2017年12月15日号
次回1月15日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

ブレードランナー2049

丸の内ピカデリー[東京都]

ヴァニシング・メディエーター(vanishing mediator)とは、「あるエージェント(行為者)がある状態から別の状態への大きな変動や変化の条件をつくり出し、このプロセスが安定するようになると、それが目に見える場面からは消え去っていく運動」(上野俊哉「使徒と天使─ヴァニシング・メディエーター再考」『現代思想』1996年12月号、p.106)。スラヴォイ・ジジェクやフレドリック・ジェイムソンら、ポストマルクス主義の議論でたびたび参照された概念である。その主旨は、マルクス主義やラカン派精神分析が前提にしていた主体概念を批判的に相対化する点にあった。差異や矛盾を弁証法的に止揚する主体ではなく、それらの敵対性を仲介しながら安定と同時に消滅する媒介者。ポスト構造主義の思想の多くがそうだったように、この概念の射程にはある種の動的なダイナミズムや運動性が収められている。
本作はいまもカルト的な人気を誇る伝説的なSF映画『ブレードランナー』(1982)の続編。『灼熱の魂』(2010)や『複製された男』(2013)、『プリズナーズ』(2013)で知られるドゥニ・ヴィルヌーヴが監督した。その演出は美術や音楽などの面で前作の世界観をやや過剰に踏襲しすぎている印象が否めない。とはいえ前作のヒロイン、レイチェルをわざわざ当時の姿のまま登場させたうえで、あっさり拳銃で頭を撃ち抜いてみせたように、ヴィルヌーヴは前作を十二分に意識しつつ、前作の神話性をあえて切断することで、本作を2010年代の現代に示そうとしたのではなかったか。160分あまりを一気に見せる、傑作中の傑作である。
人間とレプリカント──。前作と同様、映画の全編を貫いているのは双方を隔てる境界線である。ただ、本作におけるそれは前作以上に曖昧なものに感じられるのが大きな特徴だ。人間であるはずなのに機械のように冷酷だったり、レプリカントであるはずなのに暴力の前後に涙を流したり、物語が進行するうちに人間とレプリカントを峻別する境界線が次第に酷薄になってゆくのだ。
結果として映画の中心に浮かび上がってくるのは、はたして人間が人間である根拠は何なのか、すなわち人間の条件を問う、きわめて根源的な設問である。前作において、人間として生きてきたレイチェルがじつはレプリカントであることを知り激しく動揺したように、本作において、主人公のレプリカント、Kはレイチェルから生まれた可能性に煩悶する。ジョーという人間らしい名前を得たとき、彼は人間とレプリカントの境界線上で不安定な均衡を保ちながら、内なる人間性を弄り出そうとしていたように思えてならない。だからこそ自らの生命が終わることを悟った瞬間、彼は人間としてのふるまいを選び取ったのである。ちょうど前作においてレプリカント、ロイがそうしたように──。
ロイとKが体現した人間的なふるまい。それが「消滅する媒介者」である。ロイはデッカードとレイチェルを、Kはデッカードと彼の娘を、それぞれ自らが消えることと引き換えに媒介した。それが、いわゆる通俗的な「滅びの美学」と重複していることは否定できないとしても、しかし、重要なのは、ロイにしてもKにしても、他者を媒介するという行為に人間の条件を見出したという点である。結果的に生かされることになるデッカードよりも、むしろロイやKのふるまいに鑑賞者の視線が惹かれるのは、両者がデッカード以上に人間らしいからにほかならない。映画の終盤で、降りしきる雪を全身で感じていたKは、消滅せざるをえない存在の寂しさを抱えつつも、媒介することの豊かな意味をかみしめていたに違いない。
「主体は(中略)潜在的には『消滅する媒介者』であり、一種の『複製=レプリカント』である」(上野、前掲書、p.119)。だとすれば、「消滅」の意味は必ずしも生命活動の終焉だけを意味するわけではない。それは人間とレプリカントを分類する基準が消え失せ、ひいては「人間」というカテゴリーが消失する可能性すら暗示している。そのとき、私たちはいったい何なのか。

2017/11/20(月)(福住廉)

安藤忠雄展─挑戦─

会期:2017/09/27~2017/12/18

国立新美術館[東京都]

安藤忠雄と言えば、1990年代の中頃だったか、学生時代に聴いた彼の講演会をいまも鮮明に憶えている。スクリーンに映し出された画像は、京都は木屋町に安藤が建てた商業施設。近接する高瀬川の川面とテラスをほとんど同じレベルに合わせた点が大きな特徴だと安藤は誇らしげに語った。ただ、この計画案に対して、当初、安全上の理由から反対意見があったようだ。曰く、「子どもが川に降りて溺死する可能性を否定できない」。むろん安藤はただちに次のように反論したという。「水深がせいぜい10センチか20センチの川で溺れ死ぬような生命力に乏しい子は、いっそ死んだらええんちゃいますか」。プロボクサーから独学で建築を学び、いまや世界的な大建築家となった安藤忠雄の原点とも言うべき「野性」を、そのとき垣間見たような気がしたのである。
本展は建築家・安藤忠雄の本格的な回顧展。これまでの作品をスケッチ、ドローイング、設計図、マケット、写真、映像など、およそ200点の資料によって振り返った。広大な会場に大小さまざまな資料を抑揚をつけながら展示した構成は、確かにすばらしい。だが本展の最大の見どころは、館外の野外展示場に原寸大で再現された《光の教会》である。
《光の教会》とは、1989年に大阪府茨木市の茨木春日丘教会に建てられた礼拝堂。打ちっぱなしのコンクリートで構成した大空間の一面にスリットで十字架を表わした作品で、安藤の代表作のひとつとして高く評価されている。本展で再現された作品に立ち入ると、長椅子の数こそ少ないものの、正面にそびえ立つ光の十字架はまさしく教会そのものである。晩秋の柔らかな光が描き出す十字架はもちろん、側面の壁に現われる光と影のコントラストも非常に美しい。大半の来場者は荘厳な雰囲気に言葉を失っていた。
この再現された《光の教会》が優れているのは、建築展のある種の「常識」を裏切っているからだ。通常、建築展で見せられる展示物は実物の建築の縮小された再現物であることが多い。建築物そのものを美術館内に移動することはきわめて難しいがゆえに、マケットや設計図、写真、映像などのメディアによって実物を可能な限り再現することを余儀なくされているわけだ。だが安藤は原寸大の《光の教会》を美術館の敷地内にそっくりそのまま再現することで、こうした建築展の規範をあっさり転覆してみせた。
それだけではない。現在、茨木の《光の教会》の十字架にはガラスがはめられているが、そもそも安藤の建築案では何もはめられていなかったという。光だけでなく風も、温度や湿度も、自然を直接的に体感できる建築として構想されていたわけだ。ところが、それでは室内の快適性を担保できないという理由で事後的にガラスがあてがわれた。翻って本展の《光の教会》の十字架にはガラスも何も設置されていない。したがって来場者は光の温かさも風の冷たさも、文字どおり全身で感知することができる。つまり、本展における再現物は実物以上に建築家のオリジナリティを忠実に体現した作品なのだ。
安藤忠雄の本質的な「野性」は、自然との共生やら調和やらの美辞麗句のなかにあるのではない。それは、並大抵の建築家では決してなしえない、このような力業をある種強引に現実化させるところにあるのだ。

2017/11/13(月)(福住廉)

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THE ドラえもん展 TOKYO 2017

会期:2017/11/01~2018/01/08

森アーツセンターギャラリー[東京都]

ドラえもんとは、言うまでもなく日本の大衆文化を代表するアイコン。他の主要な登場人物も含めて、これほどあらゆる世代に知られ、親しまれ、愛されているキャラクターは他に類例がないのではないか。逆に言えば、にもかかわらず、ポップ・アートのなかにそれほど回収されていないのが不思議である。
本展はドラえもんをテーマにした企画展。「あなたのドラえもんをつくってください」という依頼に応えた28組のアーティストによる作品が展示された。著作権の問題をクリアしているからだろうか、それぞれのアーティストが思う存分ドラえもんと対峙しながら制作した作品は、いずれもすがすがしい。
ドラえもんという記号表現を自分の作品に有機的に統合すること。おそらく、本展のように強いテーマ性をもった企画展を評価する基準は、そのように与えられた外部要因と自分の内側にある内部要因との整合性にあるように思う。その縫合がうまくいけば作品として成立するし、失敗すれば破綻する。じつに明快な基準である。
例えば村上隆は、これまでマンガやアニメーションの記号表現や文法を巧みに回収してきたせいか、そうした有機的な統合をじつにスマートに成し遂げてみせた。背景をマットな質感で、キャラクターを光沢のある質感で、それぞれ描き分けるなど、いつもながらに芸が細かい。近年は牛皮を支持体にして大規模な絵画を手がけている鴻池朋子も、藤子・F・不二雄の丸みを帯びた描線を牛皮に取り入れることに成功している。全裸のしずかちゃんが双頭のオオカミの口に咥えられて連れ去られてゆく光景は、脳裏に焼きつくほど、じつにおそろしい。村上も鴻池も、ドラえもんを取り込みつつ、それに呑まれることなく、自分の作品として完成させていた。
とりわけ群を抜いているのが、しりあがり寿である。そのアニメーション映像は、「劣化」というキーワードによって、ドラえもんと自分の絵をシームレスに統合したものだからだ。自分の絵をドラえもんに合わせるのではなく、ドラえもんを強引に自分の絵に取り込むわけでもなく、コンセプトを設定することで双方を有機的に媒介してみせた手並みが、じつに鮮やかである。自虐的に見えるようでいて、「劣化」に一喜一憂する現代社会を笑い飛ばす批評性もある。しりあがりの作品こそ、現代美術のもっとも核心的な作品として評価すべきではないか。

2017/11/13(月)(福住廉)

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未来美展「ナンニモ気にするな、バリバリにぶっちぎれ。」

会期:2017/11/03~2017/11/05

鹿児島県鹿児島市松原町1-2[鹿児島県]

美学校の「未来美術専門学校アート科」で教鞭をとる遠藤一郎による企画展。「カッパ師匠」に扮した遠藤が総合ディレクターを務め、同クラスの受講生、および遠藤が鹿児島でスカウトした若手アーティスト、さらにはセルフメイドの自宅とともに全国を行脚している村上慧をゲスト・アーティストとして招聘し、あわせて18名が参加した。平面や立体、映像、インスタレーションなど、さまざまな作品が3階建ての古い雑居ビルの随所に展示された。大半は発表履歴の浅いアーティストばかりだが、表現の強度は並のアーティスト以上に烈しい。
なかでも注目したのは、中村留津子と仲田恵利花、川路智博の3人。
中村留津子の《まえをみる》は市販の黄色いコンパネの表面をすべて濃紺一色で塗り、その2枚のコンパネを連結させた支持体の表面を削り出した絵画。地の黄色が細い線として見える仕掛けだ。人間と動植物が入り乱れた絵は細密描写をベースにしているので、おのずと視線は画面に吸い込まれてゆく。随所に隠されたエロティックなイメージを発見できるのも面白い。ところが、その一方、スピード感のある荒々しいスクラッチの痕跡が、まるで見る者を拒絶するかのように、視線を遠ざける。絵画の醍醐味のひとつに求心力と遠心力を同時に体感させるイリュージョンがあるとすれば、中村はそれを独自の方法によって成し遂げているのである。長い時間をかけて試行錯誤を繰り返してきたなかで、その方法を獲得したことに大きな意味がある。
仲田恵利花は2つの映像作品を発表した。《eye2017》は自らの眼球を接写した映像で、その表面には夕陽やトンネルのライトが映り込んでいる。詩的な叙情性に溢れた、非常に美しい映像作品だ。一方、《ファイト》は夕暮れ時の田園風景のなかでカメラを正面に見据えて屹立する仲田が颯爽と放尿するもの。カメラを凝視する溜めの時間と決行のタイミング、ヒグラシの鳴き声や夕焼けの光、そして最後に繰り出すガッツポーズの切れ味。すべてが完全に計算され尽くしたパフォーマンス映像で、文字どおり爽快な鋭気を実感できる。女性の身体性に基づきながら男性が独占する身体技法を奪い取るという点で言えば、この作品はまぎれもなくジェンダー・アートのひとつとして位置づけられるが、かつてこれほど完璧に女性の勝利を体現した作品がほかにあっただろうか。
そして川路智博は大小さまざまな5点の水彩画を発表した。それらに通底しているのは、社会批評性というより、むしろ剥き出しの悪意。ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》やフェルメールの《真珠の首飾りの少女》を明らかに模倣しているが、ヴィーナスと少女をいずれも豚のように描いているし、結婚式のブーケトスで新婦が背後に投げ飛ばしているのは男の生首である。しかし川路の絵画が面白いのは、底知れぬ悪意がどれだけ画面に表出していたとしても、あるいは、だからこそと言うべきか、逆説的に彼自身の絵画への愛が溢れ出ているように見えるからだ。画題が俗悪であればあるほど、水彩の淡い色調や丁寧な筆致が際立つと言ってもいい。その落差は、きわめて純粋な絵画愛を露悪的な身ぶりによって巧妙に隠蔽した高度なアイロニーに由来しているのか、あるいは愛を哲学的に探究することで、それと悪が表裏一体であることを解明した結果なのか、それともただ単に絵画の技術が未熟だからなのか、正確なところはわからない。だが純度の高い絵画愛が見る者の心を打つことだけは間違いない。
遠藤が盛んに口にしていたのは、受講生のなかから美術教育をアンインストールすることの難しさである。遠藤によれば、一度身についてしまった現代美術の作法、知識、規範が彼ら自身の表現を阻害する要因になっていることが多い。それらをいかにして相対化しながら自分自身を解放することができるのか。遠藤が心を砕いているのは、この点である。むろん、展示された作品を鑑賞するかぎり、すべての出品作家が自分自身の表現を十全に開陳できているとは言いがたい。方法を模索している途上にある者も少なくない。だが、この展覧会に立ちこめた濃厚な密度が美術大学の卒展などでは決して味わうことのできない性質のものであることは間違いない。
既成の美術教育が問題含みであることは否定できないし、それを批判することもたやすい。だが遠藤が優れているのは、それを展覧会というきわめて具体的な実践によって提示しているからだ。明治の近代化以来、日本社会に定着して久しい美術教育をアンラーニングすることの必要性。美術教育の当事者は、それが薩摩の地から発信されたことの意味をよくよく考えるべきではあるまいか。


左:中村留津子作品 右:川路智博作品

2017/11/04(土)(福住廉)

西野達 in 別府

会期:2017/10/28~2017/12/24

別府市内各所[大分県]

西野達は反転のアーティストである。外側にあるものを内側に反転させ、あるいは水平方向にあるものを垂直方向に転倒させ、さらには従属的なものを主体的なものに逆転させることで、公共空間を私的空間に鮮やかに変容させる。そうした基本的なアイデアを十分に理解しているつもりでも、じっさいに作品を目の当たりにすると、そのあまりにも極端な異化効果に衝撃を受けるのである。
本展は西野達の新作展。別府市内の各所に展示された作品を巡り歩くという構成だ。別府タワーをお地蔵さんに見立てたり、別府の父として知られる油屋熊八の銅像を取り込んでホテルのような空間に仕立てたり、荷台に荷物を積んだ軽トラックを街灯に突き刺したり、あらゆるものを反転させる西野の大胆な想像力が存分に繰り広げられている。温泉街の日常に不意に立ち現われる作品の非日常性が面白い。
なかでも秀逸なのが《残るのはいい思い出ばかり》。かつて家屋が建てられていた空き地に発泡スチロールを使ってその家屋を原寸大で再現した。古い家屋が立ち並ぶ住宅街に、窓も扉も屋根も、すべて純白の発泡スチロールでつくられた2階建ての家屋が出現した光景は壮観だ。青空との対比がやけに眩しい。この純白の家屋には、とりわけ地元住民にとって、失われた家屋の記憶に思いを馳せるための媒体という意味があるのだろう。だが追憶の手がかりを一切持たない県外からの来場者にとって、それはまさしく反転の醍醐味を味わうことができる絶好の作品である。通常、発泡スチロールは資材を守る保護材や緩衝材として用いられることが多いが、西野はそれを主要な建材として大々的に使用しているからだ。あるいは建築の計画段階で用いられるマケットが発泡スチロールで作成されることが多いという事実を踏まえれば、縮小模型をそのまま拡大しながら物質化したとも考えられよう。入ることも住むこともできない住宅というナンセンスの極致を哄笑することもできなくはない。けれども、それ以上に伝わってくるのは、住宅という大規模なスケールで、副次的な物質を主要なそれとしてひっくり返してみせた西野の斬新なアイデアなのだ。
現代美術の始祖として評価されることが多いマルセル・デュシャンの《泉》(1917)は既製品の男性用便器をそのまま自分の作品として展示しようとして物議を醸したが、それが芸術作品のオリジナリティという神話の転覆を企む、きわめてコンセプチュアルな作品だったことは事実だとしても、注意したいのはデュシャンがその既製品の便器を転倒させていたという事実である。すなわちデュシャンは、通常であれば壁面に接着させる便器の背面を床に寝かせることで「転倒」の意味を強調していたのではなかったか。だとすれば、世界のあらゆる事物を次々と反転させている西野達は、文字どおりコンセプチュアル・アートの正統な後継者なのかもしれない。


2017/10/30(月)(福住廉)

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