが多いという大きな違いはあるにはある。だが総じて印象づけられるのは、表現の個別性というより、むしろ全体性である。平たく言えば、どれもこれも見分けがつかないほど同じように見えるのだ。
ここに、日本人の精神性を貫く同調圧力の痕跡を見出すことは容易い。周囲の空気を読みながら、決して突出することなく、無難で穏当なラインに身を置く身ぶりは、有名であれ無名であれ、私たちの心底に深く内面化されているからだ。おびただしい年賀状の均質性を目の当たりにして、そのような無意識の機制を再確認したと言ってもいい。あるいは、現在の年賀状が前島密によって整備された郵便事業の成熟とともに定着した、きわめて近代的な文化装置であることを思えば、年賀状は調和を重んじる精神性を再生産しているのかもしれない。
とはいえ、年賀状が失墜しつつある現在、それはむしろ新たな位相に転位しつつあるように思われる。すなわち年賀状は、庶民にあまねく親しまれる年中行事という「文化」から、一部の愛好家によって嗜まれる「芸術」に変貌しつつあるのではないか。事実、ほぼ無料に近いコストで通信できるSNSで代用できるにもかかわらず、あえて時間と労力を費やしてまで、あの小さな画面に情報を詰め込む作業は、経済的合理性という価値観にはそぐわない点で、ほとんど芸術的営為というほかない。だとすれば、それは調和を尊ぶ日本的な精神性を打ち砕く契機としても考えられるのではあるまいか。
年賀状とは、日本的な同調圧力が発現する現場であり、同時に、それらを粉砕するための現場でもある。つまり、それはある種の二重性を内側に折り畳んでいる。かつて鶴見俊輔は年賀状を限界芸術として位置づけたが、その真意は庶民の非芸術的な身ぶりを芸術として捉え返すという意味での革命性だけにあるのではなかった。それは、むしろ庶民の日常性のさなかで、彼らの当事者性をもって、その精神性を変革させるという意味での革命性にあった。芸術の真価を輝かせるのは、そのような二重性にほかならない。

2016/12/18(日)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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2017年03月15日号